2003年7月17日
12コ目の村のデータ
医院名称:平遠県麻風病院
電話:0753−8824631
設立:1957年
郵便番号:―
院長:林
村長:―
村内電話:―
住所:広東省梅州市平遠県仁居鎮野湖郷
村人数:1名(最大190名前後)
平均年齢:67歳以上
生活費(月/人):180元(約2700円)
医療費:50元(約750円)
医師:1名
結婚状況:未婚
妥協せず
最後の村だ。7時10分、□隍(□の偏は「阝」、旁は「留」)から梅県行きのバスに乗る。2時間半後に梅県に着き、三輪オートバイで平遠行きのバス停まで行く。平遠県慢性病防治站に着くころには11時半を回っている。移動に4時間半かかった。
この病院の職員が3名、林さんとオウさんと話す。
「村はここから60キロも離れているんですよぉ」。
「どんなに遠くても、村を見なくてはいけない」。
「村人は1人しかいませんよぉ」。
「村人の人数は関係ない。1人でも見にいかねばならない」。
林さんは手を振りながら強く主張する。
「何でその村人は家に帰らないんだ」。
「身寄りがないんですよぉ」。
「どうやって生活してるんだ」。
「私たちが必要なモノを買って持っていくので、1人で料理して生活していますよぉ」。
医院の職員は面倒くさがる、
「1人しかいない上に村は遠いんですよぉ。公共の交通手段では村にいけませんよぉ。私たちは車を持っていないしぃ。HANDAの調査表には今ここで書き込みますから、村まで行くのはやめましょうよぉ」。
林さんとオウさんは村に行くと言って譲らない。日本で長年暮らした者として、私だったらこう考えただろう、
(医院の職員にも悪いし、妥協するか。村に行くのはやめよう)。
しかし、林さんとオウさんは頑として譲らない、
「3月にあなた方に電話して今回の訪問のことを伝えたはずだ。村に行く」。
「わかりました。昼ご飯の後、もう一度ここにいらしてください」。
荒野と1軒の家
昼過ぎ、平遠県慢性病防治站に戻ると、軽ワゴンが用意されていた。40分行くと山道に至る。山を切り開いてつくった崖道だ。ガードレールはない。運転を誤れば崖から落ちる。崖肌は土とも岩ともつかない剥き出しの斜面だ。荒涼とした風景が広がる。
50分間グチャグチャに揺られると、1軒の家が見えてくる。村人の家だ。車を降りると、あたりは耳鳴りがするほど静かだ。緑はほぼない。人工的な形をし、乾燥した土色の山が周囲を囲む。日差しが強烈だ。周囲からの照り返しも含まれているだろう。
おばあちゃんの眼
部屋の戸には中国共産党の標語がある。「共産党と共に歩もう」、「毛主席の話を聴こう」。戸を開けると、中央に吹き抜けがあり、その下に池がある。涼しい。それを囲うようにいくつかの部屋が並ぶ。そのうちの1つから、おばあちゃんの声が聞こえる。この小さな、痩せたおばあちゃんの名は楊四妹。部屋にはホウキ、メガネ、薬、耳掻き、日めくりカレンダー、洋服などがきちんと並んでいる。水道はあるが、電気はない。ガスもない。
林さんは医院の職員の通訳を通し、HANDAの表を埋めていく。
彼女は眼が澄み切っている。変形した手を組み、シャツの襟に唇を触れながら話す。透明な笑顔の眼は時折、悲しみに変わる。何か高貴な美しさを感じる。中学生の頃―もう10年以上前になるか―クロブチメガネの数学の先生が言った、
「女の人の本当の美しさは、年をとってから見えてくる」。
サヨナラ
40分ほど滞在すると、林さんは帰ろうと言う。私が握手の手を差し出すと、おばあちゃんは一瞬何のことだか分からないという眼を見せる。彼女は暫し私の手を離さない。
車に向かうみんなの背を追う。振り返ると、おばあちゃんが部屋と部屋の間に小さく見える。松葉杖をついてこちらを見ている。彼女の左足は木の棒の義足だ。手を振ると、彼女はゆっくりと松葉杖を壁に立てかけ、手を上げる。部屋にあった中国共産党の赤い標語―「興無滅資」―が虚しい。
2003年7月18日
広州へ移動。バスで12時間。あいやー。
HANDAの会計のおじさん・朱さんが料理して私たちの帰りを待っていてくれた。うまい。その辺のレストランより絶対うまい。労働の後のビールもうまい。
2003年07月17日
広東省東部快復村調査旅行
posted by tynoon at 04:55| 2003年リンホウ駐在中
2003年07月14日
広東省東部快復村調査旅行
2003年7月14日
目的達成
朝、リンホウ院長に電話をすることになっていたが、予定を変更した。まずはリンホウ医院に昨日の職員を訪ね、彼に村長を説得してもらうことにする。
「アー、プーヨウ、プーヨウ」。
村長は意地になって表に書き込むことを断る。職員やオウさんが何を言っても聞かない。オウさん、私、職員は困り果て、あきらめかけたそのとき。林さんが表を持って村長の家にやって来た。彼は普通に村長にインタビューを始める、
「ここの住所は潮州市潮安県の…」。
「古巷鎮だ」。
戸惑いながらも村長が答える。
「ここの設立は…」。
「1960年だ」。
次第に2人に笑顔が見え始める。何とか表を埋めることができた。村長は林さんに要求する、
「同じモノをもう1枚書いてくれ。院長に見せなければならない」。
蘇村長は常に院長を頭に入れて行動する。とにかく、一件落着だ。
*
「また出かけるのか。仕事、忙しいな」。
そんなことを言われながらリンホウを去る。リンホウにとどまりたい気持ちが強い。リンホウの人々は明らかに私が6日に帰らなかったことを責めている。しかし、途中でこの仕事を放棄するわけにはいかない。この調査旅行はいずれ学生のネットワークをつくるのに活きてくるはずだ。私は後ろ髪だけでなく全身を引かれる想いをしながらリンホウを後にした。
10コ目の村
ラオピン県卓花辧事処…解散
村、解散
潮州の民生局にて。林さんは、面倒くさがる職員を何とか動かし、ラオピンの康復村と連絡をとらせる。
ラオピンにあるという村は、すでに解散していた。3人いたという快復者はすべて家に帰ったという。私たちは次の訪問地、普寧に向かう。
11コ目の村のデータ
医院名称:普寧市康復医院
電話:0663−2762233
設立:1956年12月
郵便番号:515339
院長:黄書義
村長:囉漢松
村内電話:13652957014
住所:広東省普寧市石牌鎮
村人数:28名(最大126名)
平均年齢:70歳前後
生活費(月/人):150元(約2250円)
医療費:12元(約180円)
医師:―
結婚状況:4名結婚
出会い
12時過ぎに潮州市のバス停に着くが、出発時間は14時半。バスの待ち時間、中村哲の『ペシャワールにて 癩そしてアフガン難民』を読む。
「出会いの連続が決定的に我々の生き方を導いてゆくというのは事実である」。
中村哲はそう語った。林さん、オウさん、蘇村長、ジエシャン…。ひとり一人に私の人生は左右されている。
オウさんは勇気のカタマリだ。彼の身体には少々後遺症があるが、彼はそれを意識していることをほとんど感じさせない。毎回医院を訪ねると彼は一生懸命HANDAのことを職員に説明する。大きな声で、手振りを交え、興奮してしゃべる。私が彼と同じ立場にいたら、彼のように振舞うことができるだろうか。
林さんの強引さはある程度見習うべきだ。16時35分、普寧のバスターミナルに着くと、彼は精力的に電話を院長にかける、
「ニーシーワンシーチャンイャンチャン、シープーシーヤ!?ニーシーワンシーチャンイャンチャン、シープーシーヤ!?」(黄書義院長かね?!黄書義院長かね?!)
