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第二回初鹿野恵蘭写真展終了! [2008年04月23日(Wed)]
第二回初鹿野恵蘭写真展終了!

皆様からの多くのご支援をいただき、写真展は盛況のうちに終了することができました。
本当にありがとうございました!拍手

突然ですが、わたくし、4月より協会でアルバイトさせていただくことになった杉本(通称あやぽん)と申しますラブ
仕事を始めていきなり大きなイベントで、まごまご。でも、スタッフやボランティアの皆さんに助けていただいて、楽しく働くことができました。非常感謝!

当日は初めて民族衣装(サニ族)を着せていただき、うきうき。皆さんからも「よく似合ってますよ〜!」と言われ、内心まんざらでもなかったのですが、なんと、来賓の中国領事館総領事にも「昆明から連れてきた人か?」と間違われ、喜んでいいやら悪いやら・・。私の祖先は雲南だったのかぁ、と再発見させられた気がします。



お昼ごはんを食べに恵比寿ガーデンプレイスに行くときも衣裳のまま。他のお客さんたちにはびっくりされたかもしれませんが、自分ではあまり服が見えないのでそれほど恥ずかしくありませんでした。そのうち、ディズニーランドのミッキーマウスになった気分で、着たまま歩き回るのが快感になってしまったかも!?

さて、会場には、場所柄か外国の方も結構いらしゃいました。特に多かったのが韓国の方。見た目では日本人と見分けられないこともあり、協会のパンフレットを渡そうとすると、「ニホンゴワカリマセン。」と言われることもしばしば困った
想定外!のできごとに、一同初めは戸惑っていましたが、次第にこつをつかみ、片言の英語や韓国語でアタック!特にボランティアの近藤さんは、言葉の壁もなんのその、外国の方に積極的に写真や雲南について説明されていて、みな、感心のため息をもらしていました。

来場者に解説する鈴木さん


会場では、雲南省の民族小物も販売しましたが、特に刺繍入りコースターが大人気!お1人で何セットも購入してくださる方もいらして、感激でした。
かくいう私も、ポシェットがかわいくて買ってしまいました。お仕事中にも肩からぶら下げて使っています。

また、今回麦酒記念館からは差し入れの缶ビールもいただきました。オープニングセレモニー後のギャラリーでの乾杯乾杯には、そのビールが大量にふるまわれ、とてもなごやかな雰囲気。我々も、仕事の後に数本ずつ持ち帰り、おうちで風呂上りの一杯?を楽しんだのでした。

東京本部で準備をしてくださるボランティアの方々


}
会場で夜遅くまで設営に励みます

(東京本部 あやぽん)
独龍江で学校を待つ子供たち42 [2008年04月01日(Tue)]


人は、なぜ、これほどまでに優しくなれるのか


我々都会に暮らす者には、想像すら出来ない厳しい環境の中で、なぜ、こんなに豊かな心が持てるのだろうか。実に不思議な人たちであった。怒江でも独龍江でも、老若男女を問わずすべての人が持つあの優しい目は、一生忘れないであろう。
 言葉こそ違えど、目がすべてを語ってくれる。

 大発展する北京、上海も中国なら、我々が見た怒江大峡谷沿いの村々や半年の間、外界と断絶される独龍江も、また同じ中国なのである。

 厳しい自然環境、貧しい食事、粗末な衣服、壊れかけた校舎、乏しい教材、何一つとっても満足な物のないなかで、子供たちのあの純真な目、天真爛漫な笑顔は、一体どこから生まれてくるのであろうか。
 たとえ、どんなに立派な道路や校舎が出来たとしても、あの目やあの笑顔は失わないでほしいと願うのは、都会人の横車だろうか。
 いや、すでに都会の子供たちには、失われてしまっているからこそ、今、声高に叫びたい。



 現在、この一帯では道路が作られ、電気が引かれ、電話設備が作られている。その結果、都会の文化が怒涛のように流れ込んでくるだろう。その時に、この豊かな自然、先祖から伝わった民族固有の風習や文化、独自の言葉等は大丈夫だろうか。

 とは言っても、子供たちは、たとえ、この素晴らしい地にいたとしても、中国人として生きていかねばならない。そのためには、正しい中国の標準語を学び、しっかりとした教育を身につけなければ、昔のように差別と偏見の中で生きていかねばならなくなる。あの笑顔を見た身には、それは受け入れがたい。

 我々の踏破した怒江州の人々の生活は、中央政府や雲南省政府の援助がなければ、一日たりともたない超貧困地域である。教育もしかりである。親たちは、子供の給食費の自己負担分、日本円にして三○○円か五○○円という金額すら出せない。そもそも現金収入がないのだ。

 そこは、現金など不要な自給自足の世界だったのである。彼らは、自ら望んでこの二一世紀の表舞台に出てきたわけではない。時代が彼らを引き出したのである。驚きや戸惑いの中で、今、彼らは歩き始めたのである。その歩みを助けるのは、同世代に生きる我々の責務ではなかろうか。

 我々には大きな力はない。しかし、教育環境を整える手伝いなら出来る。あの素晴らしい子供たちの笑顔を消さないためにも、手を差し伸べ尽力せねば、と痛感した旅であった。

 最後に、この小学校訪問の旅をするに当たって、雲南省政府、怒江州政府、六庫、福貢、貢山、丙中洛の政府関係者の皆様、帰国華僑連合会の皆様、本当にお世話になりました。この最後の誌面を借り、厚く御礼申し上げます。
 独龍江の皆様、あの笑顔、あの優しい眼差し、決して忘れません。

皆様、本当にありがとうございました。

(完)

