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南日伯援護協会の巡回診療[2010年08月20日(Fri)]
この3日間は 南日伯援護協会 (ENKYO Associação de Assistência Nipo-Brasileira do Sul) が毎年行っている巡回診療がラーモス移住地へ来ていただきました。

移住地の皆様、特にポルトガル語が母国語ではない一世の方にとって日本語で受診ができるのはとても大切な行事だと初日に確認しました。今年は横浜市立大学社会予防医学教室の水嶋教授と学生3名(遠藤氏・堀井氏・三宅氏)が援協の医師である森口エミリオ博士と同行して来て頂きました。

僕自身も診察していただきました。今日は最終日で、日本語が話せない会員の通訳もさせていただきました。日本でも似たような事はした事がありましたが、地元でするのはまた違う気持ちでした。

この巡回診療はボランティア活動で、拠点であるリオグランデドスール州の首都であるポルトアレグレ市から約500キロ離れている我々の移住地まで来て頂き無料で診断していただきます。以下の写真の後ろにある車を利用して移動しています。


受診するために3日間を通して会員(移住地の皆さん)をグループに分けて、各グループが先生方の食事も準備しました。僕は最後の日のグループでしたので、診断が全て終わった3日目の昼食を皆さんと一緒にいただきました(以下の写真)。移住地のおばさんたちは感謝の気持ちをこめて美味しいご馳走をたくさん準備していただいたので、先生方の前でついつい食べ過ぎましたウインク


今年、森口先生と同行した横浜市立大学医学部の学生様(遠藤様・三宅様・堀井様)は自分たちで折り紙を折って移住地の代表として最年長の鳥羽のおばあちゃん(94歳)に手渡しました(以下)。鳥羽のおばあちゃんはとてもお元気で、今回も美味しいお寿司などをたくさん作って来てました。


最後に先生方と最終日のグループと記念写真を(以下)。

援協の皆様、いつも遠い所から来ていただいてありがとうございます。
森口先生、毎年本当にありがとうございます。移住地の皆様も安心して受診ができて健康に長生きするのではないかと思います。私の専門ではありませんが、これから私も皆様の活動に何か出来る事がありましたら声をかけて下さい。喜んで参加させて頂きます。
横浜市立大学の水嶋先生・学生様、遠い日本から来て頂いて本当にありがとうございます。皆様が一生懸命ジャンプ写真を撮っていたのは印象に残りました笑顔

本当にありがとうございました。心から感謝しています。
「原爆の日」に NO MORE WAR!![2010年08月09日(Mon)]
8月6日には広島で、そして9日には長崎で原爆が投下されました。
それから65年が経ちました・・・ 被爆者も高齢化していますが、原爆の恐ろしさを世界へそして次の世代に伝える必要はあります。

僕の父は長崎出身ですが被爆者ではありません。しかし、僕いは小さい頃から原爆のお話を聞いてきました。なぜかと言うと僕は移住地に暮らす被爆者の家で生まれたからです。
日本に行って広島と長崎の平和公園へ行く事もできました。長崎原爆資料館と広島平和記念資料館へ行って原爆の恐ろしさが少しは感じる事ができたと思います。沖縄へ行った時にはひめゆり平和祈念資料館内では実際に戦争を体験したおばさんの当時の生々しいお話を直接聞く事ができました。

戦争や原爆を体験した事のない僕にとって、お話を聞いたり当時の資料をみたり戦争や原爆が投下された場所に行く事は貴重な経験でした。また、セルビア・イラク・アフリカ大陸から日本へ留学に来ていた人たちから少し内戦などの話を聞く事もできました。想像するだけでゾッとした記憶があります。

自分自身も戦争などの無い世界を作るために少しでも貢献したいです。

長崎にある平和記念像

広島の平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑

沖縄にあるにはひめゆり平和祈念資料館

ブラジル・ラーモス移住地にある「平和の鐘公園」
365日間に秋・冬を2回ずつ体験しています!![2010年07月17日(Sat)]
今回のブログの記事は冗談ではありません。

4月まで日本にいた僕はブラジルの南部に帰国してから再び秋から現在の冬にいます。
僕が今住んでいる所は標高900メートルありますので、冬は結構寒くなります・・・
と思っていたら、今年も気候変動の影響で6月が通常より気温が高かったため3〜4週間も早く庭のユキワリザクラが開花しました。

そして今週に入ると、いつも6月に降りる霜が今年初めて!!せっかく咲いた桜がこんな状態になっていました。

実家のナシ園もこの様になっていました:


