• もっと見る
« 2008年06月 | Main | 2008年08月»
『NPO法人 日本雲南聯誼協会』に、いいね!やシェアだけで支援金を届けられます。〜 NPO/NGOを誰でも簡単に無料で支援できる!gooddo(グッドゥ) 〜

<< 2008年07月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
最新記事
Comment
Category
月別アーカイブ
Link

『梅里雪山 17人の友を探して』が再放送されます! [2008年07月28日(Mon)]
暑中お見舞い申しあげます!
毎日暑いですね〜太陽通勤で駅まで歩くだけで熱中症になりそうです困った

 さて、協会でもおなじみ、雲南懇話会のメンバーで、写真家の小林尚礼さんから雲南省に関するテレビ番組テレビの情報をいただきました。お時間のある方はぜひご覧下さい!
小林さん、情報提供ありがとうございましたドキドキ小

     ひまわり    すいか    帽子    服
 今年3月に放送されたドキュメンタリー番組『梅里雪山 17人の友を探して』が、衛星放送で再放送されることになりました。
 全国で受信可能です。
 3月の放送は関東圏だけで、その後、山形・愛知・長野の各局で放送されましたが、他の地域での放映は実現しないままでした。
 この機会に、ぜひご覧ください。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ Information ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ドキュメンタリー番組『梅里雪山 17人の友を探して』が再放送されます
8月2日(土)15:00〜16:30 BS日テレ(BS4)  
(全国放送)
http://www.k2.dion.ne.jp/~bako/news-NTV2008.html
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

【内容】
 中国雲南省の梅里雪山(6740m)で起こった、史上最悪の山岳遭難。
 そこで亡くなった17人の友を、探し続ける男がいる。美しい雪山を背景にして、厳しい遺体捜索活動、遺族との旅、チベット族の村人との交流を見つめる。
 原作は、『梅里雪山 十七人の友を探して』(小林尚礼著、山と溪谷社刊)
 俳優・小栗旬が、ドキュメンタリー初ナレーション。
雲南の花嫁 試写会レポート [2008年07月22日(Tue)]
ハイビスカス雲南の花嫁 試写会に行ってきましたハイビスカス

 今月7月26日U土)から渋谷のK’s cinemaで「雲南の花嫁」が公開されます。
先日この映画の試写会にあやぽんが行って来ました。

 雲南省の少数民族、イ族は結婚しても3年間、別々に暮らす慣わしがあります。
主人公の鳳美(フォンメイ)は幼馴染の啊龍(アーロン)と結婚しますが、離れ離れになるのに耐え切れず、彼が指導する娘龍舞隊に無理やり入隊困った。それからいろいろな騒動が起るというストーリーです。
 展開がちょっと強引かな〜、と思うところもありますが、主演のチャン・チンチューのかわいらしさドキドキ小はそんなことも忘れさせてしまう魅力があります。ポストチャン・ツィイーの呼び声が高いとのことですが、将来有望な女優さんという感じがしました。
夫の啊龍(イン・シャオティエン)は鳳美に振り回されっぱなし。見ていて気の毒になりますが、誠実な人柄がにじみ出ていて好感がもてましたOK

 また、他にも雲南省の魅力がいっぱいで、雲南好きな人にはこたえられないかもしれません。主人公たちの遊ぶきれいな川泳ぐ、人々が農作業をする畑、イ族の美しい民族衣装や民謡を歌う歌手の素晴らしい声音符、娘龍舞隊の獅子舞・・・。雲南省のPRフィルムみたいな映画です。

 カップルで見にいくのもよし、雲南省や中国少数民族に興味のある人を誘っていくのも、いいかもしれませんよ〜!

 映画はこの後、全国主要都市でも公開されます走る
 詳しくはオフィシャルサイトをご覧下さい。

http://www.yunnan-bride.jp/

また、この映画のチラシを、今月末に会報最新号と一緒にお送りしますので、お楽しみに!

