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第2回 公衆衛生対策としての廃棄物処理〜清掃法(1954-1970) [2010年05月19日(Wed)]
 1900年に制定された汚物掃除法は、内務省令(規則)を含めると三回程度の改正を経て、1954年に清掃法が制定されるまで続きました。

 第二次世界大戦中の資源の乏しい日本での国民総動員体制での資源化(今風では、リサイクル)体験を経て、法律の抜本的改正が行われたのです。

 この間、ごみの収集方法は、混合収集(1900年〜1931年5月)から厨芥と雑芥を分別(1931年6月〜1962年頃まで)して収集する方法に変わっていました。これは、深川ばい煙騒動(1933年)が大きく影響していると思われます。

 記録によると、1929年に完成・稼働した深川塵芥処理工場(第一工場)の近隣に建設された第二・第三工場が1933年3月に稼働すると、深川地区で広範囲にハエの発生や悪臭やばい煙による大気汚染が広がったとのことです。この原因は、ごみの分別の不徹底と過剰な焼却と言われています(出典:東京都等の職員研修資料)。適切な管理と対策を怠ったことも法律の抜本的改正を誘因したと推察できます。

 公衆衛生の視点から齟齬のある条文(箇所)や時代背景を中心に抜本改正を行った訳ですが、次に紹介する清掃法の特徴的な部分の大掃除規定の新設、不法投棄の禁止の明文化、ごみ処理施設設置への国庫補助制度の導入等からも理解できます。

 清掃法の特徴的な内容は次のとおりです。

・国、都道府県、市町村の責務の明確化
・特別区と市の区域を特別清掃地域に指定
・住民協力規定の設置
・多量・特殊な廃棄物排出者への運搬・処分命令
・汚物取扱業は市町村長の許可事項
・大掃除の規定化(年2回)
・不法投棄の禁止
・「塵芥」を「ごみ」に名称を変更
・ごみ処理施設設置への国の補助
・罰則規定の設置(不法投棄対策)

 54年を経て改正された清掃法ですが、法律の名称は変わっても法律の中に流れる汚物掃除法の立法精神は変わっていないことを、清掃法施行に関する件(昭和二十九年八月四日 厚生省発衛第二百四十一号 厚生省事務次官通知)の「第一 立法の趣旨」の次の記述(概要)から理解可能です。

 「汚物掃除法は市の汚物処理に重要な役割を果たしてきたが、その後の環境衛生対策の進展、衛生工学の進歩、社会情勢の変化に伴って、法的にも幾多の欠陥が認められるに至ったのでこれを廃止し、新たなこの法律を制定施行してこの欠陥を補い、現状に即した清掃事業を実施し、もって汚物の処理を衛生的、合理的に行うものである。」

 その後、1964年10月の東京オリンピックを迎えるために東京の街並の美化の一貫として、1963年頃には家の前のコンクリート製のごみ箱を45リットル程度のポリ製容器に代え、定刻収集体制となりました。

 1954年の法律制定から東京オリンピック頃までは、専ら“し尿”対策に重点が置かれていますが、1966年の一部改正では、ごみ焼却に重点が移ってきました。(昭和四十一年三月三日環整第五〇一三号 環境衛生局長通知)。

 更に、1966年8月の公害審議会下水清掃部会が“ごみの処理とくにその焼却に関する施設基準ならびに維持管理基準”を検討し答申しています。

 1960年代の経済の高度成長とともに発生した大気汚染や水質汚染やごみの不法投棄等による生活基盤を阻害する公害(本来は、企業による環境汚染行為)問題の解決のひとつとして、この清掃法も1970年に改正されます。(第3回に続く)
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第1回 公衆衛生対策としての廃棄物処理〜汚物掃除法(1900-1954) [2010年03月08日(Mon)]
 昨今、地球温暖化防止を巡って、廃棄物焼却の是非が大きな話題になっています。他方、埋立禁止も大きな政策課題として浮上しています。その埋立禁止を実りある内容にするために、発生抑制や生産段階で再資源化や再利用を行うための創意工夫も着々と進んでいます。

 その1つの政策が拡大生産者責任(EPR)ですが、いろいろな努力をしても再資源化や再利用できないものもあります。そうした廃棄物は焼却処分がされてきました。こうした認識を共有した上で、これから6回にわたって歴史的な歩みを概観しながら廃棄物焼却の是非について検討していきます。

 古代から中世にいたる日本のごみ処理は、貝塚に象徴されるように自然界に存在する微生物の力を活用した消滅処理(埋立)が主流でした。蛇足ですが、平安時代の宮廷には、ごみ処理を担当する“掃司”という部署がありました。今日的は地方自治体の廃棄物担当部局です。

 江戸時代(17〜19世紀)も基本的には、埋立処理が行われてきましたが、微生物の処理速度超えると腐敗菌が充満し、衛生的な問題を引き起こします。一部の外国との交易などにより、コレラやペストなどの病原菌も日本に入ってきましたし、実際に疫病が流行したこともありました。しかし、100万人の人口を抱えるまでに成長した江戸(現在の東京)などの都市部では、その食糧を近郊の農家に依存していたので、郊外から江戸へ野菜を運んだ帰りに、江戸で発生したし尿や生ごみを持ち帰って肥料として利用するという循環がなりたっていました。

 1868年に成立した明治政府は、疫病対策の1つとして、イギリスやドイツ等の欧州の焼却処理を参考にごみの焼却処理を奨励しました。そして、1900年3月7日に条文11条、施行規則25条と附録から成る初めてのごみ処理の法律となる汚物掃除法が制定されました。

 この法律によって自治体に廃棄物処理の責任(汚物を掃除し清潔を保持すること)が義務づけられ、施行規則によって焼却処理という指針が定められました。集められたごみは、手作業で厨芥とそれ以外の雑芥に分けられ、厨芥は肥料に、雑芥は燃料などに使われていました。

 当初の焼却は野焼きで行われており、住民の反対運動も起こるほどでした。東京の場合には、1929年には深川塵芥焼却場が建設され、ごみの焼却が本格的にスタート。翌1930年に汚物掃除法の施行規則が改正されたことで、地方長官の認可がある場合をのぞき、すべての廃棄物の焼却処理が自治体に義務付けられることになりました。この法律は、1954年の清掃法制定と同時に廃止されました。(第2回に続く)
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