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夢は叶う―新井会長講演記O [2010年12月10日(Fri)]

皆さんこんばんは笑顔
今年6月に「25の小さな夢基金」実施校の昆明女子中学で行われた新井淳一さんの講演会をご紹介するこの連載。
8月から始まりましたが、とうとう今日で最終回ですびっくり
皆さん、どんな形でも何歳からでも信じれば夢はきっと叶いますよびっくり




最終回 人生とは、幸せとは

「馬で行くことも、車で行くことも、ふたりで行くことも、三人で行くこともできる。だが、最後の一歩は自分ひとりで歩かなければならない」(詩人、ヘルマン・ヘッセ)

「人生にはどんなつらいことがあっても生きるに値する。それには3つのことが必要だ。勇気、希望、そしてサム・マネーだ」(喜劇俳優・チャップリン)

「幸せとは冷蔵庫の残り物だ。冷蔵庫を開けてそこにあるものでどんな料理が作れるのか。野菜炒め、カレー、寄せ鍋・・・いろいろ浮かぶ人は幸せだ。反対にこれではラーメンは作れない、すき焼きはだめと作れない料理ばかりを思い浮かべるひとは不幸せだ」(作詞家・秋元康)

「いわゆる学校の成績というものがありますね。それがなぜ実社会の成績とイコールにならないのか。その理由は学校では単科でしかものごとを教えてくれないからです。数学、国語という単科で評価されます。ところが実社会ではそれらの総合力で勝負しなければいけない。相互に関連付けながら単科を使いこなす教養が必要です」(作家・塩野七生)

さて今回はいちいち言葉の説明はいたしません。よく聞いて人生の先輩たちのいいたいことから、みなさん夢を考えてください。最後に私が作った言葉をひとつ紹介しましょう。70歳、論語でいう古希のひとの発言ですから、馬鹿にしないで聞いてください。

「人生は何事も思うようにはいかないが、ときには願うことよりもっと素晴らしいことがおこる。これが人生の優しさなのである」

みなさんいっぱい失敗しながら、夢を追求してください。






新井淳一さん略歴

 1940年、仙台市生まれ。東大経済学部を卒業後、日本経済新聞社に入社。金融担に始まり通商政策、外交、景気、財政などを担当、1975年にNY特派員。帰国後は雑誌編集・編集局経済部長・東京本社編集局長を歴任、2008年、代表取締役で日経を退社。現在は社団法人日本経済研究センターの会長を務める。2010年10月より日本雲南聯誼協会顧問。
夢は叶う―新井会長講演記N [2010年11月19日(Fri)]


第15回 中国の夢、日本の夢 ‐その4‐

 ところで最後に数字遊びをしてみましょう。中国のいまの経済成長のスピードは年10%です。途方もなく高い数字です。私は中国のこの高い成長率は当面は維持できてもそう遠くない将来維持できなくなるといいました。でも問題は「そう遠くない将来」とは具体的にいつなのかということです。仮に7年後とすると、人口が横ばいならば、みなさんの所得はその間の10%成長で、いまの2倍になっています。その後、7%までスピードが落ちるとします。それでもまた10年たてば倍増です。いまと比較すれば、4倍の所得になる。月給が4倍になるといってもよい。この世界は足し算ではなく掛け算なのです。

 日本では1960年ごろ、高度成長の開始時期ですが、時の池田内閣は所得倍増を唱えました。7%成長を10年続ければ月給は倍になるというのが根拠でした。実際には10年もたたないで倍増は実現しました。中国はいまこんな状況なのでしょう。実際にはこの数字遊びは通貨の価値も絡んできます。複雑になるから説明はしませんが、元がドルに対して強くなれば、その分、倍増にかかる期間が短くなります。

 言いたいことはみなさんの夢も実現しやすくなるということです。もちろん、自分の夢はお金と関係ないという生き方のひともいます。これもひとつの生き方で大切にしなくてはいけませんが、今回は私の専門が経済ということであえて取り上げておりません。


