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最新記事
恐竜。[2015年07月30日(Thu)]
train.jpg

こころの中の恐竜は
毒矢をお腹にかかえてる。

大きくて丈夫に見えるけど
クヮアオーンと
叫び声をあげるたび

その傷もまた
ズシンと、痛むんだ。
解す[2015年07月21日(Tue)]
hayama.jpg

解す(ほぐす)というは
「ほおずき」という言葉とも似ている

(「ほおずき」は「鬼灯」と漢字で書くと、急に遠くに感じるけれど
「ほぐす」だって「解す」にすると
急に、哲学か理科の時間みたい)

***

姿勢をよくするのに、どうしたらいいか
を調べていると

「自然に、力を抜いた状態をとる」
のがいい、とでる。

姿勢の悪さは
余計なところに力が入って、
無理がでている、状態なのだと

***

「エネルギーの無駄な消費」
は、人の中で、常に起こってる

そのことを改めて感じたのは

「目の見えない人は 世界をどう見ているのか」
という、伊藤亜紗さんという方の本を読んでいてのこと。

例えば、コンビニに立ち寄って
「うかうかしていると、公共料金を払いにきたのに
プリンを買ってしまったりする」というのは

目に情報が飛び込むゆえに
思わず、してしまいそうな、こと。

影響力から自由でいることは、
私たちが、人生を思いもかけないものに
消費しないでいるために
とても大切な、スキルなのかもしれない。

デジタルデトックス、というと、優雅なようだけれど
例えばそういうことも
切実に、サバイバル・スキルに関わること・・・
のように思えるのは

私がいま、
あらゆる意味の「味覚音痴」の危機に
陥っているからに、きっと、ほかならない。

***

「エネルギーの無駄な消費」について
一番つよく思うことは

怒り疑念、見栄だとか怖れみたいなものを
振り落としたら

もっと、さらさら、流れ出すよね、ということ。

怒りとか、なんとかっていうのは
とっても精神論的に聞こえるから、あれだけど

目を閉じてみたなら、
もし、何も耳に届かないならば

そういう、 "もしも"を通して

普段、自分が慣れ親しんでいる
"フィルター"の存在に
敏感になることは、
きっと、多くの
気づきをもたらしてくれることだろう。

***

フィルターの掃除
・・・って、実際、省エネにも、とても役立つし。

***

精神的盲目・難聴について ひとは案外、無自覚。

そんなとき、
見えない、聞こえない自分を嘆き、
矯正しようとする代わりに

こころの中の
エラー・リフレッシュ・モードのボタンをおしてみよう

ミントの雫を添えて。

***

追記:
本の中で紹介されている、脳性まひの小児科医・熊谷晋一郎さんによる
障害者の自立についての定義:
「自立とは依存先を増やすことである」

そして思う。

「あの、高い棚にある、あの本をとってください」
っていうくらい、少しのこころづかいで
交換できる「依存」を
増やしていくのがいいのだと思う。

それって、制度とかの世界じゃ、ないよね。
魔法の解き方[2015年07月12日(Sun)]
maxi712.jpg

人生のプロセスをリズミカルに進めてゆくひとの特徴として
「アンテナを多角的にはること」
そして「潔く手放す」というのが
セットになっていること、というのがあるようだ。

「アンテナを多角的にはること」というのは

高名な人からの言葉でも
身近な誰かのアドバイスであっても
神秘的な啓示のようなものであっても

一旦は、その全体を受け止め
潜在意識にインプットすること。

そしてそれを、
すべて、きれいさっぱり、意識から消すこと。

それが「潔く手放す」ということ。

出会うたびに
同じ悩みを、言葉を変えて口にするひとと、

あ、あの時とはもう、違うところにいるのだ、と
螺旋状に人生のプロセスを進めていくひととは

そんなところが違う。

いっぱい吸って、
心地よく吐き出す。

ああ、まるで、海のようだなと、
潮風の記憶を、肌に辿る。

***

鶴岡八幡宮。

夜、境内をあるくと「ほう、ほう」と声がする。
その正体を「アオバズク」というのだと、人から教えてもらった。

まあ。なんという、愛嬌のある顔をしているのかしら。

たとえば「もんもん」とした気持ちに捕まったような時
アオバズクの、あの、
ミツバチのような、はっきりとした
黒と黄色のつぶらな瞳で
首を傾げているようなさまを思い出すと

