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(3/11) 東日本から11年。目に見えない本当の復興のために尽力されたKさんのお話 [2022年03月11日(Fri)]


2011年3月11日14:46に発生した
東日本大震災から、今日で11年です。




ADRA Japanは、1995年から国内の
災害被災地での支援活動に取り組んできた
経験から、地震発生直後から調査や支援
活動に取り組み、


私自身も、2011年4月より2年以上に渡って、
宮城県亘理郡山元町を拠点として、
たくさんの方とのご縁に恵まれながら
支援活動に従事してきました。




今日は、今も私の胸の中に強く刻まれて
いる方をお一人ご紹介させていただきます。


震災以前は行政職員として働き、
ご自身も被災されて以降は地域の方々の
ために尽くされたKさんです。




沿岸部にあったKさんのご自宅は
津波の被害にあい、Kさんご家族は
仮設住宅に入りました。


Kさんは仮設住宅のリーダーとして、
住民の方々のことをいつも心に留め、
そこに住む方々の孤立を防ごうと、


お茶っこ(お茶会の意味)の調整のほか、
お花見、夏祭り、芋煮、餅つきなど
年間を通して様々なイベントを実施するのに
尽力しておられました。


誰しもがストレスを抱える状況において、
小さなトラブルも多くあったのですが、
Kさんが誰かとお話しをされる時は、
いつもとても穏やかでした。


住民の方と地域を想う気持ちが人一倍
強かったのだと思います。




公営住宅が完成した後は、仮設住宅に住ま
われていた方々の多くはそちらに移り住み、
Kさんは修繕したご自宅に戻られました。


それぞれの新しい生活がはじまりましたが、
Kさんはそれからも人と人とが関わり続ける
コミュニティーを維持するために、


住民の方々が集まる場を作ったり、
ADRA Japanの足湯支援を呼んでくだ
さったりするなど、


相変わらず地域のために活動しておられ
ました。




その後も、Kさんとは連絡を取り続けて
いましたが、数年前、



「三原さんだから言うけど…」



とご病気を打ち明けられました。


その瞬間は、頭の中が真っ白になりました。


あの大津波で生き残り、それ以来ご自身が
辛い状況の中にありながらも地域や住民の
方々のために献身的に動かれたKさん。


ようやく状況が落ち着いてきて


「これから」


という時に、なぜ、どうして、という
思いだけが私の心を占めました。




それからしばらくして、
Kさんは静かに息を引き取られました。




Kさんにはもうお会いできません。


けれども、Kさんが地域の方々のために
何かができないかと奔走しておられた姿、
そして、誰かとお話しをされる際の穏やかな
笑顔は、今も私の目に焼き付いています。




これは何も私に限ったことではなく、
Kさんを知るすべての方に共通することだと
思います。




そして、Kさんと同じように、
地域の方々のことをいつも考えて行動された
方が、ほかにもたくさんいらっしゃいます。


こうした方々の笑顔は、いつまでも周囲の
方々の目に焼き付いていることと思います。




誰もが同じ辛い経験をした中にあってなお、
自分以外の人のことを考えて行動した方々が
いたこと。


そしてその方々によって、それぞれの地域
につながりがもたらされ、心のつながりや
思いやりといった目に見えない部分の復興が
進められてきたこと。


そして実は、それこそが本当の復興であると
いうこと。


これらはすべて、Kさんが行動で示し、
教えてくれたことです。




Kさんとの別れは早すぎました。


ですが思い出す度にKさんは笑顔です。


今日1日は、東日本で起こったことや
この11年間に心を向け、過ごしたいと
思います。



(執筆:国内事業課 三原千佳)


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Posted by ADRA Japan at 14:46 | 東日本大震災 | この記事のURL | コメント(0)
(3/11) 東日本大震災から10年〜現地の方々の今の想いとは《後編》 [2021年03月11日(Thu)]


2011年3月11日14:46に発生した東日本大震災から、今日で10年です。

ADRA Japanでは、住民の方々が“今何を思われているのか”をご紹介することで、皆さんと一緒に改めて震災について考え、知り、これから一人ひとりに何ができるのかを考えるきっかけとしたいと思いました。



私たちが当時現地で一緒に活動し、今でもお付き合いをさせていただいている方々からいただいた言葉を、3日に渡ってご紹介しています。

3日目の今日は再び福島県からのお言葉をご紹介します。





【福島県立岩瀬農業高等学校 常勤講師(元福島県立双葉翔陽高等学校長) 渡辺 譲治様より】

―震災から10年―


2019年11月に高体連馬術競技部会長として南相馬で大会を主催しました。

避難解除された南相馬市小高区や浪江町の周辺、そして帰還困難区域である浪江町津島地区を走って隣町にある自宅に戻りました。



その時の率直な感想、「震災は終わっていない」と、いうことです。

2011年に「1000年に一度の巨大地震」に遭い、2019年10月に「50年に一度の大雨被害(台風19号)」に遭い、そして今年は、「100年に一度のパンデミック」を経験している中で福島県はいまだに余震に晒され、福島県の農産物は、震災前の価格に戻っていない現状があります。



しかしながら、3.11を契機に多くの方々のご支援をいただき、普段の生活では考えられないような経験をさせていただいたり、いろいろな人たちとのめぐり逢いがあり、自分も含めこの10年で携わった生徒たちも同じような貴重な経験をしたことと思います。

