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オリンピック北京大会に思う [2008年08月28日(Thu)]
国際協力・国際支援のありかたを模索する


【序】

「見方を変える」−言うは易く行うは難し。


▼2年前のこと、姉妹校交流の打ち合せでオーストラリアに行った折、土産物を売る店で「マッカサーの世界地図」(世界地図が南北逆さまに描かれており北半球と南半球が入れ替わっている)を見た。
 そして最近、高校で世界史を教えている友人から「この本はとてもおもしろいよ、授業で教材にしているんだけど…」と1冊の本を薦められた。本の表紙には、『ああ知らなんだ、こんな世界史』と書かれていた。

▼私達がふだん見ているこの世界をまったく異なる視点で見たらどうなるだろうか。例えば、ふだん内側から見ている日本を外側から眺めてみたり、外側から見ている中国を内側から眺めてみたり、また日本にせよ中国にせよ中央から辺境を見る視点を辺境から中央へと変えて見るのだ。
 天動説と地動説を置換したような大転換が、ひょっとして私達の個々の知性にも起こるやもしれないな。そんなことを考えながら、徒然に文章を綴ってみることにした。もちろん、国際協力・国際支援の正しいありようを模索し、その意義を私なりに追求してみたいとの狙いがある。でないと、私がこのブログに記事を載せる理由がなくなる。

▼読者のみなさんには肩の力を抜いてHang loose! 気楽に読んでいただきながら、でもそれなりに内容の適度に濃いものを…とは思いつつも、なにせ生来の怠け者ゆえ、日頃の不勉強がたたって、一知半解な認識不足を露呈するのでは、と幾分気がかりでもある。
 もし、「え、それはいかがなものか?」とお気づきのことがあれば忌憚なく質していただき、誤解・曲解は正しく直していただければありがたい。



【1】

「19・43・63」この数字が意味するものは…

− オリンピック北京大会に思う −


▼最近のもっともホットな話題と言えば、なんといってもまずは中国だろう。BRICsと総称される経済成長著しい「新興国」の1つ、2007年の購買力平価ベースのGDPはアメリカに次ぐ第2位という。
 8月8日、北京オリンピックが始まってからは、世界中のメディアが連日「北京の17日」(映画『北京の55日』を捩った)をテレビの画面や新聞の紙面に大きくとりあげた。
 8月27日付けのニューズ・ウィーク誌日本語版が「五輪後の中国」と題して特集を組んだことからしても、オリンピックを盛大にとりおこなった「経済大国」中国が世界経済に今後どれほど大きな影響力をもち、世界中が中国経済の動向にどれほど注視しどれほど高い関心を抱いているかが分かる。

▼世界の最高峰チョモランマにまでわざわざ聖火を運び上げた聖火リレーや、いくら北京オリンピックを成功裏に完遂することが至上命令とはいえ、反政府行動を封殺するために中国全土に敷かれた過度ともとれる厳重な警備体制、それになんといってもあの開会式・閉会式の華美にしてダイナミックなパフォーマンス −私の個人的な感想を言えば、演出がウンザリするほどくどく、エキシビジョン全体が盛りだくさんすぎて、「せっかくの豪勢な料理をあれもこれもすべて1つの皿にてんこ盛りにしたよう」に感じられた− からは、中国政府がこのオリンピックにどれほど「国家的な威信」(21世紀には「時代錯誤」の響きがある)をかけて臨み、そして中国国民の多くがこのオリンピックの成功によって「中国国民としての誇り」をどれほど確信しようとしたか、が実にはっきり見て取れた。

▼オリンピックの各種競技で中国選手が獲得した金メダルの総数は51と、スポーツ大国アメリカ −金銀銅のメダルの獲得総数では110と中国の100を上回ったものの、金メダルの獲得数は36− を大きく引き離してのダントツ第1位だ。この「偉業」とも言うべき成果は正直言って大きな驚きだ(世界の人口の5分の1近くが中国人であることを考えれば、さして驚くには値しないのか?)が、まさに「中国の国家的威信ここに極まれり」といった感がある。
 「オリンピック=国別対抗運動会」に凝縮された国威発揚と国民の愛国心昂揚という中国政府の意図はここに見事に達成された、と言えるだろう。

