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世界連邦主義者のひとりごと
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隆久 昌子
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『平和をいかにして保持するか』〜永田論文 2008.08.27[2009年08月10日(Mon)]
三章 明治維新にみる軍事情勢と国連軍の対比
 確固としていた江戸時代の幕藩体制も、海外から押し寄せる時代の波には抗し得ず、ぺリー艦隊が浦賀に入港してから、わずか十五年ののち、封建制度がくずれ去って明治維新政府が生まれた。
そして、この新しい政府の下で、廃藩置県、藩兵整理をはじめに多くの思いきった改革がなされ、国内統一が進み、日本が統一された近代国家へと成長した。
 その結果、今日では、日本国内での戦争は全く途絶え、都道府県が争うにも武力がなく、またその必要もなくなった時代となったのである。今から百年前、国内で戦争の絶えなかったころの人々には、現在の日本のようすは想像にも及ばなかったことに違いない。
 われわれにとって身近であるこの歴史の中に、今日、世界の当面する問題にあまりにも似かよったところが存在する。
ここに、明治維新という重大な日本の変革期に焦点を合わせて、今後の国連の平和維持機能の分野はどうあるべきかを考えてみる理由がある。
維新前夜の雄藩連合
 江戸幕府が末期症状を呈していたころ、鎖国の禁を犯して密貿易を進めていた薩摩・長州の藩がにわかに台頭し、財政の豊かになったこれらの藩は、藩の権力を増大させるために独自の兵力を備えていった。
特に薩摩藩は、今からちょうど百年前の慶応元年(一八六五年)に長崎で輸入した武器の輸入額が、幕府および諸藩のその輸入総額の過半を占めるほどであった。(5)
 そのうえ、この薩摩藩を中心に、国際貿易ならぬ、藩と藩との間の藩際貿易が推進され、一藩内に立てこもって独立性を強めるだけに止まらず、西南諸藩の連合策をとったのである。
そして慶応二年には、薩摩藩と長州藩との間に、軍事援助協約である薩長盟約が結ばれるに至った。
これをもとに、幕府が攘夷論をとる長州藩の第二次征伐(慶応二年)に当たって薩摩藩兵の出兵を要請した際に、薩摩藩はこれを拒否したのである。(6)
 この長州戦争では長州側の勝利に帰した。これによって富国強兵政策に自信を得た西南諸藩、とくに薩・長は薩長連合にあき足らなくなり、中央政局にのり出していくことになる。
その情勢はまさに現代でいう米英あるいは中ソなどの大国である。
征討軍と国連軍との異同
 [ 征討軍 ] 京都にあった朝廷が、慶応三年十月、江戸幕府第十五代将軍慶喜から大政を奉還され、直ちに手がけたのは、各藩からの藩兵出兵の要請である。
大政奉還のわずか三ヵ月後には、薩・長以下二十数藩の藩兵で構成する征討軍を構成、鳥羽伏見の戦いに当たらせたほか、その翌月には軍防局を設け、慶喜追討の任に当らせている。
総指揮官には親王が任命されていたが、指揮の実権を握るものは諸藩の藩士であった。しかもその権限の強さは、いかに実権をもつ藩士であっても他藩の藩兵を指揮することはできなかったほどである。(7)
この軍が奥羽越列藩同盟の反政府軍の鎮圧および函館に立てこもって幕末最後のあがきをする反政府軍の鎮圧にも当ったのであるが、東北諸藩の平定に成功したころから、戦争の出費による財政難(8)もあったほか、藩の実力を示し得たことで、その軍隊を構成する藩兵たちが次々にそれぞれの藩に凱旋しはじめた。
これを見た兵庫県知事伊藤博文は、藩閥を恐れる気持ちと中央政府の下に軍事力を蓄えておく必要とから
