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年末年始も雲南省を身近に感じてください☆ [2007年12月27日(Thu)]
クリスマス木が終わったと思ったら、街はもうお正月ムードですね!
2007年もあと5日で終わりです。早いですね〜。大掃除で今年の汚れをすっきり落として、新しい年を迎えましょう〜!

さて、今日は皆さんに年末年始のテレビ番組のご案内です。
年末年始のお休みに、是非ご覧になってみてください。

*******************
NHK年末年始特集番組(NHK総合)
中国 秘境3000キロをゆく
水と奇岩の世界遺産

12月28日(金)午後10:00〜10:55

*******************
NHKスペシャル(NHK総合)
激流中国
5年1組 小皇帝の涙

1月6日(日)午後9:15〜10:04
   
     ※協会が取材協力をしています。

*******************
両方とも雲南省に関係する番組です。
ホームページの方に詳しい内容がありますのでぜひご覧になってみてください。
情報を下さいました、会員の城戸さん、どうもありがとうございます!

さて、本日は勢いあまってブログ記事を2つも載せてしまいました。これで、今年のブログも終了です。協会は29日(土)〜来年6日(日)祝日までお休みとなります。来年もまた、協会をよろしくお願いいたします。
それでは皆さんにとって2008年も素敵な幕開けとなりますことを心よりお祈り申し上げます。よいお年をお迎えくださいネズミ

 再見 笑い

(東京本部 セイノカエル
忘年会が終了しました!! [2007年12月27日(Thu)]
先週大盛況のうちに終了いたしました協会チャリティ忘年会。
お忙しい中ご来場くださった皆様、本当にありがとうございました。
今回もまた準備が直前まで慌ただしく、どうなることかと思いましたが・・・なんとか皆様に楽しんでいただけたようで、協会としても本当にうれしい限りです。
当日の様子は、来年になると思いますがホームページで詳細を公開する予定です。このブログでは私セイノの事前準備パニック具合をお伝えしようと思います。

当日皆さんに配布しました「2006年度協会収支決算」のグラフを、不慣れなエクセルを使い、悪戦苦闘しつつ完了した時の話。
完了した資料を理事会にて最後の確認をして頂こうと思い、配布すると・・・・

「あら?数字があってないよ。」

「・・・(まさか)!!」

数字に弱い私は、なんと桁を間違えておりました。
そのまま忘年会場で皆さんにお渡ししなくてよかったと、ホッとしました。その後はしっかりと修正、確認の上皆様に配布いたしました次第です。
その後、私セイノのパニック具合は忘年会が終了するまでずっと続いていたのでした。
花腰タイ族の踊りの時は、なんだか我を忘れて踊り狂いました。


全然ステップが踏めませんでしたが、楽しかったですね〜

事前準備からお付き合いくださったボランティアの皆さん、当日のバタバタの中お手伝い下さった皆さん、当日お越しくださった皆さん、本当にありがとうございました。
また、来年も楽しく忘年会を開催したいと思いますので、宜しくお願いします!

(東京本部 セイノカエル
協会ボランティア報告 〜共卓小学校を訪ねて〜 [2007年12月25日(Tue)]
皆さん、お久しぶりです。長いことブログを書かなくて申し訳ありません。
先週金曜日、今年の協会チャリティー忘年会が無事終了いたしました。お忙しい中、足をお運びくださった皆様、本当にありがとうございました。
詳しい内容については次のブログでお知らせしたいと思います。

今回は協会ボランティアで協会サイトの英文翻訳を中心に活動をして下さっている、松原さんから、レポートが届きましたので皆様にご報告したいと思います。
松原さんは10月12日〜11月9日までの間、雲南省を中心に中国に滞在し、その際雲南支部と共に現地小学校を訪問されました。以下が松原さんからのご報告です。

*******************************

はじめまして。
中国・雲南省への興味と、国際協力への興味があいまって、
今年の秋に一ヶ月ほど雲南を旅していた際、
協会が支援している小学校を紹介していただき、訪問してきました。

私が訪問したのは有名な観光地であるシャングリラ(中甸)から、
南に30kmほど行ったところにある小中甸という村の小学校でした。
名前は共卓小学校といいます。

バスの通る道から見えるところにあると聞いていたので、
シャングリラからのバスの中では窓際の席を確保し、景色を注意深く観察。
20〜30分ほど走ると写真で見たのと同じような真新しい建物が見えたので、
いそいでバスを止めてもらって下車しました。
学校までは道を下りて草原を歩いてすぐで、数百mくらいでした。