バスターミナル中に響き渡るような声だ。オウさんと顔を見合わせると、オウさんは眉毛を上に動かして微笑む。結局院長は医院にいなかった。院長の自宅にかけても不在。院長の携帯電話にかけると女房に迎えに来させてくれと言われる。家に再度かけると、奥さんはは不在だった。
「どーやったら医院に行けるんだ!?どうーすればいいんだ!?」
院長の子供に彼はまくし立てる。私だったらとうに他の手段をあたっているところだが、林さんは引き下がらない。とうとうバスでの行き方を聞き出し、謝謝を6・7回言う。この強引さは私に欠けている点だ。
私が出会い、好きになった人たちは、私に影響を及ぼしつづけ、これから私が歩んでいく道を変えていく。
普寧康復医院
バスで1時間ほど走る。
「ここよ」。
車掌さんがハンセン病の医院の場所でバスを停めてくれる。病院はバス通り沿いにある。かつて医者が詰めていたというこの建物は現在使われていない。この病院の向かいの土道を歩いていくと問診所があり、そこに医院の職員がいた。彼と共にさらに奥へ行くと村があった。
村には28名が住んでいるという。生活状況はいいようだ。電気、扇風機、テレビ、湯沸し器、ガス、水道…。村には電話がないが、村長は携帯電話を持っている。ワークキャンプの需要はなさそうだ。
ただし、村の生活は困難ではないとは言えない。ガスが残っている村人はそれでも七輪で料理している。義足がないので政府が支給した松葉杖をついている村人、松葉杖すらなくて椅子に座りながら移動する村人。彼のお尻には傷ができている。部屋にいる村人の写真を撮るとオウさんに止められた。このあたりは偏見が強いので写真を撮ってはいけないという。そして、医者はいない。村人は次々に生活の苦しさを訴える。
2003年7月15日
猪突盲進
19日、広州に行き、今回の調査旅行のまとめをする。23〜26日、香港から看護士・ファニーとその友達がリンホウに来る。8月5日、ヤンカン村ワークキャンプの準備のため、広州に行く。8月13日、潮州に帰る。8月18日にはリンホウに中国、日本のキャンパーが来る。
やばい、イノシシは闇雲に手を広げすぎたか。調査旅行、ヤンカン村キャンプ、村人の治療、リンホウワークキャンプ。四兎を一遍に追っている。
19日に広州に戻ったときにヤンカン村キャンプのワークリーダー・ジエフェイに会い、キャンプの準備を確認しなければならない。日本側のリーダー・槻美代子にキャンプの進め方などを中国側リーダーのトンビンに伝えてもらわなければならない。リンホウキャンプのワーク準備はファニーたちが帰った後、27日以降にしよう。10日間で屋根を伸ばすことは決まっているが、価格が異常に高いので値段交渉をしなければならない。あー、やることだらけだ。
2003年7月16日
頼みの綱が切れた
リンホウの蘇村長の自分自身に対する差別。これを無理に排除しようとするのは間違いなのか。彼の長年の生き方を否定することにもなりかねない。オウさんにこのことについて尋ねてみる、
「先日リンホウを訪れた時いろいろ努力したが、彼を変えることはできなかった。彼はすでに70歳以上だ。彼を変えることはできないと思う」。
うならずにはいられない言葉だ。蘇村長の自身への偏見を減らす最後の手段と考えていたこと―オウさんと林さんの村の外での経験を分け合うこと―が失敗に終わった。これ以上蘇村長の人生に介入するのはいけないことなのだろうか。わからない。
12コ目の村のデータ
医院名称:豊順県蔗渓医院
電話:0753−6425053
設立:1970年
郵便番号:514300
院長:朱永同(13825950728)
村長:張仁算
村内電話:―
住所:広東省梅州市豊順県□隍鎮蔗渓郷(□の偏は「阝」、旁は「留」)
村人数:4名(最大42・3名)
平均年齢:70歳以上
生活費(月/人):170元(約2550円)
医療費:不定期支給
医師:3名
結婚状況:未婚
「人と人とのつながり」が薄い
7時、掲西から豊順へのバスに乗る。1時間45分で豊順に着く。バイクに30秒ほどまたがると蔗渓医院が見えてくる。ここは街中の病院だ。もちろん快復村はここにはない。職員が村への行き方を調べてくれる。彼が方々へ電話をかけている間、ボーっと考えた、
(6月の終わりにリンホウを離れ、ヤンカン村を訪れ、香港に行った。そして今は調査旅行に加わっている。それぞれが学生のネットワークをつくるために活きてくることは間違いない。ただ、それぞれの『人と人とのつながり』が薄くなっていやしないか。今はリンホウを長期間留守にするときではないのではないか…)。
早くリンホウに帰りたい。ホームシックのような感情でもある。しかし今さらこの旅から離脱することもできない。
パキスタンの病院と中国の病院
蔗渓医院から湯坑まで三輪オートバイに乗り、そこから□隍(□の偏は「阝」、旁は「留」)までバスに乗る。車外をボーっと眺めながら、最近読んでいる中村哲の『ペシャワールにて』の一節を思い出す。その中で中村哲は、パキスタンの小さな病院のスタッフに衛生教育をする苦労を書いている。小さな手術―傷の縫合、簡単な皮膚移植、気管切開、足の切断など―ができるようになるまでに1年半以上を費やしたとか。
(パキスタンにはハンセン病の後遺症を看てくれる病院があるんだな…)。
パキスタンのハンセン病を巡る状況に感心しかけたそのとき、気づいた、
(あれ?中国にもあるじゃん…!リンホウにもある。今回の旅でも毎回見ている。何やってんだ、中国の病院は!)
「地」と「人」
12時、バスは終点に着く。寝こけていたが、何と遠いことか。まずは昼ご飯だ。食べながら学生のネットワークに着いてボーっと考える、
(村々で活動する学生たちは何も毎月村を訪問する必要はない。もちろんそれができればベストだ。しかし今まで村を周ってきた感じからすると、物理的なニーズがあまりに少ない。滞在期間が短いのでそう感じるだけかもしれないが、仕事がないにも関わらず毎月村を訪れてもダラダラするだけで学生たちのモチベーションが続かない恐れがある。
それならば、原点に戻って毎年2・3回、村でワークキャンプをするのがいい。キャンプの下見で学生たちは村を訪れるだろうし、個人的に村人と仲良くなって、家族に会いに行くような感覚も生まれるかもしれない。
そして、各キャンプを主催している団体間で会議を開く。それぞれのキャンプの模様をスライドやビデオなどで発表し、互いに刺激を受け合う。これは学生のネットワークと呼べるだろう。とにかく、今はリンホウとヤンカン村の2つのキャンプに集中しよう。
現在、調査旅行でキャンプ「地」を多く開拓している。しかし、大事なのは「人」だ。キャンプで何かを感じる人を発掘しなければならない。第2、第3のジエシャン、チァロンが必要だ。とっととこの旅を切り上げてキャンプ準備に専念しよう)。
長い…
12時半過ぎ昼ご飯を終え、おっちゃんが運転する三輪オートバイで村に行く。穴だらけの山道だ。長い。
「おっちゃん、もう着くかな」。
「まだ、まだ」。
激しい縦揺れ。お尻をしたたかに打った。
「おっちゃん、もう着くよね?」
「まだ、まだ。ほら、あそこ。あそこに村がある」。
おっちゃんが指差す先は遠い。村に着いたのは40分後だった。
蔗渓医院の医者
村には「共産党万歳」とある古い建物がある。中にはやたらに脚が長いおじいさんがいた。張仁算さん、村長だ。村長と言っても、村人は4名しかいない。彼の隣の家には、栓が閉まらない水道が水を勢いよくはみ出させている。部屋にはガス、電気がある。この2棟に2人の村人が住んでおり、さらに奥に行ったところにもう2人が暮らしている。
「医者は3人いると医院の職員がいっていたぞ。よく看てくれるのか?」
林さんが村人にそう尋ねる。その村人は、前を離れて歩く医院の職員に気を配りながら、しきりに手を横に振る。
林さんが村人全員で写真を撮ろうと提案する。白いひげがキレイでダンディーな村人は、右足裏の傷をかばいながら竹ざおをついて椅子にやっと座る。手の指がなく、膝から下を布ですっぽり覆っている村人は膝をついて移動する。小柄な彼の体重が、一歩一歩膝にズシリとかかる。傷とそのケアの状況はリンホウによく似ている。
日本…
ホテルで。題名は知らないが、クサナギツヨシとセトアサカが出演しているドラマがテレビに映る。それはユーミンの曲で終わった。何とも言えない懐かしさを覚える。
目的達成
朝、リンホウ院長に電話をすることになっていたが、予定を変更した。まずはリンホウ医院に昨日の職員を訪ね、彼に村長を説得してもらうことにする。