ヒヨコ『独龍江で学校を待つ子供たち』の連載は今回で終了です。
長い間応援をしてくださった皆さん、ありがとうございました!
これからもブログ「雲南の郵便やさん」は様々な連載や雲南情報をお伝えしていきますので
宜しくお願いします!笑い
独龍江で学校を待つ子供たち41 [2008年04月01日(Tue)]

別れの後瞼に浮かんだ独龍江での開校式

貢山からは、再び怒江に沿って下流に向かって走る。なんだか、通り慣れた道を走るような懐かしさがある。今晩宿泊する福貢の町は、いましがた後にした貢山と州都である六庫鎮とのちょうど中間地点にあたる。少なくなった車の列は、大峡谷の中を、福貢に向かって走り続けた。まだ、空は明るいが、この大峡谷の底にある怒江は早い夕闇に包まれはじめていた。
 福貢では懐かしい人が、我々の到着を迎えてくれた。来る途中で、昼食の手配でお世話になった福貢県委統戦部の迪早葉部長である。
「辛苦了」日本語で「ご苦労様」という意味の言葉とともに、再会を喜んでくれた。
 ホテルの手配から夕食の手配まで、すべてが行き届いていた。ホテルに荷物をおくと、早速夕食の場所に向った。
 夕食はいつものように賑やかに始まった。福貢県の副県長、教育局長なども加わり、独龍江の話に花が咲いた。独龍江に行ったことがない人でも、独龍族の貧しさだけは皆よく知っていた。彼らは、私たちの勇気ある行動を褒め称えてくれた。彼らにしても、独龍江郷は、未知の秘境であった。車で僅か一日の距離しか離れていないが、福貢の人々から見ると、独龍江郷に住む独龍族は、まだ「未開の民族」なのであろうか。話の中に、なんとなくそのようなニュアンスが感じられる。
「百聞は一見に如かず」という。是非、現地を見て、独龍族の人々と交流を深めれば、そのような偏見は、すぐにも霧消するであろうに、なかなか難しいものである。
 この辺までは和やかに進んだのだが、なにやら数人の女性が手に酒瓶を持ち、歌を歌いながら現れた。これからが大変だ。酒と女で身を滅ぼす男は多数いるけど、この秘境福貢で酒と女性の恐ろしさを体験するハメになるとは思ってもみなかった。女性たちは、テーブルに座っている客一人一人を取り囲み、歌を歌いはじめる。その度に客は、立ち上がり酒の入った器を飲み干さなければならない。


 まずは、乾杯から始まり、次は女性と客が腕を絡ませて飲む“交杯酒”。
 一周りしてまた来る。
 次は、一つの器に注がれた酒を、顔を寄せ合って二人で飲む“同心酒”。
 また来る。
 次は、一つの器に注がれた酒を左右の女性と三人で飲む“三江併流酒”。
 この“三江併流酒”というのは、ここ三江(怒江、瀾滄江、金沙江)併流地帯が、世界遺産に登録されたのを記念して作られた飲み方だという。これでは、世界遺産も形無しである。この“交杯酒” “同心酒” “三江併流酒”がいつ果てるともなく延々と続くのである。この女性たちは本当に飲んでいるのであろうか。
 ついに、酒に弱い李副主席が逃げ出した。部屋中を逃げまわっている。恵蘭理事長や陳副処長、七田さんたち女性陣は、“もう許してほしい”と手を合わせ哀願している。残った私と谷川理事長も言われるままに我慢して飲んでいたが、これほど飲まされてはたまらない。フラフラになるまで飲まされ、やっと開放してもらうことができた。本当に“酒と女は恐ろしい”という言葉を五臓六腑が受け止めた晩であった
 目を覚ますと、頭の芯に昨夜の酒と歌が残っていた。重い体を引きずり、迪早葉部長、同じ福貢県委統戦部の奚美実女史に別れを告げ、次の目的地、六庫に向った。この奚美実女史には、大変お世話になった。この福貢から福貢までの往復道中、常に傍らで、まさに痒いところに手が届くという言葉通りに気を配ってくれた。明るく元気で、そして優しい女性であった。またの再会を約束して別れた。
 六庫に着いたのは、ちょうど昼時分であった。やっと帰ってきた、という安堵感のようなものを感じた。まるで自分の町に帰ってきたような懐かしささえ覚える。
 怒江に架かる橋の脇のレストランに入ると、懐かしの面々が待ってくれていた。怒江州統戦部の朱文勇部長以下、先日の祝賀式典で世話になった人々である。
 この席でも独龍江の話で盛り上がった。朱部長も我々と独龍江に行きたかったそうでだが、祝賀式典に参加した要人の接待に追われ、泣く泣く断念したいきさつもあり、我々の話を聞くにつれ、大変残念がっていた。。

 昼食後、いよいよ最後の別れの時がやってきた。
 私と恵蘭理事長は、小学校視察とは別件の用件のため、ここから車で大理に行き、大理のホテルで東京から来る人と落ち合うことになっていた。他の四人は、来た時と同じ、保山まで車で送ってもらい、保山から飛行機で昆明に戻ることになっていたが、飛行機の出発時間まで余裕があったため、我々が先に出発することになった。
 昆明まで行くという怒江州政府の車に同乗させてもらい、それぞれの再会を誓いあい、拍手と見送りの中、六庫を出発した。それは怒江との別れでもあった。
 大理へ向かう車の中で、独龍江に建てた学校の開校式の様子が瞼に浮かんだ。懐かしい面々が最高の笑顔で迎えてくれた。その日を想うと、帰りの道も心が弾み、人々との別れもけっして苦にならなかった。


続く