(東京本部 あやぽん)
ふれあいの旅 旅行記L [2008年07月18日(Fri)]

▲其の十三 メコン河上流を横断し梅里雪山の氷河▲

2008.6.1
 7時朝食、8時出発の予定が、手違いで7時半食事、8時半出発に変更になる。
 地方のホテルではバイキングではなく、宿泊者に応じて朝食が用意される。最初にお粥、雲南のミーシエン、麦の麺、白いパン(餡のない饅頭)と漬物である。これだけあれば十分笑顔

 8時半にホテルを出発して、一路メコン河の上流から氷河の展望台を目指す。まもなく飛来寺に到着する。チベット仏教の寺院である。更に走ると梅里雪山の展望台があったが、帰りに寄ることで通過する。山の頂上は厚い雲に覆われている。本日も見られない。メコン河の上流が見えてきた。一気に下る。途中一瞬であるが梅里雪山の頂上だけが見えた。
 「やったあ拍手 憧れの雲南一の梅里雪山だ!」
 6740メートルもある凄い山だ。雲南西北部のこの地域は地形がとても険しい。それでも道が造られ往来している。

 バスはメコン河上流の橋を渡り、明永氷河の展望台に向かう駐車場に到着する。ここから展望台までは馬馬と徒歩である。片道1時間以上かかるとのこと。全員が馬に乗ることにした。往復で120元。私は21番の馬に乗って10.時45分出発。どうも乗りなれないのかお尻が痛いダメ。前向きに乗るように時々注意される。
 途中水呑場で馬は給水。半分ほど行ったところで馬の休憩10分間。更に登りがきつくなる。馬にしがみつくように乗っているが、自分で歩きたくなったが我慢する。これなら自分歩いた方がずっと速くて楽だ。アヤメが沢山咲いている。氷河の見えるところで馬はおしまい。ここからあの展望台まで徒歩。ところどころにチベットの旗が下げられている。

明永氷河展望台

 12時20分頃に展望台に到着する。氷河がすっかり黒くなっている。7人だけが展望台まで上がってきた。この氷河も地球温暖化の影響で年々やせ細っているとのこと。花の写真を撮りながら馬の待っているところまで下る。そこで団長にお願いして「駐車場まで歩きます。馬のお金はガイドにお渡しします」と言って120元渡した。  
 「私は先に下ります」と言って駐車場まで歩き始めた。この時、雲南支部の林さんがいなかったので、団長は私が遅れたら皆に迷惑をかけると困ってしまったようである。Kさんも一人歩いて下っていた。馬と私が歩くのでは目的がはっきりしている私の方がはるかに速かった。
 駐車場で林さんが待っており「歩いてくると聞いていました。」
 13時45分到着。馬に乗った人たちが到着したのは14時10分頃であった。
 14時30分遅い昼食を駐車場レストランで食べる。氷河や雪解け水は黒ずんでいる。清流にならないのがここ中国の大地である。再び徳欽まで同じ道を戻る。梅里雪山を展望する場所で休憩する。残念ながら姿を現してくれない落ち込み

飛来寺の慰霊碑・後方梅里雪山

 シャクナゲが咲くこの地に「飛来寺の慰霊碑」がある。これは1991年1月4日日中友好第二次合同登山隊が頂上を目の前にして雪崩で遭難したのであった。17名が尊い命を落としてしまった悲しい。その慰霊碑には「梅里雪山峰の初登に 挑んだ勇士ここに眠る」「大地あり 美しき峰ありて 気高き人がいて」と中国語と日本語で書かれている。そして17名の名前が刻まれている。1991年5月1日に建立された。しかし私が撮った写真には、日本語と日本人の名前はかき消されている。これは悲しい出来事である。

 複雑な思いで徳欽のホテルまで戻った。17時10分着。ホテル内で夕食を済ませて街に散歩。香格里拉の古城の広場での踊っていた曲が聞こえてくる。その場に行ってみるとやはり徳欽でも地元の人たちは楽しんでいたのである。老若男女の交流の場である。日本人には欠けてしまった情景である。

注:タイトル写真は白水台で撮影したものです。
(つづく)
ふれあいの旅 旅行記K [2008年07月14日(Mon)]