≪続く…≫





新井淳一さん略歴
 1940年、仙台市生まれ。東大経済学部を卒業後、日本経済新聞社に入社。金融担に始まり通商政策、外交、景気、財政などを担当、1975年にNY特派員。帰国後は雑誌編集・編集局経済部長・東京本社編集局長を歴任、2008年、代表取締役で日経を退社。現在は社団法人日本経済研究センターの会長を務める。2010年10月より日本雲南聯誼協会顧問。
夢は叶う―新井会長講演記M [2010年11月13日(Sat)]


第14回 中国の夢、日本の夢 ‐その3‐

 経済発展の歴史は、期間を長く取ればとるほど、面白くなくなります。どの国も結局、同じことということになるからです。20世紀全体、100年という物差しで各国の経済成長率を弾いて見ますと、先進国といわれる国はみんな2%前後になり、違いは出てきません。先進15カ国のうち13か国までが100年間、毎年、1.6%から2%で伸びていたという結果になっています。コンマ以下を四捨五入すれば2%です。

 その中でちょっと、違う傾向なのは日本が平均3%で高く、英国が1.4%と低かったことです。それはいまから110年前の20世紀の始まりでは、15カ国のうち日本が一番、貧しかったからです。反対に英国は当時世界1の豊かな国だったからといわれています。ケ小平氏の「貧乏だから白紙に絵が描ける」という利点を20世紀を通じて一番、享受したのが日本だったということです。その意味では中国の世界中が目をこらし拍手する大躍進は、成長のスタートが遅れたからということもいえます。しかし、スタートが遅れたことが躍進の条件ならば、アフリカのような国も成長がなくてはいけないことになります。現実にはアフリカはどん底経済が続いています。中国は基本的にケ小平氏に代表されるよき指導者に恵まれたから成長しているということでしょう。

 しかし、高い成長は30年の歴史的ジンクスもあります。夢の実現には成長の確保が何より大切です。中国経済が高成長を維持している間にみなさんは夢の実現を考えてもらいたいと思います。そして願うことなら、中国の成長がかつてのように沿岸部だけでなく内陸部を巻き込んだ末長い成長につながれば幸いです。隣国である日本にとってもありがたいことです。

≪続く…≫




新井淳一さん略歴
1940年、仙台市生まれ。東大経済学部を卒業後、日本経済新聞社に入社。金融担に始まり通商政策、外交、景気、財政などを担当、1975年にNY特派員。帰国後は雑誌編集・編集局経済部長・東京本社編集局長を歴任、2008年、代表取締役で日経を退社。現在は社団法人日本経済研究センターの会長を務める。2010年10月より日本雲南聯誼協会顧問。

夢は叶う―新井会長講演記L [2010年11月05日(Fri)]
こんにちは笑い
いよいよ冬本番ですが、新井さんの講演も佳境に入ってまいりました。
日本の若者も夢を抱くべしびっくり
第13回、どうぞご覧くださいませ〜ダッシュ





第13回 中国の夢、日本の夢 ‐その2‐


 日本の若者が海外に行くことに興味がなくなっているように見えるのも残念なことです。留学生の希望者が減っています。ハーバード大学の教授や準教授も日本人は一人しかいないと聞きました。恐らく中国人や韓国人は数10人単位で教授などになっていると思います。それだけ日本人は内向きになっているということでしょう。将来の日本を背負う人材が内向きなのは由々しきことです。私たち日本は教育から考え直さないといけないところまで、追い込まれています。正直、中国がうらやましいという気持ちです。もちろん、嘆いていても仕方ありません。若者が変わらないと、国が滅びます。

 それにしても問題は1万5000ドルの壁です。日本だけでなく世界でたとえば北欧諸国など、1万5000ドルを越えた国々は、人々の将来像から成長の意識ははっきり薄れてしまっています。経済が拡大し、毎年の給料が増えることよりも、自分の時間や趣味の世界、文化などへの関心が強いのです。しかし、「夢が叶う」という意味の夢ということなら、中国の人々の夢のほうがずっと分かりやすいと思います。生活が今日より明日は豊かになる確信、それを持てることは最高の幸せに思えるからです。