「アー、プーヨウ、プーヨウ」。
村長は意地になって表に書き込むことを断る。職員やオウさんが何を言っても聞かない。オウさん、私、職員は困り果て、あきらめかけたそのとき。林さんが表を持って村長の家にやって来た。彼は普通に村長にインタビューを始める、
「ここの住所は潮州市潮安県の…」。
「古巷鎮だ」。
戸惑いながらも村長が答える。
「ここの設立は…」。
「1960年だ」。
次第に2人に笑顔が見え始める。何とか表を埋めることができた。村長は林さんに要求する、
「同じモノをもう1枚書いてくれ。院長に見せなければならない」。
蘇村長は常に院長を頭に入れて行動する。とにかく、一件落着だ。
*
「また出かけるのか。仕事、忙しいな」。
そんなことを言われながらリンホウを去る。リンホウにとどまりたい気持ちが強い。リンホウの人々は明らかに私が6日に帰らなかったことを責めている。しかし、途中でこの仕事を放棄するわけにはいかない。この調査旅行はいずれ学生のネットワークをつくるのに活きてくるはずだ。私は後ろ髪だけでなく全身を引かれる想いをしながらリンホウを後にした。
10コ目の村
ラオピン県卓花辧事処…解散
村、解散
潮州の民生局にて。林さんは、面倒くさがる職員を何とか動かし、ラオピンの康復村と連絡をとらせる。
ラオピンにあるという村は、すでに解散していた。3人いたという快復者はすべて家に帰ったという。私たちは次の訪問地、普寧に向かう。
11コ目の村のデータ
医院名称:普寧市康復医院
電話:0663−2762233
設立:1956年12月
郵便番号:515339
院長:黄書義
村長:囉漢松
村内電話:13652957014
住所:広東省普寧市石牌鎮
村人数:28名(最大126名)
平均年齢:70歳前後
生活費(月/人):150元(約2250円)
医療費:12元(約180円)
医師:―
結婚状況:4名結婚
出会い
12時過ぎに潮州市のバス停に着くが、出発時間は14時半。バスの待ち時間、中村哲の『ペシャワールにて 癩そしてアフガン難民』を読む。
「出会いの連続が決定的に我々の生き方を導いてゆくというのは事実である」。
中村哲はそう語った。林さん、オウさん、蘇村長、ジエシャン…。ひとり一人に私の人生は左右されている。
オウさんは勇気のカタマリだ。彼の身体には少々後遺症があるが、彼はそれを意識していることをほとんど感じさせない。毎回医院を訪ねると彼は一生懸命HANDAのことを職員に説明する。大きな声で、手振りを交え、興奮してしゃべる。私が彼と同じ立場にいたら、彼のように振舞うことができるだろうか。
林さんの強引さはある程度見習うべきだ。16時35分、普寧のバスターミナルに着くと、彼は精力的に電話を院長にかける、
「ニーシーワンシーチャンイャンチャン、シープーシーヤ!?ニーシーワンシーチャンイャンチャン、シープーシーヤ!?」(黄書義院長かね?!黄書義院長かね?!)
バスターミナル中に響き渡るような声だ。オウさんと顔を見合わせると、オウさんは眉毛を上に動かして微笑む。結局院長は医院にいなかった。院長の自宅にかけても不在。院長の携帯電話にかけると女房に迎えに来させてくれと言われる。家に再度かけると、奥さんはは不在だった。
「どーやったら医院に行けるんだ!?どうーすればいいんだ!?」
院長の子供に彼はまくし立てる。私だったらとうに他の手段をあたっているところだが、林さんは引き下がらない。とうとうバスでの行き方を聞き出し、謝謝を6・7回言う。この強引さは私に欠けている点だ。
私が出会い、好きになった人たちは、私に影響を及ぼしつづけ、これから私が歩んでいく道を変えていく。
普寧康復医院
バスで1時間ほど走る。
「ここよ」。
車掌さんがハンセン病の医院の場所でバスを停めてくれる。病院はバス通り沿いにある。かつて医者が詰めていたというこの建物は現在使われていない。この病院の向かいの土道を歩いていくと問診所があり、そこに医院の職員がいた。彼と共にさらに奥へ行くと村があった。
村には28名が住んでいるという。生活状況はいいようだ。電気、扇風機、テレビ、湯沸し器、ガス、水道…。村には電話がないが、村長は携帯電話を持っている。ワークキャンプの需要はなさそうだ。
ただし、村の生活は困難ではないとは言えない。ガスが残っている村人はそれでも七輪で料理している。義足がないので政府が支給した松葉杖をついている村人、松葉杖すらなくて椅子に座りながら移動する村人。彼のお尻には傷ができている。部屋にいる村人の写真を撮るとオウさんに止められた。このあたりは偏見が強いので写真を撮ってはいけないという。そして、医者はいない。村人は次々に生活の苦しさを訴える。
2003年7月15日
猪突盲進
19日、広州に行き、今回の調査旅行のまとめをする。23〜26日、香港から看護士・ファニーとその友達がリンホウに来る。8月5日、ヤンカン村ワークキャンプの準備のため、広州に行く。8月13日、潮州に帰る。8月18日にはリンホウに中国、日本のキャンパーが来る。
やばい、イノシシは闇雲に手を広げすぎたか。調査旅行、ヤンカン村キャンプ、村人の治療、リンホウワークキャンプ。四兎を一遍に追っている。
19日に広州に戻ったときにヤンカン村キャンプのワークリーダー・ジエフェイに会い、キャンプの準備を確認しなければならない。日本側のリーダー・槻美代子にキャンプの進め方などを中国側リーダーのトンビンに伝えてもらわなければならない。リンホウキャンプのワーク準備はファニーたちが帰った後、27日以降にしよう。10日間で屋根を伸ばすことは決まっているが、価格が異常に高いので値段交渉をしなければならない。あー、やることだらけだ。
2003年7月16日
頼みの綱が切れた
リンホウの蘇村長の自分自身に対する差別。これを無理に排除しようとするのは間違いなのか。彼の長年の生き方を否定することにもなりかねない。オウさんにこのことについて尋ねてみる、
「先日リンホウを訪れた時いろいろ努力したが、彼を変えることはできなかった。彼はすでに70歳以上だ。彼を変えることはできないと思う」。
うならずにはいられない言葉だ。蘇村長の自身への偏見を減らす最後の手段と考えていたこと―オウさんと林さんの村の外での経験を分け合うこと―が失敗に終わった。これ以上蘇村長の人生に介入するのはいけないことなのだろうか。わからない。
12コ目の村のデータ
医院名称:豊順県蔗渓医院
電話:0753−6425053
設立:1970年
郵便番号:514300
院長:朱永同(13825950728)
村長:張仁算
村内電話:―
住所:広東省梅州市豊順県□隍鎮蔗渓郷(□の偏は「阝」、旁は「留」)
村人数:4名(最大42・3名)
平均年齢:70歳以上
生活費(月/人):170元(約2550円)
医療費:不定期支給
医師:3名
結婚状況:未婚
「人と人とのつながり」が薄い
7時、掲西から豊順へのバスに乗る。1時間45分で豊順に着く。バイクに30秒ほどまたがると蔗渓医院が見えてくる。ここは街中の病院だ。もちろん快復村はここにはない。職員が村への行き方を調べてくれる。彼が方々へ電話をかけている間、ボーっと考えた、
(6月の終わりにリンホウを離れ、ヤンカン村を訪れ、香港に行った。そして今は調査旅行に加わっている。それぞれが学生のネットワークをつくるために活きてくることは間違いない。ただ、それぞれの『人と人とのつながり』が薄くなっていやしないか。今はリンホウを長期間留守にするときではないのではないか…)。
早くリンホウに帰りたい。ホームシックのような感情でもある。しかし今さらこの旅から離脱することもできない。
パキスタンの病院と中国の病院
蔗渓医院から湯坑まで三輪オートバイに乗り、そこから□隍(□の偏は「阝」、旁は「留」)までバスに乗る。車外をボーっと眺めながら、最近読んでいる中村哲の『ペシャワールにて』の一節を思い出す。その中で中村哲は、パキスタンの小さな病院のスタッフに衛生教育をする苦労を書いている。小さな手術―傷の縫合、簡単な皮膚移植、気管切開、足の切断など―ができるようになるまでに1年半以上を費やしたとか。
(パキスタンにはハンセン病の後遺症を看てくれる病院があるんだな…)。
パキスタンのハンセン病を巡る状況に感心しかけたそのとき、気づいた、
(あれ?中国にもあるじゃん…!リンホウにもある。今回の旅でも毎回見ている。何やってんだ、中国の病院は!)
