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「夢は叶う」池田弘一さん講演記7 [2011年12月12日(Mon)]
皆さんこんばんは月
そして連載をお待ちの皆さん、本当にすみません悲しい困った
先週末は何かとバタバタし、講演会第7回目の更新が今日になってしまいましたすいません

そうです、明日からは福岡の写真展ダッシュ
そして今週末は年に一度のお楽しみ、チャリティー忘年会でーすまる

さて、突如出向することになった池田さんですが、実はここから朝日の如くひたすら昇っていくことになるのです−




第7回 「左遷」が成長のチャンスにつながった


その当時出向させられるということは、当時のアサヒビールの厳しい経営状況からみても、組織内での私の評価が必ずしも良く無かったことを意味していました。私は13年も九州にいたこと、やっと転勤したかと思えばすぐに出向を命じられたことで、会社の評価に大変不満を持ち、納得できないまま出向先にいきました。

しかし、今から考えると、この出向の3年間は私のキャリア形成のなかで大変大きな財産となったのです。

少し具体的に話しますと、アサヒビールは私の入社当時、業界シェアが30%程度でトップに非常に近い2番目手の会社でしたが、その後徐々にシェアを落としていました。私が出向した1978年にはシェア20%を切っており、赤字は出していないものの、当時の日本の経済成長に合わせて大きく成長しているビール業界にあって、大きく遅れをとっている状況でした。社内も沈滞ムードで暗い雰囲気だった中、出向という評価については「左遷」と受け取るのが普通だったのではないかと思います。

ところが、出向先の成田では、新たに国際空港が開港するということで、様々な会社やそれに付属する様々な人が急激に集中、大変大きなビジネスチャンスが生まれました。結果、2年間で売り上げ規模が倍増するという驚異的な成長を遂げることができたのです。

出向先には成田支店長として入りました。成田支店は、支店長の私以下営業担当者6名程度、総勢20数名の規模でした。


≪続く…≫





池田弘一さん略歴
アサヒグループホールディングス(株)相談役。1940年、福岡県生まれ。九州大学を卒業後アサヒビールに入社、九州・中国・関東などの営業に従事。1978年より千葉県酒販(株)出向、飲料営業部営業課長を経て1987年本社営業部部長。その後、各支店長・支社長を歴任し、1997年常務取締役、2002年に代表取締役社長となる。その後4年間会長を勤め、2010年3月より現職。


「夢は叶う」池田弘一さん講演記6 [2011年12月02日(Fri)]
皆さんこんにちは笑顔
先日予告した通り、一昨日(11月30日)、初鹿野理事長をはじめとする協会代表5名が、「東日本大震災支援交流プロジェクト」で南相馬市の小学校を訪問しました学校
近日中にレポートいたしますので、しばしお待ちくださいラブ

さて、池田さんの講演は今回からいよいよ本題です。
池田さんは逆境のアサヒビールにあって、どのように「夢」を実現していったのでしょうかはてな物語の始まりです拍手






第6回 「夢は叶う」 〜アサヒビールで学んだこと〜


それでは本題に入ります。

今日は、私がアサヒビールで学んだことをお話しすることで、皆さんの「夢が叶う」後押しを出来ればと思います。

私は1940年に福岡県に生まれ、今年既に71歳になりました。地元の小・中・高校、そして、同じく福岡にある九州大学を卒業、その間すべて親と一緒に暮らしていました。

1963年にアサヒビール株式会社に入社して、ずっと営業の仕事に携わり、2001年に社長、2005年には会長になり、2009年3月に会長を退いて現在相談役となっています。

47年間、アサヒビールでの仕事を通して色々学び、幸いにも最後は社長・会長を経験させていただいて、大変恵まれた会社員生活だったと思います。

私自身は元々優れた能力もなく、普通の人間なのですが、色々な人々に助けられ、あるいは色々な巡り合わせによって、このような会社生活を送ることができました。

私はずっと営業の仕事をしていたわけですが、最初は1964年9月九州支店の販売課からスタートしました。当時は大学卒業後就職しますと、3〜5年の間に何箇所か転勤し、色々な職場を経験することによって会社から適性を見極められていくものだと思っていましたが、どういうわけか私は、最初の配属先の九州支店に13年間もいることになりました。

13年後の1977年、始めて東京支店の千葉営業所に移り、関東地区の千葉県を担当することになりました。そのとき課長代理となったことで、管理職のスタートラインに立ちました。