 歴史を見る限り、ひとつの国が高い成長を続ける期間は、どこでも30年です。日本が10%近い成長をとげたのも1960年〜90年の30年間でした。ドイツもそうです。中国の高度成長はケ小平氏の復活、登場の1980年ごろに始まりますから、もう30年高い成長が続いていることになります。中国の場合は沿岸部と内陸部の所得格差が大きい。ですから、経済的なフロンテイアが残されているわけで、単純に30年説を適応はできません。だがいずれにせよ、中国であっても成長する期間はある程度限られていることは事実でしょう。二桁近い成長は後5~6年、長くても10年以内でしょう。労働力人口も一人っ子政策の影響で、後4、5年で減少局面に入ります。しかし、当面は世界に冠たる高い成長スピードが保証されています。みなさんはこの成長を大事にして、夢を大きく膨らます必要があるでしょう。
≪続く…≫



新井淳一さん略歴
1940年、仙台市生まれ。東大経済学部を卒業後、日本経済新聞社に入社。金融担に始まり通商政策、外交、景気、財政などを担当、1975年にNY特派員。帰国後は雑誌編集・編集局経済部長・東京本社編集局長を歴任、2008年、代表取締役で日経を退社。現在は社団法人日本経済研究センターの会長を務める。2010年10月より日本雲南聯誼協会顧問。
夢は叶う―新井会長講演記K [2010年10月25日(Mon)]

こんにちはびっくり
少し遅くなりましたが、「25の小さな夢基金」講演会の続きをお届けします音符
夢とは、本当の豊かさとは―はてな
春蕾の女の子たちと一緒になって考えていきましょうキラキラ




第12回 中国の夢、日本の夢 -その1-


「貧乏とは変化を求めることができることだ。立ち遅れとは白紙のようなもので、これから良い絵が書けるという楽しみな面もある」(ケ小平元国家主席)

「一人当たりGDPが1万5000ドルを超える国では豊かさと幸福度はほとんど関係がない。1万5000ドルまでは豊かさは幸福感の因子として働いている」(米国のジャーナリスト、W・バーンスタイン)


 正直にいって私自身、中国の人々の夢はよくは知りません。しかし、中国はいま、高度成長を驀進中である。日本の高度成長時代は、人々の夢はGDPに象徴される豊かさと絡むものでした。中国の人々の夢が、成長と一体になっていることは十分、理解できます。賃金が上がる、よい家に住める、家電製品がどんどん家に入ってくる、旅行ができる・・・昨日より今日、今日より明日が良くなるという世界なのでしょう。

 雲南省はいま猛烈な勢いで経済が拡大していると思います。手元に統計がありませんから正確な数字は分かりませんが、沿岸部より内陸部の発展の早さが最近の特色ですから、二桁成長というところでしょう。また、当地昆明をベトナム、インド、カンボジアなど東南アジアの国に近い雲南省の中心ということから東南アジアのへそという声も聞かれます。日本の1960年代、70年代のような成長を伴う夢の実現が可能な社会になりつつあると思います。

 日本はいま、残念ながら成長の夢が薄れています。特に若い年齢の日本人かは、成長に伴う夢の実現を希望する声はほとんどなくなっています。現状にほぼ満足ということかもしれません。今日より明日が良くなるかどうかにはさほど関心を示していないようにも見えます。各種の世論調査などでも、日本の先行きに警鐘を鳴らすのは年寄り世代です。若者はのんびりしているという結果が出ています。いつの世でもおかしいのは若者、言葉、天気の3つとはよくいわれることですから、のんびりした日本の若者が将来、変身しないとは限りませんが、のんびり若者の背景には、バーンスタイン氏のいう1万5000ドル仮説が影響しているかもしれません。
≪続く…≫





