"教える" と "Power With"[2017年02月15日(Wed)]
"教える"あるいは"教えたい"という言葉について感じていることを記しておきたい。
何故って?
"教える"は、しばし、権力構造をもたらしやすい環境の再生産となる。
"教える"側は、つい、"あなたよりも知っている人/先人"ぶりたくなるし
"教えられる"側は、"教えられたことを受け入れなくては申し訳ない"気持ちに陥りやすい。
いや、"陥らせやすい"。そんな心理的構造に、私たちはとても馴染み深いのではなかろうか。
目指す世界観が"Power Over(力による支配)"から"Power With(調和に)"であるとき、このことに敏感であることはとても大事だ。
何故って?
"慣れ"とか"自尊心くすぐられる心地よさ"は、自己矛盾を鵜呑みする習慣につながっちゃうかもしれないもの。
"教える"は、私は好きではないことば。
"学びが起こる空間に働きかける"とか。
"気づきの目撃者になる"とか。せいぜい、そんなくらいじゃないのかな。
"学び"って、その人らしい生命力がいきいきと発揮されることにつながる道のこと。でもそれって、誘導して起きるものじゃない。その絶妙なバランスが、アートなのだと、私は思います。
学びは、アートなんだよ。
こういうことを考えていると、私は、衣服を脱ぎ変えたような気持ちになる。
カチッと仕立てられた既製品の服を、自分のサイズに合わせてプラスアルファの料金を支払い袖を直してもらって。追加でかかった料金分だけ(標準仕様にあっていない)ことを残念に思う。
という感覚から
自分のしたいこと、スタイルに合わせて、自在に形を変えて身にまとってよいのだよ、という創造性の着物へ(それは、テキスタイルも喜ぶ世界)。
身体感覚から生まれる言葉の愛おしさ。それにどれだけ出会えるかということも、人生の冒険のひとつだ。
残された人生でできることを考えたら、ほんとうに、フォーカスって大事だな......と感じいる。
苦手と思う空間や人間関係の只中にいるときさえも、"学び"はとまってくれない。しかしながらそれが起こっていないと思うのは、きっと、現在以外の何かに忙しすぎて、いま・ここが目覚めていないから。
今朝目にした、小野寺愛さんのこちらのエントリー(ポートランドから来日したMatt Bebeauに、社会の変え方を聞きました)が、とても心に響きました。
追記:
辞書より、teachという言葉の意味
1. To impart knowledge or skill to: teaches children.
2. To provide knowledge of; instruct in: teaches French.
3. To condition to a certain action or frame of mind: teaching youngsters to be self-reliant.
4. To cause to learn by example or experience: an accident that taught me a valuable lesson.
5. To advocate or preach: teaches racial and religious tolerance.
6. To carry on instruction on a regular basis in: taught high school for many years.
追記2:
昨日の(政府系事業の)会合の間、私はずっと"学び"とはなんだろうと思っていた。
自分の心の中で感情がせわしなく動き、それがたえず、自分が"何を見まいとしているか"を教えてくれていた。"目を背けたい"、あるいは"そうではない"と感じる気持ちの中に、扉をひらくヒントがある。