ところが、翌1978年、担当していした得意先のビール卸会社に、突然出向することになりました。当時、その会社のあった千葉県成田市に新東京国際空港が開港するということで、その関連で出向を命じられたのです。


≪続く…≫




池田弘一さん略歴
アサヒグループホールディングス(株)相談役。1940年、福岡県生まれ。九州大学を卒業後アサヒビールに入社、九州・中国・関東などの営業に従事。1978年より千葉県酒販(株)出向、飲料営業部営業課長を経て1987年本社営業部部長。その後、各支店長・支社長を歴任し、1997年常務取締役、2002年に代表取締役社長となる。その後4年間会長を勤め、2010年3月より現職。


「夢は叶う」池田弘一さん講演記5 [2011年11月25日(Fri)]
皆さんこんにちはびっくり
いよいよ来週水曜日、南相馬市の小学校にメッセージと支援金をお届けしに行ってきますダッシュ
また、今回は、会員の糸山敏和さんのご紹介により、パキスタンを支援する「日パ・ウェルフェア・アソシエーション」さんから19個のサッカーボールサッカーもお預かりし、一緒にお届けする予定ですラブ
今はまだ野外活動の時間が制限されているそうですが、1日も早く、そのサッカーボールで思いっきり遊べる日がくるといいですね。

まずは雲南やパキスタンの皆さんの気持が、少しでも南相馬の子どもたちの励みになりますようにキラキラ

ちなみに、こちらのブログにお贈りするサッカーボールの画像が載っています音符
ボールだけに、まさにGlobalですサッカー

震災はまだ決して終わってはいません。日本がもう一度「夢を叶える」ため、わたしたち1人1人が当事者として、出来ることをやっていかなくてはいけないのだと思います猫

それでは、池田さんの「夢は叶う」、第5回目をお届けいたします音符






第5回

人々からの援助


また、世代を問わず多くの人々が、ボランティアとして被害地域や被災者を応援し、あるいは色々な人たちが金銭的援助・物的支援を行いました。近年、日本社会におけるコミュニティーの崩壊や他人に対する無関心が指摘されることが多かったわけですが、このような時に、今一度そういう助け合いが起こったこと、お互いを見つめ直したことも新しい発見ではなかったかと思います。

更に、世界中の国々や人々からも多くの支援を受け、被災地に限らず日本中の人々がグローバル化の時代を実感しました。

雲南省も大きな地震が起こるところですし、この先日本も雲南省も、また地震の被害を受ける可能性が大いにあります。それをどうやって予防し、あるいは被害を最小限にするかという工夫、互いに連絡しあって、災難を克服していくということも大きなテーマになるのではないかと思います。

ただ、日本としては、この震災の被害から立ち直るのにまだ数年は要するでしょう。我々は前向きに、今一度、震災前以上の日本を築くという気持ちで頑張っていきたいと思います。

そういう意味では、今日のテーマ「夢は叶う」に、もう一度日本全体としてチャレンジするだといえるでしょう。

≪続く…≫




池田弘一さん略歴
アサヒグループホールディングス(株)相談役。1940年、福岡県生まれ。九州大学を卒業後アサヒビールに入社、九州・中国・関東などの営業に従事。1978年より千葉県酒販(株)出向、飲料営業部営業課長を経て1987年本社営業部部長。その後、各支店長・支社長を歴任し、1997年常務取締役、2002年に代表取締役社長となる。その後4年間会長を勤め、2010年3月より現職。



「夢は叶う」池田弘一さん講演記4 [2011年11月18日(Fri)]
皆さん、こんにちはびっくり
今週火曜日に発送した会報『彩雲の南』第39号では、この講演会を特集していますキラキラもう皆さんのお手元に届いたでしょうかはてな
たくさんの写真を通して、少しでも当日の雰囲気が皆様に伝わればいいなあと思っています笑い

それでは、昆明女子中学校での講演記、第4回目をお届けいたします拍手





第4回

3月11日地震経験談


少し私の個人的な「3月11日」経験談をお話させていただきます。
私は東京にある政府の一機関「消費者委員会」のメンバーで、地震がおきた3月11日14時46分には、その会合に出席していました。地震発生時はビルの6階にいて、大変な揺れを経験しましたが、大きな被害はなく、地震が少しおさまった15時以降、予定通り1時間半程の会議をその場で行うことが出来ました。

16時半過ぎに事務所を出て自宅へ向かったのですが、あらゆる交通機関や電気がストップしていたために、大変な混雑で、普段は車で40分程度の距離を15時間かかって帰る事態になりました。家に帰り着いたのは12日の朝8時過ぎでした。

