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土光基金会 [2011年01月13日(木)]

湛江のキャンパーたちが土光(トゥーグアン)基金を設立しました。
その設立にあたって湛江のキャンパーが書いた文章をFIWC関東のケ晶音が日本語に約してくれました。
どうぞご覧ください:


TO土光のキャンパー

親愛なるキャンパーのみなさん

 こんにちは。
 みなさん元気ですか? 土光のことを覚えていますか? かつて村人と出会ったあのユートピア――まだ土光村の村人を覚えていますか? 病気でもそれに挫けないかわいらしい村人のことを。仕事や勉強が忙しくて、なかなか村に帰れなくても、村人があなたたちのことを覚えていることを忘れないでください。あなたが村人にした様々なこと、あいさつや祝福の言葉に感謝しています。あなたが普段の生活を楽しく過ごせていますように。自分を大切にし、休みたくなったらいつでも土光に帰ってきてください。あなたは土光の子どもなのですから。
 突然ですが、あなたが土光でした様々なことを思い出しました。出会い過ごした、あの家の修理や薪拾い、ぼそぼそと「私たちはセメントを捏ねに来たのか…」と言い、セメントを踏んでいましたね。確かに私たちは「土光三肥(土光の三人の太っちょ)」だけれど、さっぽう(十婆)と森姨が作ってくれた甘いスープを飲み、幸せを満喫しています。まだ「生活はこんなにシンプルなんだ。一杯の白飯で十分」という日々を覚えていますか? まだロッパー(ケンケン)の、おいでと呼ぶ仕草を覚えていますか? 村人と過ごした日々のことを覚えていますか? あなたの多くの「初めて」は、土光で始まったでしょう。私は初めて村を離れるときの気持ち、村人の温かな手と愛を渇望する目を忘れられません。村人は、あなたが帰ってくるのを待っています。村人はあなたに会いたがっています。

 あなたに伝えたいことがあります。私たちも土光の家族ですから、迷っていることをあなたと分かち合いたいのです。私たちは間もなく卒業しますが、ワークキャンプ、土光を手放すことはできません。同時に、村人が老いていることもわかります。残された時間は多くありません。いつも自問していました。「10年後土光はまだあるのだろうか」と。しかしこんな自問には意味がありません。なぜなら私たちは未来を予想することはできないからです。けれど今なら自分の力の及ぶことをすることができます。確かに卒業したキャンパーや間もなく卒業するキャンパーはもしかしたらもうワークキャンプには参加できないかもしれません。ですが、土光は私たちの家です。私たちが何かを得るのと同じように、土光を一過性にしたくはないのです。これからも村人のために活動していきたいのです。土光と人生かけて付き合っていくためには、何ができるでしょうか。このように思い悩んでいた時、私たち4人(肥丹,利娜,sa姨,得得地)は集まって、2010年11月14日13時30分、「土光基金会」を設立しました。

 あなたが私たちと同じように思い悩んだかは分からないのですが、村人は私たちを必要としています。村に帰った時、村人はよく卒業したあなたがどうしているか聞いてきます。仕事が大変ではないか、節約して食事をきちんととっていないのではないか、つらい思いをしているのではないか、と心配しています。さっぽう(十婆)は玄関で外を眺めています。ベトナムのおばあちゃんはあなたと彼女の話をしています。あなたが私たちの活動に加わってくれることを切望しています。一緒に新たな土光の旅を始め、土光を最後の日まで見守り、一生の兄弟姉妹になりましょう。もし仕事や生活が忙しかったり、村が遠くて帰ってこられなくても、土光を思う気持ちがあるなら、「土光基金会」は村人の助けになる方法を提供します。また、あなたに最新の村の状況をお知らせし、同時に村への里帰りの活動も組織します。
 土光基金会の具体的な概況については、付属の資料をご覧ください。初期構想として、2011年冬休みに土光基金会の第一プロジェクトを実行し、村人に湯たんぽやマフラーを購入します(具体的なプロジェクトの計画書はその時に提供します)。同時に2011年6月に土光の卒業パーティーを予定しています。具体的な日時は未定ですが、関心を持ってくれるとうれしいです。
 お忙しい中、私たちの手紙を読んでくださり、ありがとうございます。参加ができなくてもとても感謝しています。土光にもたらしてくれたすべてのことに感謝しています。
 もし基金会に参加されたいなら、下記まで連絡をください。娜娜(曾利娜)電話:13590059336 QQ:741146613  Email:741146613@qq.com