特に、アドラ様など支援団体などから受けた支援は、人に寄り添った本当の支援だったと思っています。

現在コロナ禍で人と人の繋がりは難しいですが、人の温もりや人の醸し出す雰囲気をネットではない五感で感じることがこれからもより重要になってくると思います。



今、日本のみならず世界の多くの地域で災害が頻発しています。

これからこの地球を守るために田舎からできることから始めていきたいと思います。
 


ADRA_双葉翔陽高校.JPG


(双葉翔陽高校の生徒さんと仮設住宅に住む住民の方々。生徒さんが自ら企画をして足湯やすいとんを提供して交流した当時の様子)





【福島県相馬郡飯舘村住民の大澤和巳様より】

―震災後、10年目の覚悟―


私は飯舘村に生まれ、50数年飯舘村住民として過ごしてきた。

2011年3月11日に発生した東日本大震災と、それに伴う福島第一原子力発電所の爆発事故。

震災後、福島市に避難し、現在は市内に新たな住居を構えた。

あれから10年の歳月が流れた。

震災から10年、この10年で村の景観は変わった。

私はいまでも住民票は移さないでいる。

それはまだ飯舘村に元々の自宅があり、畑もあり、ご先祖様のお墓があるからである。

時々、様子を見に行くけど、当時、住んでいた部落に人はいない。

まぎれもなく地域コミュニティーの崩壊である。

同時に耕作地の壊滅でもある。

自宅の周りには放射能で汚染された土や除去物を入れたフレコンバッグが山積みのままになっている。

鳥のさえずりや風の音は震災前と変わらないような気がするのに人の声が聞こえなくなった土地は無性に寂しい。

この10年間のあいだに両親、そして妻を立て続けに亡くした。

心が折れそうになった時に支えになってくれたのは残された4人の子供たちである。

今では、孫が3人になったが、亡くなっていった両親や妻は知る由もない。

毎朝、仏前に向かって線香を挙げ手を合わせて祈る。



失われた地域のコミュニティーは元に戻ることはないだろう。

むしろ、今後は故郷に戻る人、戻らない人との共存と連携をどのように維持、発展させていくかが課題である。

そして、もうひとつ。

新しい動きがある。

それは、2017年3月に一部の部落を除き避難解除後、村に県内外からの移住者が増えていることである。

年齢層やキャリアなど幅広い分野の人々が入村し、新たな起業を興している。

こうした人たちと帰還した元住民との交流を介して、新しい共存、共栄への扉が開きそうな予感がする。

「新しい風」が吹き、「新しい村」が生まれることを期待しつつ、私もこの春、村に帰還することを決めた。

震災後10年目にしての覚悟である・・・。
R3.2.21




ADRA_いいたて村.JPG


(アメリカの学生が福島県を訪問した際の当時の様子)





3日間をかけて、6人の方からのお言葉をお伝えしました。

住民として震災を経験した皆さんにしか語れない言葉、皆さんだからこそ語れる言葉だと思います。

ADRAからのお願いを受けてくださったことを心から感謝します。



私たち一人ひとりに何ができるのか、改めて考えてみませんか。



(執筆:国内事業課 三原千佳)



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Posted by ADRA Japan at 09:43 | 東日本大震災 | この記事のURL | コメント(0)
(3/10) 東日本大震災から間もなく10年〜現地の方々の今の想いとは《中編》 [2021年03月10日(Wed)]


2011年3月11日14:46に発生した東日本大震災から間もなく10年です。

ADRA Japanでは、住民の方々が“今どのようなことを思われているのか”をご紹介することで、皆さんと一緒に改めて震災について考え、知り、これから一人ひとりに何ができるのかを考えるきっかけとしたいと考えました。



私たちが当時現地で一緒に活動し、今でもお付き合いをさせていただいている方々からいただいた言葉を、3回に分けてご紹介します。

昨日の福島県に続いて、今回は宮城県の方々からの言葉をご紹介します。



【当時、生活支援相談員をされていた宮城県山元町民の方】

いつおさまるかわからない大きな揺れ。繰り返し起こる余震。

本当に怖くて怖くてたまらない体験でした。

その後に起こった大津波。海沿いの風景は一変しました。

あまりの変わりように、何が起こったか理解出来ない日が続きました。



縁あって復興支援の仕事をする事になり、ADRAの存在を知りました。

震災当初から山元町を全面的に支えて下さり、自分達の事のように山元町を想って下さる皆さんの姿に、感謝の気持ちでいっぱいでした。(今でも感謝感謝ですよ)

辛い震災でしたが、ADRAの方々や、被災地を応援して下さる皆さんとの出会いは、私のかけがえの無い財産になりました。



私は今、小学校で仕事をしています。

低学年で防災の勉強をしましたが、震災後に生まれた子供達には、震災はまったく他所ごとです。

10年経って、私達被災地に住む者の記憶も薄らいでいるのですから、当然の事かもしれません。

が、私はそれではいけないと強く感じました。

この震災で体験した事は、語り繋がなければいけません。

もう一度家族で、友達で、みんなで震災の時の話しをして、どうすれば命を守る事が出来るか、改めて考える節目の日にしたいと思っています。




震災1.JPG

[2021年3月3日現在の沿岸部。
震災前には住宅が立ち並んでいた所も、現在は防災緑地や農地となっている。]





震災2.JPG

[内陸に移設し、高架化された新坂元駅]




【当時、仮設住宅の副行政連絡員をされていた宮城県山元町民の方】

2021年2月13日(土)23時07分、地鳴もなく突然地獄に引きずり込まれるような大地震が!