▲其の十二 金沙江から4300mの峠越え▲

 8時40分過ぎ、金沙江沿いの道路までワゴン車自動車で下る。
 右下の崖を見ると「崩れないでくれ〜びっくり雨降りだったら恐ろしい困った

 しがみついて20分かかって降りてきた。
 マイクロバスに乗り換える間、一軒の農家で子ども姉弟が麦の脱穀をしていた犬。まだ就学前の子どもが弟の面倒を見ながら、乾かした麦の穂を棒で叩いて脱粒の仕事をしていたのである。生まれながらにして生活の知恵を身もって実践している。これだと「日本のようないじめ」など起きる筈がないと思った。チベット族の逞しさはこのようなことから生まれ育つのであろう。

良く働く姉弟 笑顔がさわやか


 9時10分再びガタガタ道を金沙江沿いに下る。来た時よりマイクロバスの後ろの揺れは大きい。上野さん曰く「前輪が上がったらお尻を上げて」「乗馬と同じよ」。
 2時間以上揺られながらやっと舗装道路に着いた。昨日40分待たされた四川省公安は、帰りは何もなく通過する。徳欽への214号に入った。これからは国道だから大丈夫だろう。
 214号はチベットラサからシーサンバンナまで続いており「茶馬古道馬」と呼ばれている。この険しい山岳地帯を良く造り上げたものである。万里の長城を造ったのだから当然かも。
 
 12時30分に奔子欄(ペンジラン)に到着。香格里拉と徳欽のほぼ中間点にある昔からの宿場町である。香格里拉から長江上流の金沙江を渡り、奔子欄から横断山脈を越え徳欽から更に下がるとメコン川の上流となる。埃と揺れにすっかり疲れているまま、昼食である。顔もろくに洗えず、昨日から着の身着のまま状態だ落ち込み。とにかく乾杯のビール。少し冷えているだけで格段に美味しく感じる。
 食べ終わると直ちに出発13時10分。峠越えが待っている。少し走ると先ほど下ってきた金沙江の屈曲が見られる展望台があった。看板には「雲南白馬雪山国家級自然保護区」「金沙江渓谷河曲」と書かれている。U状に曲がった渓谷だ。あそこを下ったのか〓。すごい渓谷である。

金沙江渓谷河曲


 14時10分東竹林寺に到着。海抜2700メートルの山肌にへばりつくように建てられている。ダライ・ラマ5世(現在インドに亡命しているダライ・ラマは14世)が創建。住職が内部を案内してくれた。内部には多くの仏像が祀られている。
 再び214号を走る。舗装道路が石畳道路になる。砂埃はないがガタガタと揺れる。16時前頃から梅里雪山から南に続く山脈が見えてきた。雪に覆われているから5000メートル級の山並みであろう。国道そのものが4000メートル近いのだから、雪山が真横に見える状況だ。

荘厳な白茫雪山

 シャクナゲ、ツツジが今満開である。かなり高くなってきた。ランの野生種も見られる。峠付近は一面のお花畑である。黄色、紫色で埋まっている。本日は時間がないのでそのまま通過。帰りに写真を撮ろう。お花畑にすっかり見とれてしまう。梅里雪山は雲に覆われ残念。帰りに期待しよう。
 
 下り始めた時に突然左後輪に何かを引っ掛けたようで「バタン!ドタン!」と車輪の回転に合わせて音がうるさい困った。「パンクしたのでは注意」運転手が車を停めてチエックしている。
 「パンクではない 何か引っかかっている」
 石畳舗装で突然音がなくなった。外れたようだ。良かったよかった笑顔拍手
 徳欽の町に17時40分着。運転手は早速修理工場に行きタイヤをチエックしたようである。 
 徳欽彩虹大酒店にチエックイン。待ちに待っていたシャワーである温泉。お湯が出たのに「やったあびっくり」。二日分の汗を流し、洗濯物をクリーニングに出してサッパリする。疲れが一気に吹き飛んだような気分。
 
 19時からの夕食中国側が招待してくれた。昨日からの疲れがあるので再三お断りしたが受け入れてくれなかった。チベット族の唄を披露する4人がいる。乾杯すると次々にまわってきて歌う。あの高い声はどこからでるのだろう。
 食事後は坂道の多い徳欽の街を散策する。やはりこの町も宿場町で栄えたのであろう。質さえ問わなければ手作りのものなど何でも揃うようだ。

(つづく)
ふれあいの旅 旅行記J [2008年07月08日(Tue)]