学校では授業が行われているようでした。
子どもたちが中国語の教科書を大声で音読しているのが聞こえます。
先生も負けじと大きな声で授業をしています。
とりあえずまわりをふらふらしていると先生が気づいて出てきてくれました。

彼はケ先生。この道25年のベテラン先生です。
先生はまず、この学校の開校式のときの写真などを見せてくれました。
そのほか、この鉛筆削りは日本人がくれたんだ、など、うれしそうに話してく
れました。
学校には2つの教室があって、1年生から3年生までが学んでいます。
先生は2人。4年生からは、小中甸にある別の学校に行くようです。


共卓小学校のこども達/左はベテラン先生です

昼休みがはじまると、子どもたちは自分の家にむかって、元気に走っていきま
した。給食はなく、昼食は家で食べます。昼休みは2時間あります。

僕は先生が作ってくれた昼食を一緒にいただきました。
水と電気はありますが、ガスはなく、かまどに薪をくべて昼食を作ります。
メニューはゆでて焼いたジャガイモ、バター茶、チーズ、麦団子など、
チベット風です。このあたりはチベット族がほとんどです。
シンプルですが、とてもおいしかったです。
もっと食べなさい、もっと食べなさいとすすめられ、
おなかがいっぱいになるまでごちそうしていただきました。
作物は自分たちで作ったものがほとんどらしいです。
ちなみに先生は学校で寝泊りしていて、週末は家に帰って畑仕事などをするそ
うです。

昼休みが終わらないうちから先生の部屋に子どもたちがやってきて、
先生に漢字の書き取りをみてもらっていました。
なつかしい光景でした。
子どもたちは興味と照れが入り混じったような表情でこっちをみていました。

昼休みのあいだじゅう、先生とおしゃべりしていました。
中国語は聞いても私はあまりわかりませんが、書いてもらうとかなりわかりま
した。
言葉の壁にもかかわらず、熱心にコミュニケーションをとろうとしてくれてい
たのがうれしかったです。
一方通行の熱意だとなかなかコミュニケーションがなりたちませんしね。
ちなみにチベット族の子どもたちにとって中国語は外国語なのですが、
私の中国語の発音をなおしてくれたりもしました。

よかったら泊まっていかないかとまで誘っていただきましたが、
一応予定があるのと、ありがたすぎて申し訳ないのとで、結局お断りしてしま
いました。
もてなしていただいてばかりで、お礼がとてもしきれず、
かえって申し訳なくなるという体験は久しぶりでした。本当にありがたいこと
です。
そろそろ授業がはじまるようなので、帰ることにしました。
また写真を送ります、本当にありがとうございました、と言って、
学校を後にしました。


先生と共に/ここにいる人々はみんな優しく友好的です

帰りは道に出て通りがかりのバス拾うしかなく、道端で待っていると
なんと先生が心配してやってきて、車を拾うお手伝いをしてくれました。
先生の教え子たちもこのあたりには多く、とても心強かったです。
しばらくして乗り合いタクシーが通りがかったので、
それに乗せてもらいました。

ちなみに、日本人が援助した学校は界隈でけっこう有名らしく、
そのタクシーが近くの村で客待ちをしているときにも話に出ました。
対日感情はきわめてよく、過去のことは過去のことだ、
今は心を開いて仲良くしよう、など、素敵なことばをいただきました。

こういったところに援助のもたらす効果がでているのだろうかと思いました。
なるほど、日中友好っていうのはこういうことなのかな、と実感ができました。
学校というものを架け橋にして、日本から遠く離れた雲南の地にも、
こういった素敵なつながりができるんですね。

お世話になったみなさんに感謝しています。

松原悠
*******************************

松原さん、どうもありがとうございました。
私もこの協会に来て、国を越えた人と人とのつながりの大切さをしみじみ感じています。
今後も人とのつながりを大切にしながら頑張っていきたいと思います!
ありがとうございました!