新井淳一さん略歴
1940年、仙台市生まれ。東大経済学部を卒業後、日本経済新聞社に入社。金融担に始まり通商政策、外交、景気、財政などを担当、1975年にNY特派員。帰国後は雑誌編集・編集局経済部長・東京本社編集局長を歴任、2008年、代表取締役で日経を退社。現在は社団法人日本経済研究センターの会長を務める。2010年10月より日本雲南聯誼協会顧問。
夢は叶う―新井会長講演記J [2010年10月17日(Sun)]
こんにちはびっくり
金曜日の「中国神秘紀行」怒江はご覧になりましたかはてな
ヌー族の若いカップルが紹介されていましたが、10周年記念式典の際来日した春蕾クラスの劉慧娟さんもヌー族でしたねラブ
劉さんもちろん怒江出身ですドキドキ小

さて、劉さんも参加した少数民族の女の子のための講演会、引き続きご覧ください拍手



第11回

 企業経営では協力がキーワードになります。
 日本のトップ経営者のひとりで企業の再建や買収で成功をおさめた日本電産の永守重信さんという社長さんがいます。経営手法はトップ・ダウンのワンマン経営者でもあります。永守さんの言葉に「法螺を吹きなさい。そして努力しなさい。法螺がいつか夢になる。そうしたらもう一段、努力しましよう。すると、いつのまにか夢が現実になる」というものがあります。ところがこの永守さんでさえ、信条は経営はチームワークだというものなのです。末端の従業員まで、トップの考えていることが浸透する企業が、自分の夢を実現する企業であると、彼自身が思っているということだと思います。

 「100匹目の猿」という話があります。1匹が芋を洗う知恵を身につけ、仲間にも伝わった。どんどん芋を洗う猿が増え、100匹目にも伝わったあたりで、突然、違う群れにも同じ行動が見られるようになる。こうなると本物です。これは生物学上、進化ということだと思います。企業経営というのは100匹までいって始めて成功ということです。90匹では失敗なのです。必要なのは協力の精神です。私も1990年代後半から10数年は新聞記者というより、新聞の経営者でした。経営者としてはみんなの気持ちをひとつにすること、それができないと経営者の夢は絶対に叶うことはないと思いました。

 日本画家で千住博さんというひとがいます。千住さんと私はたまたま100匹の猿の話をしたことがありました。そうしたら、千住さんは「新井さん、それは美しい町をつくることと同じですね」と言いました。一人がゴミを拾う。2人から3人、それが10人や20人では何の変化もないが、100人になれば町が変わるということと猿の話は同じだというのです。大切なのは暮らしたいと思うひとがそこにいること、そして自分たち町を大切にする意識を持つこと、一人ひとりの美を求める力が必要だということ、これが千住さんの結論です。結局はチームワークであり、他人の協力が欠かせないということでしょう。

≪続く…≫





新井淳一さん略歴
1940年、仙台市生まれ。東大経済学部を卒業後、日本経済新聞社に入社。金融担に始まり通商政策、外交、景気、財政などを担当、1975年にNY特派員。帰国後は雑誌編集・編集局経済部長・東京本社編集局長を歴任、2008年、代表取締役で日経を退社。現在は社団法人日本経済研究センターの会長を務める。2010年10月より日本雲南聯誼協会顧問。
夢は叶う―新井会長講演記I [2010年10月09日(Sat)]
 皆様こんにちは!
 先週末はキラキラグローバルフェスタ2010キラキラでした。土・日ともお天気に恵まれクローバー 素晴らしいイベントとなりました笑顔 当日お越しくださった方、ありがとうございました。お越しになれなかった方も、協会ホームページに記事がございますので、そちらから雰囲気だけでも味わってくださいねラブ 
 さてさて、毎週金曜日恒例、新井さん「25の小さな夢基金」昆明女子高校での講演連載、更新です♪第10回目をお届けします。ウサギ