肥丹(黄丹丹)のメッセージ―
親愛なるキャンパーのみなさん、一緒に土光基金会をつくっていきましょう! 半年近く、私のワークキャンプへの思いは熱くたぎるものから、冷たく冷え切ったものへと変わってしまいました。とても悲しい変化です。私は前にみなさんと一緒にワークキャンプをした感覚を取り戻したいのです。長い長い間、熱狂の頂点に達していないのです。この土光基金会はまた私たちを結びつけてくれ、落ち込んだ心を高揚させてくれました。この計画の第一プロジェクトをとても期待しています。きっと素敵な結果を出せると思います。
仲間たちよ、一緒にやっていきましょう!!O(∩_∩)O

娜娜(曾利娜)のメッセージ―
人生で土光に出会えたことに感謝しています。なぜなら土光は私の生活を素晴らしいものへと変化させてくれたからです。気にかかるから、したいのです。多くの理由はありません。ただ、土光の限りある時間の中で、自分にできることをしたいのです。明日たった1元節約することで、力になることができるのです。「土光基金会」の設立を宣告した時の気持ちを、言葉で表現することはできません。私たちはまたワークキャンプを続けられるのです。企画書を書きながら、基金会の運営が成功している様子を思い浮かべました。しかしこの壮大な計画を達成するためには、あなたが必要なのです。活動に加わってくれることを願っています。がんばりましょう!

Sa姨(李彩霞)のメッセージ―
未来は予測しにくいです。学校を卒業したら、あとどれくらい土光に帰るチャンスがあるのでしょうかつて私たちが一緒に生活をした土光村へ。今後の生活の中で、村人の手伝いをして、Joy in actionを継続していこうと、ただ思ったり、私たちみんなが、愛らしい親愛なるキャンパーのみんなと一緒に行動を起こしていけたら、とも思います。この基金会の発起人の一人になれたことを光栄に思い、とても感動しています。燎太郎さんたちが“JIA”を設立した時の気持ちを理解することができます。何であれ、土光基金会の活動は、みなさんの行動と参加が、実践を可能とするのです。さあ、私たちと活動をしていきましょう!

得得地(曾得智)のメッセージ―
志や理想が同じだから、私たちは縁あって土光で出会ったのです。私たちに同じ願いがあったから、土光に関心を持っているのです。あなたがどこにいても、その心があれば、活動を続けていくことができます。


カメラがなくて、昼食を食べていたので“肥丹”の携帯電話でこの写真を撮影しました。これは「土光基金会」の成立の瞬間をおさめた写真です。

※写真は全部で5枚MS Wordにあったのですが、サイズが小さくてブログにアップできませんでした。
続きを読む・・・
台風@快復村 [2010年07月28日(水)]

JIAワークキャンプ湛江地区の前代表ジョンティエンからメールがあった。
台風の被害が村でも出ている。

廉江シーガンジャンでは、彼女が3年かけて笹川記念保健協力財団の協力などで家屋を建て替えたため、さすがに家屋に被害はなかった。台風がやってきたのはキャンプ中で、キャンパーは建設資材などすべて家屋の中に運び込み、村人がすべて家屋の中で待機するようにし、無事に台風を乗り越えた。しかし、村のバナナの木などがなぎ倒され、被害総額は数千元だという。

呉川トゥーグワン村では、台風が去った翌日、周伯が部屋の前のものを整理しているとき、滑りやすい地面ですべって転倒し、そのまま亡くなった。
元気な湛江 [2010年05月17日(月)]

湛江が元気だ。

湛江のキャンパーたちは2005年から今まで、ずっと大学の先生から活動に反対されていた。
「JIAの活動には参加しないように」と通知が貼りだされたり、湛江地区の責任者が先生に呼び出されて活動に参加しないようにと諭されたりしていた。
「不支持」状態の学校や政府は他の地区にもあるが、あからさまに「反対」するのは湛江のみだ。
キャンパーの募集は先生に見つからないようにこっそりとやって、何とかキャンパーを集めてきた。

それが、好転した。

学校は今年の始めから「反対」しなくなった。「不支持」でもなく、活動を評価するようになり、事故などを起こさぬよう、安全に気をつけるように、と言ってくれるようになった。

この変化の原因はどうやら、学校が念入りにJIAの活動を調べたことにあるようだ。学校は外国人の多いJIAの活動を危険視し、湛江地区の代表からJIAの資料をある限り集めた―JIAのニュースレター、ビデオ、写真、危険視する外国人「原田燎太郎」の個人資料、…。それをかなり読み込んで研究したらしい。それによって、次第にJIAの活動への理解が生まれてきた。