交通機関は全て止まっているわけですから、人々は自転車や徒歩で移動し、大変混雑しました。私が感心したのは、渋滞していたものの、大きなトラブルはほとんどなく、全員が整然と行動していたことです。

15時間も車中にいたので、途中トイレ休憩を2回程しました。道路沿いの24時間営業のコンビニエンスストアやビデオショップに立ち寄ったのですが、対応がきちんとしており、日ごろからそういったことが行き届いているのだなと思いました。

車中にいても、周囲を自転車や徒歩の方がたくさん通り過ぎましたが、皆大きなトラブルもおこさず、粛々として喧嘩や騒動もなく、日本人の冷静な対応について、自国のことながら非常に感心した記憶があります。

また報道で、震災の最中に色々なところで色々な人々が懸命に助け合ったということを目にし、日頃、問題の多い社会と言われていたけれど、まだまだ捨てたものではないとつくづく実感したものです。





≪続く…≫



池田弘一さん略歴
アサヒグループホールディングス(株)相談役。1940年、福岡県生まれ。九州大学を卒業後アサヒビールに入社、九州・中国・関東などの営業に従事。1978年より千葉県酒販(株)出向、飲料営業部営業課長を経て1987年本社営業部部長。その後、各支店長・支社長を歴任し、1997年常務取締役、2002年に代表取締役社長となる。その後4年間会長を勤め、2010年3月より現職。



「夢は叶う」池田弘一さん講演記3 [2011年11月11日(Fri)]
皆さん、こんにちはびっくり
立冬も過ぎ、名実ともに冬になりましたねキラキラ
事務局も朝夕はとても冷えるようになりました落ち込み

今日は11月11日、震災からもう7ヶ月が過ぎたんですね。
今でも、東京よりもずっと寒い被災地には、防寒対策が不十分な仮設住宅にお住まいの方がたくさんいらっしゃいます。
協会「東日本大震災支援交流プロジェクト」でも、今度は仮設校舎で勉強する子どもたちに、暖房器具などの費用として支援金を届けようと、現在調整している最中です。
現在調整中なのは、南相馬市の警戒区域から避難しているため、この冬を仮設教室で越えなければいけない小学校。
地震や津波だけでなく、原発事故も、本当にたくさんのものを奪って行きました。
この先の日本をどうするのか、子どもたちにどんな未来を残していくのか―私たち1人1人が今、考えなければならないことだと思いますキラキラ

それでは、池田さんの講演第3回目をお届けします拍手





第3回

震災後の課題


この震災後の課題というのは、大きなテーマがたくさんありますが、まずは被災地、特に津波の被害を受けた地域をいかに復旧し、復興していくかということです。

また一方では、原子力発電所が大きな被害を受けたことにより、この先の原子力発電の活用ということが日本にとって大きな課題となっています。政府の首相は脱原発を打ち出していますが、日本の将来にわたる、電力を中心としたエネルギー問題をどうするかということは、今後の大きなテーマのひとつです。

これらは、いずれ世界の将来にとっても大きなテーマになっていくことです。これから長い時間がかかるかと思いますが、我々がどのようにこの課題を克服していくかが、いずれ世界の人々の役にも立つことになるのだ、と強い意気込みで、日本の全員が力をあわせて取り組んでいきたいと思います。

ぜひ、皆さん方をはじめとする世界の人々にも暖かく見守っていただき、またご支援をいただればと思います。

≪続く…≫


池田弘一さん略歴
アサヒグループホールディングス(株)相談役。1940年、福岡県生まれ。九州大学を卒業後アサヒビールに入社、九州・中国・関東などの営業に従事。1978年より千葉県酒販(株)出向、飲料営業部営業課長を経て1987年本社営業部部長。その後、各支店長・支社長を歴任し、1997年常務取締役、2002年に代表取締役社長となる。その後4年間会長を勤め、2010年3月より現職。



「夢は叶う」池田弘一さん講演記2 [2011年11月04日(Fri)]


第2回

海外からの暖かい支援


この震災にあたり、皆さん方の雲南省をはじめ、世界中に大変なご心配をおかけすると同時にご支援を受けました。もちろん中国政府からも色々な支援を受け、日本人として大変感謝しています。

被害は本当に大変なものでした。私も被災地に二度程行きましたが、震災の爪あとはまだ色濃く残っているもの、今はようやく基本的なインフラも徐々に回復し、復旧の足取りも確かなものになりつつあります。