第10回 


 みなさんが、どんな夢の実現を考えるにせよ、ひとりの力だけでそれが叶うとは思えません。周りの人の協力がいつの場面でも重要だということです。もっとも私自身、入社直後から、周りの協力が本当に重要だと思っていたかというと、そうでもありません。いまから思えば、若気のいたりということで、反省しきりですが、結構、「オレがオレが」というわがままな記者でした。新人のときから先輩に負けるものかと思っていましたし、事実、負けていなかったと思います。書けば1面トップが続きました。入社5年目には、情報産業の将来に関して書いた論文が日本で当時、最も高い評価を受けていた雑誌中央公論の大賞を取り、世間でチヤホヤされました。有頂天になっていたのでしょう。その直後に絶対、してはならないミスをおかしたのです。三菱銀行と第一銀行の大銀行の合併という大きなニュースをライバル紙に抜かれてしまうのです。これについて最初、きっかけの小さなニュースをつかんだのは私でした。だが、周りの誰にも相談せず、自分の力だけで、ものにしようと考えたからです。ライバル社の総力戦に対して私はひとりで。それが失敗でした。

 みなさんはなぜ、そんなことに私が40数年たっても、こだわるかと不思議に思うかも知れません。しかし、大きなニュースを抜きたい、他社より先に新聞で報道したいというのは、新聞記者の最大の夢なのです。もちろん、日常でもニュースの抜いた抜かれたの競争はよくあることです。私もよく抜かれました。だが、金融を担当する記者として、銀行合併を抜かれるなどということは、屈辱以外のなにものでもありません。もっとも、このニュースをきかっけに日本では銀行合併が進み、今ではそれ自体珍しくなくなりました。だが当時は大型銀行の合併はきわめて稀なことで事実、戦後初のことでした。担当記者は首を切られても文句が言える筋合いではなかったのです。失敗の原因が、私の自分勝手な判断であったのです。それ以来です。私が周囲の力を借りないと失敗につながると、信じたのは・・・。

≪続く…≫





新井淳一さん略歴
1940年、仙台市生まれ。東大経済学部を卒業後、日本経済新聞社に入社。金融担に始まり通商政策、外交、景気、財政などを担当、1975年にNY特派員。帰国後は雑誌編集・編集局経済部長・東京本社編集局長を歴任、2008年、代表取締役で日経を退社。現在は社団法人日本経済研究センターの会長を務める。日本雲南聯誼協会会員
夢は叶う―新井会長講演記H [2010年10月01日(Fri)]
 皆様こんにちは!
いよいよ明日からと迫りましたグローバルフェスタ2010。準備の合間を縫って 新井さん「25の小さな夢基金」昆明女子高校での講演連載、更新です♪第9回目をお届けします。ウサギ





第9回 

 <夢を叶えるノウハウ・・その2、ひとりでは無理です>

 「5本の指がすべて形も大きさも違うから、かえって手は働きやすいように、現実世界に生きる人々はみんな能力、環境が違うから、お互いに助けたり、助けられたりするわけです」(松長有慶)

 松長さんは奈良の興福寺という日本でも一番有名なお寺のえらいお坊さんです。いかにもお坊さんらしい言葉ですが、私の長いキャリアの中でも、この言葉がぴったりする場面は数限りなくありました。夢を叶えるには、自分ひとりでは無理で、結局、みんなの助けを借りないといけないということです。

 新聞記者というと、みんな個性が強く、自分の思ったことを強く主張し、妥協はしないというイメージがあることは事実でしょう。しかし、実際の取材や編集の場面では、一人の記者ができることは限られています。第一、情報だって自分ひとりでは入ってくる量が少なすぎます。経済や政治という複雑な現象を正確に描くには、いろいろな情報を分析して、取捨選択する必要があります。新聞社の現場はチームワークなのです。自分が考えている状況は正しいのかどうか。他人の目で見てもらう必要があります。私自身、結構、思い込みの激しい人間です。自分の見方を否定されると、不愉快になります。しかし、仲間の注意のおかげでミスを防げたことは本当に多いと思っています。

 日本の新聞社の場合、一人の記者が書いた記事が印刷されるまで、最低でも4〜5人がチェックします。まずキャップ、自分たち記者仲間のヘッドです。ついで本社にいるデスク。彼は原稿の直しやどこの面にどのくらいの大きさで載せるかを決めます。載せないという決定も彼がやります。それが整理記者に送られ、見出しなどが付加されます。紙面になった段階では部長会でチェックを受けます。そして最終は編集局長の判断です。この間、字句や事実にまちがいはないかを校閲の担当者が見ます。要は他人の目によるチェック抜きには、新聞記事は存在しないのです。みなさんは面倒なことと思うかもしれませんが、新聞の力は社会的にとても大きく、小さな間違いまで許されないから、これは仕方がないことだと思っています。

