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最新記事
Dr. 楊の死 [2011年08月05日(金)]

HANDAの創設者・Dr. 楊が8月2日、亡くなった。
85歳だった。

Dr. 楊がいなければ、HANDAは設立されなかった。
彼がいなければ、マイケルはHANDAで働かなかった。
マイケルがいなければ、僕らはリンホウ村でワークキャンプをすることはできなかった。
そして、JIAは設立されなかっただろう。
いま中国で活動しているFIWC各委員会の中国キャンプ、Qiaoも存在し得なかっただろう。

その源泉であるDr. 楊の死。

彼は、50年以上政府機関で中国のハンセン病予防治療にあたってきた。

50年だ。

僕はその5分の一にも及ばない…。

彼の力強い握手が、かわいい英語が思い出される。

つい先日、Dr. 楊にあいに行こうと思っていかなかったことが悔やまれる…。

人は、死ぬ。


2003年11月、Dr. 楊と鈴木亮輔(旧姓吉田)
グローバルアピール2011 [2011年02月10日(木)]

日本財団の笹川陽平会長はWHOのハンセン病親善大使として毎年グローバルアピールという活動を行っています。
今年は北京大学にて、世界の大学の署名を集め、ハンセン病快復者と家族への差別をなくすことを呼びかけました。
それに呼んでいただいて、北京にいってきました。
その報道が下記のリンクです。

http://www.peoplechina.com.cn/zhongrijiaoliu/2011-01/28/content_329022.htm

http://www.peoplechina.com.cn/xinwen/txt/2011-01/28/content_329023.htm

http://www.peoplechina.com.cn/zhongrijiaoliu/2011-01/26/content_328500.htm
ハンセン病患者の入国制限取消 [2010年04月28日(水)]

中国政府は、HIV、性病、ハンセン病を病んでいる外国人の入国制限を取り消しました。

http://news.qq.com/a/20100428/000767.htm?qq=0&ADUIN=730070498&ADSESSION=1272412251&ADTAG=CLIENT.QQ.2269_.0
土光村、移転へ [2010年04月03日(土)]

土光村が雷州に8月、移転するらしい。
内田安信からの情報を受けて、土光村の平姐(ピンジエ)に電話する。
「今回は本当に移転するみたい…」。
ピンジエはあまり元気がない。

土光村移転の話はこれまでも何度かあった。
しかし、今回は本当に移転しそうだ。
雷州にはすでに新家屋建設が始まっているという。

問題は、土光村の快復者は雷州に移転できるが、快復者の家族は移転できないことだ。
快復者の息子のホアガーやその妻ピンジエ、その子供たちは行き場を失う。

4月の清明節に湛江のキャンパーたちが土光村に行く。
まずはそのときに詳しい情報を収集してもらう。
村人の医療 [2010年04月03日(土)]

村の人たちが年老いていく。
次から次と病気になり、死んでいく。

キャンパーたちは村人が病気になるたびにカンパを集め、村人を病院に連れて行く。
しかし、カンパを集めるのは簡単なことではない。
カンパを集めて病院にいき、検査を受けて大きな病気であることが発覚し、手術を受ける必要があるといわれることもあるが、村人には手術に耐えられる体力があるとも限らない。
長期間にわたる介護が必要なこともある。

とにかく、キャンパーたちに解決できる問題ではない―僕はそう思うようになった。
行政が動かなければ、個人に解決できる問題ではないのではないか。

それならば、こういった問題を体験したキャンパーたちが卒業し、政府や企業、病院で働くようになり、10年後、20年後、社会的影響力を持つようになったとき、行政を動かしていくしかないのではないか。

というわけで、僕は近年、村人の病気に対しては積極的な行動をとらないでいた。

ところが、あるキャンパーは言った、「行政が動かないとだめというのは、あきらめではないか。もっと社会にアピールして、もっと積極的に変えていかないとダメだ。10年後、20年後も変わってなかったらどうするの?」

僕の嫌いな中国語のひとつに「メイバンファー」というのがある。
「方法がない、無理だ」という意味の、あきらめの言葉。
いつの間にか、僕もこの「メイバンファー」に毒されていたのだろうか。

