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早川理恵子博士
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ゴーデフロイ家 ユグノーとナントの勅令 [2012年10月27日(Sat)]
 ビスマルクが南洋に乗り出すきっかけともなった「南洋の王』ゴーデフロイ家。ハンザ都市、ハンブルグの商人である。wikiでフランスのユグノーである事を見つけ、チラッと書いておいた。

280px-Francois_Dubois_001.jpg

「サン・バルテルミの虐殺」 フランソワ・デュボア作


 小室直樹著『日本人のための憲法原論』にこのユグノーがちチラっと出て来る。
 ユグノー(プロテスタント)、ヨーロッパの勢力均衡を動かす重要な存在だった。

150px-HenriIV.jpg

アンリ4世


 新教と旧教の壮絶な戦いの後、1598にアンリ4世が発布したのが「ナントの勅令」

”ユグノー戦争は急速に収まりを見せ、フランスの国家統一の出発になった。国家財政も安定し、17世紀のフランスの大国時代を作り上げた。” 
 とwikiにある。

 ところが1685年、ルイ14世がこの勅令を廃止。
 ユグノーは金融業・商業・工業の発展に大きく寄与し、ナントの勅令廃止後その技術と資本がイギリス・オランダ・スイス・ドイツに流出。当時、フランス人口の15人に一人がユグノーだったという。
 結果隆盛を極めたフランス経済は衰退する。そしてヨーロッパの遅れた地域であったプロイセンが大きな経済力を持つに至ったのである。


225px-Louis_XIV_of_France.jpg

太陽王 ルイ14世


 このユグノー海上交易でも活躍していた。
”ラ・ロシェルやボルドーにおける海上交易の発展にもユグノーは多大な寄与を為していた。ボルドーにおいては主にイギリス・オランダとの交易を担い、ラ・ロシェルにおいてはナントの勅令直前まで貿易は彼らの独占状態にあるという有様であった” 
wikiより(金哲雄『ユグノーの経済史的研究』pp.66-67)

 ゴーデフロイ家が上記の海上交易に関与していたかどうかわからないが、ラ・ロシェル出身だそうだからその可能性も捨てきれない。このユグノーと南洋の経済開発、また米国との関係も紐解くと面白そうだ。


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ゴーデフロイ家の出身地はラ・ロシェル、海上交易に関与していた可能性は大


 アメリカの太平洋の世紀。いよいよ中世の宗教戦争まで辿り着いてしまった!
鉄血宰相ビスマルクに愛された太平洋(4)郵船航路補助法案 [2012年10月26日(Fri)]
(この「鉄血宰相ビスマルクに愛された太平洋」は高岡熊雄著『ドイツ南洋統治史論』を参考にまとめています。)

 
250px-Norddeutscher_Lloyd_emblem.svg.png

Norddeutscher Lloydのロゴ



 ビスマルクの植民地政策は、フィジー問題よりもサモア問題、サモア問題よりも郵船航路補助問題と、一歩一歩前進するごとに、より強硬に、より粘り強く、より大胆になった、と高岡博士は分析する。

 統一されたドイツの製造工業は年とともに隆盛し、その製品を豪州、アジア諸国にまで輸出する事になった。しかし当時のドイツの航海業は発達しておらず、イギリス所属の船舶便に貿易、郵便、ドイツ人の移動を頼らざるを得ない状況であった。


 当時ドイツはアメリカ向けの定期航路が10、東亜向け貨物輸送航路が1、アフリカにスローマン線、西アフリカにウェールマン線があるのみでった。

 1884年ビスマルクは皇帝ヴィルヘルム1世の裁可を得て、ドイツと東亜及び豪州間の定期郵船航路を開くための郵船航路補助法案を帝国議会に提出した。

 法案はサモア補助法案同様、一度は帝国議会に葬り去られたが、国民からビスマルクに送られた激励後援は多数に昇った。かくして同年10月に行われた総選挙ではドイツ自由党は114人から74人に大きく数を減らし、政府与党に少し有利な状況となった。

 途中のビスマルクの交渉の努力は割愛して、結果は1885年4月6日郵船航路補助法案は修正を経て法律として公布された。
 5日前の4月1日にはビスマルクの70歳の誕生日と宰相としての勤務20年が国民により祝賀されている。