中国では何事も「コネ」が必要だといわれる。
しかし、これは「信頼」とも言い換えることができる。
信頼関係のないヒト、団体であれば、信用せず、反対もする。
しかし、ひとたび信頼すれば、「えー、これほどまでしてくれるの!」と驚くくらいに何でもかんでも助けてくれる。
5年という恐ろしく長い時間ではあるけれど、大学側が信頼し始めてくれた。

その陰には、ずっと努力を続けてきたキャンパーたちがいる。どんなに反対されても、彼らは結束し、がんばってきた。

そのためか、湛江地区は大物キャンパーを輩出している。シエ=ジョンティエン(Tina)、ゾン=ズーホン(Nono)、リ=ツァイシァ。現在の地区代表タン=ハイフェイもガンガン成長している。大学一年のマイユーも有望株だ。

ジョンティエンに訊いてみた、「何で、湛江からはいいキャンパーがたくさん出てくるの?」

彼女は語る:

「私は、自分ひとりの力ではたくさんのたくさんの仕事をやり遂げることはできないと思う。
みんなに呼びかけていっしょにやって初めてできる。
みんなでいっしょに意義のあることをやって、村人たちがもっと仕合せになるようにする。
それに、私が怖いのは、私の後、村人に会いに行く人がいなくなってしまうこと。
だから私は努力して、私の知っている限りすべて、村のことをみんなに話す。
私が知っているすべてのすごいキャンパーたちのことをみんなに話す。
ボランティア、ワークキャンプ、村、ハンセン病に関する知識、とにかくすべてをがんばってみんなに話し、伝えて、そして、いっしょに仕事ができる人を育てている。
たぶん、みんなは私のビジョンを理解して受け入れてくれているから、だからみんなでいっしょに楽しく努力できるんだと思う。
その私も、タイラン、大牛、GYなどなどなどの人たちに影響されて、いろいろな微妙なところを感じ取ってきたからこそ、今日の私がある。

そもそもワークキャンプって、とても生命力と活力のある形態だと思うから、その魅力がこれまでずっと多くの人をひきつけてきた。
これもいろいろな人がいつでも参加している原因だと思う。JIAもそうやって発展してきた」。
『翼は折れたが、心は飛翔』 [2010年03月25日(木)]

広東省湛江のキャンパー黄丹丹が書いた、亜六(広東省呉川市土光村)という村人の話:


「ロッパー」こと亜六


落ち葉が舞い、冷たい風が吹く。しかしそれは孤立無援を意味しているわけではない。寂しさは軟弱さを意味しているわけでもない。

亜六は1954年にハンセン病を発病し、土光ハンセン病医院に隔離されてから40年近くが経つ。10歳ほどで、両手の10本の指は欠落し、白内障にかかり、ほとんど眼が見えなくなってしまった。それでも彼は、このような不幸のために生活の楽しみを失うことはなかった。独学で道具や機械の修理を学び、生活用品を自分でつくり、それによって生活を楽しみ、この辺鄙な場所で寂しい思いをせずに暮らしている。40年以上も村を出ておらず、村の外の人々との接触もないが、彼は孤独だとは感じない。

<発明>
台所のふいごは亜六のいちばん自慢の作品だ。誰かが来るたび、手づくりの傑作の製造過程を得意になって語る。そのふいごは木製で、ハンドルを軽く引いたり押したりすると「フー、フー」と風がかまどに送り込まれる。ふいごのほかにも彼は様々な「偉大な発明」をしている。例えば湯沸かし器、鉄に穴を開ける機械、ポットの保温装置、麻痺した手がやけどを負うのを防ぐための柄の長いスプーンなどだ。使う材料はすべて、彼が少しずつ拾ってきた鉄くずなどだ。彼はこうした鉄くずで指輪をつくり、ある日本のキャンパーに贈ったこともある。そのキャンパーはとても感動し、今に至るまでそれを身に着けている。


ふいご


それだけでなく、彼は凧や木製の枕、包丁を研ぐ装置もつくることができる。包丁を研ぐことは私たちにとっては何ということもないが、しかし指のない亜六にとっては難しいことだ。そこで彼はまず木板の上に鉄の鍵爪をつくり、そこに幅の狭い板を取り付け、てこの原理を応用して簡単に包丁を研ぐ。彼は時計やラジオ、扇風機などの修理もできる。