▼ところで、この事実を世界は、そして私達日本人はどう受け止めているのだろうか。日本人のなかには「え、あの中国が…」と羨望や嫉妬を、あるいは悔しさすら感じる人もけっして少なくないと思うのだ。が、もしそうした感情の裏側に中国や中国国民に対する差別的な意識 −かつて日本が朝鮮半島や中国大陸を侵略し植民地化を企図した時代の被侵略者を侮蔑する優越感− がいまだに残っているとすれば、実に残念なことだ。それこそ甚だしい時代錯誤だと思う。

▼振り返ってみれば、東京でオリンピックが開催されたのは1964年(敗戦後19年目、私が高校1年生15歳のとき)だ。その24年後(戦後43年目)には韓国の京城でオリンピックが開催された。それぞれのオリンピック開催が1964年当時の日本人にとってどんな意味をもち、1988年当時の韓国人にとってはどんな意味をもったかを考えてみると、それからさらに20年後(戦後63年目)に開かれた今回の北京オリンピックが中国国民にとってどんな意味をもつものか、それは察するにそう難くはない。
 これら3つのオリンピックの大会を、それぞれの時代にそれぞれの開催国(名目は都市だが…)がどう意味づけ、それぞれの国民がそれをどう受け止めたか、時代や国民の違いこそあれ、そこには「飛躍的な経済成長」、「国家的な威信」、「国民としての誇り」といった共通項があることに誰しもが気づくはずだ。ひとり今回の北京オリンピックだけをとりあげて、国威発揚を企図し国家的威信を世界に見せつけるための政治的なショーだった、と一方的に貶すのはいささか不公平な論評だと思う。

▼むしろ、着目すべきは戦後63年という時間の長さだ。敗戦国の日本が戦後19年目にして東京にオリンピックを招致した −このことは日本が第2次大戦の壊滅的な経済的ダメージから驚異的な復興を成し遂げたことを全世界にアピールした− のに対し、戦勝国にして国連常任理事国(国連=ユナイテッド・ネイションズは「連合国」の意)である中国は北京にオリンピックを招致するのに、実に戦後63年かかったという事実だ。
 戦後19年目の東京オリンピックと戦後43年目の京城オリンピック、それに戦後63年目の北京オリンピックを1本の時間軸の上に並べ、それらのタイムラグ(時間差)が意味するもの、特に第2次世界大戦終結から北京オリンピック開催までの63年という時間の長さが意味するものは何なのかを考えるとき、近・現代において日韓中の3つの国が歩んで来た歴史的過程の違いが見えてくる。
 そして、阿片戦争から第2次大戦終結までの約100年の間、中国が置かれた「甚だしく理不尽」とも言える過去の困難で屈辱的な境遇と今日中国が成し遂げつつある飛躍的な経済発展の誇らしい現状、この2つを重ね合わせてみると、北京オリンピックに熱狂する中国政府と中国国民の意気込みの「過大さ」も十分に納得できるのだ。
(つづく)


≪註≫

映画『北京の55日』:

 私が中学生から高校生だった頃、『モーゼの十戒』、『キング・オブ・キングズ』、『ベンハー』などハリウッド映画では歴史スペクタクルが大いに流行った。『北京の55日』もその1つ、1900年の義和団事変(北清事変、庚子事変とも言う)を題材に、北京城に籠城し一致団結して義和団の攻撃に抗い、耐え凌いだ外国人居住者達の55日を描く。
 英仏露米独伊墺日の8カ国は「自国民の生命・財産を保護する」(他国を侵略するときの常套句、最近ではロシアのグルジア侵攻がよい例)との名目で、軍隊を派遣し義和団を鎮圧したが、義和団の乱を利用して外国勢力の国外退去を画策した清朝のもくろみはもろくも失敗し、利権拡大を求める欧米列強及び日本によってこれ以降清朝の主権はさらに大きく侵害され、中国大陸における清朝の中央集権的な権威は失墜することになる。
 北京オリンピックでは、メイン会場の「鳥の巣」スタジアムに世界204の国・地域の旗が翻ったが、108年前の1900年には英仏露米独伊墺日8カ国の旗が北京城にへんぽんと翻り清朝を威圧した。
 この義和団事変から数えて、オリンピック北京大会は108年目、ちなみに阿片戦争(1840〜42年)から数えると168年目のビッグイベントだ。

梅本 霊邦(JYFA)
はじめまして! [2008年08月21日(Thu)]
ニイハオ!
八月から協会のアルバイト職員として働くことになりました。
梅本です。笑いどうぞよろしく!