法律の要点は下記の通り。

1.補助航路 A. 東亜航路、B. 豪州航路、C. 支航路
2.これらの定期航海に対し期限15年、補助金1カ年400万マルク以内を条件に国庫補助金を公布
3.定期航海は少なくとも4週間に1回であること
4.船舶は同一航路にある外国船に比べ、建造及び装備の点において劣らないこと
5.速力は一時間少なくとも11半ノットであること
6.航海に用いる新造船は、ドイツにおいて製造されたものであること
7.船はドイツの郵便物を輸送すること。ただし郵便掛員は無賃とすること
8.定期航路は契約締結後遅くとも12影ヶ月以内に開始すること
9.本規定による航海業が、多額の純益を上げる時は、政府はさらに速度及び航海回数の増加を命ずるか、または補助金の減額をなすこと。

 本法律に基づき、北ドイツロイド会社をドイツ政府は指定し、補助金を交付した。


300px-Kaiser_wilhelm_der_grosse_01.jpg

Norddeutscher Lloyd所有のカイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ 初めて第一次世界大戦で撃沈された民間船



 明日から出張のため、このビスマルク連載はしばらくお休みするかもしれません。次回はマーシャル諸島を予定しています。
鉄血宰相ビスマルクに愛された太平洋(3)<サモア問題、ゴーデフロイ商会救援問題> [2012年10月25日(Thu)]
(この「鉄血宰相ビスマルクに愛された太平洋」は高岡熊雄著『ドイツ南洋統治史論』を参考にまとめています。)


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ヨハン・セザール・ゴーデフロイ Johan Cesar VI. Godeffroy



 ドイツ人が太平洋の進出したのは意外と早かった。しかし、当時ドイツの統一(1871年)を見る前であった事、国家としての植民地進出よりも個人、もしくはグループによる商業活動が主たるものであったため、ドイツ国家としての植民地活動の記録はない。
 その中でも「南洋の王」と呼ばれたゴーデフロイ商会が有名であった。
 本商会は1766年にハンザ都市に設立。ヨハン・セザール・ゴーデフロイが相続した。ゴーデフロイ一家はフランスのユグノーでナントの勅令の廃止でドイツに避難した一家である。まさにマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の代表格であろう。

 ゴーデフロイ商会ほか、ドイツ統一(1871年)以前のドイツ人による南洋での活躍も高岡博士は詳細に記述しているので、別の項でまとめたい。


 さて、この「南洋の王」をビスマルクが救出する必要が発生した。
 ゴーデフロイ商会は1857年以降、独力でサモアを拠点としてコプラ取引などでその興隆を極めた。しかし1870年代になってコプラ価格の急落と、欧州での鉱山業の失敗等が原因で経理上の困難に陥る。南洋でのドイツの権限は英国の手に渡る可能性が濃くなるに至り、いよいよ政府の支援を求めたのである。

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サモアのドイツ領事館 1879 年ドイツの保護市とした


 ビスマルクは当時、英国、豪州、ニュージーランドが南太平洋を統治し、イギリス南洋帝国を建設しようと企んでいることは周知していた。英米との協議を経てサモアに築いたドイツの保護市もゴーデフロイ商会なくては後ろ盾を失う事になる、即ちドイツの政治的、経済的勢力に及ぼす影響は必須であると判断。ゴーデフロイ商会を支援し、ドイツの南洋での勢力維持、拡大をすべきと決心した。

 1880年1月1日、ビスマルクはプロイセン大蔵大臣宛にゴーデフロイ商会救援の書簡をしたためた。この手紙はビスマルクがドイツ植民地政策につぃて始めて積極的な意見を開陳したものであり、1880年1月1日をもってドイツ植民地政策が始まったと主張する者の根拠となっている。

 ビスマルクが取った支援策は、”国家の与える利益保証にもとに、新設の会社をして商会の行って来た事業を引き継ぎ実行せしめること”、であった。
 ビスマルクは海外における領土拡張をも反対していた「自由主義」から保護主義に、時代の要請に合わせ大きく舵取りをしたわけである。
 