3日続けて最高気温が10℃以下(つくばの冬より寒い!!)、そして最低気温が−4℃!!9月の初め移住地で予定されている「桜祭り」や作物の生育にどんな影響を与えるかがちょっと心配です。

地球の反対側の日本では大雨の被害のニュースを毎日のようにテレビで見ています。死亡・行方不明が出ている日本の方が心配です。
留学後の僕は・・・[2010年07月11日(Sun)]
僕は日本での留学生活を終わってブラジルへ帰国して早くも2ヶ月が経ちました。大学院を卒業してから現在まで感じた事は・・・

【日本で】
・博士課程を卒業するまでは学位論文の作成・学位発表・投稿論文の作成などで忙しい毎日を過ごしました。
・卒業後はそれまでお世話になった人との挨拶回りも時間が許す限りしました。残念ながら全員と会うことは出来ませんでしたが、いろんな事を思い出しながらいろんな人と会うことが出来ました。
・5年間過ごした後の引越しは挨拶回りの合間に行いました。アパートは狭かったですが、かなりいろんな物がありましたので捨てるものや友達にあげた物は多かったです。車を持つ友達が手伝ってくれた(助けてくれた!!)から無事帰国できました。
・帰国したら「日本の何が懐かしい?」とよく聞かれます。日本の便利さや安全性、美味しい食べ物、奥深い文化などいろんな事がありますが。しかし「一番懐かしいのは出会ってお世話になった人たち」と返事します。

【ブラジルで】
・生活リズムが180度変更しました:日本では大学院の留学生からブラジルでは時間のある無職(笑)
しかも、実家は本当の田舎なので何もありません・・・ 昨年からインターネットがつながりましたので助かっています。
・日本で授与した学位をブラジル国内の公立大学で再認定する必要があります。それは、日本で受けた授業、研究テーマに近い大学を選択してから学位論文の内容などをチェックしてから学位を認める手続きです。数ヶ月(半年近く)かかるのも普通ですが今年はワールドカップ+大統領選挙の年なのでさらに長引く懸念もあります・・・
・就職もその学位再認定してからでないと決定しない。
・日本にいた5年間はブラジルの経済が最も成長した時期ではないかと感じました。例えば携帯電話:日本に行く前はすごい古くてシンプルな機種ばかりでしたが、戻ってきたらSIMカードのロック解除されて、しかも同時に2つのSIMカードが使える機種まであります(デジタル放送テレビやBluetoothのあるスマートフォン)。このような変化に対応・慣れるのが。

現在は結果を待っています。まだ何も決定しない将来に不安と焦りも少しあるかもしれませんが、「これから何が出来るか?」と言う期待や夢もあります。少し休みながら親孝行をして(出来ているかどうか分かりませんが)、故郷を楽しんでいます。
6月18日は日本人海外移住の日です[2010年06月19日(Sat)]
1908年6月18日には「第一回ブラジル日本人移民」に781人を乗せた「笠戸丸」がブラジル国サントスに入港しましたその日を日本では「海外移住の日」と制定した(引用:総務省ホームページ)。

今週に地元新聞記者が家に来て一時間、日本の生活・移住地での日本とブラジル文化や習慣の関係・ブラジルで貢献した日本人移住者に関して話しました。(ポルトガル語の新聞記事)。簡単に翻訳してみます・・・

“6月18日は「日本人海外移住の日」で、農業やいろんな分野の発展に日本人は貢献しているのでブラジルも祝う日です。

5年間日本で暮らした後、地元へ戻った山本ロブソン隆には両国の境界を越えて人格形成に役立ったらしい。彼の両親は1976年に日本からラーモスへ移住した。

ロブソンは筑波大学に留学しに行きましたが「実家や移住地では子供の頃から日本の習慣を守り続けているため生活には特に苦労しなかった」。海外に行く時は最初の壁は言葉です。日本に出稼ぎに行く場合、差別されるケーるもありますが、日本語を話せると比較的良い給料ももらえる。

8歳のときに初めて日本へ行ったロブソンにとって、ブラジル人とは違い寂しさ(郷愁)は特に感じなかったと笑いながら文化の違いを語りました。

しかし、日本での留学生活から帰国して新しい生活リズム等に慣れるのに少し苦労しているらしい。近年ブラジルは大きく変化した事は日本.まで伝わった。「以前、日本人にとってブラジルのイメージはサッカー・カーニバル・アマゾンでしたが、現在はBRICS・経済成長やバイオ燃料等も加わった」。