福島県沖震源、私が住んでいる宮城県山元町では、震度6弱でした。

緊急避難速報アラームがなる前の出来事でした。

10年前の東日本大震災で大津波に遭った私たちは、とっさに、大津波がくると思いました。

家族4人は身支度をして、日頃から用意していた非常持ち出しリュックを手元に避難の体制に。

ラジオが、潮位は少し高くなるが津波の心配なしとの情報に、本当にほっとしました。

家具は倒れませんでしたが、棚の上の物はほとんど倒れ落ちました。

家具は転倒防止装置をしていたので大丈夫でした。



3.11被災後しばらくは大地震はないだろうと、気の緩みがでていたのかもしれません。

今度の地震で、私たちの町では犠牲者は出ませんでしたが、住宅の被害、断水など多くの被害が出ました。

私も住まいに被害があります。

余震が度々あり、コロナ禍と重なって、精神的にも不安定なところです。

3.11被災後は、避難所生活2か月半、仮設住宅生活2年半を経験しました。

震災前に住んでいた自宅は幸い流失しなかったので、大修理をして住んでいますが、地震がくる度に津波は大丈夫かといつも恐怖心が消えません。

自宅にもどったことを後悔しています。

これまで、行政の方々や多くのボランティアの皆さんに支えられて生活を取り戻し、前を向いて進むことができました。

人と人とのつながり「絆」がいかに大切かを身に染みて感じたひとりです。

スーパーなどで仮設住宅で共に暮らした人に会うと、懐かしくなり今でも声をかけあっています。

大切な命を守るために、これまでの経験を忘れず、日々の暮らしに活かしていきたいと思っています。




震災3.JPG

[2012年に町民グラウンド仮設住宅で行ったお花見の様子。]





震災4.JPG

[現在の町民グラウンド]




明日は再び福島県からの言葉をお届けいたします。

(執筆:国内事業課 三原千佳)



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Posted by ADRA Japan at 18:00 | 東日本大震災 | この記事のURL | コメント(0)
(3/9) 東日本大震災から間もなく10年〜現地の方々の今の想いとは《前編》 [2021年03月09日(Tue)]


2011年3月11日14:46に発生した東日本大震災から間もなく10年です。

ADRA Japanは、発災直後から情報収集を行うとともに、東京事務所では帰宅困難者のための一時避難場所を開設、翌日に福島県と宮城県へスタッフを派遣しました。

そこから現地とのお付き合いが始まりました。

(当時の活動についてはコチラ)



被災をされた住民の方々にとって、この「間もなく10年」という日は通過点に過ぎないかもしれません。

10年という歳月に関わらず、この時期になると毎年震災のことを思い出し辛くなる、という声も聞かれます。

ADRA Japanでは、住民の方々が“今何を想われているのか”をご紹介することで、皆さんと一緒に改めて震災について考え、知り、これから一人ひとりに何ができるのかを考えるきっかけとしたいと思いました。



私たちが当時現地で一緒に活動した皆さまからいただいた言葉を、3回に分けてご紹介します。

今回は、福島県の方々からです。




【浪江高校の元教諭、朝田由美子様より】


東日本大震災がアドラとの接点となりました。

あれから十年です。

余震がまたやってきて、まだ、過去のことにするのには十分な時間でなかったのだと感じています。



私は当時、双葉郡の県立高校に勤務していました。

突然のことで何も持たずに各地に避難した生徒達も、学校の再開に伴いアドラからの制服支援を受け、その支援を契機にたくさんの後押しをもらって、少しずつ、また、ほんとうの日常とはひとあじ違った日常を取り戻していきました。

価値観が大きく変化するなかで、生徒達の笑顔を見ながら、私自身も精神のリハビリをするように目の前のことに取り組み、仕事をしていました。



県内のどの学校も放射線量という難題で苦しい時期でした。

双葉郡八町村の、北から浪江高校・浪江高津島校・双葉高校・双葉翔陽高校・富岡高校もサテライト校での活動となり、この五つの高校を引き継ぐ形で、ふたば未来学園高等学校が双葉郡広野町に開校しました。

私が担任をした浪江高校の最後の卒業生と一緒に、平成二十九年に本宮市で休校式を行い、アドラをはじめお世話になった皆様とお別れしたこと、今も忘れることはできません。

皆様にいただいた御厚情を、いつか恩返ししたいと思っています。

元気でいます、まずはそこから、恩返しです。



ADRA_浪江高校での写真.JPG


(人材育成プログラムの一つで、株式会社ユニクロ様の協力で仮設住宅で移動販売を企画・実施した時の様子。浪江高校の生徒の皆さんとユニクロ社員の方々)