「地」と「人」
12時、バスは終点に着く。寝こけていたが、何と遠いことか。まずは昼ご飯だ。食べながら学生のネットワークに着いてボーっと考える、
(村々で活動する学生たちは何も毎月村を訪問する必要はない。もちろんそれができればベストだ。しかし今まで村を周ってきた感じからすると、物理的なニーズがあまりに少ない。滞在期間が短いのでそう感じるだけかもしれないが、仕事がないにも関わらず毎月村を訪れてもダラダラするだけで学生たちのモチベーションが続かない恐れがある。
それならば、原点に戻って毎年2・3回、村でワークキャンプをするのがいい。キャンプの下見で学生たちは村を訪れるだろうし、個人的に村人と仲良くなって、家族に会いに行くような感覚も生まれるかもしれない。
そして、各キャンプを主催している団体間で会議を開く。それぞれのキャンプの模様をスライドやビデオなどで発表し、互いに刺激を受け合う。これは学生のネットワークと呼べるだろう。とにかく、今はリンホウとヤンカン村の2つのキャンプに集中しよう。
現在、調査旅行でキャンプ「地」を多く開拓している。しかし、大事なのは「人」だ。キャンプで何かを感じる人を発掘しなければならない。第2、第3のジエシャン、チァロンが必要だ。とっととこの旅を切り上げてキャンプ準備に専念しよう)。
長い…
12時半過ぎ昼ご飯を終え、おっちゃんが運転する三輪オートバイで村に行く。穴だらけの山道だ。長い。
「おっちゃん、もう着くかな」。
「まだ、まだ」。
激しい縦揺れ。お尻をしたたかに打った。
「おっちゃん、もう着くよね?」
「まだ、まだ。ほら、あそこ。あそこに村がある」。
おっちゃんが指差す先は遠い。村に着いたのは40分後だった。
蔗渓医院の医者
村には「共産党万歳」とある古い建物がある。中にはやたらに脚が長いおじいさんがいた。張仁算さん、村長だ。村長と言っても、村人は4名しかいない。彼の隣の家には、栓が閉まらない水道が水を勢いよくはみ出させている。部屋にはガス、電気がある。この2棟に2人の村人が住んでおり、さらに奥に行ったところにもう2人が暮らしている。
「医者は3人いると医院の職員がいっていたぞ。よく看てくれるのか?」
林さんが村人にそう尋ねる。その村人は、前を離れて歩く医院の職員に気を配りながら、しきりに手を横に振る。
林さんが村人全員で写真を撮ろうと提案する。白いひげがキレイでダンディーな村人は、右足裏の傷をかばいながら竹ざおをついて椅子にやっと座る。手の指がなく、膝から下を布ですっぽり覆っている村人は膝をついて移動する。小柄な彼の体重が、一歩一歩膝にズシリとかかる。傷とそのケアの状況はリンホウによく似ている。
日本…
ホテルで。題名は知らないが、クサナギツヨシとセトアサカが出演しているドラマがテレビに映る。それはユーミンの曲で終わった。何とも言えない懐かしさを覚える。
posted by tynoon at 04:53| 2003年リンホウ駐在中
2003年07月13日
広東省東部快復村調査旅行
2003年7月13日
自分の自分に対する偏見
朝。ホテルにて。林さんとオウさんにお願いする、
「リンホウ医院の蘇文秀村長に、ハンセン病に対する差別が昔ほどないことを伝えてください。この度の調査旅行で各医院の職員や一般の人々はあなた方にとてもよくしてくれます。6月29日にヤンカン村に行ったときも学生たちに偏見はありませんでした。7月6日に花都に行ったときもそうでした。しかし、蘇村長は長年村の外に出たことがないので、こういった状況を知らないんです。
いつか蘇村長に潮州市内旅行を提案したことがありました。そのとき彼は我々ハンセン病『患者』には不要だと言ったんです。ある村人が公用で市街に行ったとき彼は自ら食堂の外に出て食事を取ったそうです。彼の自分自身への偏見は強いものです。どうか村長を始めリンホウの人々が自らへの偏見を排除する助けとなってください」。
「オーケー!」
林さんは笑顔で言う。オウさんは、食堂のくだりで首を振って舌打ちする。彼はこの筆談の紙をカバンにしまった。
8コ目の村のデータ
南澳麻風村…解散
村はない
8時30分、南澳医院の院長に会う。彼によると、この医院が管轄する村はすでに解散したそうだ。村人はすべて自分たちの家に帰って行ったという。
本を書け
帰りのフェリーで林さんは言う、
「今回の調査旅行の後、本を書きなさい。自分自身の感想を交えてだ。そうでないと今回の旅はただのカネと時間の浪費になるぞ」。
9コ目の村のデータ
医院名称:潮安県リンホウ医院
電話:0768−6838448
設立:1960年
郵便番号:
院長:黄紹傑
村長:蘇文秀
村内電話:―
住所:広東省潮州市潮安県古巷鎮
村人数:13名(最大300名)
平均年齢:68歳
生活費(月/人):120元(約1800円)
医療費:―
医師:1名
結婚状況:―
リンホウへ
次の訪問先はいよいよリンホウだ。フェリーを降りてリンホウ医院に電話し、今日の午後に着くと伝える。3人で村に泊まることになった。
潮州市から古巷鎮へバスで行き、そこから三輪オートバイを拾う。ガタガタの山道を登り、だんだんリンホウが近づいてくる。懐かしさに胸が痛いような、気持ちいいような。
17時に着いた。まずはリンホウ医院に寄る。医院には職員が1人だけだ。訪問の目的を伝え、村の基礎データを書き込む表を渡すと彼は言う、
「院長はHANDAが来ることを知っているのか。どっちにしろ、蘇文秀村長に書いてもらってくれ」。
彼は青いパンツと白いランニングシャツといういつもの姿でそう言う。
元気がない曽さん
村へと向かう。曽さんの家が見えてきた。林さんとオウさんをおいて早歩きになる。曽さんは部屋の前にしゃがみこんでボーっと道を見ている。
「チャーブエ?」(ご飯食べた?)
「ブエ」(まだだ)。
曽さんは力なくそう言う。リンホウに酒を売りに来るいつもの人がまだ来ないとぼやく。部屋のテーブルの上にある杯には常に酒が入っているのだが、今日は空だ。よく見ると彼の手は微妙に震えている。顔色が青白い。表情が少ない。私が留守の間、彼に何があったのだろう…。
ちょっと変
「フエカー、フエカー!」(ただいま、ただいま!)
「お、タイラン、ライラ!」(お、僚太郎が帰ってきたぞ!)