 しかしながら自由主義が未だ優勢を占める帝国議会では、一商会を国家が救援するとは何事だ、との反対意見が多数を占めた。結果、反対128票、賛成112票の16票差でサモア補助法案は否決。(1880年)

 このドイツのサモア補助法案否決に反応したのが英仏である。
 イギリスはドイツ人が商権を握るロツマ島をフィジーの併合し、ドイツのこの島への航海を禁止。船はフィジー島の英関税港に寄港すべしとした。
 1881年フランスもドイツの商権があったライアテア島をフランスのタヒチ保護領とし、フランス国旗を掲揚するに至った。
 またドイツ帝国議会がビスマルクのサモア補助法案を否決した背景に、ビスマルク自身への私怨、党派的感情があった事が国民に広く知れ渡る事となった。

 ここに、ビスマルクの南洋統治策ーサモア補助法案は帝国議会では野党に敗れた者の、広く国民の支持を集めるに至った。ビスマルクはこの好機を逃さず、再び南洋でのドイツの勢力の発展に自ら画策、直接遂行するに至る。これが郵船航路補助法案である。
 次回、「鉄血宰相ビスマルクに愛された太平洋(4)」は郵船航路補助法案です。


 ところで、ゴーデフロイ商会はどうなったのか?ドイツ南洋貿易栽植会社に組織変更し、有力な資本家の後援を得て独力で再興。1898年から社運は恢復し、1900年頃から1913年の第一次大戦直前まで利益配当は10%前後を維持した。背景にはビスマルク、皇帝陛下らの支援もあった様子である。
鉄血宰相ビスマルクに愛された太平洋(2)<フィジー島問題> [2012年10月24日(Wed)]
(この「鉄血宰相ビスマルクに愛された太平洋」は高岡熊雄著『ドイツ南洋統治史論』を参考にまとめています。)

 植民地政策には消極的であったビスマルクが、ドイツの基本国策を大陸政策から世界政策に変更したきっかけは、アフリカでもアジアでもなく、また南アメリカでもない、南洋諸島であった。
 ビスマルクが南洋諸島をドイツの植民地にすべく動く以前に、その動機ともなるべく3つの事件があった。1874年のフィジー問題、1880年のサモア問題、そして1881-1884年に発生した郵船航路補助問題である。

<フィジー島問題>
 イギリスがフィジーを占領したのは1874年10月10日。イギリスが同島を占領した時、すでに1860年頃からこの島に居住し、実際に農耕に従事しつつあったドイツ人の土地所有権について何ら考慮を払う事なく、その権利を否認し、追放しようとした。
 ドイツ政府は英国政府に土地の所有権を承認すべく何度も交渉を試みたが、回答がないどころかフィジー島でのドイツ人の権利は次々に英国の手に渡っていった。
 ビスマルクはこのフィジー問題を暫く傍観していたが、将来イギリスがこのような対応をした場合の対策として南洋諸島の酋長と友好条約を締結し、他国に占領されることがないよう、対策を講じる事は忘れなかった。

 ビスマルクが最初に友好及び最恵国条約を締結したのは、当時ニュージーランドが虎視眈々と狙っていたトンガである。1876年10月27日のことである。
 これによってドイツはトンガに対し、通商及び航海の自由権を獲得し、ドイツ領事の駐在権を承認せしめ、海軍用貯炭場としてババウ島の港湾と土地を獲得した。ドイツは初めて公の海軍基地を海外に所有する事となった。1876年をもってドイツの植民政策が始まったと主張する人の根拠である。

 同様に1877年と1879年にはサモア、1878年にはエリス・ギルバート諸島(現在のツバル、キリバス)、同年マーシャル、ラリック、ヂュークオブヨーク島、ニューブリテン北岸、ソサイエティ島の酋長、女王と夫々条約を締結した。

 従来自由主義に則って行動していたビスマルクであるが、ここに至って断固たる決心を持って植民地問題を主導する事となった。君子豹変。
 フィジー問題は3年の間進捗がなかったため、ビスマルクが英国に対し、より強硬な対応を取るに至った。最終的にそれまでドイツ政府からの要請を再三否定、無視してきた英国はドイツ人の所有権を認め円満な解決を見るに至った。