(東京本部局 セイノカエル
独龍江で学校を待つ子供たち36 [2007年12月14日(Fri)]

楽しい語らいの中で生まれた“輪と和”

昼過ぎ、先生方の見送りを受け、巴坡小学校を後にし、昨日来た道を歩き始めた。帰り道は、独龍江の上流に向かって歩くため、ゆるやかではあるが登りとなっている。ゆるやかとはいえ、登り坂をこれから四、五時間歩かねばならない。そのためには、疲れが出ないような歩き方、つまり同じペースを保ちながら歩くよう心がけなければならない。
 心を静かに、軽いテンポで歩いていたのだが、残念無念。こともあろうに、途中、恵蘭理事長の挑発にのってしまい、すっかりペースが乱れてしまった。
 このような山道で心静かに歩いている人を追い抜いていく時には、「お先に」とやさしい言葉の一つでもかけてほしいものである。いや、そうするべきであり、それがマナーというものである。それを、「どうだ!」とばかりに、黙ってスイスイ追い越されると、ついつい年甲斐もなく、「負けてなるものか」と追いかけてしまう。
 このまま放置しておいては示しがつかぬ、とばかりに急ぎ足で追いかけてしまった。必死で追いかけたものの、呼吸はひどく乱れ、最近とみに出てきた下腹は波を打ち、膝をガクガクする。帰国後の評価が心配であった。
 しばらく行くと、先に行っていたはずの恵蘭理事長が、道路の中央で、車に轢かれたヒキガエルのように手足を広げた状態で這いつくばっていた。どうやら、石に足をとられ、前からつんのめるように倒れたようである。後ろから来た私に、そのぶざまな姿を見せまいとして急いで立ち上がったが、擦り切れたズボンの膝のところからは、鮮血が滲み出ていた。やはり無理は禁物である。
 行程も半ばを過ぎた所に、道路工事作業員の野営場があった。ちょうど、昼食の最中で、汁から立ち昇る匂いが、我々の胃袋を刺激した。お腹が空いてもおかしくない時間であった。
 昼食中の作業員の中に割り込み、食事をさせてもらうことにした。おかずは一切なく、ボロボロの米飯の上に煮込んだジャガイモを汁ごとかけ、箸で口の中にかき込むようにして食べる。これが実に旨い。
 特別な調味料を使わず、塩だけでジャガイモを煮る。山の中で歩き疲れた体には、最高のご馳走であった。食事代を置こうとすると、押し戻された。優しい出稼ぎ労働者たちである。これから、夜間は零下に下がる山中で、数週間寝泊りしながら工事に携わるそうだ。ご苦労な話で頭が下がった。


巴坡への視察一行/苦労をともにした人たちと記念撮影
 
 時間帯のせいか、この帰り道では、たくさんの荷物を背負って巴坡方面に帰る人や騾馬によく出会った。早朝、村を出た人々が、孔当で荷を受け取り、帰ってくると、ちょうどこの辺で逢うのかもしれない。
 あいさつ程度に声をかけると、皆一様に、はにかんだような顔をし、小さな声で言葉を返してくれた。実に心優しい人たちである。
 彼らは、一人で歩いていることは滅多になく、男も女も数人が束になり、あるグループは、数頭の騾馬に荷を積み、その後ろを歩き、また別のグループは、全員が荷物を背負っておしゃべりしながら歩いている。騾馬は人間などに構わず、黙々と目的地に向かって進んで行く。きっと、誰もついていなくても、帰るところは知っているに違いない。まるで寡黙な職人のようである。
 この騾馬たちは、道路状態の悪いところでは、通る場所が決まっているらしく、そのような場所で、うっかり騾馬の通り道と同じ谷側にでも避けようものなら、谷底に振り落とされてしまう。騾馬たちが、人間のために立ち止まったり、道を譲ったりは決してしない。ここでは、人間が騾馬の通る場所をいち早く察知して、出来るだけ谷と反対方向に身を寄せ、騾馬に道を空けるのが、交通法則のようであった。
 やっとのことで、孔当の簡易食堂にたどり着いた。私たち一行の最後の人が帰り着いたのは、それから約一時間後であった。全員の無事帰還を祝い、記念写真を撮ったり、撮られたり、互いに握手で健闘を称えたり、世話になった人にお礼を言ったり、食堂前の広場は、さながら戦場から無事帰還を果たした兵士たちの集いの場のようになっていた。
 僅か二日の行程であったが、皆で力を合わせ、大事な仕事を無事やり遂げた後の連帯感と満足感がそこにはあった。皆、十年来の友人のような雰囲気になっていた。夕食も和気藹々、実に楽しい語らいの中で始まった。
「独龍江に学校を建てよう」
 着実に第一歩の輪と和が出来上がっていた。

(つづく)
独龍江で学校を待つ子供たち35 [2007年12月11日(Tue)]

子供たちのための急務 “教育環境の整備”
 