いちばん先に私を発見した若深さんが言う。
「おー、タイラン、タイラン」(おー、僚太郎、僚太郎)。
インインはそう歓迎してくれる。インチンは、さっそく7月6日に帰ってこなかった理由の尋問を始める。
やっぱりリンホウはいい。ただ、今日のリンホウには何となく淋しい雰囲気が漂っている。心なしか私を迎えてくれる村人の表情には疲れが見える。
あれあれ、やっぱり変だ
「老蘇(蘇村長)、この人はあの『苦難不在人間』を書いた林志明さんですよ」。
村長は一瞬驚いた表情を見せるが、特に気にしていない様子だ。オウさんがHANDAについて説明し始めると、村長は言う、
「あー、もう知ってる、知ってる。タイランがいつも話してるからな」。
オウさんはしゃべり続けようとするが、村長は私に今回の旅のことを尋ね始めた。オウさんは黙ってしまう。
険悪なムード
先ほどの医院の職員が村に来た。
「何のためにあの表に書き込まなければいけないのか。夕飯の後医院に来て、院長に電話して同意を得てくれ」。
オウさんはお茶も飲まずに、医院の職員にHANDAのことを説明しつづける。
疲れがたまっていて汗だくの林さんは着ていたシャツを洗い始める。私が替わりに洗おうとすると、それを断り、黙々と洗い続ける。19時が近いが、まだ料理は始めていない。3人とも腹ペコだ。
今まで訪れた医院の場合、職員がバス停まで迎えに来て村に同行し、院長か職員が表を埋めていくことが多かった。村から街に戻ると職員がレストランで夕飯をゴチソウしてくれ、その夜のホテルの手配をし、次の医院に電話をかけてくれていた。リンホウでは何もない。林さんは私に言う、
「これではあんたのメンツも我々のメンツも立たない。彼らはHANDAに対する理解も示していないということだ」。
さらに険悪に
夕飯の後、医院に電話しに行く。
「さっき院長から電話があった。彼は蘇文秀が表に書き込むことに同意した。もう電話する必要はない」。
医院の職員はそう言う。20時半だとはいえリンホウは暑い。村から医院まで歩いて汗だくの林さんは唖然とした顔をして言う、
「せっかく来たんだから電話させてくれ」。
「その必要はない。もう院長は同意したんだから」。
「いや、それでも電話したい」。
「必要ありません」。
「…。あぁ、わかった、わかった。もう、帰るぞ」。
そう言うと林さんは電灯のない道を村までスタスタ歩いていく。収まりきらないオウさんは医院の職員に抗議するが、林さんに呼ばれて帰っていく。私はしばし立ち尽くし、2人を追う。
*
医院からの帰り道。
「ホントにすみません。ここの医院はいつもこんな感じなんです。私を通して直接医院に行ったからなおさらなんでしょう。まず衛生局に連絡すべきでしたね…」。
林さんとオウさんに対して身内が無礼な振る舞いをしたような気苦しさを感じて私は言った。
他の村を訪ねるときは、場所が分からないだけにまず衛生局や街の大きな病院を訪ねて情報を集める。するとそこの職員が然るべき手配をしてくれる。村までの車を出してくれるところもある。
しかしリンホウの場合、私が行き方を知っているので衛生局などを通さなかった。リンホウ医院の職員は私を「近所のガキ」くらいにしか思っていないので、そのガキと一緒に来たHANDAの2人を特に歓迎もしない。
「あの職員のことは忘れよう。元気を出せ、元気を出せ!」
林さんはそう快活に笑う。
イッパイイッパイ
「ところで今日はどこで寝るんだ?」
林さんがそう尋ねる。
「…。いま空いているベッドは2つです。これからもう1つ作りますよ。その間に水浴びをしていてください」。
村に泊まろうと提案したのは私だが、ベッドの数のことは考えていなかった。私は床にムシロを引いて寝ることにする。オウさんはしきりに自分が床で寝るという。もちろん、私は彼にベッドを譲った。
*
蘇村長に表を渡して書き込んでもらう。しかし、村長はそれを眺めつづけ、書こうとしない。
「おれが書くのは道理ではない。院長が書くべきだ」。
長い時間のにらめっこの結論はこれだった。確かに今までの医院ではほとんどの場合、院長が書いていた。医院にとって不都合なことを村長が書いたら、後で彼は責任を問われるかもしれない。
「明日院長がいる衛生局に行って、彼に書いてもらうといい」。
そう言って村長は表を私に返す。林さんとオウさんに何も書かれていない表を渡しながら言う、
「村長は書いてくれませんでした。道理ではないからだそうです…」。
「ああ、そうか、そうか。いや、いいんだ、いいんだ。村長が書かなくてもいいぞ」。
オウさんは笑顔でそう言ってくれる。
*
ふと気づくと、オウさんが水道で水浴びをしている。
「ここに浴室がありますよ!シャワーはありませんけど。ここを使ってください!」
「いや、水道でいいんだ、いいんだ」。
オウさんは笑顔で断る。汗だくの林さんは何やらムッツリと考え事をしている。HANDAが侮辱されたと感じているのだろう。
時計は22時を回っている。私はドギマギしながら思う、
(やっぱりホテルに泊まるべきだったか…?)
男泣き
後悔しても始まらない。モノだらけの私の部屋を片付け、疲れている林さんが眠れるようにしなければならない。それにしてもリンホウは暑い。汗がダラダラ流れる。部屋をキレイにし、お茶のお湯を沸かそうと外に出ると、入り口の外にいたオウさんがボソリと言う、
「ごめんな」。
「いや、こちらこそごめんなさい…」。
水道の水をヤカンに入れながらふとオウさんを見ると、歯を食いしばった唇が小刻みに震えている。室内の明かりの逆光で彼の顔はよく見えないが、それでも唇の震えだけはわかる。
「ごめんな」。
もう一度そう言ったオウさんの声は揺れている。驚いて立ち尽くす私の肩にオウさんは手をおき、もう一方の腕で眼をこする、
「ごめんな」。
オウさんはこの言葉を残してベッドのある向かいの部屋に入って行った。ヤカンを火にかけ、その部屋に行く。オウさんは突っ立ったままドアに背を向け、片腕を眼に当てていた。
「オウさんが『ごめん』を言うなんてあり得ませんよ。こちらの方がごめんなさいです…」。
うめくように涙を流すオウさんと、涙目の私は抱き合った。
*
結局、結論が出たのは23時半頃だ。明日の朝、院長に電話し、リンホウに院長を来させ、彼に表に書き込んでもらうことになった。曽さんと飲む約束、蘇さんのところに行く約束、インチンと飲む約束、郭さんとお茶を飲む約束はすべて果たせなかった。そして明日、またリンホウを離れる。すべてを投げ出したい衝動に駆られたが、オウさんの涙に救われた。
自分の自分に対する偏見
朝。ホテルにて。林さんとオウさんにお願いする、
「リンホウ医院の蘇文秀村長に、ハンセン病に対する差別が昔ほどないことを伝えてください。この度の調査旅行で各医院の職員や一般の人々はあなた方にとてもよくしてくれます。6月29日にヤンカン村に行ったときも学生たちに偏見はありませんでした。7月6日に花都に行ったときもそうでした。しかし、蘇村長は長年村の外に出たことがないので、こういった状況を知らないんです。
いつか蘇村長に潮州市内旅行を提案したことがありました。そのとき彼は我々ハンセン病『患者』には不要だと言ったんです。ある村人が公用で市街に行ったとき彼は自ら食堂の外に出て食事を取ったそうです。彼の自分自身への偏見は強いものです。どうか村長を始めリンホウの人々が自らへの偏見を排除する助けとなってください」。
「オーケー!」
林さんは笑顔で言う。オウさんは、食堂のくだりで首を振って舌打ちする。彼はこの筆談の紙をカバンにしまった。
8コ目の村のデータ
南澳麻風村…解散
村はない
8時30分、南澳医院の院長に会う。彼によると、この医院が管轄する村はすでに解散したそうだ。村人はすべて自分たちの家に帰って行ったという。
本を書け
帰りのフェリーで林さんは言う、
「今回の調査旅行の後、本を書きなさい。自分自身の感想を交えてだ。そうでないと今回の旅はただのカネと時間の浪費になるぞ」。
9コ目の村のデータ
医院名称:潮安県リンホウ医院
電話:0768−6838448
設立:1960年
郵便番号:
院長:黄紹傑
村長:蘇文秀
村内電話:―
住所:広東省潮州市潮安県古巷鎮
村人数:13名(最大300名)
平均年齢:68歳
生活費(月/人):120元(約1800円)
医療費:―
医師:1名
結婚状況:―
リンホウへ
次の訪問先はいよいよリンホウだ。フェリーを降りてリンホウ医院に電話し、今日の午後に着くと伝える。3人で村に泊まることになった。
潮州市から古巷鎮へバスで行き、そこから三輪オートバイを拾う。ガタガタの山道を登り、だんだんリンホウが近づいてくる。懐かしさに胸が痛いような、気持ちいいような。
17時に着いた。まずはリンホウ医院に寄る。医院には職員が1人だけだ。訪問の目的を伝え、村の基礎データを書き込む表を渡すと彼は言う、
「院長はHANDAが来ることを知っているのか。どっちにしろ、蘇文秀村長に書いてもらってくれ」。
彼は青いパンツと白いランニングシャツといういつもの姿でそう言う。
元気がない曽さん
村へと向かう。曽さんの家が見えてきた。林さんとオウさんをおいて早歩きになる。曽さんは部屋の前にしゃがみこんでボーっと道を見ている。
「チャーブエ?」(ご飯食べた?)