それに、アイデンティティの問題も彼は日本で感じたらしい。自分の国や文化は海外に行ってからより良く理解するのが自然ですが、今の日本の若い世代は残念ながら米国や欧州に興味を持つ場合が目立つらしい。

彼には日本文化とブラジル文化は調和的に存在する。両文化を分離せず、自分にとって良い所を自分のものにする事は可能であると言います。「現在の日本の農業は社会全体と同様で高齢化がかなり進んで、食料不足は大きな問題である。ブラジルとの交流・貿易・共同研究などを通してお互い助け合えるのではないか」とインタビューを閉めました。”
移住地に「平和資料館」ができました![2010年06月02日(Wed)]
5月14日(金)に僕が生まれ育ったラーモス移住地にある「平和の鐘公園」内で(ブラジルでは初めての)「平和資料館」の落成式が開催されました。ブラジルに帰ってちょうど2週間経った頃でした。

この公園・資料館を建てたのは長崎で投下された原爆の被爆者である小川さんです。
両親がブラジルへ移住する時に一番最初にお世話になり人で、僕はその小川さんの家で生まれました。小さい頃からおじさんやおばさんの話を聞いてました。そして、落成式の日はちょうど小川さんの81歳の誕生日でした。

その落成式には斉藤準一空軍最高司令官・國方俊夫在ブラジル大使館公使・斉藤宗一在クリチーバ総領事・サウヴァッチ上院議員アミン(夫)元サンタカタリーナ州知事アミン(妻)連邦下議ヴィニャッチ連邦下議谷口カシオ連邦下議ゾンタ連邦下議など、約350人が出席しました(以下の写真)。



その資料館は450平方メートルで、連邦貯蓄銀行などの支援をうけて、館内には長崎県から原爆の写真やパネルが80点ほど展示されています。

落成式では、市議会から小川さんに「名誉市民章」が授与されました。その市議会議長も移住地で生まれ育った人です。

これはいろんなメディアでも取り上げられました:
(和)ニッケイ新聞
(ポ)Nikkeiyweb, Bom Dia SC

これからもっといろんな人が移住地に来て、ここに住む人たちの歴史を知り、そして核や戦争の恐ろしさ・平和の大切さを感じて頂いたら良いですね。
ラーモス移住地で第45回運動会[2010年05月08日(Sat)]
留学から帰国して実家に着いたのは夜の11時頃でした。

その翌日は移住地の「第45回運動会」の日で朝早くから準備の手伝いをしました。この日はとても良い天気に恵まれてとても過ごしやすい一日でした。
(開会式にはラジオ体操も)

僕が小さい頃は一年間で最も楽しみにしていた日でした。移住地の友達と一日中遊びながらいろんな賞品がもらえて、お昼は手作り弁当やシュラスコ(大きな牛の焼肉)がたくさん食べられるからでした。

しかし、現在の移住地には20家族しかいませんし、10代の子供たちはあまりいません。それでも毎年続けている行事です。移住地の皆さんは運動会の実行委員会や売店(おばさんたちが作ったお菓子やお弁当)、レストラン(手作りの日本料理)などで働いているのでほとんど競技には参加できません。
(移住地のおばさんたちが作るお弁当やお菓子は遠くから来る人たちにかなりの人気)

では、誰が走ったり、飛んだり、投げたりするのかと言うと地元の人です。地元の学校の生徒などが一生懸命パン食い競争や玉入れ競争を盛り上げていました。時代が変わり、今はどちらかと言うと地元の人たちに日本の文化の一つである運動会を地元の人たちに楽しんで頂くのも交流の一つだと感じました。


長い旅や時差の疲れもありましたが、とても楽しい一日を地元で過ごす事ができました笑顔
長〜い長〜い帰国の旅[2010年05月05日(Wed)]
5年間の留学生活を無事卒業して4月末には帰国する事になりました。
今回の記事はその帰国の長〜い旅に関して書かせて頂きます。「ブラジル?地球の反対側でしょう!!遠いなぁ〜」と言われるのは仕方が無いです。僕も遠いと思います。しかし、今回の旅は特別に遠かったです!!

