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夢は叶う―新井会長講演記E [2010年09月08日(Wed)]
 皆様こんにちは!水曜に久々雨!と思いきや台風でした。少しは涼しくなったでしょうか
毎週金曜日に更新してお届けしております、新井さん「25の小さな夢基金」昆明女子高校での講演連載、第6回目です。笑顔 引き続きお楽しみ下さい♪ウサギ








第6回 

 将来の職業として新聞記者を志望したきっかけは、大学3年のときのゼミ活動です。経済学を専攻、ゼミナールは労働組合論でした。その一環で、当時、日本の底辺の労働者といわれた日雇い労務者の実態を調べたことがきっかけです。日雇い労務者というのは道路つくりなどの現場で働く、日給の労働者で、サラリーマンのような月給をもらう労働者ではありません。朝早起きして広場で仕事の口がかかるのを待つ。声がかからないとドヤといわれる簡易宿舎で1日中、寝て暮らす。声がかかれば、業者が差し向けた大型トラックの荷台に乗って現場に行く。私たち学生もこのドヤで彼らと一緒に1ヶ月同居して、何回かは工事現場で働きました。

 その体験をもとにレポートを書くのです。これは強烈な経験でした。経済学の教科書には全く載っていない経済実態でした。日雇い労務者はほとんどが地方から東京などの都会に働きに出てきたひとです。現在の中国でも地方から都会へ出稼ぎに行くケースが多いでしょうが、当時の成長する日本経済の底辺は、家族を現地に残し地方から出てきた人々が支えていたのです。本当の経済とはこれなのだ。こういう真実を書いて、みんなに読んで貰えたらうれしい。それが新聞記者、特に経済記者を志望した直接のきっかけです。

 日本経済新聞の記者を受験して合格したのが、1964年、ちょうど東京オリンピックの年でした。中国の北京オリンピックは昨年でした。オリンピックの開催は国の勢いがある年だなあ、というのが実感です。日本経済新聞というのは、中国に似たような新聞はないと思います。経済紙でありながら社会や文化もきちんと報道する。しかし、全体のトーンは経済に置いて、日本経済および世界経済の発展につながるニュースを大切にする。米国のウオールストリート・ジャーナルと英国のフアイナンシャル・タイムスを目標にしていますし、事実、提携関係を結んでいます。


≪続く…≫




新井淳一さん略歴

1940年、仙台市生まれ。東大経済学部を卒業後、日本経済新聞社に入社。金融担に始まり通商政策、外交、景気、財政などを担当、1975年にNY特派員。帰国後は雑誌編集・編集局経済部長・東京本社編集局長を歴任、2008年、代表取締役で日経を退社。現在は社団法人日本経済研究センターの会長を務める。日本雲南聯誼協会会員

夢は叶う―新井会長講演記D [2010年09月03日(Fri)]
皆様こんにちは!9月に入ったというのにまだまだ暑いですね太陽
毎週金曜日に更新しております新井さん「25の小さな夢基金」昆明女子高校での講演連載、
なんともう第5回目♪もうおなじみですね。
今回は新井さんご自身の夢の変遷の話題です。
ちょうどリアルに目標を決めようという年齢の高校生たちにとって
とても興味深かったことでしょう 笑顔
皆様も今週末は、ご自身の青春時代に思いをはせつつ?お楽しみ下さい ウサギ








第5回 其の壱、夢とは何かB

 私自身、新聞記者になる夢を抱いたのは大学3年のときです。

 小学校から高校1年生のときまでは医者になるつもりでした。母の実家が医者をやっており、医者とは世の中で尊敬され、役に立つ重要な職業と思い込んでいたからです。もちろん、このことは間違いありません。医者は重要な職業です。しかし、私の場合は、ちょっと違いました。

 高校に入って冷静に考えて見ると、医者がよいという思いは、本当に自分で考えた夢なのかどうか分からなくなったのです。母や祖母から幼いときの私の頭に刷り込まれたものではないかと、ある日、気づいたわけです。私が医者を断念すると、母たちはたしかにがっかりするかもしれません。しかし、自分が本当にやりたいのかどうか、自信がなくなったのです。母に相談して志望を変えました。