【富岡高校サテライト校卒業生の佐藤優樹様より】


震災と原発事故から10年-今思うこと-


“3653日”皆さんはこの数字を見て、何を思い浮かべるだろか。

これは、2011年3月11日の「東日本大震災」と「原発事故」から、2021年3月11日までの日数である。



 「あぁ、そういえば」「もう、あれから10年か……」「そんなことがあったんだ、知らなかった」など、住む地域、年代によって捉え方はそれぞれだろう。

当事者の私は、「もう、あれから10年か……」である。

言葉ではそう表現するが、体感的には未だに“昨日の出来事”である。

時が経てば記憶は徐々に薄れるものだが、鮮明過ぎるほど覚えている。



もちろん、事細かに詳細を話すこともできる。

しかし今は、

「あの時、震災も原発事故も起こらず、このまま故郷で生活していたら、どんな人生だったかな」

「もしあの時、避難しても2,3日で戻れていたとしたら、今頃何事も無かったように生活してただろうな」

「もしあの時、友だちとしばらく会えなくなると分かっていたら何と声をかけたかな」

というように、“起きてしまった過去よりも想像でしかない未来” を考えることが多くなった。



これは決して現実を否定しているのでは無い。

この10年かけてこれらの出来事を"運命"として受入れる覚悟ができたからこそである。



皆さんはこの10年、どのように過ごしてきましたか。



ADRA_福島_富岡高校佐藤さん.JPG


(人材育成プログラムの一つで、福島県立富岡高等学校いわき明星大学サテライト校と米カリフォルニア大学サンディエゴ校国際関係・環太平洋研究大学院の学生とのスカイプを通じた交流の様子)





明日は宮城県からの声をお届けします。


(執筆:国内事業課 三原千佳)


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Posted by ADRA Japan at 18:00 | 東日本大震災 | この記事のURL | コメント(0)
(3/11) 東日本大震災から9年 [2020年03月11日(Wed)]


ADRA Japanは、
東日本大震災の支援活動で
福島県と宮城県のお手伝いを実施しました。


中でも宮城県山元町は
震災直後から長期にわたりスタッフが駐在し、


炊き出しに始まり応急仮設住宅のスターターパック配付や
コミュニティ支援等様々なお手伝いをしました。


私もしばらく山元町で駐在を経験しましたので、
私にとって山元町は第二の故郷です。




3月9日、
NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」という番組で
取り上げられたのが宮城県山元町でした。


この番組は鶴瓶さんとゲストが
ステキな家族を求めて日本中を巡る旅番組です。


皆さんはご覧になったことがあるでしょうか。




その番組を見ていると知っているお顔がチラホラ。


思わずテレビに向かって「あ!○○さん元気〜?」と
ぶんぶん手を振っている自分がいて、


長女に



「お母さん、何やってんの?」



と言われる始末です。



そんな長女も実は山元町を



「おばあちゃんがいっぱいいる町
(以前プライベートで子供たちを連れて行った際に
おばあちゃんたちとたくさん会ったため記憶に残っているようです)」



と言って、



「また行きたい」



と親しみを持っています。




と、そんな話はさておき・・
昨年末にも山元町を訪問してきましたので
その時の様子をご報告いたします。




まず、津波で大きな被害を受けた花釜区に
寄贈したトレーラーハウスです。


主に消防団の詰所として使われています。


外壁の一部に経年劣化が確認できた際には
消防団の皆さんで直すなど、
地元の皆さんでしっかりと管理していただいていました。




3.11ブログ写真01_logo.jpg

(花釜区に寄贈したトレーラーハウス)




3.11ブログ写真05_logo.jpg

(管理者の方にお話しを伺う)




次に地元のお母さん方中心で構成されている団体
「山元タイム」に寄贈したトレーラーハウスです。


週に3回程のペースで手芸活動などに活発に使われています。




3.11ブログ写真03_logo.jpg

(製作の様子)




3.11ブログ写真04_logo.jpg

(山元タイムの皆さんと)




地元の皆さんでしっかり活動されている様子を拝見し、
大変嬉しく思いました。




町内の鉄道や道路、沿岸部の整備等は、かなり進みました。。


町の景色は震災前とはかなり違います。


その町で、住民の皆さんはそれぞれの想いを抱えながら
前向きに生きていらっしゃいます。




私が駐在中、
頻繁に相談し合い一緒に住民の方々の見守りなどをしていた
元仮設住宅行政連絡員の方が、昨年亡くなりました。


ご自身も大変な被災をされていたにも関わらず、
震災直後から仮設住宅入居中、
そして仮設住宅を出たその後の住民の皆さんを気にかけ、
毎日一生懸命動いていた方でした。


震災で生きのび、
あんなに住民の方々を想って日々尽力されていたのに、



なぜ、今。



私の勝手な想いですが、残念でなりません。




このような方々もいらっしゃり、
今の山元町があります。


他の市町も同様ではないでしょうか。




私たちにできることは何かを、
今一度自分に問いかけてみてはいかがでしょうか。




(執筆:国内事業課 三原千佳



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Posted by ADRA Japan at 10:19 | 東日本大震災 | この記事のURL
(10/2) 東日本大震災被災者・震災復興-144 宮城県山元町の今 [2017年10月02日(Mon)]
こんにちは。
国内事業担当の三原です。
今回は、2011年4月から長期に渡って復興のお手伝いをさせていただいていた宮城県山元町の現在についてお伝えいたします。

改めてお伝えしますと、震災前の山元町の人口は約17,000人、いちごとりんごとホッキ貝が特産の自然豊かな小さな町でした。震災による甚大な被害を受け、死者637人、4,440棟の家屋が津波で流出したり、大規模半壊、一部損壊の被害を負いました。現在は約12,450人の方々が生活をしています。

【沿岸部】
津波の大きな被害を受けた沿岸部は未だ工事中の箇所もありますが、津波が起きた際の一時的な避難場所としても活用できる築山(人工的に作った山:高さ9メートル)が完成していたり、津波で流された木樹を取り戻すために植林がされていたりします。沿岸部は防災緑地ゾーンとして公園やレクリエーション施設等を設置して交流の場にもなるよう整備が進められています。