「ブエ」(まだだ)。
曽さんは力なくそう言う。リンホウに酒を売りに来るいつもの人がまだ来ないとぼやく。部屋のテーブルの上にある杯には常に酒が入っているのだが、今日は空だ。よく見ると彼の手は微妙に震えている。顔色が青白い。表情が少ない。私が留守の間、彼に何があったのだろう…。
ちょっと変
「フエカー、フエカー!」(ただいま、ただいま!)
「お、タイラン、ライラ!」(お、僚太郎が帰ってきたぞ!)
いちばん先に私を発見した若深さんが言う。
「おー、タイラン、タイラン」(おー、僚太郎、僚太郎)。
インインはそう歓迎してくれる。インチンは、さっそく7月6日に帰ってこなかった理由の尋問を始める。
やっぱりリンホウはいい。ただ、今日のリンホウには何となく淋しい雰囲気が漂っている。心なしか私を迎えてくれる村人の表情には疲れが見える。
あれあれ、やっぱり変だ
「老蘇(蘇村長)、この人はあの『苦難不在人間』を書いた林志明さんですよ」。
村長は一瞬驚いた表情を見せるが、特に気にしていない様子だ。オウさんがHANDAについて説明し始めると、村長は言う、
「あー、もう知ってる、知ってる。タイランがいつも話してるからな」。
オウさんはしゃべり続けようとするが、村長は私に今回の旅のことを尋ね始めた。オウさんは黙ってしまう。
険悪なムード
先ほどの医院の職員が村に来た。
「何のためにあの表に書き込まなければいけないのか。夕飯の後医院に来て、院長に電話して同意を得てくれ」。
オウさんはお茶も飲まずに、医院の職員にHANDAのことを説明しつづける。
疲れがたまっていて汗だくの林さんは着ていたシャツを洗い始める。私が替わりに洗おうとすると、それを断り、黙々と洗い続ける。19時が近いが、まだ料理は始めていない。3人とも腹ペコだ。
今まで訪れた医院の場合、職員がバス停まで迎えに来て村に同行し、院長か職員が表を埋めていくことが多かった。村から街に戻ると職員がレストランで夕飯をゴチソウしてくれ、その夜のホテルの手配をし、次の医院に電話をかけてくれていた。リンホウでは何もない。林さんは私に言う、
「これではあんたのメンツも我々のメンツも立たない。彼らはHANDAに対する理解も示していないということだ」。
さらに険悪に
夕飯の後、医院に電話しに行く。
「さっき院長から電話があった。彼は蘇文秀が表に書き込むことに同意した。もう電話する必要はない」。
医院の職員はそう言う。20時半だとはいえリンホウは暑い。村から医院まで歩いて汗だくの林さんは唖然とした顔をして言う、
「せっかく来たんだから電話させてくれ」。
「その必要はない。もう院長は同意したんだから」。
「いや、それでも電話したい」。
「必要ありません」。
「…。あぁ、わかった、わかった。もう、帰るぞ」。
そう言うと林さんは電灯のない道を村までスタスタ歩いていく。収まりきらないオウさんは医院の職員に抗議するが、林さんに呼ばれて帰っていく。私はしばし立ち尽くし、2人を追う。
*
医院からの帰り道。
「ホントにすみません。ここの医院はいつもこんな感じなんです。私を通して直接医院に行ったからなおさらなんでしょう。まず衛生局に連絡すべきでしたね…」。
林さんとオウさんに対して身内が無礼な振る舞いをしたような気苦しさを感じて私は言った。
他の村を訪ねるときは、場所が分からないだけにまず衛生局や街の大きな病院を訪ねて情報を集める。するとそこの職員が然るべき手配をしてくれる。村までの車を出してくれるところもある。
しかしリンホウの場合、私が行き方を知っているので衛生局などを通さなかった。リンホウ医院の職員は私を「近所のガキ」くらいにしか思っていないので、そのガキと一緒に来たHANDAの2人を特に歓迎もしない。
「あの職員のことは忘れよう。元気を出せ、元気を出せ!」
林さんはそう快活に笑う。
イッパイイッパイ
「ところで今日はどこで寝るんだ?」
林さんがそう尋ねる。
「…。いま空いているベッドは2つです。これからもう1つ作りますよ。その間に水浴びをしていてください」。
村に泊まろうと提案したのは私だが、ベッドの数のことは考えていなかった。私は床にムシロを引いて寝ることにする。オウさんはしきりに自分が床で寝るという。もちろん、私は彼にベッドを譲った。
*
蘇村長に表を渡して書き込んでもらう。しかし、村長はそれを眺めつづけ、書こうとしない。
「おれが書くのは道理ではない。院長が書くべきだ」。
長い時間のにらめっこの結論はこれだった。確かに今までの医院ではほとんどの場合、院長が書いていた。医院にとって不都合なことを村長が書いたら、後で彼は責任を問われるかもしれない。
「明日院長がいる衛生局に行って、彼に書いてもらうといい」。
そう言って村長は表を私に返す。林さんとオウさんに何も書かれていない表を渡しながら言う、
「村長は書いてくれませんでした。道理ではないからだそうです…」。
「ああ、そうか、そうか。いや、いいんだ、いいんだ。村長が書かなくてもいいぞ」。
オウさんは笑顔でそう言ってくれる。
*
ふと気づくと、オウさんが水道で水浴びをしている。
「ここに浴室がありますよ!シャワーはありませんけど。ここを使ってください!」
「いや、水道でいいんだ、いいんだ」。
オウさんは笑顔で断る。汗だくの林さんは何やらムッツリと考え事をしている。HANDAが侮辱されたと感じているのだろう。
時計は22時を回っている。私はドギマギしながら思う、
(やっぱりホテルに泊まるべきだったか…?)
男泣き
後悔しても始まらない。モノだらけの私の部屋を片付け、疲れている林さんが眠れるようにしなければならない。それにしてもリンホウは暑い。汗がダラダラ流れる。部屋をキレイにし、お茶のお湯を沸かそうと外に出ると、入り口の外にいたオウさんがボソリと言う、
「ごめんな」。
「いや、こちらこそごめんなさい…」。
水道の水をヤカンに入れながらふとオウさんを見ると、歯を食いしばった唇が小刻みに震えている。室内の明かりの逆光で彼の顔はよく見えないが、それでも唇の震えだけはわかる。
「ごめんな」。
もう一度そう言ったオウさんの声は揺れている。驚いて立ち尽くす私の肩にオウさんは手をおき、もう一方の腕で眼をこする、
「ごめんな」。
オウさんはこの言葉を残してベッドのある向かいの部屋に入って行った。ヤカンを火にかけ、その部屋に行く。オウさんは突っ立ったままドアに背を向け、片腕を眼に当てていた。
「オウさんが『ごめん』を言うなんてあり得ませんよ。こちらの方がごめんなさいです…」。
うめくように涙を流すオウさんと、涙目の私は抱き合った。
*
結局、結論が出たのは23時半頃だ。明日の朝、院長に電話し、リンホウに院長を来させ、彼に表に書き込んでもらうことになった。曽さんと飲む約束、蘇さんのところに行く約束、インチンと飲む約束、郭さんとお茶を飲む約束はすべて果たせなかった。そして明日、またリンホウを離れる。すべてを投げ出したい衝動に駆られたが、オウさんの涙に救われた。
posted by tynoon at 04:52| 2003年リンホウ駐在中
2003年07月12日
広東省東部快復村調査
2003年7月12日
6コ目の村のデータ
医院名称:潮陽区竹棚医院
電話:0661−3822535
設立:1966年
郵便番号:
院長:郭
村長:―
村内電話:―
住所:広東省汕頭市潮陽区
村人数:65名(最大200名前後)
平均年齢:65.5歳
生活費(月/人):200元(約3000円)
医療費:―
医師:―
結婚状況:―
山登り
7時半。潮陽県竹棚村のふもとに着く。村は山のてっぺんにある。
「あそこに松の木が1本立っているのが見えるだろ。ほら、あそこ、あそこ。村はそこにある」。
医院の職員が指差すはるか先に、小さな1本の木の黒い陰が見える。
かなり険しい斜面だ。狭い道なので車は入れない。ちょっとした山登りだ。林さんは途中で木の棒を拾い、杖にする。背丈ほどもある草のトンネルをくぐったり、岩だらけの道を踏みしめながら歩いたり。途中で休憩を3度挟んで約1時間後に村に着いた。林さんが滑ってオウさんと私が抱きとめるシーンが3度あった。
無意味な水道
比較的新しい、キレイな建物が建つ村だ。全部で6棟ある。ガスもある。水道もある。汗だらけの顔を洗おうと蛇口をひねる。が、出ない。
「以前は使えたんだが、今は壊れていて使えないんだ」。
村人たちはそう訴える。現在は井戸水を使っているという。
ふもと価格、頂上価格
村人は全員で65名。足の裏に傷がある人はそのうちの80〜90%だ。足を切断した人はいない。医師は2・3日に1度来るという。生活費は1人につき1ヶ月200元(約3000円)だ。リンホウに比べればよい方だ。ただ…、
「ふもとで1元(約15円)のモノがここでは1.5元(約23円)なんだ」。
そう村人は憤る。確かに50分ほどかかる山道を登ってモノを売りにくる人は大変だ。1.5倍で売りたくなる気持ちも分かる。少しでも安く買うため、村人はふもとまで買い物に行くという。
ところで、水道をワークキャンプで直すとしたら、いくらになるのだろうか。
「6万元(約90万円)以上だな。ふもとでは3万元(約45万円)程なんだが」。
黄門様