「ほう、ほう」。

なんだか、なんでも、
なんとかなるさと、思えてくる。

***

世の中には、
魔法をかけたがるひとが、たくさん

そして

魔法の解き方に気づかせてくれる人は
あんまり、いないような気がする・・・と、

「戦争は、始めるよりも終えるほうが難しい。」
という
自由と平和のための京大有志の会
の言葉を、反芻する。

***

戦争って、
何故だか、「こころあたりがある」存在。

***

「ほう、ほう」。
アオバズクの声は、遠くまで届くのだそうだ。

「ほう、ほう」
真似して返してみると、
ちょっとこちらを意識をして、
返してくれる「ほう、ほう」がかわいい。

魔法使いの手先のような
この賢げで存在感のある
アオバズクを思い出すことにしよう。

魔法の解き方を、忘れそうになった時には。
サトルボディ・ヒーリング[2015年07月12日(Sun)]
namisuna.jpg

プラサード・デイビッド・ワンドレス先生による、サトルボディ・ヒーリング(Subtle Body Healing)のトレーニング・セッションを受ける。

サトルボディ・ヒーリングとは、チャクラやオーラに働きかけるエネルギーワークで、トレーニングでは、瞑想を通じてハートにつながり、その限りない受容性・感受性をもって「いま・ここ」にあるものを受け入れ、ハートのシンクロニシティの状態=すべてがひとつである感覚の中で、ものごとが展開していくことを体験した。

ハートに手を置き、ガイド瞑想で、深くへ。
手のひらで、ハートのぬくもりを感じ
さらに、身体全体に意識を向けて
そこにある感覚に、自分を開いていく。

まるで、美しい庭が、ハートの中に展開しているように。
そこに咲く花に目をとめ、感じ、香りを深く吸い込む。

目が、耳が、手が・・・
感じるものすべてを、ハートを通じて、感じとっていく。

花の香りを、深く吸い込むように。
訪れた誰かのエネルギーをも、ハートを通じて、感じ取るように。

ハートの領域は
「ひとつである」感覚に通じている。
「ひとつである」からこそ
そこにある、すべてのことを、ただ、受け入れることができる。

自分自身と、出会うように。

ハートの領域は
シンクロニシティをもたらし
シンクロニシティの中で
ひとは、ますます、唯一無二の存在として
自分の生命を輝かせてゆく。

すべての生命の持つ
自然さで。

瞳を閉じて感じたシンクロニシティの世界を
ひとみを開け
日常の、暮らしの中へ。

すると・・・

そこに訪れるのは、どんな神秘の力だろう
湧き出ずるのは、どんな可能性の泉だろうと

研ぎ澄まされながら
ひととき、ひとときを生きるのは
なんて、素敵なことだろう。

そして、楽しく、嬉しいことなのだろう。
(まる)[2014年04月17日(Thu)]
IMG_0263.jpg

少し前の満月と同じように
沈む夕陽も 海を黄金色に照らしてた

海って
ずっと光を受けとめているんだね
呼吸をしながら
いいね
って 目を細める

(瞳の中にもだ・・・!)

まあるいもの

それがいのちを包んでいて
身体のすみずみを満たしていて

空にも海にも
ぷかぷか浮いているというのに気づき

秘密を知ったように
思わずどきどきしてしまった

まあるいもの

に、つつまれて
満たされて

そうして(いる)のか、私たち。

微笑むと
こころも
まあるいかたちに
ほわんとなった
けわしい生き方。[2014年04月17日(Thu)]
IMG_0262.jpg

チューリップが、はじけるように咲いている。

大きく、空を仰いで
生き漏らすことのないように
そのまま壊れてしまっても
悔いなど少しも 残ることがないように。

***

初めて会ったはずなのに
そうとは思えないひと
というのが、誰にもあるのは
どうしてだろう。

そういう時、たいてい
向こうの方も
(そうですねえ)なんて
同じように感じるのは
どういうわけだろう。

私は

私たちの記憶のすべては
大空とか、海の呼吸に
すうぅーーーっと吸い込まれて

その呼吸のなかで
世界はくるくる、かき混ぜられて

そうして一緒になったものが
私たちひとりひとりの細胞のなかに
呼吸から、ふたたび取り入れられていって

そんな
からくりがあるから
っていうのが、こたえのような気がする。

だからときどき
(この哀しみ)というのが
ほんとうは一体誰のものなのか
(あれ?)と分からなくなり
途方に暮れてしまう

***

(「言葉がなくて悩めない」という悩み)という文章を
インターネットでみつけた。

一日中
地面の(山あり谷あり)を
いろんな角度であるく
(ありんこ)が動くのをみている

例えばそんなことから
言葉は自然にわいてくるような気がする。

***

ここのところの関心は
(病の淵に 添えたいものは何か)