1.JPG
築山


2.jpg
植林


【仮設住宅】
災害復興公営住宅を含む新市街地(3ヶ所)が完成したこともあり、現在、山元町内で仮設住宅に住んでいる方はほぼいません。2018年3月末までに町内全ての仮設住宅の取り壊しが予定されています。以前は活気があった仮設住宅も今は静かな状態になっています。

3.JPG
空き家となった仮設住宅


【新市街地】
新市街地として整備されたつばめの杜地区に設置されたこどもセンターへお邪魔しました。


4.JPG
こどもセンター


こどもセンターは児童館、子育て支援センター、児童クラブの3つの機能を兼ね備えた新しい施設です。子育て支援センターは、以前ADRAがお散歩カーや電子レンジ等を寄贈した「子育てサークル 夢ふうせん」が運営しています。子どもたちが遊びやすいように様々な工夫が施されており、訪問した際にもたくさんの子どもたちが楽しそうに遊んでいました。


5.JPG
子どもが遊びたいおもちゃのカードを選んでスタッフに渡すとそのおもちゃを出してもらえる


【トレーラーハウス】
ADRAは、コミュニティの交流の場としてトレーラーハウスを2013年12月に花釜区内に設置し、2016年4月に花釜区と山元タイム(住民の方々による手芸グループ)に1台ずつ寄贈しました。寄贈後もトレーラーハウスは住民の方々によって活用されています。花釜区に寄贈したものは交流センターの脇に設置され、主に消防団が利用しています。住民の方々が新たにテレビ等を取り付けており、使いやすい空間になるようにさらに工夫をしていることが分かりました。山元タイムに寄贈したトレーラーハウスは引き続き住民の方々の集まりに利用されています。特に、手芸活動を行なう女性グループは参加人数が以前よりも増え、活動は充実しているそうです。


6.JPG
手芸活動の様子


【笠野区】
今回の訪問では、沿岸部に位置する笠野区の住民の皆様と約2年ぶりにお会いすることができました。お元気そうな様子を拝見でき、個人的にも大変嬉しいできごとでした。ある80代の女性は、以前は仮設住宅を出る不安を語られていたのですが、今回お話を伺ってみると、「たまにこうやって集まりもあるからみんなとおしゃべりできて嬉しいね。でも機会は減ったけどね」とおっしゃっていました。震災によってコミュニティが何度も分断されていく中、それにも負けず逞しく生活している姿が印象的でした。


7.JPG
笠野区の75歳以上の方々の集まりでお話を伺う


【こころの健康診断】
2012年2月から2013年3月まで、山元町社会福祉協議会とやまもと復興応援センター全職員を対象に臨床心理士による「こころの健康診断」と題したカウンセリングを実施しました。当時、支援者に対する心的ケアの必要性を指摘する声が高まっていました。また、私たちも自ら被災しながら支援に携わっている方々の心的ケアの重要性を非常に強く感じていました。そのため、身体と同様に心も健康診断をしてみましょう、という切り口で少しでも受けてもらえるように、プログラムの名称を「こころの健康診断」としました。
今回、当時の職員のお一人に偶然お会いでき、その際に「あの時期にこころの健康診断を受けることができて良かった。受けられたから一旦気持ちの整理をつけて、今好きな仕事にまたつくことができている。」というお言葉をいただくことができました。

山元町は新市街地の整備も整い、住民の方々は新しい生活を始められています。家、交通、買い物等の便が整うことで住民の方々は以前よりも落ち着いているように見えました。今後の生活に期待をしているとお話しをされる方もいらっしゃいました。しかし、震災の傷は決して癒えることはなく、お一人おひとりの中に深く刻まれ、今なお苦しんでいる方々もいらっしゃることを忘れてはならないと思っています。

ADRA Japanは、2017年3月で東日本大震災復興支援を一区切りとさせていただきましたが、その後も現地の要請に基づいて必要な支援を行っていきます。

(執筆:国内事業担当 三原千佳
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Posted by ADRA Japan at 14:21 | 東日本大震災 | この記事のURL
(6/3) 東日本大震災被災者・震災復興-143 浪江高等学校の生徒たちによる仮設住宅でのユニクロ移動販売 [2016年06月03日(Fri)]
ADRA Japanでは、福島県の復興を担う若者へ向けた人材育成プログラムを実施しています。

昨年の11月から福島県立浪江高等学校の2年生14名が株式会社ユニクロ様と協力し、学校やユニクロ店舗で仮設住宅での移動販売の準備を行ないました。
そして2月に、準備活動と当日の移動販売を視察しました。視察の際、販売の準備をしている時と当日の生徒の様子の違いや印象に残った先生のコメントを紹介したいと思います。

生徒たちは、11月から学校で、商品の選定、集会所内のレイアウト、チラシのデザイン、休憩スペースのサービスなどの準備を行ないました。
販売する商品は、生徒自身が選びました。生徒たちは仮設住宅の集会所で住民の方々からどのような商品があったら嬉しいのかを聞いたり、インターネットで調べたり、ユニクロ店舗へ行ったりして、住民の方々をイメージしながら商品を決めました。
活動の準備が進むにつれて、生徒たちは意見を出し合ってより自発的に行動できるようになりました。