林さんは何かに似ている。しかし、イマイチ思い出せなかった。今日、わかった。杖をついて山道を下る彼の後ろ姿を見てひらめいた。
水戸黄門だ。
黄門様がハンセン病の村を調べて歩く旅に従うオウさんと私は、助さん格さんだろう。この中国の御老公の決め台詞は、
「困ったことがあったらいつでもHANDAに連絡しなさい。遠慮することはない」。
村人にHANDAの連絡先を教えて、そう言い残すと、黄門様は次の村へと旅立ってゆく。
7コ目の村のデータ
医院名称:大東医院
電話:0754−5751632
設立:1957年3月17日
郵便番号:
院長:李施慶
村長:唐紹凱、王華東
村内電話:0754−5307336
住所:広東省澄海市樟林鎮
村人数:12名(最大100名)
平均年齢:50歳以上
生活費(月/人):130元(約1950円)
医療費:―
医師:―
結婚状況:―
ヤンカン村ワークキャンプの準備
12時半、澄海市大東医院でジエシャンが来るのを待つ。この街に住んでいる彼女は2時前後に来る。
ふと、ヤンカン村のワークキャンプの準備を思い出した。中国側総リーダーのトンビンの携帯電話にメッセージを送り、参加者を募るようにお願いする。6月29日にヤンカン村を訪れた人を中心に声をかけてみるように頼んだ。
「もうみんなに連絡したよ。今のところ5人が来ることが確定してる。他の人は返事を保留してるよ」。
昨夜はワークリーダーのジエチオンにワークの準備の進捗状況を尋ねてみた。
「だいたい予算は把握できたよ。あとは(ヤンカン村のある)清遠市の物価を確認するだけ」。
私が何もしなくても、彼らが準備を進めてくれる。頼もしい友達を持った。
2人の姉は日本軍に殺された
13時半、ジエシャンはまだ来ない。林さんはさっきから時計をチラチラ見ている。と、ジエシャンからメッセージが入る、
「今からうちを出るわ」。
悠長な子だ。とっとと来い。しかし、考えようによってはいい機会だ。林さんと話ができる。彼は休む間もなく村を訪問し、夜は会計の仕事を終えると早々に寝てしまい、今まで満足に話したことがない。
―なぜ、『苦難不在人間』を書こうと思ったんですか。
林さんはニコッと微笑むとボールペンを走らせる。話と言ってもまだまだ筆談中心だ。
「ハンセン病の苦難を多くの人々に知らせるためだ」。
―家族の反対はなかったんですか。
「私は1人だけだからな。家族はいないんだ!恐れる必要はない!」
訊いてはいけないかなと思いながらも、訊いてみる、
―何でですか?
「小さい頃、父母兄姉は皆死んだ!」
ドキッとする。
―鬼子にですか?
「2人の姉はそうだ!兄弟が死んだ原因にも少し関係がある」。
―日本国籍を持つ者の1人として謝ります…。
「日本にはとてもたくさん愛と平和の人がいる!」
そう書くと林さんは満面の笑みでノートとボールペンを私に勢いよく返した。
村の状況
14時15分ごろ、ジエシャンが来た。途端に元気になった林さんとオウさん、一緒についてきてくれた汕頭(スワトウ)市皮膚病院の職員の李さんは村に向かって出発する。山道を4・5分行くと着く。
村の建物はキレイだ。築3年の白壁の平屋だ。建設費は村の畑を売って賄ったという。トイレ、貯水タンクと水道がある。室内には扇風機、テレビ、電気炊飯器がある。12人の村人全員がテレビを持っているが、大半は壊れているそうだ。
生活
村人が興奮してジエシャンに訴える、
「3ヶ月前まで、生活費の支給は20〜30元(約300〜450円)だったんだ!」
彼はコツンとコンクリートの床を叩く。足の傷が悪化した彼は立つことができない。7年間腎臓に問題がある。ところが、医者はいない。村人は村の外の病院に行き、自腹を切らなければならない。
現在村の生活費は1人あたり1ヶ月130元(約1950円)だ。その他の収入としては、村に2本ある「ンポエ」という木の実の売上がある。しかし、村人はこの木を借りるためにお金を払わなければならないという。
ここの村人の表情は明るくはない。怒りと絶望で満ちている。去年9月のリンホウのようだ。
ワークキャンプ
ジエシャンにワークキャンプの必要があるかどうかを尋ねてもらう。
「いらん、いらん」。
村人は口をそろえて言う。確かに建設の需要はない。しかし…。
南澳へ
南澳県麻風村は南澳島という島にある。16時半、フェリーで島まで行く。船から埠頭を見下ろしながら思う、
(昔、ここから島の療養所に隔離されていった人がいたんだろうな…)。
島に着く。海沿いの崖に沿う舗装された道。道沿いに植えられた並木の間からは青い海が見える。日本の国立ハンセン病療養所・長島愛生園を思い起こさせる。明日、村を訪問する。
6コ目の村のデータ
医院名称:潮陽区竹棚医院
電話:0661−3822535
設立:1966年
郵便番号:
院長:郭
村長:―
村内電話:―
住所:広東省汕頭市潮陽区
村人数:65名(最大200名前後)
平均年齢:65.5歳
生活費(月/人):200元(約3000円)
医療費:―
医師:―
結婚状況:―
山登り
7時半。潮陽県竹棚村のふもとに着く。村は山のてっぺんにある。
「あそこに松の木が1本立っているのが見えるだろ。ほら、あそこ、あそこ。村はそこにある」。
医院の職員が指差すはるか先に、小さな1本の木の黒い陰が見える。
かなり険しい斜面だ。狭い道なので車は入れない。ちょっとした山登りだ。林さんは途中で木の棒を拾い、杖にする。背丈ほどもある草のトンネルをくぐったり、岩だらけの道を踏みしめながら歩いたり。途中で休憩を3度挟んで約1時間後に村に着いた。林さんが滑ってオウさんと私が抱きとめるシーンが3度あった。
無意味な水道
比較的新しい、キレイな建物が建つ村だ。全部で6棟ある。ガスもある。水道もある。汗だらけの顔を洗おうと蛇口をひねる。が、出ない。
「以前は使えたんだが、今は壊れていて使えないんだ」。
村人たちはそう訴える。現在は井戸水を使っているという。
ふもと価格、頂上価格
村人は全員で65名。足の裏に傷がある人はそのうちの80〜90%だ。足を切断した人はいない。医師は2・3日に1度来るという。生活費は1人につき1ヶ月200元(約3000円)だ。リンホウに比べればよい方だ。ただ…、
「ふもとで1元(約15円)のモノがここでは1.5元(約23円)なんだ」。
そう村人は憤る。確かに50分ほどかかる山道を登ってモノを売りにくる人は大変だ。1.5倍で売りたくなる気持ちも分かる。少しでも安く買うため、村人はふもとまで買い物に行くという。
ところで、水道をワークキャンプで直すとしたら、いくらになるのだろうか。
「6万元(約90万円)以上だな。ふもとでは3万元(約45万円)程なんだが」。
黄門様
林さんは何かに似ている。しかし、イマイチ思い出せなかった。今日、わかった。杖をついて山道を下る彼の後ろ姿を見てひらめいた。
水戸黄門だ。
黄門様がハンセン病の村を調べて歩く旅に従うオウさんと私は、助さん格さんだろう。この中国の御老公の決め台詞は、
「困ったことがあったらいつでもHANDAに連絡しなさい。遠慮することはない」。
村人にHANDAの連絡先を教えて、そう言い残すと、黄門様は次の村へと旅立ってゆく。
7コ目の村のデータ
医院名称:大東医院
電話:0754−5751632
設立:1957年3月17日
郵便番号:
院長:李施慶
村長:唐紹凱、王華東
村内電話:0754−5307336
住所:広東省澄海市樟林鎮
村人数:12名(最大100名)
平均年齢:50歳以上
生活費(月/人):130元(約1950円)
医療費:―
医師:―
結婚状況:―
ヤンカン村ワークキャンプの準備
12時半、澄海市大東医院でジエシャンが来るのを待つ。この街に住んでいる彼女は2時前後に来る。
ふと、ヤンカン村のワークキャンプの準備を思い出した。中国側総リーダーのトンビンの携帯電話にメッセージを送り、参加者を募るようにお願いする。6月29日にヤンカン村を訪れた人を中心に声をかけてみるように頼んだ。
「もうみんなに連絡したよ。今のところ5人が来ることが確定してる。他の人は返事を保留してるよ」。
昨夜はワークリーダーのジエチオンにワークの準備の進捗状況を尋ねてみた。
「だいたい予算は把握できたよ。あとは(ヤンカン村のある)清遠市の物価を確認するだけ」。
私が何もしなくても、彼らが準備を進めてくれる。頼もしい友達を持った。
2人の姉は日本軍に殺された
13時半、ジエシャンはまだ来ない。林さんはさっきから時計をチラチラ見ている。と、ジエシャンからメッセージが入る、
「今からうちを出るわ」。
悠長な子だ。とっとと来い。しかし、考えようによってはいい機会だ。林さんと話ができる。彼は休む間もなく村を訪問し、夜は会計の仕事を終えると早々に寝てしまい、今まで満足に話したことがない。
―なぜ、『苦難不在人間』を書こうと思ったんですか。
林さんはニコッと微笑むとボールペンを走らせる。話と言ってもまだまだ筆談中心だ。
「ハンセン病の苦難を多くの人々に知らせるためだ」。
―家族の反対はなかったんですか。
「私は1人だけだからな。家族はいないんだ!恐れる必要はない!」
訊いてはいけないかなと思いながらも、訊いてみる、
―何でですか?