それはずっと、ぶれないことです。
分かち合いのこと。[2013年12月22日(Sun)]
IMG_0450.JPG

ひさしぶりに、日曜礼拝に足を運びました。

クリスマスが近づいていて、そのことが教会から遠のいていた人たちとの再会の機会を与えてくれるのだと、牧師さんは嬉しそうにいいました(そして、その言葉は、私を後ろめたさから救ってくれます)。

***

「クリスマス、おめでとう」

この教会を訪れるようになってから知ったこの言葉が、私はとても好きです。

聖書のものがたりを通じ、人のこころに触れ、私たちの心の奥底深いところを分かち合い、日常つい忘れてしまいがちである愛の懐の深さを思い出す。キリストの降誕は、そのような静かで慎ましやかなこころの対話を象徴するメモリアルなのではないでしょうか。

***

クリスマス礼拝と名付けられた本日の礼拝で紹介されたのは、ルカによる福音書第15章に紹介される『放蕩息子』の一節でした。

父親から財産を等分に分け与えた兄弟のうち、弟は、財産を手にするや、家をでて、放蕩の後にそれを全て使い果たす。やがて豚の世話人となって、その餌で飢えを凌ぎ暮らすことになるが、最後には父親のもとへと戻る決心をする。

「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」

そう伝える息子を、父は哀れみを持って迎え、最上の着物や子牛などを持ってもてなす。

「このむすこは、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」。

これを、畑から戻ってきた兄が目撃し、長年誠実に仕えてきた自分は子やぎ一匹も授かったことがないのに、何故放蕩した弟にはそのようなもてなしがあるのかと伝える。

それに対し、父はこう応える。

「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである」


***

「もしも、弟が戻ってきたときに、出迎えたのが兄であったならば、どうだったでしょう」。説教の中で、牧師さんがこのように問いかけました。私たちが心の奥で、密かに願っているのは「赦しを乞われること」ではないでしょうか。もしも兄が直接弟から謝罪され、赦しを乞われていたら、ましてやあなたの雇い人の一人としてくださいなどと言われていたら、悪い気もせず、受け入れたのではないでしょうか」

兄の存在があることで、このものがたりは、なんと深いところまで、愛について私たちに考えることを求めるものとなったことでしょう。

人の心の穏やかさ、赦すこと、受け入れること、あるいは絶対の愛への信頼は、他者の存在によってこんなにも揺るぎうるものなのだということを気づかされ、はっとさせられたひとときでした。

***

「となりの、誰か」の存在を抜きにして、信仰というものは、愛というものは、語りうるものなのでしょうか。

放蕩息子に関して、オランダの画家、レンブラント・ファン・レインが作品に表現しているそうです。『放蕩息子の帰還』。それだけではなく、結婚して間もなくの時期に描いた自画像にも、『放蕩息子』の作品の中に位置づけられているとのこと。光と闇の作家は、眼差しの向こうに、何を見つめていたのでしょう。

描かれていないところにメッセージを追い求める。創造主はつねに、そういったことを好まれるように思います(かくれんぼ・のように)。

「となりの、誰か」。それは、なおも認められたいと病まないこころの奥底の欲求に、気づかせてくれる存在のことかもしれません。もしかしたら(出来ることならなかったことにしておきたい)自分のことなのかもしれない。

***

いま、世の中で起こっているいろいろのことがらは、「分かち合い」という言葉で(その質的分類により)整理されうるのではないかと、なんとなくながら核心的に感じています。何故なら「分かち合い」は、無意識のうちに、普遍的に起こっている現象だから。

自分の真ん中にあるものを見失わず(つまり、決して奪われずに)分かち合うことを通じて、浄め合ってゆくこと。私たちが心の奥底で望む(調和)とは、つまり、そういうものではないでしょうか。

(写真は、どこかへとつながる、段と手すりを持った道。空気の冷たい夜に写しました)
響き[2013年11月17日(Sun)]
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気がつくと交信のやり方がこれまでと少し変わってきた。