グルーブに分かれて話し合う浪江高校の生徒_ADRA Japan 東日本震災復興支援.jpg
グループに分かれて話し合い、お客様に喜ばれる飲み物やおにぎりの味について意見を出し合う


東日本大震災で被災された仮設住宅の住民の方々に向けるチラシづくり_ADRA Japan 東日本震災復興支援.jpg
仮設住宅の住民の方々に配る手作りのチラシ作成中


東日本大震災で被災された仮設住宅の住民の方々からの意見を聞く浪江の生徒_ADRA Japan 東日本震災復興支援.jpg
「どんな洋服があったら嬉しいですか?」「暖かくなってくるから春物があるといいわね。」仮設住宅の住民の方々からの意見を聞く


東日本大寝台で被災された仮設住宅に住む人々の生活を想像しながらテーマごとにコーディネートを考える浪江高校生_ADRA Japan 東日本震災復興支援.jpg
おすすめコーディネートのカタログを作成。「家族と外食するとき」「寒い台所で身軽に暖かく」「お花見に行くとき」「近所の散歩をカッコよく」など住民の方々の生活をイメージしながら、テーマごとに考案


東日本大震災で被災された方々が住む仮設住宅での話し合い_ADRA Japan 東日本震災復興支援.jpg
仮設住宅の集会所で自治会長さんと会場のレイアウトの話し合い


2月10日は販売当日です。浪江町住民が避難生活を送る二本松市内の旧平石小学校応急仮設住宅で販売をしました。生徒たちはユニクロの商品をそろえたり、仮設住宅に住む住民の方へオススメのコーディネートを紹介したりして楽しそうな様子でした。また、住民の方に少しでも楽しんでもらいたいとの思いから手作りのおにぎりやお茶などを提供し、ゆっくり話ができるスペースも設けました。おにぎりの味やお茶の種類などは生徒たちが話し合いで決めました。当日は、生徒たちの手作りおにぎりやお菓子を片手に、みなさん会話が盛り上りました。


浪江高校の生徒による手作りおにぎり_ADRA Japan 東日本震災復興支援.jpg
手作りおにぎり準備完了


仮設住宅の会場で会話に花を咲かせているみなさん_ADRA Japan 東日本震災復興支援.jpg
会場で話に花を咲かせているみなさん


ユニクロ社社員の方より営業のいろはを学ぶ浪江高校の生徒_ADRA Japan 東日本震災復興支援.jpg
ユニクロ社員の方から、接客をしながら商品をたたみ方法や陳列の仕方を学ぶ


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会計の仕事をする浪江高校生。社員の方に教わりながら丁寧に対応し、後日、商品を渡した

浪江高校生徒とユニクロ社員のみなさん_ADRA Japan 東日本震災復興支援.jpg
浪江高校生徒とユニクロ社員のみなさん


移動販売で生徒たちは、積極的に利用者の方へ声をかけたり、洋服のアドバイスや案内をしたりして、準備のときよりも生き生きとしていました。
お世話になったユニクロの店員さんについても、生徒たちは「対応が早くてすごかった」、「自分で気づいて行動していた」、「笑顔が素敵だった」など、普段は経験しない販売について教わったことでいい刺激をもらったようです。

浪江高校の校長先生は、活動中の生徒たちは、教室では見せない笑顔を見せたり、普段以上に積極的に発言したり、積極的に行動していたと言います。そういった「生徒の変化をみえるのが嬉しい」とおっしゃっていました。

(執筆:インターン 柳澤ちさと)


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Posted by ADRA Japan at 13:00 | 東日本大震災 | この記事のURL
(3/10) 東日本大震災被災者・復興支援―142 富岡高等学校いわき明星大学サテライト校での最後の授業 [2016年03月10日(Thu)]
インターンの柳澤です。

1月28日、避難を続けている富岡高校のサテライト校で、2年半以上続けてきたアメリカの学生との最後のスカイプ交流が行なわれました。アメリカの学生から震災後初めて故郷に足を踏み入れた感想を聞かれ、生徒が答えるという場面もありました。生徒たちの生の声には、多感な時期に震災を経験した重みを感じました。

ADRA Japanでは東日本大震災復興支援の一環として、2012年6月から福島県で県内の若者に向けた人材育成プログラムに取り組んでいます。
そのうちの一つが2013年5月から行なっている福島県立富岡高等学校いわき明星大学サテライト校と米カリフォルニア大学サンディエゴ校国際関係・環太平洋研究大学院(以下IR/PS)の学生とのスカイプを通じた交流です。

*スカイプとは、音声電話、テレビ電話、文字によるチャットが無料でできるインターネット電話サービスのことです。


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元々富岡高校があった双葉郡富岡町は福島第一原発から近く、今も立ち入りが制限されています。そのため、富岡高校の生徒は所属するコース別に4箇所のサテライト校に分かれて通学していました。いわき市の富岡高校いわき明星大学サテライト校では福祉健康コースの3年生6名が通っていました。このサテライト校舎は今年度で閉校になることが決まっており、この6名の生徒にとって1月28日は最後の授業の日でした。

この日の英語の最後の授業では、アメリカの大学院生とのスカイプ交流が行なわれました。自己紹介から始まり、お互いの町の良いところなどを聞きあっていました。恥ずかしそうに話していた生徒もいましたが、自分から積極的に大学生に質問したりする生徒も見られ、日米間で会話が弾んでいました。