教員をしていた頃は、生徒たちのあいだではレイホーと呼ばれていました。知らない人は、それを聞いて、私をてっきり中国人と思ったようです。まあ、モンゴロイドですから、さして違いはありませんが…。UFOとまちがえる人も、少なからずいましたね、いや本当に。

昨年の三月まで神奈川県の県立高校で教頭をしていました。「口は災いのもと、私は梅もと…文句ある?」そんな調子で教頭の仕事をこなし、できの悪いつっぱり生徒には「狂った頭」の狂頭だ、と自己紹介していましたが、思うところあって定年二年前倒しで退職し(「団塊」の世代です)、残りの人生を「世のため人のため、そして何よりも自分のため…」と考え、昨年五月からアフガニスタンは東部ジャララバード(パシュトン人の実効支配するトライバルエリアの拠点都市)近郊で、灌漑用水路の建設事業にボランティアの現場監督として参加していました。
摂氏五〇度を超す文字通り灼熱の炎天下での土木作業に体調を崩し六ヶ月後には帰国しました。あと四、五年はまだもちそうだ…と、今回当協会の仕事をお手伝いさせていただくことにしました。

かつてネパールの山間部を歩きまわっていたとき、ヒマラヤの山間で暮らす貧しい人たち(特にヒマラヤ高地に住むシェルパ族)のためにエベレスト(チョモランマ)の初登頂者エドモンド・ヒラリーと彼の財団が村の子どもたちの識字教育を目的に建てた小さな学校が、あっちの村に、こっちの村に、とありました。「ヒラリー・スクール」と呼ばれ、村人たちはこの学校をとても大事に、そして誇りにしていました。シェルパ族のなかには母語シェルパ語は話せても、国語であるネパール語を話せない人がまだ大勢いる時代でした。

雲南といえば梅里雪山(メイリーシュエシャン)、山登りの好きな私には憧れの山のひとつです。また、日本の稲作文化のルーツはこの地域にまで溯れるとか、その辺の知的な興味もありますが、多くの少数民族が暮らす雲南の辺境地域に識字教育を普及させようと小学校の建設を支援している協会の取り組みには、あの「ヒラリー・スクール」の理念に共通するものがあり、私にとって残りの人生を投資しても悔いのない仕事かも…そう捉えています。

「好きこそものの上手」、You can do well what you enjoy. 私の好きな諺ですキラキラ

五九歳、と言っても、その辺の三〇代四〇代には負けないよ力こぶ、と意気軒高です。なんだったら、私と一緒に梅里雪山(メイリーシュエシャン)に登ってみる?山もちろん必要経費は全額、そっちもちですよ。(笑)

(JYFA梅本)
夏季休暇のお知らせ [2008年08月11日(Mon)]
≪夏季休暇のお知らせ≫


日本・雲南聯誼協会事務局(東京本部)は、

8月13日(水)、14日(木)、15日(金)

を夏季休暇のため、お休みさせていただきます。

8月16日(土)、17日(日)は通常の非営業日ですので、
業務再開は8月18日(月)からとなります。
よろしくお願いいたします。すいか
昆明女子中学校訪問記 [2008年08月08日(Fri)]
▼昆明女子中学校訪問記 (「25の小さな夢基金」奨学生を訪ねて)▼

 当協会の会員、小野保さんが昆明女子中学校を訪問し、「25の小さな夢基金」の奨学生Cさんに面会したときのことを綴った日記を掲載いたします。



2008年8月1日

 雲南省2回目の旅は、最終訪問地の昆明で最終日を迎えました。大理、麗江、濾沽湖といった静かな地方ばかりを見てきた後だけに、昆明の車の渋滞は、大都会に戻ってきたなと改めて感激致しました。

 今回の雲南の旅の最終目的は、昆明女子中学校を訪問することでした。夏休みの最中でしたので、学校訪問が出来るかどうか直前まで心配しておりましたが、雲南支部スタッフの皆様のご協力により、学校訪問を実現することが出来、大変感謝しております。

 まず、日本雲南聯誼協会の雲南支部を訪問しました。
 ホテルから歩いて5分のところに立地する雲南支部は、1階にウォルマートショッピングセンターのある27階建てのビルの20階にありました。
 事務所に入ると、張さんと王さんが歓待してくれました。さすがに地上20階の部屋から見る昆明の街は眺めが良く、思わず外の街の写真を撮ってしまいました。