しかし、いまだ原子力発電所の状況は不安定。福島県にとっては震災はいまだ進行中で、多くの方が遠くに避難している状況が続いています。




震災後の状況

震災以来、被災地域の経済的な設備の被害により、生産活動も大きく影響をうけました。様々な分野に渡って生産が停滞し、各産業で大きな問題を引き起こしました。

特に東日本地域の工場が停止したことにより、日本や世界中の様々な工場への部品供給、所謂「サプライチェーンマネージメント」もストップし、生産活動が大きく停滞したことを、私も大変心配していました。が、ようやく震災後3ヶ月経った6月頃から復旧し始め、経済分野においても、日本は平常に戻りつつあります。

また、原子力発電所の停止により、東京電力関内を中心に電力不足が持ち上がり、私たちもその対策に大変苦労しました。しかし、企業や国民がこの状況と真剣に向き合い、節電を行って今日まで大変暑い夏を過ごした結果、無事乗り切ることが出来ました。



≪続く…≫


池田弘一さん略歴
アサヒグループホールディングス(株)相談役。1940年、福岡県生まれ。九州大学を卒業後アサヒビールに入社、九州・中国・関東などの営業に従事。1978年より千葉県酒販(株)出向、飲料営業部営業課長を経て1987年本社営業部部長。その後、各支店長・支社長を歴任し、1997年常務取締役、2002年に代表取締役社長となる。その後4年間会長を勤め、2010年3月より現職。




「夢は叶う」池田弘一さん講演記1 [2011年10月28日(Fri)]
皆さま、こんにちは笑顔音符
先日、会員の山本忠明さんの連載が終了してしまいましたが、本日より、新たな連載がスタートしますキラキラ

2009年の丘ヤス氏(アルバート・アインシュタイン医科大学名誉教授)2010年の新井淳一氏(日本経済研究センター会長、当協会顧問)に続いて、今年9月、当協会「25の小さな夢基金」で支援を行っている「昆明女子中学校」(中高一貫校)にて、「夢」をテーマにした講演が行われましたメモ
今回の講師はアサヒグループホールディングス株式会社相談役の池田弘一氏です。

春蕾クラス生に加え、雲南大学日本語科の大学生併せて約300名が勇気づけられた池田弘一氏の講演内容を、全19回(毎週金曜日更新)に渡ってご紹介します猫





第1回 東日本大震災の被害


 私はアサヒビールの仕事で度々中国を訪問しておりますが、雲南省にはまだ一度も来たことがありませんでした。今回、このような機会に雲南省昆明市を訪ねることになり、個人的にも大変楽しみにしていました。

 この講演会は、「夢は叶う」がテーマだときいています。若い皆さんにとって、どれだけお役に立つか不安ではありますが、私の経験をお話しすることで、少しでも皆さんの将来のヒントになればと思います。

 本日は、私がアサヒビールで経験したことを中心にお話ししたいと思いますが、まずその前に、今年の3月11日に発生した東日本大震災の状況について、皆さん方にご報告と御礼を申し上げたいと思います。

 3月11日14時46分、日本の東北地方にある宮城県仙台市沖で、大変大きな地震がおきました。宮城県、岩手県、福島県を中心に、東日本の15県で非常に大きな地震が度々起こったのです。

 地震による被害ももちろんですが、地震によって引き起こされた津波が海岸沿いを襲い、大変大きな被害をもたらしました。

 更に、この津波によって福島県の原子力発電所が被害を受けました。電源が切れて放射能原子炉を冷やすことが出来なくなり、大変危険な状態に陥ったのです。

 電力会社をはじめとして、国を挙げての努力をしたものの、一時は国際評価尺度 (INES)レベル7という危機的状況にまでなりました。7月のはじめに、ようやく放射能を冷やす状況が整い、一段落したところです。

 この震災は、地震と津波、そしてそれによって引き起こされた原子力発電所の放射能漏れの三重苦という、我々が未だ経験したことの無い大変大きな災難をもたらしました。






≪続く…≫


池田弘一さん略歴
アサヒグループホールディングス(株)相談役。1940年、福岡県生まれ。九州大学を卒業後アサヒビールに入社、九州・中国・関東などの営業に従事。1978年より千葉県酒販(株)出向、飲料営業部営業課長を経て1987年本社営業部部長。その後、各支店長・支社長を歴任し、1997年常務取締役、2002年に代表取締役社長となる。その後4年間会長を勤め、2010年3月より現職。



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