渓谷の朝は遅い。寒くて目を覚ました。一瞬、自分がどこに寝ているのか、ゆっくりと薄暗い部屋を見回しながら考えた。昨夜は酔った勢いで寝てしまったので、今、自分の置かれている状況を把握するまで、しばらく時間がかかった。私の寝ている部屋は、学校の先生方の宿直室のようであった。それにしてもボロボロのひどい部屋である。部屋の内と外との温度差はほとんどない。隙間だらけで壁も窓もガタガタの穴だらけであった。冷えるはずである。この冷気に喉をやられたらしい。喉がチリチリと痛んだ。真冬はどのようにして過ごすのであろうか。先生方も命がけである。
 手探りで部屋を出て、ミシミシ音のする階段を降り、猫の額ほどしかない校庭に出てみた。冷気が立ち込める薄暗い校庭では、騾馬、犬、鶏が勝手気ままに動き回っていた。都会で飼われている動物たちにはない「自由」がここにはある。校庭の隅にある木の枝には、まだ、鶏が数羽並んで休んでいた。鶏にとって、夜、安心して眠れる場所は、高い木の枝なのであろう。鶏も飛べるのだ、という当たり前のことに驚いた。同時に自分の身は自分で守る、という自然界の法則がここでは生きていた。


巴坡小学校の時間割

 午前七時が近くなると、子供たちの登校が始まった。服装は、年齢や身長に関係なくバラバラである。多分、援助品かおさがりであろう。大人の背広の上着のような服を引きずるようにして着ている子もいる。
 子供たちは、一様に体が小さい。多分、育ち盛りの子供にとっては栄養が十分ではないのだろう。子供たちは皆、学校が好きだと言う。その大きな理由の一つに、学校に来ると給食があり、そこではお米の飯をお腹一杯食べられるからだ。けっして満足なおかずがあるわけではない。野菜と魚の煮付けとその煮汁を上にかけただけのご飯といった粗末な食事ではあるが、ボールに山盛りにしたそのご飯を、子供たちは実に旨そうに平らげてしまう。飽食の時代に生きる日本の子供たちと比べ、どちらが幸せなのだろうか。その答えは、ここの子供たちの顔に書いてある。
 午前七時一〇分、先生の号令で生徒たちが校庭に整列した。
 いつもなら、まず整列して朝の体操を行い、朝礼が行われる時間である。しかし、今朝は外国からのお客さんが来ている。しかも、お土産を持ってきている。子供たちのキラキラした目が一斉に持参したお土産にそそがれる。先生の話もうわの空で、お土産が手渡される瞬間を緊張した面持ちで待っている。
 子供たちの期待に応え、我々は、手分けして持参したお菓子や文具を一人一人の手に渡していった。順番が来た子供は、実に嬉しそうな顔をして、しっかりと抱え込むようにして受け取る。こんなに喜んでくれるなら、もっと持ってきてあげればよかった、という後悔にも似た気持が残った。
 子供たちへのお土産を配り終えると、最後に、この辺境の地で頑張っている先生方にタバコを進呈し、固い握手を交わした。
「みんな元気でしっかり勉強してくださいね」
恵蘭理事長のこの言葉で贈呈式は、無事終了した。生徒たちは貰った品物を大事そうに抱えて、それぞれ教室に戻っていった。


お土産を抱え込む子供たち
文房具や玩具と主に孔当で買い求めたお菓子も手渡す

 私自身の強い希望もあり、訪問団一行は、生徒たちが実際に暮す家庭環境を見ることになった。時間があれば、もっと山奥のより劣悪な環境を見たいという思いもあったが、時間の制約もあり、今回は学校の近くにある生徒の家庭を訪問した。学校の近くとは言っても、独龍江の朽ちかけたつり橋を渡り、独龍江沿いの斜めになった岩肌の小道を歩いていかなければならない。こんな危険な道や橋を、子供たちは毎日走って通学しているのには驚いた。
 今回訪問した生徒の家は、渓谷の中でも独龍江に近い斜面に建っていた。正確には、斜面に置かれていた、というのが正しい表現かもしれない。
 この独龍江郷地域にも、当然ながら平らな土地はほとんどなく、ほとんどの家は独龍江渓谷の斜面に建てられている。家の作りは簡単なもので、幾重にも石を積み上げられた石が土台となり、その上に柱が置かれているのみである。家に入るには、丸太に僅かな刻みを入れた階段のようなものを登る。多分、鼠等の小動物が入り込まないようにした生活の知恵であろう。
 家の中には、学校へ来る途中で見た家と同じで、丸木と板で作った簡単なベッド以外、調度品はほとんど見あたらない。いたるところ隙間だらけで、夏にはよいだろうが、冬には全く不向きな構造である。天井からはとうもろこしや乾燥させた肉が吊り下げられ、貴重な食料を鼠に奪われないようにしてある。
 家の脇にある、鼠返しのついた納屋を見せてもらったが、僅かなとうもろこしがあるだけで、この程度の備蓄食料で越冬できるのだろうか、と心配になった。それでも、同行した学校関係者に言わせると、この家庭のレベルは上の部に入る、ということである。これが上の部なら、下の部はどのような環境なのか、私には想像すら出来なかった。


