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亀井善太郎
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久しぶりなので近況も含め・・・。 [2013年05月19日(Sun)]
この週末から2013年度開講しました「東京財団週末学校」。
暮らしに一番近い役所・役場である市区町村職員を対象とした人材育成プログラムです。

全国から集まる精鋭の皆さんと共にまた新しい半年が始まります。
ある参加者から言われた一言。

「亀井さん、ブログ更新待ってます。」

そうなんです。ずっと心のどこかで気になっていたことでした。
facebook(こちらにはほぼ毎日いろいろアップしています。すいません。)は便利だし、そっちに書いているとブログとの使い分けがよくわからなくなってしまい、だんだんとブログは放置ということになってしまっていました。

こりゃいかんと近況報告や最近の問題意識も兼ねて、少し書きておきたいと思います。

以前まとめた政策提言、このブログの左にもアップしていますが、このうち「将来推計」の話は着実に具体的な政策として進んでいるところです。
昨年の1月に日経新聞の経済教室にも要約を掲載し、いろいろな形で取り上げていただいたこともあって、超党派の国会議員の皆さんとの議論を重ねるところまできました。
来月をめどに具体的なプランを示し、参院選後にはロードマップに載せ、進めていきたいと思います。

この話のポイントは、政策の検討や決定の根拠となる「数字」や「情報」の政府による独占を崩そうというものです。さらに申し上げれば、個々の省庁(局)が自らの政策立案に都合のより"お手盛り"の数字になってしまっていることは最近では誰もが知ることです(年金はその代表例ですよね)。そうした問題に加え、国会の機能強化も併せて考え、具体的なプランとしているところですので、もうしばらくお時間をいただければと思います。
(具体的な提言の趣旨等はこちらをご覧ください。)

新しく立ち上げたのがCSRプロジェクトです。
基本的な問題意識は、先日、東京証券取引所で講演させていただいたレポートにも書きましたが、publicの実現です。

社会をよりよいものにしていくには、政府による政策の実行はもとより、市民自身によるアクションも必要ですが、企業の行動も大切です。政府の役割が相対的に小さくなっている現代では、より重要になっているかもしれません。

しばしば、"public”とか"公"というと政府のやることだと考える人もいるかもしれませんが、それは大きな誤解です(まあ、冷静に自分のまわりで起きていることを考えれば、すぐにわかることですよね)。
講演でも申し上げたことですが、現在、日本経済をめぐっては、アベノミクスという言葉を通じて、政府の役割の再認識が行われています。しかし、これは、民主党政権期と比較しただけの話であって、社会の課題に対して相対的に政府の守備範囲が小さくなっているトレンドは世界共通であり、我が国に限った話ではありません。

そもそも「社会の課題」は何なのか、そのために企業や市民は何ができるのか、何をすればよいのか、そんなことを問題提起していきたいと思っています。
例えば、「子どもの貧困」の事実はほとんどの人が断片は知りながら、見たくない現実であるが故に見逃されている「社会の課題」です。
こうしたことは冒頭の週末学校同様、じっくりと時間をかけてやっていきたいと思っていますが、折に触れていろいろ「問いかけ」をしていきたいと思っています。

改めて考えてみれば、いまやっていることをすべてここに書けるはずもなく、ホントに頭出しのようなことになってしまいました。

そんな中、この記事のお話として、先日の議論から考えたことを少し書いておきたいと思います。

CSRの関連で、ある方(誰でもご存じの方ですが、どなたかはナイショです)とお会いし、いろいろお話をさせていただきました。その議論からヒントになった話であり、皆さんに共有しておきたいことです。

上にも書きましたが、日本で"公"というと古くは「お上」のことでした。
朝廷や幕府を公儀と呼んだりもしましたよね。
ところが"public"は、いわゆる政府のことではありません。

丸山真男はタテの"公"、ヨコの"public"と呼び、これは福沢諭吉が最初に唱えたのだと言います。
僕もそのとおりだと思います。
社会が対話を重ねることにより、議論を活発にすることにより、社会全体によってよりよいことを見出し、そのための方法をみんなで実践するのヨコです。

福沢諭吉は「学問のすすめ」でこう書いています(第五編)。

国の文明は上政府より起るべからず、下小民より生ずべからず、必ずその中間より興りて衆庶の向かうところを示し、政府と並立ちて始めて成功を期すべきなり。

古の政府は力を用い、今の政府は力と智とを用ゆ。古の政府は民を御するの術に乏しく、今の政府はこれに富めり。古の政府は民の力を挫き、今の政府はその心を奪う。古の政府は民の外を犯し、今の政府はその内を制す。(中略)この勢いに乗じて事の轍を改むることなくば、政府にて一事を起せば文明の形は次第に具わるに似たれども、人民には正しく一段と気力を失い文明の精神は次第に衰うるのみ。


福沢が言う独立自尊とはそういうことなのだと思います。
独立した人民による議論やそこから作られる世論や意識こそが文明の根幹であり、政府が自らの役割を間違えると、むしろ、その根幹を弱めてしまうことを懸念しています。

この言葉は明治の言葉です。
しかし、いまこの時代こそ、よりその意味は重いように感じるのです。
政治に携わる人はその懸念があることを肝に銘じておかねばなりませんし、何より、私たち自身が"public"を担う気概と力を持たねばなりません。

日々伝えられるニュースは「文明の精神」を衰えさせるには十分なものばかりのように感じます。
政治家の力量を嘆いたり憂うのは簡単なことです。しかし嘆いても憂うばかりでは何もよくはなりません。
自分自身で担うべきことをいかに探し、具体的な実践につなげることができるか、そここそが大切なのだと思っています。

これは皆さんへの問いかけであると同時に僕自身への問いかけでもあります。

governmentではないpublicをもっと大きくしていくこと。

道のりは容易なものではありませんが、地道に愚直にがんばっていきたいと思います。







Posted by 亀井善太郎 at 23:00 | この記事のURL