 その後、1年ぐらいはエンジニアになることを考えていました。
数学や物理が好きだったこともあって、自分は理科系の学校や職業に向くとも思いました。しかし、これも究極のところ自分が本当に考えて選んだ志望ではない。世の中が経済の高度成長期でエンジニアを求めている。それに迎合している面がある、という思いになりました。大学受験の半年前、高校3年生の夏です。

結局、高校のときは明確な志望、つまり夢は決まらずに、大学は法律とか経済学を専攻する文科で受験し、合格したわけです。法律や経済を勉強しているなら、そのうちに自分のやりたいことが出てくるとぼんやりのんびり考えていたのです。


≪続く…≫





新井淳一さん略歴

1940年、仙台市生まれ。東大経済学部を卒業後、日本経済新聞社に入社。金融担に始まり通商政策、外交、景気、財政などを担当、1975年にNY特派員。帰国後は雑誌編集・編集局経済部長・東京本社編集局長を歴任、2008年、代表取締役で日経を退社。現在は社団法人日本経済研究センターの会長を務める。日本雲南聯誼協会会員
夢は叶う―新井会長講演記C [2010年08月27日(Fri)]
新井さん「25の小さな夢基金」昆明女子高校での講演の連載、第4回目、
いよいよ始まった「夢」についてのお話のつづきです♪
当日は生徒の皆さんすでに耳ダンボになっておりました笑顔
皆様もどうぞ引き続きお楽しみ下さい
ウサギ





第4回 其の壱、夢とは何かA

でも、現実には「夢を叶える」努力を自らあえてしなくても「夢が叶う」、文字通りラッキーなひともいます。中国でもそういう例はあると思います。日本の最近の例でいえば、現首相の鳩山さんがそうかもしれません。何せ、一人前の政治家になっても毎月、千万円を越える金額を母親からもらっていて、本人はその事実を知らなかったと公言しているのです。そのお金が政治資金となって、首相就任の活動費となったことは事実でしょう。日本人で鳩山さんの弁明を信じている人はまずないと思いますが、いまのところ秘書が勝手に受け取っていたということで、急場を切り抜けようとしています。

しかし、鳩山さんが自らチャンスをつくる努力をしないでチャンスをつかんだことが、仮に本当であっても、そのこと自体が、いま鳩山政権のアキレス腱となって退陣を迫られる形で本人へ跳ね返っているのです。努力抜きの夢は実現しても長続きしない。運命は皮肉で、また公平だともいえるわけです。いま日本では、鳩山首相の疑惑と小沢民主党幹事長の政治資金疑惑と並んで(鳩山さんよりこの人の方が性格は悪いようですが)与党民主党の支持率は急降下です。「夢」は自分の努力で勝ち取らないと、ひどい目にあうという教訓がここにあるということです。

ところで、若いときに抱いた夢は絶対、変えてはいけないものでしょうか。
私はそう思いません。逆に結構、くるくる変わって当然だと思います。
よく大きなことを成功させるは、ひとつの夢を挫折しても挫折しても捨てないことが肝要だ、といわれます。オリンピックで優勝する選手やノーベル賞をもらう学者などはそうかもしれませんが、私たちのような凡人の夢は、状況によって変わるのが当然だと思います。ひとつの夢だけを追いかけていくのでは、人生は窮屈で、結果として不幸になります。



≪続く…≫




新井淳一さん略歴

1940年、仙台市生まれ。東大経済学部を卒業後、日本経済新聞社に入社。金融担に始まり通商政策、外交、景気、財政などを担当、1975年にNY特派員。帰国後は雑誌編集・編集局経済部長・東京本社編集局長を歴任、2008年、代表取締役で日経を退社。現在は社団法人日本経済研究センターの会長を務める。日本雲南聯誼協会会員。
夢は叶う―新井会長講演記B [2010年08月19日(Thu)]
お待たせしました、新連載待望の第3回目ですびっくり
新井さんの「25の小さな夢基金」昆明女子高校での講演、いよいよ本題「夢」についてのお話が始まります♪引き続きお楽しみくださいラブ