それにしても、村人の医療問題に手をつけるのはたいへんだ。
この村人の問題を解決できたとしても、次の村人の問題を解決できるとは限らない。
中国の医療費は莫大だし。
村人の中にもお金を持っている人もいれば、持っていない人もいる。
村人が持っていなくても、家族が持っている場合もある。
それを、どう見極めるか。

そんなことを言っていたら、確かに、何もできない。

でも、闇雲に医療費をカンパすれば、村人同士の関係も悪くなる可能性が高い。
「あいつはカネ持ってるくせに、学生たち(キャンパー)にカネないとか言って、学生にカネを集めさせやがった」―そんないざこざを村人の間に引き起こす。

どうすればいいのか…。
村人が病気になる度にがんばってお金を集め、すべての村人が医療を受けられるようにし、同時に行政を変えていくような働きかけもしていったらいいのかな…。
寝たきりのDr.楊 [2010年03月13日(土)]

HANDAの創始者・Dr.楊のところにリンとジエシャン、聞き書きの陳先生(華南農業大学)を連れて行く。
部屋に入ると、Dr.楊はいない。奥の部屋のドアの隙間から、ベッドに寝ているDr.楊が見える。彼は2005年、心臓のバイパス手術を受け、また脳梗塞にもなった。

「彼はもう、寝たきりで話すこともほとんどできない」。
そうDr.楊の奥さんは静かに語る。
「もう、そういう状況を受け入れることができた」。
といいながら、彼女は涙を流す。
「こうやってみんなが来ることだけが楽しみで」。
春節も病院で過ごし、病状が安定して今は家に戻ってきている。経済的負担も大きいという。

最後に、3分くらいDr.楊と会えることになった。

彼の眼は、昔と同じだ。
力は弱くなったが、握手の仕方も同じだ。
ぐっと圧倒される。

甘えてはいられない、とまた決意を堅くする。

陳先生は今月末、Dr.楊の奥さんから話を聴いて、Dr.楊の聞き書きをすることになった。
ヤンカン村キャンプ [2010年02月27日(土)]

広東省仏山市南海にある紅衛村に林志明さんという村人(ハンセン病快復者)がいます。
彼は『苦難不在人間』という、彼のこれまでの人生についての本を書きました。
それを日本語に翻訳しようというプロジェクトがあります。

27日はその林志明さんと広東省清遠市ヤンカン村にいきます。
早稲田の学生NGO「橋-Qiao-」のキャンパー、中国のキャンパー、明君、安信らといってきます。
中国語のできる日本のキャンパーが林さんとよく知り合って、きちんと翻訳をできるようにしよう、という目的です。

ヤンカン村には林さんと仲のよい欧さんもいます(2003年7月に広東省東部のハンセン病快復村調査旅行もしました。当時書いた日記をアップしていなかったので、新しくアップしておきました。2003年7月9-17日です)。
欧さんもまたアツい人なので、みんなにぜひ会ってもらいたい人です。

と同時に、欧さん初めヤンカン村の村人は「最近日本のキャンパーがこないな…」といっているので、タイミングばっちり。
病人→快復者 [2010年02月23日(火)]

ハンセン病の日である1月の終わり、リンホウ村を管理する政府の役人は村を「慰問」に訪れる。
米や油、見舞金を置いて10-15分ほどで帰っていく。

彼らは近年、かなりの額のお金を置いていく。
今年はひとりあたり700元!
そして、ふとんがふたつと、新年の新しい服は帽子から靴まで。
(ジーンズで、しかもボタンがさび付いたやつなので使えないけれど…)。
米もひとりあたり3袋、油も数リットル。
総額、ひとりあたり1200元くらいなのではないか。

役人たちが嵐のように去った後、村人の若深さんは、「あいやー、ずいぶん米があるなぁ…」。

今年、政府の置いていった「慰問のことば」に眼を奪われた↓



「例年は白い紙なのに、今年はピンクになった!」…とかそういうことではなく。
この「慰問のことば」の一行目にはこうあったのだ↓



「快復者のみなさんへ」という意味だ。
例年は「病人のみなさんへ」だった。

昔々、村人を「病人」と呼ぶ役人とけんかしたこともあった。
それくらい、役人は村人を病人と呼ぶ。
それが、ついに…!
ワンフー [2007年02月13日(火)]

ワンフーが村にいるお母さんに電話して100元貸してと頼んでいるらしい。

何するためのカネだ?
カネせびるのか?