「北地凱旋の軍隊を処するの策」を建議(9)し(明治元年十月)諸藩兵を集めてこれを朝廷(明治政府)直轄の常備軍隊にしようとした。しかし明治政府には、慶喜追討軍の経費を大商人から調達しなければならなかったほど、兵力養成に足る財力が備わっていなかった(10)うえに、藩の利益に立脚する藩側の意向が中央集権国家をめざす政府官僚とは相容れなかったことなどから、薩摩藩兵の指揮官西郷隆盛は、その兵をひきいて鹿児島へ帰り、土佐藩兵もこれにならって引き揚げてしまった。(11)
 官軍といわれた征討軍は、あくまで各藩の連合軍に過ぎなく、各藩兵は、しょせん、藩の兵力でしかなかった。中央政府が一応できたとはいうものの、その直轄の常備軍はなかったのである。
 [ 国連軍 ] 国際連合憲章には、平和に対する脅威が存在するときは、安全保障理事会は紛争の当事者に勧告をし(第三九条)さらに脅威が継続する場合は、兵力の使用を伴わない制裁措置をとることができ(第四一条)それでも不充分である場合には陸海空軍による軍事行動をも起こすことができる(四二条)と規定し、さらに、軍事措置をとるときに備えて、安全保障理事会は加盟国と特別協定を結んで、加盟国の兵力、
援助および通過の権利を含む便益を利用できるよう確保しておかなければならないと規定している(四三条)にも拘らず、国連創設から二〇年目を迎えようとする今日に至っても、大国の意見の不一致から未だ一つの特別協定すら結ばれていない。したがって、国連の手元には使用できる兵力はなく、これまで国連軍と呼ばれて紛争の解決に当たってきたものは、みなそれぞれの場合に応じて変則的に各国の軍隊から、かき集められたものである。次にこれまでの経過を概観しよう
 一九五〇年の朝鮮動乱に派遣された国連軍は、国連の要請に応じた一七ヵ国の軍隊で編成されたもので、国連軍と称し、国連旗を掲げることを認められはしたが、その大部分がアメリカ軍であり、その指揮もまた、国連ではなく、アメリカ軍司令官に委ねられたのである。現在も三八度線において休戦監視の任務に一部残留している。
 次のスエズ紛争(一九五六年)では、この問題を討議する安全保障理事会が紛争の当事者である英仏の拒否権行使で、その機能遂行が不可能になったために「平和のための結集」決議に基づいて緊急特別総会が召集され、総会の手で国連緊急軍設置を決めた。また総会は、国連事務総長に対して紛争当事国と即時折衝する権限を付与する決議、緊急国連司令部を設置する決議等を採択し、スエズにおける国連緊急軍の地位に
ついては、これを総会の補助機関(第二二条)とした。(12)軍の司令官には国連休戦監視機関委員長を、幹部には安全保障理事会非常任理事国の将校を当てて、これを編成したのである。今日なおスエズにおいて、
その任務は続行されている。
 コンゴ動乱(一九六〇年─)に際して開かれた安全保障理事会(一九六〇年七月)では、事務総長から、自己の権限内で、スエズ派遣の国連緊急軍の原則にならって、コンゴにも国連軍を編成、派遣する権限を付与してほしいとの要請があり、これが採択され、コンゴへは一九ヵ国から供出された二万の兵が派遣された。
ところが、コンゴの内情がその複雑さをきわめ、しかも国連に派遣軍の経費を支払う能力が無いのを知ると、これを構成する各国軍のうち、一部は任務遂行の半ばに所属国へ引き揚げたところもあり、その他の国の派遣軍も国連の決定により、結局、所属国へ引き揚げてしまった。コンゴにおいては現在なお紛争が続いている。
 最近のキプロスにおける紛争の場合にも、総会決議によって各国から集められた兵力七千の国際平和維持軍が派遣された。そして今日なお現地にある。
 [ 藩の主権と国家の主権 ] 以上に述べた中で、明治初年の軍事情勢と現代の国際情勢との間には、次のようにかなり共通する点がみられる。
 第一に、日本の統一政府であった明治政府も、今日の国連も、その直轄する常備軍をもたないために、明治政府は雄藩の連合軍を、国連は各国連合軍をいずれもにわかに編成し、急場をしのいだこと(直轄軍の欠除によるにわか連合軍の編成)