 十分な広さの事務所は、当日地方出張中で不在の林さんの他、張さんと昨年から勤務している王さんの3人で運営されています。書棚に飾ってある学校建設の記録や各種支援事業に対する感謝状や記念品を拝見しました。私も雲南支部のスタッフになったつもりで王さんのデスクを借りて記念撮影をしてしまいました。

 さて、それから雲南支部の張さん、王さんの案内で昆明女子中学校の訪問です。
 車で10分程度の街の中心地にある昆明女子中学校は創立100年を迎える由緒ある学校とお聞きしました。


昆明女子中学校校舎全景

 
 学校となるとどうも私はいつも緊張してしまいます。まるで、自分の娘の三者者面談に来たような気分で緊張しながら、夏休み中でひっそりした校舎の方に向かうと、林副校長先生と我が娘Cさんが出迎えてくれました。

 さっそく林副校長先生の部屋に案内され、ご挨拶とCさんの近況報告をお聞きしました。
 先生の指示で、自己紹介を始めたCさんは、16年ぶりに再会した我が娘のような気がしてきて、思わず目がウルウル状態になってしまいました。明るく挨拶するCさんは、想像したとおりとても素直でしっかりした娘でした。


Cさんとの記念写真


 私の昆明までの足跡とともに、本校を訪問しての感想を挨拶としてお話しをさせて頂きました。日本の3人の子供に加え、今日は4人目の子供に会えたような大変嬉しい気持ちであることを伝えました。一番上の息子が23歳というと、私の年が皆わからなくなったようで、長男は17歳の時に生まれた??と本気で思ったようですが、Cさんのお父さんと同じ年であることを話すとみんなに驚かれました。
(自慢になってスイマセン!)

 林副校長先生は、見るからに先生!!といった感じで、少数民族の子供達を心から愛し、子供達の成長を願いながら、教育と人間形成に全力を注がれている意気込みが言葉の端々から感じることが出来、「教育者の鏡」のような方であると真剣に思いました。

 学校内もご案内頂き、春蕾クラスの生活ルームまで拝見してしまいました。
 夏休み中ながら補講の授業を受けている春蕾クラスの小姐達がたくさんいて、いきなりこんなおじさんが来たものだから、みんなキャーキャー言っておりました。

 昆明女子中学校は創立100年を迎える由緒ある学校で、その卒業生達が社会の中心となって活躍する姿を外壁に大きく描いてありました。入口の掲示板には、ケ小平の奥様が訪問した際に記した色紙や著名人からの励ましの言葉が描かれ、昔懐かしい写真も展示されておりました。


「呉澄烈士」の像の前で (左から)小野、Cさん、林副校長、張さん、王さん


 その後、学校前のレストランで懇親会を行い、美味しいきのこ料理を頂きながら楽しい会話に花を咲かせました。 

 今回、雲南旅行の締めくくりとして昆明女子中学校を訪問できたことは、私にとって一生の思い出として残る記念すべき出来事でした。今回の訪問に対し、ご甚力頂きました昆明支部スタッフの皆様に改めて感謝申し上げます。

                                    雲南聯誼協会会員 小野 保
ふれあいの旅 旅行記M [2008年08月04日(Mon)]
▼其の十四 素晴らしい高山植物との出会いで昆明に戻る▼

2008.6.2

 徳欽の2日目の朝食は間違いなく7時に提供された。荷物を取りまとめて8時出発。朝から低い雲が覆っている峠越えは雨であろう。山には霧がかかっている。昨日までは順調に天候に恵まれたことを「よし」としよう。
 徳欽の街を抜けると山に入る。霧がかかり雨も降ってきた。峠のお花畑を写真に撮ることができないと諦める。やはり高山の花は見たその時撮るのが原則である。海抜が高くなってきたら雪となってしまった。少し積もっている場所もある。

 峠で取りあえず停車する。看板には白馬雪山峠4292メートルと書かれている。風が冷たい。あの紫色のお花畑が白くて分からない。早々にバスの中に入る。
 Uさんが撮りたいと言うお花畑に停まってもらう。霧で何も見えない。木々には霧氷が、かなり気温が下がっている。花たちも雪に覆われている。Uさんの目指した花はあったようだ。
 バスの中から「おーい、行くよ、Uさん」。皆寒い寒いと言っている。これで高山の花ともお別れ。私にとって「うーん残念」の一言。