訪問した家
天井からは僅かばかりのとうもろこしや乾燥肉がつりさげられていた

 帰りがけに、家の前にある棺桶のような形をした石作りの立派な墓を見た。墓の入口上部には、見事な十字が彫られていた。彼らは立派なキリスト教徒なのである。なぜ、こんな山奥で、と誰もが不思議に思うが、地理的に見れば、ここは東南アジアの一角である。一六〜一七世紀にかけて、インドに東インド会社を設立していたイギリスは、さらに植民地を広げるために、ビルマ(ミャンマー)、ネパール、チベット、果ては、この独龍江地域にまで矛先を向け、占領を進めた。その時、占領軍は兵士だけではなく、神父も引き連れて乗り込んできた。土着の精霊を信ずる住民に、彼らが積極的に布教活動を進めた結果が、この墓石に刻まれた十字というわけである。

 家庭訪問を終え、壊れかけたつり橋をヘッピリ腰で渡り、学校に戻った。校舎の立替を想定して、校舎や宿舎の実地検証を行った。昔、この校舎を建てた頃は、自動車道路もなく、セメント、ガラス、鉄筋等の建設資材は、人の背で運ばねばならず、大変高価なものであったという。そのため、校舎の壁や土台に十分なセメントを混ぜることができず、出来あがった校舎は、劣化が激しく、壁は次々と剥がれ落ち、ボロボロとなっていた。その上、大きく強いガラスも高価で入手が出来なかったため、教室の窓は小さく、日中でも教室内は薄暗く、子供たちは教科書を舐めるように近づけて見ている。そのため、多くの子供が近視となってしまう、と先生は嘆く。
 この小学校は、本来なら「完小」として、一年生から六年生までが学ぶことになっているが、教室、教師、寄宿舎、どれをとっても足りず、現在では、一年生から四年生までしか収容が出来ず、五年生、六年生は、昨日我々を出迎えてくれた孔当の「独龍江郷孔当中心完小」の寄宿舎に入って学んでいるということである。


つり橋に空いた穴
この壊れかけたつり橋も子供たちには大事な通学路

 寄宿舎での食事は、政府の補助があるとはいえ、一定額は、生徒の親が負担せねばならない。現金収入のない親たちは、子供の食事代を現物で納めるしか方法はない。そのため、孔当の小学校に通う、この巴坡地区の五年生、六年生の生徒は、毎月一度、自分の食事代に相当する食料を学校に納めるため親元に帰る。親から貰った食料を背負い、また学校に戻っていくのだ。
 我々が六時間近くかけて歩いた道を、子供たちは約三時間で歩いてしまうそうだが、それでも往復六時間はかかる。新しい校舎が出来れば、完小として、一年生から六年生までをすべてを収容することが出来るようになる。せめて子供たちに、食事の心配をしないで済む学校であれば、と思う。そんな意味も込めて、「一日も早く新しい校舎がほしい」という先生たちの真剣な訴えには、心打たれるものがあった。

 今回、この奥地まで来た目的は、まず、現状をこの目で確認するためである。結論から言えば、誰が見ても、このような現状を変えるには、学校を立て替える以外に方法はない、ということで一致した。
 それを実現させるために、雲南省政府や怒江州政府と協力し、この小学校の将来の展望と役割をはっきりさせて、収容生徒数を確定し、教室、寄宿舎、給食室等の規模と数を決め、全体設計の概要を、まずはっきりさせねばならない。建設費用も今まで建てた小学校の倍額は用意しなければ、この秘境の中の秘境にある小学校を建て替えることは出来ないであろう。それは建築の素人である私にも、おおよそ見当はついた。

(つづく)
独龍江で学校を待つ子供たち34 [2007年12月06日(Thu)]

漆黒の闇夜に灯された“歓迎の蠟燭”

