日本は何が遅れているのか/「将来推計」提言を出して思うこと
[2012年01月27日(Fri)]
昨日の日経新聞「経済教室」の寄稿「財政など政府の将来推計 省益狙いの“乱造”解消を」についてはいろいろな方面から反響をいただきました。
本寄稿のベースとなっている政策提言も東京財団ホームページにアップしています。
こちらもご覧いただければと存じます。
「将来推計の抜本見直しを」
−日本の経済財政社会保障に関する将来推計の課題と将来像−
「将来推計」とは、政策を検討・立案・決定する際、将来予想される経済変化やその政策によって引き起こされる影響を予め定量的に計測するためのものです。
わが国では、「将来推計」のあり方がおかしなことになっているので、これを改めていきましょうという提案をしています。
すぐにできる話ではないので、政治家ばかりでなく、役所、メディア、経済界等、いろいろなかたちで問題提起していきたいと思います。
それにしても、昨日の国会の議論は低調でした。
一言でいえば「情けない」としか申し上げようがありません。
野田総理が施政方針演説で自民党政権時代の総理の言葉を引用すれば、谷垣総裁が前回総選挙時の野田氏の街頭演説を持ってくるという、与野党がお互いに「言った、言わない」の応酬をしているばかり、これでは、政府が示している予算案や税制改正の何が問題なのか、国民にはまったく伝わりません。これほどまでに議会の議論のレベルが低くなると政治不信はより進むばかりです。
米国ではCBO(議会予算局)は大統領が示した予算案を具体的に検証する役割を与えられています。大統領のスタッフであるOMB(行政予算管理局)とは異なり、政府から独立した立場を与えられていますし、実際の人事も政治からの中立性が担保されています。
日本にCBOがあれば、政府とは別に国会内で、政府の政策を実施した場合に将来どうなるのかを検証することができます。そうなれば、昨日のようなレベルの低い議論となることはないでしょう(まあ、資質の問題は残りますが・・・)。
米国のCBOは1974年に設立された歴史の長い組織ですが、お隣の韓国では2004年に同じような組織が立ち上げられました。多くのスタッフを抱える大統領府や与党に対し、政策立案力や分析力が劣る野党の声がけで実現したものです。
結局、わが国の場合、政策を決定する材料である情報や制度に対する理解について、霞ヶ関の各省庁が圧倒的な力を持っています。これらの情報やノウハウは殆ど外には出てきません。
加えて言えば、国民自身が行政から信じられていないからではないかと思うこともあります。
提言にも書きましたが、政策を作る当事者である省庁が自ら情報を操っているというのは、わが国の政策の方向性を誤る大きな原因となります。
諸外国と比較してみて感じるのは、わが国が二段階で遅れているということです。
一つには、いまだに「官治」で「民治」ではないということです。
一部のエリートが情報を独占し、全体最適を志向するというやり方は先を行く模範を追いかけるという戦後の一時期は確かに機能しましたが、いまのような答えのない時代には、弊害のほうが目立ってきています。いわば、官による政治の独占は何も変わっていません。
民主党の政治主導がうまくいかないのも、官による情報や制度の独占を壊せていないからに他ならないと僕は見ています。
官による統治の独占を許すのではなく、やはり、国民自身が、社会が直面する課題を自らの問題として捉え、自らの責任として決断していく、自分たちの代表者である政治家と行政の執行を専門とする官僚をうまく使うのは当然のこととして、という「民が治める」国にしていくことが不可欠でしょう。
もう一つには、民主主義のリスクをマネージしようとすらしていないということです。
提言でも書きましたが、民主主義、つまり「民治」は常に正しい判断をするものではありません。
とくに世代間の利害の調整はあまりうまくない傾向があると思います。
選挙によって決められた人たちが政策を決める現代の政策決定システムにおいては、社会保障にせよ、景気対策にせよ、将来世代の負担増まで考慮に入れた政策を選択するよりは、目の前にいる有権者を意識し、結果としてバラマキが増えて放漫財政に傾きがちです。
これは日本に限った話ではなく、世界各国で起きていることです。
そうしたリスクがあることをわかっているからこそ、各国は、将来世代や少数派に配慮した中長期にも整合的な政策決定をするために、経済モデルと数値を用いた中立的な第三者機関による「将来推計」に重きをおくようになってきているのです。
これと同じ構造の問題は、いろいろな面で見られます。
昨日もある政策関係者とお話していたのですが、教育委員会というのも「官治」の典型です。
教育に政党の政治的思惑を入れることはあってはならないことですが、だからといって、教育者だけに任せてよいというものではありません。教育委員会は地域の名誉職になっていて、教育行政からあがってくることを追認するだけの組織になっています。
私たちの子どもたちですから、私たち自身が社会としてかかわっていく仕組みでなければならないはずです。
日経の寄稿の最後にはこう書きました。
我が国が、財政危機を乗り越え、政治が信頼を回復するため、将来推計を活用する4原則達成への挑戦が求められる。
財政危機は私たち、みんなの問題です。
たしかに政治の無駄遣いもありましたが、私たち自身が受益を受けていること、そして、将来に負担を先送りしていることも事実です。
政治の信頼回復も同じです。政治家の資質の問題は深刻ですが、それを選んでいるのは私たちでもあります。
民治を実現するということは大きな責任を伴います。
私たちは行政のお客さんではありません。私たちこそが主権者です。