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このサテライト校では、去年の夏から3年生全員で「福島プロジェクト〜私たちの故郷」と題し、彼らのふるさとについての動画を制作してきました。生徒2人は動画を制作する際、震災後初めて故郷に足を踏み入れたそうです。大学生から故郷に帰った感想を聞かれた生徒は「今まで震災の被害から目を背けてきたところがあった。動画を作ったのはいい機会だった」と答えていました。

生徒にとってはこの日が最後の授業だったこともあり、担任の先生から大学生に、富岡高校の生徒のためにこれからのアドバイスをお願いしたりする場面もありました。大学生からは「夢に向かって頑張ってほしい」「他人と比べない」「旅をして新しい場所に行くと自分のところの魅力も再認識できる」などといったアドバイスをもらいました。また、アメリカ側の先生からも、どれだけかかっても夢を叶えるのを諦めない大切さなども教わりました。

多感な時期に震災が起き、友達とも離れ離れになり、学校も変わり、想像もできないような大きな変化だったと思います。中高生という大事な時期にこのような想像を絶する経験をしてきたからこそ、生徒の言葉に重みを感じました。だからこそ、再び故郷に足を踏み入れる勇気がでたというのは大きな一歩ではないかと思います。

このスカイプ交流で太平洋を越えたところに福島のことを気にかけてくれる仲間がいたということは生徒たちにとっても励みであり、また楽しみだったのではないでしょうか。この交流をきっかけに国内のみならず、海外にも目を向け、可能性を広げていってほしいと思います。


富岡_Blog_Photo_3.jpg


3月1日に卒業式を終え、生徒たちにとっても、先生たちにとってもまたこれから大きな生活の変化が待っています。県内に留まる人、県外に出る人、進学する生徒、就職する生徒・・・それぞれの生活の中で、遠くても福島のことを思ってくれる仲間がいることを忘れずに、前向きに歩んで行ってほしいと思います。


(執筆:インターン 柳澤ちさと)

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Posted by ADRA Japan at 15:37 | 東日本大震災 | この記事のURL
(7/23) 東日本大震災被災者・復興支援-141宮城県山元町-災害公営住宅で初めての交流会 [2015年07月23日(Thu)]
7月4日(土)、山元町の災害公営住宅で夕涼み会を開催しました。

山元町は「コンパクトシティ」の理念のもと3地区に新市街地を整備しており、今回開催したのはその内の一つの新坂元駅周辺地区の災害公営住宅(以下、公営住宅)です。こちらの公営住宅にお住まいの方にとっては、この夕涼み会が初めての交流会となりました。主催はやまもと復興応援センターで、ADRA Japan はそのお手伝いをしました。

新坂元駅周辺地区の公営住宅には現在約40世帯の方がお住まいです。今年の4月から順次入居が始まったため、住んでいる皆さん全員が引っ越しをされてまだ間もないという状況です。町内の仮設住宅や、町外のみなし仮設住宅(民間賃貸住宅借上げによる応急仮設住宅)から引っ越して来られた方など様々な方が住んでいらっしゃいます。


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災害公営住宅の様子


当日は雨が心配されましたが、みんなの気持ちが届いたのか、曇り空ではあったものの雨は降りませんでした!開始時刻の15時になると、私たちの予想を上回る方々がぞくぞくとやって来られました。事前に配付していたチラシを見てくださっていたようです。


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ADRAのバスもセッティング


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あっという間に椅子が埋まった


初めて顔を合わせる方もいるため最初に簡単な自己紹介をしていただき、その後、公営住宅の隣に位置する行政区の区長さん方からもご挨拶をいただきました。その中で「一緒に仲良く暮らしていきましょう」という言葉があったのが印象的で、その言葉を聞いた皆さんも安心されたのではないかと思います。


夕涼み会終了までの2時間、住民の方々はお茶やお菓子を食べながらお互いの家の場所を知らせたり、公営住宅に引っ越してくる前に住んでいた場所の話や生活環境のことなど思い思いにお話をされていました。ADRAのバスの中でも子ども連れのお母さん方が楽しそうにお話をしていらっしゃいました。会場には輪投げなどのゲームも用意され、「意外と難しいなぁ」「○○さん上手だね!」「がんばれ!」などの声が飛び交い盛り上がっていました。

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輪投げなどで盛り上がった


新坂元駅周辺地区の災害公営住宅にはまだ集会所がありません。今後さらに入居者が増える予定で、皆さんこの場所で長く暮らしていくことになります。住民の方々が気持ちよく暮らしていけるコミュニティが形成されることを心から願っています。


(執筆:東日本事業担当 三原千佳


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Posted by ADRA Japan at 11:00 | 東日本大震災 | この記事のURL
(4/10) 東日本大震災被災者・復興支援-140 国内支援を通じて国際協力を学ぶ [2015年04月10日(Fri)]
ADRA Japanは2012年6月から福島県の若者に向けた人材育成プログラムを実施しており、2015年3月末までに36以上の活動を行なってきました。福島県の若者と県内外・海外の人びとをつなぎ、若者の可能性を広げるきっかけとなる機会を提供しています。

これまでの活動の内容や期間、そこに関わる人びとなどは多岐にわたっています。中でも一番長く続いている活動が、2013年5月から行なっている福島県立富岡高等学校いわき明星大学サテライト校と米カリフォルニア大学サンディエゴ校国際関係・環太平洋研究大学院 (以下IR/PS)の学生とのスカイプ(音声通話、テレビ電話、文字によるチャットが無料でできるインターネット電話サービス)を通じた交流です。交流は教室の中で行なっており、関わっている人数も少ないのですが、小さくとも着実に育っている活動です。