 香格里拉が近くなってきた。湿原が見えたので「写真をもう一度撮らせて」と車を停めてもらう。ナパハイが良く見渡せる。
 その時「ヒマラヤの青いケシがあるよ」とUさん。「あった、あった、青いケシだ。」急いで何回となくシャッターを押した。
 更に赤い花が咲いている。石壁を越えて撮ってきた。バスの中から「もう行くぞ」と何回となく呼ばれる。

ヒマラヤの青いケシ


 香格里拉には15時到着。先に泊ったホテルで落ち合うことで自由行動。
 私は5人で市場巡りをした。豊富な野菜と果物、肉類。かなり鮮度も良く揃っている。これなら日本人でもここで暮らすことは可能であろう。
 自治州政府前の掲示板には、四川大地震義援金協力者名簿が張り出されている。氏名・所属・金額が書かれていた。中国らしい義援金の集め方である。多い人で5000元、少ない人で10元であった。
 最初に到着した時の香格里拉では高山病の気配を感じていたが、二度目の今回は3400メートルでもすっかり慣れてきたようだ。ビールも美味しい。17時と早めの夕食を済ませて空港に向かう。

 19時30分着。空港では中国の方々とお別れである。「本当にお世話になりました。」
 空港内は電気も消えたまま。一日に朝と夜の2便だけ。やがて職員が出勤してきた。売店もオープンである。再度林さんから手荷物にはボトル、ナイフ、ライター等危険物を持たないように注意される。
 搭乗のチエックインが始まった。トランクを預けているとNさんが「このバケツも預けて」。係員は「中身見せて下さい」「預ることできません」。Nさん仕方なくゴミ箱の近くに置いて搭乗のため中に入った。しばらくして管内放送「待合室にバケツがあります。忘れた方は申し出て下さい」、Nさん「・・・」無視。定刻21時30分より10分早く離陸。香格里拉とお別れである。
 昆明には22時20分到着。昆明飯店で七田さん「お帰りなさい」「私、昆明ばかりに居たような気分だよ」。


2008.6.3

 本日は昆明市内観光である。9時と遅い出発。
 夜が明けると久しぶり昆明の街をジョギングした。市民は何事も無かったように何時もの朝を迎えている。これを見る限り平和な中国昆明である。
 午前中は西山公園である。雲南第一の草海を下に眺めて展望台まで上がる。くるりと回っていたらケーブルの入り口もあった。急いで皆の待っている場所に下りる。スモッグなのか展望が良くない。昆明も環境が悪化しているのだろうか。鼻の中が黒くなっているのはそのせいか。
 昼食は、唄と踊りのあるレストランであった。歌手一人と踊り子3人だったが、途中でバスに乗り込む。

 最後の視察は、官渡古鎮である。古い街並みを再現して観光地として売り出そうとしている。まだ僅かな開店であるが、全部完成したら観光客が増えるかもしれない。様々な観光開発が進められている。
 16時前にホテルに戻る。林さんが事務所に行くと言うので乗せてもらった。協会の昆明支部は新しい高層ビル内にあり広々している。仕事環境は良いのではないか。支部の皆さん頑張って下さい。

 最後の楽しみはオプションのヤンリーピン舞踏団舞台観劇である。音楽、舞踏、テンポ良く活発に動き回り、チームワークも素晴らしかった。280元の席であったが満足。明日の帰国は15名、SさんとNさんは2日遅れで帰国するので、最後のお別れの挨拶をした。「お疲れさま。」

最後の楽しみはヤンリーピン舞踏団舞台観劇



2008.6.4

 早朝の出発が四川大地震のためフライトが乱れており10時30分に変更された。それでも広州で十分間に合う時間である。荷物を整理して昆明飯店最後の朝食。お粥などを食べ果物を沢山いただき、コーヒーで締めくくり。

 空港まで林さんが見送りに来てくれた。15名何事もなく無事搭乗手続きが終わった。広州での搭乗手続きも問題なく終わり、出国検査。11日間過ぎて見ればあっと言う間。ほぼ予定通りの日程をこなし帰国の途についた。

 成田で15名無事到着。「皆さん、お世話になりました、ありがとうございました。」

                           (2008年6月9日羽村にて 安達 武史)