 これを機に、ビスマルクとドイツ政府及び国民は、植民地政策に自信を深くし、前途に一種の光明を与える結果となった。


 次回は<サモア問題>です。
更新メールのご案内 [2012年10月23日(Tue)]
 弊ブログ、不定期にも拘らず、毎日100人近い訪問者をいただき感謝しております。
 継続する励みになっております。

 現在、財団関係者を中心に更新のご案内メールを出させていただいておりますが、同案内メールご希望の方はご連絡ください。

 下記コメントにメールアドレスと、「更新案内メール希望」と入力し送信してくだされば、登録します。
 なお、コメントの内容は当方が承認後にウェッブに出ますので、メルアドが公表される事はありません。
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鉄血宰相ビスマルクに愛された太平洋(1)ドイツ統一と植民政策 [2012年10月23日(Tue)]

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245px-Franz_Schubert_by_Wilhelm_August_Rieder_1875.jpg250px-Robert_Schumann_1839.jpgimages-2.jpeg250px-Beethoven.jpgHaydn_portrait_by_Thomas_Hardy_(small).jpg250px-Bach.jpg

 音楽高校、音楽大学出身の自分にとってドイツは遠い存在どころか、バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、シューマン、シューベルト、と身近も身近。第一外国語はドイツ語だったくらい。
 しかし、ドイツの歴史を全く知らなかった。ドイツが統一されたのが1871年。これを成し遂げたのが「鉄血宰相ビスマルク」である。

 ドイツとオーストリアの関係がよくわからなっかたが、大ドイツ、小ドイツ論争でやっと見えてきた。この問題、ご当地でも未だに議論されている。2006年にモーツァルトはドイツ人か、という論争がオーストリアとドイツで繰り広げられているというから根は深い。


 さて、1848年の革命以降、ヨーロッパの体制が大きく揺るぎ始めた。この革命と第一次世界大戦を機に米国に移民したドイツ人は600万人を超える、という。米国最大の移民はドイツ人。ここが大事。

 「鉄血宰相ビスマルク」と言われるのとは裏腹に、彼の植民政策は慎重であった様子を高岡博士は同書で敷衍している。これを端折ってまとめる。
 1つにはドイツが統一された時には既に英国、フランス、オランダが主要な海外領土に植民していたこと。
 2つに3つの戦争を経て統一されたばかりのドイツは疲弊しており、海外植民をする程の国力はなかった。
 3つにヨーロッパ中央に位置するドイツは近隣諸国の勢力均衡を保持するのが精一杯。海外領土なんて、とてもとても。
 4つにドイツの海軍力はまだ弱かった。海軍なくして海外領土の管理なんて、とてもとても。
 最後に18世紀から10世紀にかけてヨーロッパの政治界及び経済界を風靡した「自由主義」はドイツをも支配していた。自由主義は海外における領土拡張を反対していたのである。


 逆に強硬な植民地政策を推し進めたのはビスマルクを退かせ、第一次世界大戦を招いたヴィルヘルム2世であった。

 それにしても日本に天皇制が残って、未だに機能しているはまさに奇跡である。


 次回は、慎重派のビスマルクがその態度を変える事となった3つの事件1874年のフィジー問題、1880年のサモア問題、そして1881-1884年に発生した郵船航路補助問題を端折ってみたい。

 
鉄血宰相ビスマルクに愛された太平洋(前口上2)ー高岡熊雄博士 [2012年10月17日(Wed)]
 「鉄血宰相ビスマルクに愛された太平洋」、前口上が続く事になるが、まずはビスマルクを敬愛してやまなかったように読める『ドイツ南洋統治史論』の著者、高岡熊雄博士について触れておきたい。




 戦前戦後の日本は、政経学夫々の分野のベストアンドブライテストが命をかけて太平洋のちっぽけな島を研究していた。東大総長矢内原忠雄しかり。東急総裁五島昇しかり。そして、第3代北海道帝国大学総長もつとめた高岡熊雄博士である。

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高岡熊雄博士


 以下の情報はウィキペディアに依る。
 高岡熊雄博士は明治4年、津和野藩士高岡道敬の次男に生まれる。
 父、高岡道敬の詳細が見つからない。多分下級武士であったのであろう。明治以降の日本は地方の下級武士の禁欲的行動精神に寄って支えられて来た。吉田松陰、坂本龍馬、伊藤博文しかり。