第3回 其の壱、夢とは何か@

 「ひとは生まれる時代を選べないが、時代をどう生きるかは個人の決断だ」(バイオリン奏者・黒沼ユリ子)

ひとが生まれることを西欧では、コウノトリが赤ん坊を落とすといいます。赤ん坊だからコウノトリ次第で、当然、生まれる時代を選ぶことはできません。しかし、生まれた後は、その時代をいかに、どのように生きるかは、個人に委ねられているということです。
 
時代だけでなく、国とか場所も勝手には選べません。もちろん国籍と住む場所なら、意思があれば、生まれた後に変更は可能です。しかし、時代は無理でしょう。
 
要は「夢は叶う」ではなく、「夢は叶える」ものだ、と黒沼さんはいいたかったのでしょう。黒沼さんは日本人でありながらメキシコに住んで音楽活動を展開しました。

よく「生まれた時代が悪かった」とか、「生まれた国が悪かった」というボヤキをいうひとがいます。別にそれは間違いではありません。生まれた時代や国で人には不公平がついて回ります。しかし、それだけを訴え続けていても、問題はなにも解決しません。悪い時代に生まれても、立派に夢を完成させた人もたくさんおります。夢とは何かを考える前に夢とは個人が掴み取るものだ、ということを確認しましょう。


「英語でチャンス・メーカーという言葉がありますね。チャンス・キャッチャーとは言わない。チャンスはつくるものです」(作家・城山三郎)

夢をチャンスに置き換えるとよくわかります。チャンスは寝て待っていて天井から落ちてくるものではありません。黙っていてキャッチできるものではないということです。チャンスが自分に近づいてくるように、周囲の状況をつくり出す必要があるということでしょう。

城山さんは日本で有名な作家です。近代日本を作った人々の伝記風の小説で数々の名作があります。努力がなければ夢は叶わない。黒沼さんと同じことを言っているのです。



≪続く…≫



新井淳一さん略歴

1940年、仙台市生まれ。東大経済学部を卒業後、日本経済新聞社に入社。金融担に始まり通商政策、外交、景気、財政などを担当、1975年にNY特派員。帰国後は雑誌編集・編集局経済部長・東京本社編集局長を歴任、2008年、代表取締役で日経を退社。現在は社団法人日本経済研究センターの会長を務める。日本雲南聯誼協会会員。

夢は叶う―新井会長講演記A [2010年08月13日(Fri)]
さて、新連載第2回目です。びっくり
引き続き新井さんの「25の小さな夢基金」昆明女子高校での講演をお楽しみくださいラブ





第2回 はじめにA

 1960年代半ばからの高度成長で、日本経済は強くなり、われわれ日本人の生活は一変するのです。私は自分のうちにテレビが入ってきた瞬間をよく覚えています。それまではテレビはぜいたく品で、見たくなると、テレビのある家に押しかけてみせてもらったり、道端でみんなが一緒にプロレスなどのテレビ観戦をしていました。冷蔵後だって普通の家にはそれまでありませんでした。

 いま日本はひとり当たりの国民所得で、3万ドルを超え、世界でも高い方に位置しています。しかし、昔は本当に貧しかったのです。 1960年代から1980年代末までの、約30年の高度成長が日本をがらりと変えたわけです。私たちはこの期間を「日本経済の夢の時代」と呼んでいます。給料が毎年、確実に増えて、家電製品や自動車が家庭に入ってくる。ある意味では今回のテーマの「夢は叶う」を絵に描いたような時代だったわけです。その後の日本経済は、というのは最近の20年ということですが、「失われた10年とか20年」という標語に象徴されるように、成長スピードをガクンと落とし今日に至っているわけです。国の力を現す指標のひとつがGDP(国内総生産)です。GDPでは日本は恐らく今年か来年には中国に抜かれて、世界第三位に落ちるはずです。ちなみに第一位は米国です。まだ一人当たりのGDPでは日本は中国の10倍近い大きさですが、全体のGDPでは中国が上回ります。