いつ、どこで、誰に

時間と共に、対象を意識する会話。

相手の都合を考えずいつでも発信できるネットの世界では、この感覚は薄れてくる。
だから敢えて

いつ、どこで、誰に

を意識してみると、時や風景に鮮やかさが取り戻されるような気がした。
秋風が新呼吸を、大地の香りを、思い起こさせてくれるように。

***

昨日久日ぶりに合気道の稽古に出席した。
よかった。言葉にできないくらい、いい。全方位的に。

全体稽古の後、自主稽古をしている人の、受身で畳に叩き付けられる響きを聞いて
「自分が細胞だったころ」を思い出したような、不思議な気持ちになった。

響き;Resonanceとは、深い言葉だ。

コミュニケーションは誰のものでもない。
我が在る姿 ーそれはまさに、時そのものではないか。

星の降る夜。呼吸を意識する。
風、立ちぬ。[2013年10月02日(Wed)]
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安心して。人生は、計画通りにはいかないから。
わたしと居場所[2013年09月13日(Fri)]
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出かけることの多い日々です。

今週は初めて、山陰地方に足を踏み入れました。鳥取、そして島根へ。あっというまの二日間でしたが、ご縁がご縁をたぐり寄せ、次々と道が拓けていったのは、さすが、この土地の神様の縁結びのお力なのだと感じ入ります。うまくゆく、というのは「ひるまずに、あかるく、かろやかに」ということなのかもしれないと、この旅を終えて思いました(出張、だけれど、旅と呼びたくなるような時の重なりでした)。

***

「ほんの少しでも、変えてみるといいのにね。いつもの自分の日常を」。

それは、例えば、目を覚ます時間、着る服の色、口にする言葉、なんでもいいのだと、とある方から伺いました。そういう、ちょっと「いつもの自分と違うこと」をするだけで、自分の知らない自分、日常にであうことができる。そうしたら「どうしたらいいかわからない」なんて言葉、すがるように、他人に投げつけなくても、大丈夫になる。

そういうことを、考えてか、考えていなくてか。

羽田から鳥取に向かう飛行機の中で、どういうわけか「紙おむつ」のことを考えていました。紙おむつ。していたら、たしかに、おもらししてしまっても、平気かもしれません。けれども「あの、トイレにいきたくて」と尋ねたときに「でしたらお客さま、紙おむつを履いておけば、安心です」なんていわれたら、果たしてそれは安心なのでしょうか。

福祉士をしているともだちから、おむつを履いてお漏らしをする、という研修のようなものの話をきいたことがあります。「大丈夫よ、漏れたりしないから」。例えば足を痛めたりして歩けなくなったひとに、おむつを履かせて、そう言ったとしても、実際におむつのなかに用を足すのは、なかなか、できることではないのだそうです。心が、頑にそれを拒む。心と身体が、一致団結して「私」というアイデンティティを形成していることを、思い知るのだと、そのともだちはいいます。「私の行動規範」は、こころを身体が決めている。機能のことでも論理性のことでもなく、「私」という意志が「私」の行動を導いてゆく。

***

私は最近、合気道をやりながら「私ってどこにいるの?」ということをとても不思議に考えています。この手を力ませるのも、足をこんな風におりたたむのも、激しい息切れも気づかぬほどに夢中になるのも、考えごとごとをしてしまうのも、全部、ぜんぶ、自分。でもいつ、誰が、そんな風にせよと私に決めたのかわからない。「私」は「私」の身体のどこにでもいて、どこでもつかみきれなくて、私という言葉や概念を、つくりだしたりもしている。

誰にも気づかれぬように、密かに、紙おむつをして一日を過ごしてみたとします。それをはいていることの目立たぬ服装をして、何気なく電車にのり、当たり前のようにまちの中を歩いてみる。

「大丈夫だよ。それ、つけているから、困ったときがあっても」

そういわれたところで、私は本当に「大丈夫」なのだろうか。はたしてその「大丈夫」は、私を安心させる「大丈夫」なのだろうか。

***

やけにいのちめいた空間になんども遭遇したためか、どうにも、身体のことが気になってならない山陰での日々でした。

***

「大丈夫、夜中、トイレに起きようとして転んでしまったりしないように、おむつ、履かせておいたから。お漏らししても、大丈夫だからね」

こころの中に、その言葉が、ひとりぼっちの暗闇のなかできいたみたいに、繰り返し大きく響いてきます。

じっくり、ゆっくり。細胞のひとつひとつに意志を向けているうちに、いつか私も、「私」の居場所を突き止めることができるのかもしれません。
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