 島根を出て、札幌農学校予科で新渡戸稲造に師事。新渡戸稲造との出会いが高岡熊雄博士の人生を変えたことは想像に難くない。
 1901年から3年半のドイツ留学をする。

 高岡熊雄博士は、日本の農業経済分析に統計学的手法を導入し、余った農民のために移民と植民・移植民をやらなければならない、という立場であった。しかしながら”「本国に対する政治的従属関係」を重視する東大・京大の植民政策学と異なり、農業移民をいかに定着させるかという「拓殖学」の性格を色濃く有していた”。 

 同じく札幌農学校を卒業した兄の直吉氏は島根県知事・門司市長・初代札幌市長を歴任している。
10歳年上の兄が弟の熊雄を札幌に呼んだのであろう。家族と師に恵まれたわけだ。

 『ドイツ南洋統治史論』の扉には「50年の長い間 内顧の憂なく 専心研学に 従事せしめた わが妻に」とある。妻にも恵まれた高岡熊雄博士であった。(同じ学者の妻としては耳が痛い)
鉄血宰相ビスマルクに愛された太平洋(前口上) [2012年10月16日(Tue)]
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鉄血宰相ビスマルク


 太平洋と言えばアメリカである。
 このブログでは「海のウルカヌス」というカテゴリを設け、思いつくまま、気が向くままに米国の動き書き留めている。

 第一次世界大戦後、南洋諸島が日本に委譲された事に激震、激怒したのがアメリカである。軍縮会議として有名なワシントン会議だが、米国は「太平洋極東問題」も議案にあげた。ベルサイユの会議でも軍縮は議論され、日本は軍縮には異論はなかったが「太平洋極東問題」が白人の共同謀議である、と悟り参加を検討した背景がある。
 「太平洋極東問題」とは主に中国問題だが、ヤップ島の海底ケーブル問題もあった。米国にとって経済的死活問題であったのだ。

 ここら辺の事情を調べようとしていたら、Yamato Ichihashi著 "The Washington Conference and After" (1928)という本に出会った。
 太平洋に於けるドイツの権益と米国の権益は結びついていたのである。で思い出したのが数年前に福沢諭吉を2枚くらい出して手に入れた『ドイツ南洋統治史論』(高岡熊雄著、昭和29年)。読もう読もう、と思いつつその緊急性がなく積ん読していた本である。この2週間ほど、この2冊の本に翻弄されている。


250px-Karta_PG_Bismarck_Archipelago.PNG

ビスマルク諸島


 現在、太平洋に国家としてのドイツの存在は殆どない。しかし、至るところにドイツの名残がある。パプアニューギニアのマウントハーゲン、マーシャル諸島のカペル一族。そしてビスマルク諸島、等々。しかし、その歴史的背景を私は今まで全く知らなかった。

 高岡熊雄著『ドイツ南洋統治史論』はまさに宝箱であった。数年前に2人の諭吉さんと別れたことは、正解であった。ドイツの南洋統治を知らずに米国の太平洋政策は語れない、というのが今の所の当方の仮説である。

 以前「二人の男に愛された太平洋」というテーマでケネディ大統領とデビッドソン教授の事を書いた。しばらくは『ドイツ南洋統治史論』を参考にしながら、「ビスマルクに愛された太平洋」というテーマでドイツの太平洋政策、そしてできればこれに繋がる米国の太平洋権益について書いてみたい。


 
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250px-Hapag_lloyd_logo.svg.png


 
上はNorddeutscher Lloydのロゴ。現在は Hapag-Lloyd(下)として生き残る。
『センス・オブ・ワンダー』 [2012年10月15日(Mon)]

Purakaunui.jpg



 レイチェル・カーソンの最後の著書『センス・オブ・ワンダー』には姪の息子ロジャーと過ごした海辺の別荘が出て来る。

 ”オーシャンビュー”のある家はそれまでも憧れであったけれど、レイチェル・カーソンのこの本を読んでからよりイメージが明確になっていた。

 ある方のご好意で、”オーシャンビュー”のコテージを暫く預かる事となった。
 海の問題を本や会議で知るだけでなく、五感で、『センス・オブ・ワンダー』で触れる機会となった。