▲其の十一 さようなら茂頂小学校▲

2008.5.31
6時過ぎにようやく明るくなってきた太陽。山間であるのかかなり遅い。トイレに行こうと思って起きたが、校舎前の出入口ドアに鍵が掛けられたままである困った。生徒たちもちらほら起き出してきた。しばらくしてやっと鍵が開けられた。

 我々の朝食は8時であるが、生徒たちの食事は7時頃のようだ。チョロチョロ出る水道からボールに水を入れて顔を洗っている。朝食のお粥など自分の碗に入れ食べている。食事が終わると校庭でバスケットに興じている。

 朝食までの間私は、村人の暮らしを見るため散策をした。山肌山にへばりついている住宅と農地、山の上から水を引いて分水させて棚田とするようだ。今麦刈りの最盛期、朝から麦刈りをして自宅まで運んでいる。昨日の交流のため、どの村人も私の顔を見ると笑顔で挨拶してくれる。

集落は山にへばりついている

 家を見せてと話すと「どうぞ」と手招きしてくれた。馬、牛、豚、鶏ニワトリが飼われている。薪が山のように積まれている。炊事などに薪が大切なのだ。部屋の中までは遠慮して見なかった。各家が土塀でしっかり囲んでいる。
 周りの畑は段々畑となっている。麦にも黒い穂のものがあった。畑の下を眺めると断崖絶壁困ったで昨日上がってきた道がかなり下に見える。険しい地形の中で農民は自給自足している。ここでの現金収入は、鉱山か道路工事の重労働か、あるいは出稼ぎしかない。


 8時に先生方が作ってくれた朝食(地元のパン食パンとスープ)を済ませると、校長先生がお別れ会の準備を生徒と一緒にやっていた。最初に私たちのトランクを車に運んでくれる。20キロもあるトランクを小学生が背負っているではないか。チベット族の子どもたちは鍛えられていることが分かる。


 8時半に生徒全員が校庭に集められる。先生が笛を吹くと急いで集まってきた。峰尾団長に記念の旗が校長先生から贈呈される。団長はその喜びを生徒たちに向けて挨拶した。徳欽の関係者にも贈られていた。
 最後の別れのため生徒は学校から車のところまで両側に並ぶ。私たちはその間を、手を振ったり、握手したり、タッチをしたりして別れを告げた。生徒の中には感極まって悲しそうな顔の女の子もいた悲しい

「茂頂小学校の皆さん本当にお世話になりました。元気で勉強して下さい。さようなら 再見びっくり

(つづく)
ふれあいの旅 旅行記I [2008年07月07日(Mon)]

▲其の十 宴はつづく▲

開校式式次第は以下の通りである。
1、 日本側出席者の紹介(16.10-)
2、 開校式参加現地側関係者の紹介
3、 徳欽県関係者の挨拶
4、 茂頂小学校校長による学校紹介
5、 日本側支援者挨拶 峰尾勝美団長 佐藤福久会員
6、 生徒代表御礼の挨拶
7、 小学生によるチベット族の舞い(16.35-17.30)
8、 日本側から小学生全員に寄付品贈呈(17.35-)        
9、 日本側から先生、学校側に寄付品贈呈(-17.45)

              
校庭に集まった生徒と村人たち


 関係者の挨拶に続いて、小学生代表の挨拶は「私たちに日本から支援していただき感謝しています。これからより一層勉強します笑顔」と心強い言葉が聞かれた。このような言葉を聞いて協会の支援が如何に大切なものか肌で感じ取ることが出来た。

 生徒代表の挨拶が終わると、5年生がチベットの舞いを始めた音符。長い白い布を日本側のテーブルに差し出したのである。歓迎の舞いの始まりである。1年生から6年生まで次々と披露してくれる。時々先生から「練習を1箇月かけて行いましたが、まだ間違ったりしている生徒もおりますが、ご勘弁下さい」と放送される。子どもたちは真剣に舞っており感激そのものである。舞いの中には香格里拉の古城で夕方地元民が踊っていた曲もあるように見受けた。
 

 18時過ぎに式典が終了し、夕食の準備を先生方が始めたごはん。その間我々は再度校舎やトイレの見学をした。更に折り紙などの交流を始めている会員もいる。生徒が大勢集まって鶴の折り方など教わっている。夕食は先生の手作りで極簡単なもの。コップがないのでビールジョッキを瓶のまま乾杯して食べる。夕陽が稔った麦を照らしている。幻想的な光景に見とれていた。