包丁研ぎ機


さらに、彼は自分の小さな台所に電線を引いたり、窓に竹網を据えつけて泥棒猫が夜中に台所を荒らすのを防いでいる。亜六の両手には障害があるが、それでも彼はこのようにたくさんの驚くべきものをつくっており、単調な生活に彩りを添えている。

<初恋>
龐亜六は想像したこともなかった ―独りで人生の大半を過ごした今、美しい出会いがまだあるとは。リンダは60歳以上のカナダ人。初めて土光村に来たときは広東語も話せなかったので、彼女は熱意のこもった行動で村人とコミュニケーションをとるしかなかった。亜六に会ったとき、彼女は熱く抱擁し、そして亜六の苦労を重ねた頬にキスをした。この突然の出来事に、亜六は顔を真っ赤にして恥ずかしがった。しかしその後の何日か、夜になると亜六はリンダを誘って散歩にいった。ゆっくりとゆっくりと歩き、その幸福をかみしめた。


ロッパーとリンダ


<ユーモア>
亜六のユーモアのセンスにあふれた人だ。彼はキャンパーたちに交際相手を熱心に紹介し、カップル成立の仲介役を努めるのが大好きだ。子供のようにかわいいおじいさんである彼は若い人たちの心をよく読み、キャンパーたちもそれを楽しんでいる。80歳以上の亜六の身体は老いているが、心は若く、子供のような無邪気さを見せる。

はっきりした視力と指を失った彼は、発明に没頭し、奇跡を創造する。数十年に渡って外の人との接触を持たなかったが、ユーモアを持ち続けている。過去を失っても、自信に満ちて自己表現している。亜六の人生のレールは、永遠に若い心を持ってこれからも描かれていく。


ロッパーの道具箱
アチュアン [2009年07月18日(土)]



アチュアンと3年ぶりに会う。
彼は湛江師範学院を2年前に卒業したキャンパーだ。

2004年2月、ぼくらはトゥーグワンにトイレを建てた。
あのキャンプには人が集まらず、吉田亮輔、ぼく、アチュアンとホアガー(村人)、この4人で働いた。
もちろん、その他にも短期間手伝ってくれた学生もいたのだが、ぼくら4人は合計で1ヶ月くらいキャンプしていたと思う。
ひたすらセメントをこね、レンガを積み上げ、…。
4人だけでは、一日中働いてもなかなかトイレが完成しないものだ。

キャンプ後半、大学一年生のアチュアンの休みは終わる。
しかし、彼は村を離れようとしない。
「アチュアンは何で帰んないんだろうね」。
亮輔とぼくは不思議がり、おもしろがり、そのアツさに喜ぶ。

当時ぼくらとアチュアンは深いコミュニケーションが成立しなかった。
ぼくらはまったく中国語が話せない。
アチュアンは英語がさっぱりだ。

いま、アチュアンにあのとき帰らなかった理由を訊いてみる。
「別に他にやることもなかったから」。

いやいや、授業行けよ笑

アチュアンは村人化してる。
数日前ジエシャン(妻)にアチュアンが広州に来たことを話すと、彼女はいう、
「あー、あの、トゥーグワン村のアチュアンね?」

トゥーグワン村キャンプから帰ってきた日本のキャンパーはぼくに言う、
「トゥーグワンにはずいぶん若い村人がいるんですね。白酒もよく飲むし。」
それはアチュアンだ。

   *

アチュアンは2年前、高校教師として働き始めた。
JIAオフィスのチェン=ユエはぼくからそう聞くと、アチュアンを振り返り、
「体育の先生?」
いや、彼は数学教師だ。
湛江委員会は大丈夫 [2005年11月26日(土)]