みんなのことはみんなで考え、みんなで決める、みんなで担っていくというのが本来の姿のはず。そこに生じるリスクも含めて、私たちこそが向き合うべき課題だと思うのです。
本寄稿のベースとなっている政策提言も東京財団ホームページにアップしています。
こちらもご覧いただければと存じます。
「将来推計の抜本見直しを」
−日本の経済財政社会保障に関する将来推計の課題と将来像−
「将来推計」とは、政策を検討・立案・決定する際、将来予想される経済変化やその政策によって引き起こされる影響を予め定量的に計測するためのものです。
わが国では、「将来推計」のあり方がおかしなことになっているので、これを改めていきましょうという提案をしています。
すぐにできる話ではないので、政治家ばかりでなく、役所、メディア、経済界等、いろいろなかたちで問題提起していきたいと思います。
それにしても、昨日の国会の議論は低調でした。
一言でいえば「情けない」としか申し上げようがありません。
野田総理が施政方針演説で自民党政権時代の総理の言葉を引用すれば、谷垣総裁が前回総選挙時の野田氏の街頭演説を持ってくるという、与野党がお互いに「言った、言わない」の応酬をしているばかり、これでは、政府が示している予算案や税制改正の何が問題なのか、国民にはまったく伝わりません。これほどまでに議会の議論のレベルが低くなると政治不信はより進むばかりです。
米国ではCBO(議会予算局)は大統領が示した予算案を具体的に検証する役割を与えられています。大統領のスタッフであるOMB(行政予算管理局)とは異なり、政府から独立した立場を与えられていますし、実際の人事も政治からの中立性が担保されています。
日本にCBOがあれば、政府とは別に国会内で、政府の政策を実施した場合に将来どうなるのかを検証することができます。そうなれば、昨日のようなレベルの低い議論となることはないでしょう(まあ、資質の問題は残りますが・・・)。
米国のCBOは1974年に設立された歴史の長い組織ですが、お隣の韓国では2004年に同じような組織が立ち上げられました。多くのスタッフを抱える大統領府や与党に対し、政策立案力や分析力が劣る野党の声がけで実現したものです。
結局、わが国の場合、政策を決定する材料である情報や制度に対する理解について、霞ヶ関の各省庁が圧倒的な力を持っています。これらの情報やノウハウは殆ど外には出てきません。
加えて言えば、国民自身が行政から信じられていないからではないかと思うこともあります。
提言にも書きましたが、政策を作る当事者である省庁が自ら情報を操っているというのは、わが国の政策の方向性を誤る大きな原因となります。
諸外国と比較してみて感じるのは、わが国が二段階で遅れているということです。
一つには、いまだに「官治」で「民治」ではないということです。
一部のエリートが情報を独占し、全体最適を志向するというやり方は先を行く模範を追いかけるという戦後の一時期は確かに機能しましたが、いまのような答えのない時代には、弊害のほうが目立ってきています。いわば、官による政治の独占は何も変わっていません。
民主党の政治主導がうまくいかないのも、官による情報や制度の独占を壊せていないからに他ならないと僕は見ています。
官による統治の独占を許すのではなく、やはり、国民自身が、社会が直面する課題を自らの問題として捉え、自らの責任として決断していく、自分たちの代表者である政治家と行政の執行を専門とする官僚をうまく使うのは当然のこととして、という「民が治める」国にしていくことが不可欠でしょう。
もう一つには、民主主義のリスクをマネージしようとすらしていないということです。
提言でも書きましたが、民主主義、つまり「民治」は常に正しい判断をするものではありません。
とくに世代間の利害の調整はあまりうまくない傾向があると思います。
選挙によって決められた人たちが政策を決める現代の政策決定システムにおいては、社会保障にせよ、景気対策にせよ、将来世代の負担増まで考慮に入れた政策を選択するよりは、目の前にいる有権者を意識し、結果としてバラマキが増えて放漫財政に傾きがちです。
これは日本に限った話ではなく、世界各国で起きていることです。
そうしたリスクがあることをわかっているからこそ、各国は、将来世代や少数派に配慮した中長期にも整合的な政策決定をするために、経済モデルと数値を用いた中立的な第三者機関による「将来推計」に重きをおくようになってきているのです。
これと同じ構造の問題は、いろいろな面で見られます。
昨日もある政策関係者とお話していたのですが、教育委員会というのも「官治」の典型です。
教育に政党の政治的思惑を入れることはあってはならないことですが、だからといって、教育者だけに任せてよいというものではありません。教育委員会は地域の名誉職になっていて、教育行政からあがってくることを追認するだけの組織になっています。
私たちの子どもたちですから、私たち自身が社会としてかかわっていく仕組みでなければならないはずです。
日経の寄稿の最後にはこう書きました。
我が国が、財政危機を乗り越え、政治が信頼を回復するため、将来推計を活用する4原則達成への挑戦が求められる。
財政危機は私たち、みんなの問題です。
たしかに政治の無駄遣いもありましたが、私たち自身が受益を受けていること、そして、将来に負担を先送りしていることも事実です。
政治の信頼回復も同じです。政治家の資質の問題は深刻ですが、それを選んでいるのは私たちでもあります。
民治を実現するということは大きな責任を伴います。
私たちは行政のお客さんではありません。私たちこそが主権者です。
みんなのことはみんなで考え、みんなで決める、みんなで担っていくというのが本来の姿のはず。そこに生じるリスクも含めて、私たちこそが向き合うべき課題だと思うのです。