 食事が終わる頃生徒たちとの交流は佳境に入ってきた。紙風船、紙飛行機、風船、ボール遊びサッカーなど日本人を生徒が囲んでいる。すっかり陽が落ちて暗くなっている。この日ばかりは生徒は交流をすっかり楽しんでいる。ジャンケンポンをやろうと私の周りにも集まってきた。日本式と中国式のジャンケンポンでわきあい合いとなる。

 夜9時過ぎにS根さんの白玉団子が出された。生徒たちは最初恐る恐る手を出していたが、日本人が「このように食べるのだよ」と見せると真似をして食べ始めた。村人も珍しそうに手を出してきた。
 21時半頃から再び先生と小学生の踊りが始まった。日本人も入ってと誘われる。正に日中交流の原点がここにあるようだ。22時過ぎから地元民も一緒に踊り始めた。村中がお祭りとなったような錯覚である。23時となりようやく宴と踊りは終了。通学者はトラックに乗り込み帰って行った。空を見上げると満天の星星、手の届くところにある。北斗七星がこんなに輝いているのは日本では見られない。

 日本側は全員が校舎内教室で、男性と女性が別れて眠りについた。校舎の入口のドアは鍵がかけられ出入りできない。

宿舎代わりになった校舎

(つづく月
ふれあいの旅 旅行記H [2008年07月03日(Thu)]

▲其の九 支援第17校目茂頂小学校開校式・交流会▲

 揺られ続けたマイクロバスは、村の入り口で止まった。そこには農家が一軒あるのみ。ここから目指す学校までは小型車でないと通れない。
 やがて迎えの四輪駆動車が降りてきた。
 分散して乗り込む。

 道はさらに険しくなり左下は崖、大丈夫だろうか…。
 
そんな時運転手の携帯電話が鳴り話だす。

 「おお 片手運転で崖に落ちないで困った

 「早く携帯を切ってくれ困った困った

 いくら慣れた道でもヒヤヒヤものである。住宅が見えてきた。「ここだな」と思ったら更に上へ上へと進む。

 「こんな上に学校や集落があるのかな」

 30分冷や汗を流しやがて到着した。
 まさに崖の上の集落である。
 しかしそれより更に高いところに住宅が点在しているではないか。チベット族の生活の凄さに恐れ入る。

 車から降りると地元小学校の校長先生はじめ各先生方が民族衣装で迎えてくれた。白い布をかけお酒でウエルカム音符。 

小学生が両側に並んで歓迎の歌や挨拶をしている。
 やっと学校に着いた。歩いて数分で小学校の校庭があり、両側に校舎、向かいにトイレがある。校庭は舗装されバスケットの練習ができるようになっている。開校式の準備のため机と椅子が並べられている。
 その机には日本・雲南聯誼協会と支援者の方のお名前が書かれている。
 最初に校長先生の案内で支援した校舎と机を見せてくれた。

 新しい校舎キラキラはほぼ出来上がっており、周りの付帯工事が行われている。校舎は1階建ての2教室。入口には日中友好「望峰楼山」竣工2008年5月30日と書かれている。望峰楼の名前は、支援者である峰尾団長が命名したとのこと。教室に入るとSさんが支援した机が並べられている。ここで小学生たちが勉学に励むことであろう。また正面には2階建の教室が建設されており、他の資金で建てられたとのことである。
 
 このような各資金の提供により、分校のようであった小学校は「茂頂完小」となり、安定した学校に生まれ変わったのである。
 右側にある宿舎は、1階男子生徒、2階女子生徒に区分され、2段ベットが並んでいる。見た限りでは衛生環境が良いとは言えない。
 通学不可能な生徒が寄宿舎に入っている。校庭の隣には以前からの2階建ての教室があり、新校舎が使えるようになるまでここで授業が行われている。その教室の2部屋で我々は宿泊したのである。

 視察している間に生徒たちは開校式のため校庭の段差のある階段に並んでいる。村人も大勢その後ろで座っている。中国側関係者席と日本側関係者席に分かれて座る。


16時10分校長先生の司会で開校式が始まった拍手

(つづく)
昆明市の洪水 [2008年07月02日(Wed)]