今日は湛江委員会の湛江師範学院を訪問する。
「実は、ワークキャンプ団体をつくろうとしているんだ」。
ホアホアしているオーアイ(湛江師範学院、♂)は肩の力を抜いてそう語る。ついに!湛江師範学院は2003年12月以来キャンプに関わってきている。キャンプ中は活動的なのだが、キャンプ後、どうしても停止状態に陥ってしまっていた。リーダーをやりたい、という積極的なキャンパーがいなかったこと、学校がキャンプをよく思っていないことなどが主な理由だ。
さっぱりメール上から姿が見えなくなっていたスー=ボー(湛江師範学院、♀)は言う、
「先週末、湛江教育学院のソーシャルワーク協会の学生たちがたくさん来てワークキャンプに興味を持ってくれたのに、誰もこなかった!私ひとりだったんだから!何でよ!」
湛江師範学院は毎週金曜日の夜、いっしょにご飯を食べてワークキャンプのことを語ることになっている。
「えー、金曜日にご飯食べるのって、毎週だったの?」
「おれ、携帯のバッテリーがなくなってて…」。
どうも連絡がお互いにうまくいっていないことに問題があるようだ。湛江海洋大学も同じだ。
僕たちが来ているので、スー=ボーはさっそく湛江教育学院の学生に電話する。その学生はさっそくやってきた、
「今度、教育学院でワークキャンプのプレゼンテーションをしてほしいんだけど…」。
この子もやる気満々だ。
湛江委員会のメンバーはやる気いっぱいだ。チャリティーバザーなどもガンガン企画できそうだ。必要なのは、お互いに連絡を密にすることと、彼らにノウハウを教えるガイドの存在だ。湛江がある廣東省西部には30ほどのハンセン病快復村が集中している。キャンプ団体をつくる可能性が7つある(海洋大学のキャンパス3つ、師範学院のキャンパス2つ、湛江教育学院、広東医学院)。彼らが情報共有をさらに意識し、セブンが湛江委員会に定期的に参加するようにすれば、湛江委員会は広州委員会よりも活発な組織なるかもしれない。
心配な湛江委員会 [2005年11月25日(金)]

どうやらJIA湛江委員会はあまり元気がないらしい。彼らが初めて自立的に組織する廣東省廉江市シーカンジャン村のワークキャンプの準備が進んでいない。JIAのコーディネーターのセブン(中山大学、♀)と僕は心配して湛江へと向う。ジエシャン(JIAスタッフ)とシャオホェイ(広東商学院、♀)も同行する。
結論から言うと、彼らはどうやってキャンプを準備していけばいいのかよくわかっていないようだ。彼らのやる気については問題ない。村にトイレをつくるための1万5000元(約22万5000円)はどうして集めよう、カウンターパートとなる外国の団体はどうやって探そう…。そういったことを心配し、なかなか行動にまで踏み切ることもできず、湛江委員会のガイドであるセブンとの連絡も密にならず、ついには「湛江委員会は元気ではない」というウワサが流れるまでになった。
今回、行ってよかった。
湛江委員会は2005年2月設立され、現在湛江師範学院と湛江海洋大学とか成る。湛江地区にあるふたつのキャンプ地(トゥーグワン村とシーカンジャン村)に参加した地元湛江のキャンパー、広州のキャンパー、日本、韓国のキャンパーが集まり、話し合って設立を決めた。まだ1年も経っていない委員会だ。
僕らが海洋大学に到着すると、続々とキャンパーが集まってくる。10名はいる。そしてセブンを中心にみんなでシーカンジャン村キャンプの話をする。まず資金の問題。ビーイン(海洋大学、♀)は言う、
「私の英語の先生のバーバラはキャンプに2000元くれるって約束してくれたよ」。
他のメンバーはその情報を知らない様子。
「2005年2月のトゥーグワン村キャンプの残金をシーカンジャンにあてられるかも知れない。あの残金は慶応PEACEのキャンプ費の残りだから、彼女たちに意見を訊いてみよう」。
「花を売るバザーをやってみよう。学校は許してくれないけど、企業と組めばできるかもしれない。クリスマスに売ったらけっこう売れると思う」。
「こうやって自助努力していれば、スポンサーも残りの建設資金を出してくれやすいかもしれない」。
次はカウンターパートの問題。
「東京のキャンパーたちが今週の日曜日に集まるらしいから、そのときにシーカンジャン村キャンプにキャンパーを回してくれないかなぁ」。
しかし、東京周辺にあるワークキャンプ団体はすでに独自のキャンプ地を持っている。団体としてキャンパーを送るのは難しい。下見もしていないし。
「広州にインターナショナルスクールがあって、そこの先生と知り合いだから、インターナショナルスクールの学生をカウンターパートにしたらどうかな」。
インターナショナルスクールの学生たちの父兄にキャンプの説明をキチンとできたら、寄付をしてくれる可能性もある。
「そこの先生は広州でバーをやってるから、そこでチャリティーコンサートをするってのも手だね」。
「先日ある村に行ったら、ニュージーランドの副市長さんが来てた。彼と連絡をとったら資金を何とかしてくれるかも」。
いろいろなアイディアが出てくる。湛江委員会に必要なのは、彼らがすでに持っているやる気をうまく実行力に変えていく刺激だ。セブンは毎月の湛江委員会に参加したいと考えている。