 長々と前置きを語りましたが、要は日本が貧しいときから豊かになった現在までをジャーナリストとして、私自身が見てきたわけです。その話をすれば、人々の夢というものが1国の経済と絡んでどう変わっていくか、みなさんがわかるかもしれないと、考えたわけです。そんな話をこれからしてみたいと思います。

 新聞記者ですから言葉にこだわってみようかと思います。それぞれの話の冒頭や途中に私の好きな人々の言葉を入れていきます。その言葉は私がそのくだりで言いたいことを別の人の口、つまり他人の発言を借りて、言ってもらっているという位置づけになるはずです。


≪続く…≫



新井淳一さん略歴

1940年、仙台市生まれ。東大経済学部を卒業後、日本経済新聞社に入社。金融担に始まり通商政策、外交、景気、財政などを担当、1975年にNY特派員。帰国後は雑誌編集・編集局経済部長・東京本社編集局長を歴任、2008年、代表取締役で日経を退社。現在は社団法人日本経済研究センターの会長を務める。日本雲南聯誼協会会員。
夢は叶う―新井会長講演記@ [2010年08月06日(Fri)]
本日より、新連載がスタートしますびっくり

昨年の丘ヤス先生に続き、今年5月、当協会「25の小さな夢基金」で支援を行っている「昆明女子中学校」(中高一貫校)にて、「夢」をテーマにした講演が行われました。
今回の講師は協会会員のキラキラ新井淳一さんキラキラです笑顔
この講演のためにはるばる昆明を訪れてくださった新井さん。
当日は総勢160名の女子高生が、海を越えやってきた夢の伝道者の話に、
熱心に聞き入りましたメモ


この連載では、女の子たちを大いに勇気づけた新井さんの講演内容を、全16回に渡ってご紹介しますラブ





第1回 はじめに@

 お茶の故郷といわれる昆明に来ることができて、とてもうれしく思っております。「茶は南方の嘉木なり」と、唐の時代の文人で茶聖の名のある睦羽は760年ごろ著した「茶経」で書いています。その嘉木とされた茶の原産地は実は雲南省だと、日本の本で教わりました。お米もここから朝鮮を経由して日本に入ってきたという見方もあります。お茶にせよ、お米にせよ、現在の日本人の生活に絶対、欠かせないものです。私も毎朝、毎晩、お米とお茶をいただきます。その故郷でみなさん相手にお話ができるのは、ありがたいことです。

 今回、雲南省の昆明でみなさんのような若者を相手に、夢が叶うというテーマで話をしてくれませんかという依頼があったのは3〜4ヶ月前だと思います。正直、本当にびっくりしました。「なぜ、私が」、「私でいいの」という思いが、率直な感想でした。

 私自身、新聞記者を始めたのは45年前です。以来、ジャーナリストとして日本経済や政治、世界経済の動向を追い続けていますが、それ以外の世界は全く知りません。夢を語るといっても、中国のみなさん、特に昆明のみなさんの夢と、私自身が日本のジャーナリストとして追い続けていた夢との間にどれだけの共通点があるのか、分からないところもあります。

 しかし、よく考えてみますと、ジャーナリストとしての私の最大の取り柄は、貧しかった時代の日本を知っているということです。小学校の時代は、いまより60年も前のことですが、体育の時間はみんな裸足で運動場を走っていました。お金持ちで靴を買ってもらえる生徒もいましたが、半分以上の生徒は運動用の靴を買う余裕はありませんでした。大学時代、これは50年前のことです。幸い私のうちは裕福な方で授業料のほかに若干の小遣いまで親が出してくれました。しかし、学友の中には貧乏で、食事も学校の食堂で、3回に2回はごはんにお醤油をかけただけというのもおりました。


≪続く…≫



新井淳一さん略歴

1940年、仙台市生まれ。東大経済学部を卒業後、日本経済新聞社に入社。金融担に始まり通商政策、外交、景気、財政などを担当、1975年にNY特派員。帰国後は雑誌編集・編集局経済部長・東京本社編集局長を歴任、2008年、代表取締役で日経を退社。現在は社団法人日本経済研究センターの会長を務める。日本雲南聯誼協会会員。