 
 2007年7月1日夜から7月2日まで、昆明では歴史上でも数少ない大雨に遭われました。都市インフラが整備されていないせいもあって、昆明市内の道路ネットワークが水びたしの被害に遭いました。特に市政府のある東風東路は、昔から昆明の東と西を繋ぐ主用道路で、今回の雨で70〜90センチメートルの水浸しになり、乗用車はもちろん、バスも通れなくなりました。

すっかり水浸しの昆明市政府の門

 朝通勤時間に当たったため、バス停とタクシー乗り場は人で溢れかえっていました。洪水被害によるバスの遅れもひどく、一時間以上待つ人も少なくありません。
 また今日は、中学考试(全国高校センター試験)の初日なので、遅れる受験生のために教育部門は、受験生に日程通りに受験できるよう緊急対策を取りました。また、今日一日交通秩序を保障できるように市政府上部でも緊急会議を開き、公安部門に全員出動で各交差点で交通整理をする指示を出しました。

水を掻き分けて進む車
 
 私は、大雨の中でバスを待っている時、寒さと、遅刻するという焦りもあり、昆明市のインフラに対してとても不満を感じました。四季の美しいこの町にいつかインフラが整備されたら、きっと一番住みやすい町になるでしょう。その時昆明人として、私はきっとこの町に誇りを感じるでしょう。

(雲南支部 waterlily)
ふれあいの旅 旅行記G [2008年07月01日(Tue)]

▲其の八 いよいよ開校式へ▲

2008.5.30
 本日は今回の旅の本番、支援第17校目茂頂小学校の開校式・交流の日である。8時の出発前に全員に報告事項があった。Iさん夫妻、S出さん、そして七田さんが明日の飛行機で昆明に戻るとのこと。体調一番大切なこと、無理は出来ない悲しい
 他のメンバーは予定通り8時ホテルを出発して214号を北に走る。香格里拉郊外で湿原を眺め、尼西で陶芸を見学する。海抜はかなり木のない谷底の金沙江と道路高くなってきたようだ。シャクナゲは開花最盛期。いくつかの高山植物の花花が見える。

高山植物の一種

 峠を越えると一気に金沙江まで下がる。徳欽方面との分岐点の橋にきた。香格里拉から約70キロメートル。ここまで下ると景色が一転してサボテンやブーゲンビリアが咲いているではないか。亜熱帯に近い気候のようだ。我々の車は羊拉に向かうためそのまま直進する。この橋から金沙江上流の右側が四川省、左側が雲南省である。

木のない谷底の金沙江と道路

 四川省に入る関門で公安から待ったがかかった。チベットの騒乱で外国人がチベット族との交流は許可が必要とのこと。待たされている間に雲南省の公安と四川省の公安が電話で確認がとっていたようだ。約40分待たされやっと通行許可がでた。この時女性たちは公安のトイレを借用した。帰ってくるなり「あのトイレは何よびっくり怒り 外の方が良かった。」 息も出来なく足の踏み場もなかったようだ。

 1時間ほど走ってある集落に到着し、ここで昼食することになった。17名分の食事をこれから作るとのこと。ご飯を炊き、野菜を洗って、調理して、炒め物を始めた。30分は待たされるなと思って近くを散策していると小学校があった。昼休みで生徒は洗濯や髪を洗っている。この小学校は6年生までで宿舎も整備されていた。学校も新築されたばかりである。レストランに戻ると出された料理は四川料理ラーメンである。懐かしい味で本当に美味しかった。雲南料理とは違う味付けと辛さである。

 15時開校式の予定がかなり遅れそう。舗装されていない道は砂埃と揺れで座っていられない。やがて金沙江左岸を走る。だんだん谷が深くなってくる。この道を定期バスが走っている。また羊拉鉱山に向かうトラック。金沙江は谷底を流れており両側は木も生えていない絶壁である。このような地域でも崖の上の方に住宅家が見える。住宅のある場所は少しなだらかで、耕されている畑、住宅の周りの緑が見える。山から流れ出る水がある場所なのだろう。交通手段は徒歩だけか。歩いていると思われる形跡がある。

(つづく自動車