ワンフーにたずねると、レストランで仕事をするための前金だという。
中国の多くのレストランでは、職場のものを盗んで逃げる社員が多いので、社員は100元を店の責任者に預けなければいけない。

広州で働いていたときの前金はどうしたんだ?

もう使ってしまったという。ワンフーを快復村の子供たちの社会復帰モデルにするのはやはり難しい…。

その夜、10時過ぎ、珍しくジエシャンとワンフーが飲んでいる。

「夢はしっかり持っとけよ。そしたら、それを達成する方法はたくさんあるから」。

ワンフーは、ハンセン病快復村に住むことを考え始めたという。誰も行ったことのないような村に行きたいとか。最近見た、リ=ファンイン氏のドキュメンタリーが彼に直接影響している。リ氏は中国のハンセン病専門医で、隔離村を治療して回ったという。彼女はこの仕事のため結婚せず、現在は80-90歳だそうだ。

ワンフーの話をよくきいてみると、広州のキャンパーたちの考え方や、ジエシャンや僕の考え方も彼の中に入って行っていたことがわかる。ただ、ワンフーによると、僕は「ハンセン病快復村の支援者」だそうだ。「そうではない」と言っても、彼には理解できない。

ある団体の小物工場の話になる。ハンセン病快復村の子供を集めて小物をつくっている工場だ。あれはハンセン病差別を助長する。快復村の出身ではない子供たちも働かないとダメだ。そうしないなら、経済的、社会的の両方の面で社会復帰はできない。そうワンフーは言う。

もっともだ。

やっぱり、ワンフーは変わってきてる。昔は、村の人の傷の手当をするのはヤダとはっきり言っていた:「4年もハンセン病村に住んでたんだ。あんなところ面白くも何ともない」。今はむしろケアをやりたがっている。もしケアで給料をもらえるなら半分は貯金して、以後村にひとり住むときの資金にするとか。村に住んで村の情報を発信してみたいとも言う。

もしくは、自分のレストランをオープンしたいという。そして、快復村の子供、そうじゃない子供を集めて働いてもらうそうだ。

どちらの計画も方向はハンセン病に向いている。ワンフーが何かおもしろいことをしそうな予感がする。
涙の感情 [2006年12月10日(日)]

梁伯は静かに、たくさんの涙を流す。2005年12月13日のことだ。
「家族がヤンカンに来たことがないんだ…」。
梁伯はかつてハンセン病を病んだ。そしてヤンカン村に隔離され、治療を受けた。外見に後遺症は見当たらない。
ゆったりと身体の大きい梁伯はゆっくりと涙をぬぐう。うつむいて何もしゃべらず、何度も、何度も。
「それなら、おれたちが梁伯といっしょに写真を撮って、家族に送ろう。手紙も書いてさ、梁伯のハンセン病はもう治ってることを伝えて。家族の人にヤンカンに来るようにお願いしよう」。
キャンパーのマイケル(麦根華、現JIAバックアップチーム責任者)は怒りながらそう提案する。髪をターバンのように巻きヒゲを長く伸ばしたノルウェーのウイリアムや他のキャンパーも加わって写真を撮る。

  *

あれから1年。
「タイロン!」
梁伯は部屋の入り口で僕を待ち構えていた。握手する手をそのまま引っ張りながら、部屋に入れてくれる。珍しく動作が速い。机の引き出しをガタガタと開け、写真を僕に渡す。フィルムでコーティングされた大判の写真が4枚だ。「2006年10月31日」と日付が入っているその写真には、幼い子供やおばあさん、おじさん、高校生くらいの青年が並んでいる。裏面には梁某という名前や、孫子、孫女などと書いてある。写真の人物の説明だ。
「…梁伯の家族?!」
眼を見開く僕に、梁伯は涙目でうなずく。
「これがおれの家内だ。これが孫で…」。
梁伯はポツリポツリと、しかし誇るように説明してくれる。家族は中秋節のときに村に来た。春節にもくるという。
他の村人やキャンパーが部屋に入ってきたのでこれまでのいきさつを話す。梁伯の顔が涙でゆがむ。歯をかみ締める。そして、これまでに見たこともない、いい笑顔になって、でも涙が出て、出て…。
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