 海辺に行けば海豹が砂浜で昼寝をしている。引き潮の浅瀬には貝を啄む鳥達が集まる。
 銀河系が姿を現す夜は、海鳴りが宇宙まで響き渡る。

 「知ること」より「感じること」。文字の情報から離れて、地球を宇宙を感じる空間が持てた事は嬉しい。



ここで久しぶりの一句。
 
      ウツル夢 銀河に届く 海鳴りの 思い虚しく 星と流るる    

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ジェーン・ルブチェンコ博士はどこへ行ったのか? [2012年10月03日(Wed)]
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海と3人の女性 左からルブチェンコ博士、ボルゲーゼ女史、カーソン女史

<ジェーン・ルブチェンコ博士はどこへ行ったのか?>
  先月の米国出張に向けて用意した2つの質問。
 1.米軍の太平洋シフトは太平洋の広義の海洋安全保障に何を意味するのか?
 2.4月にクリントン国務長官が熱弁したUNCLOS批准推進。立役者のルブチェンコ長官の姿はどこに消えたのか?

 「ルブチェンコは干されてる。」
 NOAAの責任あるポジションで且つルブチェンコを知る人からの情報だった。
 それはトンガ海溝の底まで突き落とされたような感覚だった。

 笹川平和財団が創立以来、初めて海洋問題を取り上げたのが2008年。
 広大な海原の太平洋。しかし笹川太平洋島嶼国基金は過去20年海洋問題を取り上げてこなかった。
 即ち私が海洋問題を勉強しだしたのが2008年。


<米国の海洋政策>
 翌年2009年、米国はオバマ政権を迎え、ホワイトハウス主導で海洋政策が策定された。この推進役がNOAAのジェーン・ルブチェンコ博士。オバマ大統領が指名した、初の学者で女性のNOAA長官となった。
 米国の政策作りは透明公開。ホワイトハウスのウェッブにはパブコメの募集があり、自分も提出した。他のコメントといっしょにホワイトハウスのウェッブに掲載されている。多分日本人でパブコメを提出したのは私だけだと思う。結果、米国の海洋政策はハワイ始め広大な太平洋に大きく注目することになった。ルブチェンコ博士に当方のコメントが届いたに違いないと妄想していた。勝手に身近に感じていた訳だ。

 米国の海洋政策は海洋生態系研究者であるルブチェンコ博士の意向が出ており、海洋生態系を守る事が基本で、経済開発的要素は二の次のように見える。(本当は違うと思うけど)いざ、政策を実行するに当たって、漁業関係者とその利権を守る議員(特に共和党)から反発が出て来たらしい。オバマ、ルブチェンコが押す新人事も議会が潰したそうである。ホワイトハウス主導の海洋政策策定自体、官僚主導との批判が出ている。
 ルブチェンコだけではない。オバマ大統領が指名した環境保護派の内務省長官も厳しい立場にあるという。

 環境保護派も経済開発に繋がらなければ支持を得られない、ということだ。だからクリントン長官はUNCLOSを批准すれば海底資源を開発できビジネスになる、金になる、と強調していた訳である。
 それが現実なのかもしれない。


<海と3人の女性>
 海洋問題を勉強し始めて5年になる。その漢字には「母」という字があるにも拘らず、「海」と言えば男の世界のように思っていた。

 最初に手にしたのがレイチェル・カーソンの「潮風の下で」「われらをめぐる海」「海辺」の海の3部作。科学専門書と思って開いた頁は詩集のようだった。これで海洋問題に取り憑かれてしまった。

 しばらくしてやっぱり海洋問題は広すぎて手に負えないと思い、寺島さんに「実は私は音大卒でとても海洋問題を理解できる程のバックグラウンドはありません。」と泣き言。ところが「音楽の道から”海洋の母”になった人がいますよ。」と寺島さんからエリザベス・マン・ボルゲーゼさんの事を伺った。これで引き下がる口実を失った。

 そしてルブチェンコ博士である。米国の海洋政策はその海域に接する日本や太平洋島嶼国との協力が必要、という当方のコメントを聞いてくれた方である(多分)。きっと長官という立場とは関係なく海洋問題を継続されるのだろうから、これからも注目したい。

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