≪続く…≫






新井淳一さん略歴
1940年、仙台市生まれ。東大経済学部を卒業後、日本経済新聞社に入社。金融担に始まり通商政策、外交、景気、財政などを担当、1975年にNY特派員。帰国後は雑誌編集・編集局経済部長・東京本社編集局長を歴任、2008年、代表取締役で日経を退社。現在は社団法人日本経済研究センターの会長を務める。日本雲南聯誼協会会員

夢は叶う―新井会長講演記G [2010年09月22日(Wed)]
 皆様こんにちは!
本日22日は中国ではキラキラ中秋節キラキラです。丸い月に家族円満を願い、家族で集まり、あるいは離れていても家族を想いながら、月餅(げっぺい)を食べる日ですパンダ
 東京事務局でも、支援者様から送っていただいた月餅をスタッフ一同でありがたくいただきました。日本の会員様や支援者様、そして支援をしている雲南の子供たちは大きな家族です。そんな家族のことを想いつつ・・・クローバー
 新井さん「25の小さな夢基金」昆明女子高校での講演連載、いつもは金曜日に更新をしておりますが今週金曜は協会東京事務局は臨時休業いたします。ので連休前に第8回目をお届けします。皆様もどうぞ家族のような雲南の子供たちを想いながらお楽しみ下さいウサギ





第8回 

 じつは発明、発見にはぱっとひらめく前に、その人がどんな問題意識をもっているかがカギなのです。問題意識、つまり、考えに考えて思い詰めるような状態にあって始めてひらめきがさえてくるということなのでしょう。それがなければ、情報もただの雑音です。ショックレー博士も考え抜いて思いつめた状態にあったから、偶然をプラスの成果にすることが可能だったということです。ちなみに、博士がトランジスターという真空管に代わる新電子部品を発明したと発表したのは1948年6月。ノーベル賞の受賞は1956年。発表記事をニューヨーク・タイムスはなぜか科学面でも経済面でもなく、映画欄に掲載した。そのわけはいまもって分かりません。

 英語に「マドリング・スルー」という言葉があります。直訳すれば「泥の中を通り抜ける」ということだが、先が読めない中でも、積極的に当面の課題に立ち向かいそれを切り抜けて大きな成果につなげることを意味します。一見、その場しのぎで済ますかの意味合いがありますが、18世紀の英国で生まれたこの言葉は、むしろ、その反対の概念で、冒険心や勇気をもってやれば、困難も解決するということなのです。
 みなさんも夢を叶えようとすると、余りに遠い夢なので、途方に暮れてしまうことも多いと思いますが、世の中の人々は、偉い人や成功者を含め、みんなが結局、毎日を「マドリング・スルーでやっている」と考えれば、多少は気が楽になるということではないでしょうか。

 私の親しい友人に囲碁の女流名人だった小川誠子さんというひとがいます。いまでは本当の意味の大家ですが、彼女はプロになる試験でつまづいたのです。15歳のとき、最初のプロ試験、最後の一局で涙をのんだ。2度目のチャンスは17歳、プロテストは1年に1回きりという緊張感で、ここ一番の勝負に負けて、また落第です。周りのひとたちは実力があるのに大事な場面で、なぜ、弱気になるのかと首をひねっていたのですが、師匠の木谷実さんが、このひとは日本の囲碁界の最大の実力者でした、「自分が怖いときは相手も怖い、勇気を出しなさい」といってくれた。その言葉が励みになって、3度目でプロ合格、彼女はその後、勝利街道を驀進です。囲碁の世界は天才たちの集まりで、プロ試験に2度も落ちる棋士は仮にプロになれてもあまり大成はしません。しかし、彼女は女流名人を獲得しました。師匠の言葉がよかったのでしょう。