 のんびりと景観を眺めながら歩いてきたせいか、六時間近くかかって、やっと小学校の入り口に到着した。不思議なことに全く疲れを感じていない。すでに夕刻に近く、生徒たちの姿は見えなかったが、案の定、校門前では、酒が用意され、それを竹の器で数杯飲まなければ、校庭へ入れてもらえない雰囲気である。飲み干すたびに、何回も注がれ、何杯飲まされたか定かではないが、さほど強い酒ではないのがせめてもの救いであった。

 夕食会は、漆黒の闇に包まれた校庭にテーブルを並べ、蝋燭の明かりの下で始まった。蝋燭の明かりに多くの虫が集まってくる夏の夜では、とても出来ない宴会である。秋でよかった。漆黒の闇の上には、満天の星空が広がっていた。
 独龍江で獲れた魚の煮付け、ぶつ切りにした鶏の煮込み、瓜や山菜の煮付けなどがテーブルの上に並べられた。一緒に歩いてきた関係者や地元で待っていてくれた先生方も、我々遠来の客に気を遣い、乾杯を繰り返す。
 温かいうちに美味しいところを、ということで、鶏冠や鶏の頭、もみじのような鶏の足、魚の頭や尻尾をさかんに勧めてくれるが、これがなかなか日本人には食べられない。日本人が最も苦手とする部位である。
 中国の風習では、頭や尻尾などの部位には、栄養が凝縮されているとして、年長者や来客に勧める。目で食べる人種と胃袋で食べる人種のパワーの違いを見せつけられた夜であった。
 小学校に着いた時には疲れは一切感じていなかったが、体は正直で、乾杯を繰り返すうちに、酒が心地よく五臓六腑を駆け巡り、次第に酔いが回ってきた。いつ、どのような形で宴会が終了したのか全く記憶になかったが、朦朧とした頭と体を引きずって、校舎の二階に上がり、部屋に入ったのは覚えていた。

 若い女性がお湯の入った洗面器を運んできて、薄暗い部屋にいる私の足元においた。足揉みマッサージを期待して足を差し出したら、皆に笑われた。寝る前に自分の足を洗ってから寝るように、ということだそうだ。洗った足を拭くのももどかしく、服を着たまま、湿気を含んだ煎餅布団の中に潜り込むと同時に、意識を失っていた。

(つづく)
忘年会シーズン到来〜 [2007年12月03日(Mon)]
今年も残すところあとわずか・・・雪
1年はあっという間ですね。師匠も走るほど忙しい師走、皆様も何かに追われるように忙しい毎日をお過ごしのことと思います。
さて、今年もやります協会チャリティー忘年会びっくり 協会が事前準備と通常業務で、アップアップしている中、お手伝いに来て下さるボランティアさんには、本当に頭が下がります。ありがとうございます。今日はそんなボランティアさんのお手伝い風景をレポートしたいと思います!

まずは、忘年会受付と商品販売ブースの表示の作成です。さあ、どんな仕上がりになるのか楽しみですドキドキ大ドキドキ


無言で集中・・・ボランティア小出さん
無理なお願いを引き受けて下さりありがとうございます!


ついに!完成!!完璧な仕上がりです!

お見事です!!協会のロゴまでしっかり手書きで書いて下さいました!まるで印刷したかのような仕上がり!これで、受付・商品販売ブースは完璧です。大変な仕事を最後までしてくださって、本当にありがとうございました。

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今回の忘年会ではそれぞれのテーブルに募金箱を設置します。募金して下さった方にはもれなく協会特製ポストカードをプレゼント!そこで、人目を引く素敵な募金箱を作成してくださいました笑顔


募金箱作成をして下さったのはボランティア狩野さん


どんな募金箱ができあがったのでしょうか?

なんともかわいらしくて冬らしく、でも寒さなんか飛んでいってしまいそうな素敵なデザイン!心がホンワカあったかくなりますね。これで、当日はたくさん募金をしていただけること間違いなしっ!どんな募金箱が出来上がったのかは、当日のお楽しみですキラキラ

本当に時間をかけて丁寧に、そして素晴らしい作品を作ってくださいました会員の小出さん、狩野さん、どうもありがとうございました。来場者の方もきっと喜んでくださるはずです。いつもいつも、ご協力くださり本当にうれしい限りです。忘年会は必ず成功させます!!
忘年会についてですが、お席が残りわずかとなりました。まだお返事を出されていない皆様、お急ぎください〜。締め切りは12月17日となっております。皆様のご参加お待ちしております!!

(東京本部 セイノカエル