まず、成田空港まで:
筑波大学で修士・博士課程の同級生で大変お世話になった尹君(中国)に車で送ってもらったので大変短い1時間半でした。車の中で他の友達・親戚・お世話になった人たちと最後の挨拶をしながら彼と留学期間の思い出や将来の話をしていました。

チェックインの手続き・携帯電話の解約手続き・親戚との昼食・入管の手続き・公衆電話から最後の挨拶・などで2時間半(計4時間)。まだまだ元気元気・・・けど「日本を離れているんだ〜」と実感してかなり寂しくなっていた。

アメリカ・ヒューストン経由でブラジルへ。まずはアメリカまで約12時間(計16時間)。機内では頂いた手紙やメッセージなどを読みながらさらに寂しくなっていた。本当に最高な5年間だった!!と思いながらいろんなことを思い出していた。

ヒューストン空港では7時間の長〜い待ち時間(計23時間)。日本人の観光客を手伝いながら(通訳?)服を着替えたり、食事(2回)したり空港内をブラブラ歩き・・・
予定通りサンパウロ行きの飛行機に乗った時点で眠りました。1時間経って起きたら飛行機はまだ止まっていた・・・ あれ??いやな予感。CAのアナウンスによると不具合が発見され、修理に時間がかかるので飛行機から降りてOK。降りてから2時間待って「別の飛行機が準備されるので着ないにある荷物全て持ち出しください」と言われて荷物を出した直後に「修理が終わりましたので同じ飛行機でブラジルへ行きます」と言われた時にはさらに時間が経過・・・ ふざけるな!!(計28時間)

サンパウロ空港まで12時間のフライトは通常でしたが、アメリカでの長〜い待ち時間が・・・ (計40時間)。サンパウロへ着いて、荷物を受け取り税関・入国の手続き、乗り継ぎの手続きに2時間と1時間の国内線(計43時間)。父・妹が空港に迎えに来て頂いたけど4時間近く遅れて・・・

そこから車で4時間の移動でやっと実家へ着きました(計47時間)。こう見ると約2日間かかった長〜い旅でした。

以下の写真はアメリカ・ヒューストン空港で撮った写真です:左から便名(CO93)・出発時刻(午後9時)・目的地(Sao Paulo)・Departed(すでに出発した)。でも右側には「現地時刻 午前1:26」・・・
卒業しました・・・(2)[2010年04月12日(Mon)]
2005年から留学した期間中に出会ったそしてお世話になった人たちとの「お礼+お別れ」を続けています。

今回は一番身近にお世話になった大学の研究室のOBOGの皆さんとのお礼+お別れ会をしてもらいました。何回か行った事のある渋谷駅から徒歩5〜10分にあるブラジルレストラン「Tucano・テゥッカーノ」を進めたらそこで皆とランチをしながら話すようになりました。

2005年から5年間に出会った・お世話になった果樹研究室の日本人先輩や後輩11人が集まってくれました。ブラジル風焼肉(Churrasco・シュラスコ)を食べながら当時の話、皆さんの仕事の話や将来の話をしながら「きっとまたいつか会えるね」と感じました。

両親の故郷であり、数回来日した事のある日本ですが留学生活は初めてでした。その時に色んな人に助けられ支えてもらいました。研究室の皆さんとは楽しい時間を過ごす事ができ僕の留学生活を支えてくれた研究室の皆さんには心から感謝です!!


ブラジル産小中型ジェット機が日本の空を飛ぶようになった[2010年04月01日(Thu)]
2008年11月に日本財団日系留学生OBの福島マルセロ君がラテン日系留学生のグループブログに書いた記事が今日はニュースになりました。JALがブラジル産の飛行機を購入した彼の記事でしたが、今日から日本の空にブラジル産の飛行機が飛ぶようになりました。「フジドリームエアラインズ」(FDA)がきょうから静岡-福岡を運行していますので乗る機会がありましたら是非飛行機日本航空(JAL)も導入したらしいので他の路線でもブラジル産の飛行機が近いうち飛ぶのではないかと思います。

僕は先月ブラジルへ一時帰国する機会を頂きました。その時に100%ブラジル航空会社を利用しました。AZUL(青)航空会社の飛行機はEMBRAERエンブラエール社の飛行機です。
この航空会社は新しくていわゆる格安航空会社(LCC: low cost carrier)でブラジルでも大変注目されていました。


乗った感想:価格の安さに驚き(他の会社の半額〜)機内サービスには期待していませんでした(*日本では一部の飲み物も今日から有料になったらしい・・・)。スナック2つ+ソフトドリンク(缶)が乗客に・・・笑顔 機内は(新しかったため?)クリーンで乗り心地最高でしたラブ
これもブラジルの経済成長の証の一つかな?


PS:井上祐見さんもちょうど一年前にブラジル製の飛行機に関して記事を書いてました・・・笑顔