 私も新聞記者生活でも、新聞社の経営幹部としても、この「自分が怖いときは相手も怖い」という言葉には勇気づけられました。人間は弱いものです。しかし、ライバルも同じように弱い人間である、というようにはなかなか思えません。みなさんがこれから夢の実現に向かう場合、覚えておいたほうがよい言葉だと思います。

≪続く…≫



写真


新井淳一さん略歴
1940年、仙台市生まれ。東大経済学部を卒業後、日本経済新聞社に入社。金融担に始まり通商政策、外交、景気、財政などを担当、1975年にNY特派員。帰国後は雑誌編集・編集局経済部長・東京本社編集局長を歴任、2008年、代表取締役で日経を退社。現在は社団法人日本経済研究センターの会長を務める。日本雲南聯誼協会会員

夢は叶う―新井会長講演記F [2010年09月17日(Fri)]
 皆様こんにちは!今週は東京も急に涼しくなりましたが、なんでも週末にまた暑さが戻るとか戻らないとか…まだ油断は出来ないようですね。事務局Mはいよいよあと半月に迫ったグローバルフェスタの準備でドキドキドキドキ小です。
 さてさて、新井さん「25の小さな夢基金」昆明女子高校での講演連載、第7回目をお届けしますウサギ





第7回 

 私はその中で金融、財政、産業政策、外交など、私たちの言葉でいえば、マクロの経済記者をやりました。海外駐在は1970年代後半の4年間のニューヨーク特派員、米国経済や国連外交を取材しました。経済部長、編集局長を経験、1990年代後半からは新聞社の経営を担当、副社長で退任、現在、日本経済研究センターというシンクタンクで政策提言などをやっております。

 長々と私の略歴を申し上げましたが、みなさんもどんな男がしゃべっているか分からないで聞いていただくのも、困ると思ったからです。要はここで言いたいのは、夢は普通なら、状況でよく変わるが、それでいいのではないかということです。私の場合は、医者、エンジニア、新聞記者。前の二つはいずれも自分の頭で考えたものではないと、ある段階で気づいたとたん、ぐらぐら揺れだしたものです。みなさんも夢という形の将来の志望を描く場合は、必ずそれが本当に自分の頭か出たものかどうかのチェックをやってもらいたいと思います。


<夢を叶えるノウハウ・・その1、チャンスに備えよ>

 「トランジスターはよく計画された研究から偶然生まれた」
(トランジスターの発明でノーベル賞を獲得したW・ショックレー博士)

 みなさんのいまの生活が、IC革命によって飛躍的に快適で便利になっていることは説明する必要もないと思います。そのきっかけを創ったのが米ベル研究所のショックレー博士らの研究です。それまでは真空管という図体の大きいものが、いまのICの代わりをしていました。

 彼がトランジスターの研究を始めたのは1930年代末のころです。彼の頭の中には真空管に変わる半導体という小型の固定増幅器があるという夢をすでに持っていたのですが、何回、実験をやってもうまくいきません。始めて10年、念願の増幅作用が確認されました。ところがよく調べてみると、うまくいったのは、自分たちが考えていた材料の結晶ではなく、結晶の表面処理を間違えたことが原因だったことに気がつくわけです。

 しかし、発明とか大発見というのは、たいていの場合、偶然が左右するものです。この偶然をものにできるかが勝負どころでしょう。一生懸命、夢を求めて毎日の努力をするから、ワンチャンスをつかむことができるということなのです。中途半端に毎日を過ごしていても偶然はキャッチできません。偶然のほうが、近づいてこないということかもれません。

≪続く…≫





新井淳一さん略歴
1940年、仙台市生まれ。東大経済学部を卒業後、日本経済新聞社に入社。金融担に始まり通商政策、外交、景気、財政などを担当、1975年にNY特派員。帰国後は雑誌編集・編集局経済部長・東京本社編集局長を歴任、2008年、代表取締役で日経を退社。現在は社団法人日本経済研究センターの会長を務める。日本雲南聯誼協会会員

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