活動のきっかけは、IR/PSの「411」という授業で日本語を学ぶ学生からADRA Japanに届いたメールでした。6人の学生がサンディエゴから東北の被災地にどのような支援ができるのかを考えた結果、東北の被災地とIR/PSとの絆を深め、被災地の方々に希望を持ってもらうことを目的とした交流プロジェクトを企画したので協力してほしい、というものでした。


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IR/PSの学生と日本語講師の牛田先生(中央前)


この時、震災から既に1年以上が経過していましたが、遠く離れたアメリカから東北を想い行動に移そうとしている学生たちがいることを東北の方々にも知って欲しいと思いました。そしてIR/PSの学生と東北の方々の双方向の交流とするため、国際コミュニケーションコースがある富岡高校の教頭先生に相談しました。

富岡高校の生徒たちは、震災後は原発事故の影響で福島県双葉郡富岡町から県内外4カ所のサテライト校に分かれて学校生活を送っていました。国際コミュニケーションコースは福祉健康コースと共にいわき明星大学内のサテライト校にあり、殆どの生徒たちはふるさとを離れ、避難生活を送りながら学校に通っていました。

教頭先生は、この交流活動が生徒にとって良い機会になると関心を持ってくださり、英語の授業の時間を使った交流がスタートしました。

富岡高校で英語を担当する教員も生徒たちもスカイプを使ったことがなかったため、大きな期待と少しの不安を抱きながら1回目の交流が行なわれました。生徒たちは全員でノートパソコンの画面が見られるように固まって座り、とても緊張している様子でした。


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1回目の交流


この時の交流では、富岡高校の生徒たちとIR/PSの学生が簡単な挨拶と自己紹介を交わし、生徒たちはアメリカの学生からの質問に「Yes」「No」で答えるのが精一杯という感じでした。それでも高校生たちは交流を終えて「とても緊張した〜」「楽しかった〜」と笑顔で話していました。

その後、年を重ねて学生の入れ替わりがありながらも、約2年間、両校は計12回のスカイプ交流を通じて直接会話やゲームをしたり、メールやブログを介して自分たちの夢や生活を紹介しあったり、時にはエネルギー問題について意見を交換したりしながら交流を深めていきました。福島とサンディエゴという離れた土地に暮らし、年齢や国籍の違いがありつつも、生徒と学生は一緒に笑い、時間と思い出を共有してきました。


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日本とサンディエゴの時差は17時間あり、日本が朝10時の時、サンディエゴは前日の夕方5時になります。富岡高校の英語の授業に合わせ、IR/PSの学生が日曜日の夕方に大学に集まってくれることもありました。

この交流が実現するまでには、富岡高校の教員とIR/PSの講師の方々がメールやスカイプを通じ、実に多くの時間をかけて準備を行なっておられました。一度も会ったことは無くても語学を教える方同士が、共通の想いを持って取り組み、信頼関係を深めていかれました。先生方は、自らの教え子たちに語学を学んでもらうこと以上に、交流を通じてお互いの関係を深めてほしいと願っておられました。


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スカイプを通じて打ち合わせをする教員


交流を始める2年前、富岡高校の生徒たちはサンディエゴのことを知らず、一方のIR/PSの学生たちは福島を原発事故のあった被災地としてしか知らず、富岡町のことももちろん知りませんでした。

今では、高校生たちはサンディエゴの観光地や魅力を知って自分たちで地図を作るまで詳しくなり、いつか実際に訪れたい場所になりました。そして、アメリカの大学生たちにとって福島は単なる「被災地」から富岡高校の生徒たちが暮らす「ふるさと」になりました。


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生徒が作ったサンディエゴの地図と、生徒と学生がそれぞれに作った絆ベンチ


富岡高校いわき明星大学サテライト校の生徒数は2015年4月からは6人になり、彼らが卒業する来年の3月で休校することが決まっています。現在行なっている英語の授業を使った交流はあと1年間となりますが、離れていても自分たちを思ってくれている友人がいるということを知っているのはお互いにとって心強いことであり、決して消えない大切な思い出となるのではないでしょうか。

IR/PSの講師の牛田先生がとても強い想いと信念を持って取り組んでこられたことが、この活動が継続してきた大きな要因のひとつだと思います。牛田先生は「震災後から何かをしたいと思っていたけれど、自分が考えていたプロジェクトに合う学生が揃うのを待ってから学生に呼びかけた」とおっしゃっていました。

そんな牛田先生の想いが学生に、ADRA Japanに、そして富岡高校の教員と生徒たちに伝わっていきました。この交流に関わることを通じ、私は離れていても自分たちでできる国際協力の方法が必ずあること、想いを強くもつことで周りの人びとに影響を与え、その想いを相手に届けることができるということを学びました。


(執筆:東日本事業担当 会田有紀


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4月26日(日)、「30周年記念フェス〜好きから始まる国際協力」を開催します。
ADRAの活動にちなんだワークショップや、各国のファッションや食べ物、ステージ演奏なども楽しんでいただけます。福島事業に関する展示も行ないます。ぜひお越しください。
好きから始まる国際協力〜30周年記念フェス 詳細ページ

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Posted by ADRA Japan at 19:58 | 東日本大震災 | この記事のURL
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