 第二に、官軍の実際の指揮に当ったのは、中央政府の官吏ではなく、各雄藩の指導者であり、国連軍の指揮に当ったのも、事態に際して任命された多種多様の司令官であったこと(指揮権の不統一)
 第三に、明治政府が頼りとしていた官軍の藩兵も、国連から平和維持の任務をあずかったいわゆる国連軍も、任務を半ばに、それぞれの藩または国に引き揚げた例のあること(中央政局より藩利益、国家利益の優先)
 第四に、官軍、国連軍の引き揚げには、ともに経費の問題が大きく作用していたこと(軍維持のための財源不足)
 第五に、忠誠心のよりどころが、国連軍においては国連よりも所属国にあり、征討軍においてもまた中央政府よりは所属する藩にあったことである(忠誠心の欠除)
 官軍は、日本の統一政府たらんとする明治政府によって編成されたもので、戊辰戦争の勝利によって国内統一をもたらした。国連軍は、世界の多数の国から平和維持の任務をあずかる国際機構の国連が戦争の脅威が生じるたびに火消し役として、そのつど編成したものである。おのずからその性格は異なっている。
 しかし双方の軍の動きを見ると類似した点が少なくないのは、国連そのものが世界の中央政府としての性格を内臓してきているからであり、逆に、征討軍を創設したころの明治政府が廃藩置県(明治四年)をみるまでは、完全に中央政府としての性格を備えてはいなかったからである。その頃が明治維新なら、今日の世界情勢は世界の維新前夜であろう。
 現在地球上には主権国家が乱立している。そして絶対主権国家をもって任ずる国は、その主権のわずか一部でさえ、これを侵されることを極力回避しようとする傾向がある。
 明治維新もこの例外ではない。維新政府が戊辰戦争で勝利を収めて郷里へ凱旋する藩兵を中央に引きとめようとしたにも拘らず、藩兵が帰国したのは、藩の主権を守るためであった。できつつある中央政府の権威よりは、自藩の主権に服したのである。こうして雄藩は、さながら独立国の様相を呈し、とくにそれが薩摩藩になると、中央政府に対して税を納めず、政府の政策や命令には従わずに藩独自で藩の改革を行い、軍事力を強化するというほどのありさまであった。(13)鹿児島県(旧薩摩藩)のこの状態は、ついに西南戦争(明治十年)となって爆発するまで続いた。主権に固執して行きつくところは平和ではなく破滅であったのである。
 コンゴにおける国連軍の一部引き上げは、経費の問題とコンゴの複雑な情勢によるもので、薩摩藩のごとき意図はなかったと思われる。しかし、国連の権威をさておいて、自国の判断のみで引き揚げを断行したのは、未だ国家の主権が強大であり、国家主権に基づくいかなる行動も他からは侵しがたいという通念の根強く存在することを意味しよう。
 戦争の真の原因は、社会構成単位――藩とか国家のような――が無制限に主権を行使するときに勃発するものである。(14)従って、世界的機構が平和維持の任務を負うときは、これに各国の主権の一部を移譲する必要がある。世界的機構の権威は各国から移譲された部分だけ増大するのは当然である。すでにイタリー、
西ドイツ、デンマークは主権の一部の移譲について、その用意があることを憲法に明文化している。日本も憲法において潜在的ではあるが、それと一脈通ずるものを用意している。しかし、大部分の国家が主権平等という幻影にとらわれ、各国が絶対的主権を自由に行使することを主権平等と呼び、超国家的権威が何らかの形で国家の主権を制限するのを「主権平等の原則を覆すものである」(15)と呼んで警戒している。現在の国境は最終的な壁ではないことに各国は気付くべきである。
 
Posted by 世界連邦・北海道 at 17:45 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
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