「小さい頃、父母兄姉は皆死んだ!」
ドキッとする。
―鬼子にですか?
「2人の姉はそうだ!兄弟が死んだ原因にも少し関係がある」。
―日本国籍を持つ者の1人として謝ります…。
「日本にはとてもたくさん愛と平和の人がいる!」
そう書くと林さんは満面の笑みでノートとボールペンを私に勢いよく返した。
村の状況
14時15分ごろ、ジエシャンが来た。途端に元気になった林さんとオウさん、一緒についてきてくれた汕頭(スワトウ)市皮膚病院の職員の李さんは村に向かって出発する。山道を4・5分行くと着く。
村の建物はキレイだ。築3年の白壁の平屋だ。建設費は村の畑を売って賄ったという。トイレ、貯水タンクと水道がある。室内には扇風機、テレビ、電気炊飯器がある。12人の村人全員がテレビを持っているが、大半は壊れているそうだ。
生活
村人が興奮してジエシャンに訴える、
「3ヶ月前まで、生活費の支給は20〜30元(約300〜450円)だったんだ!」
彼はコツンとコンクリートの床を叩く。足の傷が悪化した彼は立つことができない。7年間腎臓に問題がある。ところが、医者はいない。村人は村の外の病院に行き、自腹を切らなければならない。
現在村の生活費は1人あたり1ヶ月130元(約1950円)だ。その他の収入としては、村に2本ある「ンポエ」という木の実の売上がある。しかし、村人はこの木を借りるためにお金を払わなければならないという。
ここの村人の表情は明るくはない。怒りと絶望で満ちている。去年9月のリンホウのようだ。
ワークキャンプ
ジエシャンにワークキャンプの必要があるかどうかを尋ねてもらう。
「いらん、いらん」。
村人は口をそろえて言う。確かに建設の需要はない。しかし…。
南澳へ
南澳県麻風村は南澳島という島にある。16時半、フェリーで島まで行く。船から埠頭を見下ろしながら思う、
(昔、ここから島の療養所に隔離されていった人がいたんだろうな…)。
島に着く。海沿いの崖に沿う舗装された道。道沿いに植えられた並木の間からは青い海が見える。日本の国立ハンセン病療養所・長島愛生園を思い起こさせる。明日、村を訪問する。
posted by tynoon at 04:50| 2003年リンホウ駐在中
2003年07月11日
広東省東部快復村調査旅行
2003年7月11日
4コ目の村のデータ
医院名称:掲東県西坑医院
電話:0663−3311762
設立:1956年4月
郵便番号:515561
院長:鄭樹通
村長:囉癒居
村内電話:―
住所:広東省掲陽市掲東県地都鎮西坑医院
村人数:99名(最大585名)
平均年齢:70.2歳
生活費(月/人):140元(約2100円)
医療費:50元(約750円)
医師:?
結婚状況:3組
掲陽へ
6時15分、掲陽行きのバスに乗り込む。朝ご飯は温院長にもらった袋いっぱいの肉まん。お腹いっぱいになってぐっすり眠ると8時50分、掲陽に着いていた。すぐに掲東県西坑医院の鄭院長ら職員が迎えにきてくれる。鄭院長はバンから降りるなり私たち3人と握手する。
素晴らしい施設
村に着く。規模は小さい。村全体を壁が囲んでいる。2階建てのコの字型の建物だ。他にも長い長屋がある。水洗トイレがある。シャワー室が3・4コある。ガスまである。さらに村人に後遺症が全くない。子供までいる。みな表情が異常に明るい。
(これはワークキャンプの必要は全くないな…)。
そう思ったのも無理はない。ここは村ではなく、病院だったからだ。ここにいる人々は医院の職員だ。快復者が住む村はここからさらに山奥に入ったところにある。
壊れた発電機
院長、医院の職員と村長が訴える、
「村の電気は水力発電でまかなっている。しかし今の季節は雨が少なく、発電ができない。見てくれあの川を。水が少ないだろ。1日に4時間しか電気が使えないんだ」。
院長は小型水力発電機を買いたいという。現在のモノは30年以上経っており、壊れているそうだ。費用は30〜40万元(約450〜600万円)だ。
村へ
村もかなりキレイだ。各部屋に浴室がある家屋もある。水道もある。村人は99名。生活費は1人あたり1ヶ月140元(約2100円)、医療費は50元(約750円)だ。ただし、義足は自腹を切ったという。1本が1000元(約1万5000円)だったそうだ。そして、電気は1日に4時間だけ、晩にしか使えない。
歩く人民元
院長と医院の職員、村長、林さんとオウさんは先に行ってしまった。私は、仙人のようなある村人が気になり、話しを続ける。名前は李木森さん。携帯電話の番号を教えてくれた。
「ワークキャンプで発電機を新しくしたいと思っています。1日に4時間しか電気が使えないんですよね」。
白髪がきれいで血色のいい白い肌の李さんに言う。
「そうなんだ。電気がないと不便だ。…でもな、発電機は壊れていないぞ」。
李さんは声を潜めてそう笑う。アメリカ人が寄付した高性能の発電機はとても調子がいいという。
驚く私に彼は声を潜めて言う、
「カネだ、カネ。このことは秘密だぞ」。
ここで医院の職員が私を探しに来た。電気が1日4時間しかない理由は謎のままだ。
*
傷を持っているという村人が木陰で涼んでいる。医院の職員は彼の写真を撮るようにと私に言う。村人にカメラを向けると職員は言う、
「靴を脱ぐんだ」。
村人が靴を脱ぐと変形した足と傷が露わになる。1、2、3、シャッターを切る。
義足の足首が見えている村人がいる。医院の職員は、写真を撮る身振りを私に向ける。
「ズボンをまくるんだ」。
医院の職員は村人にそう促す。ワークキャンプの資金集めに使えということだろう。
*
彼らにとって私とワークキャンプは、歩く人民元なのだ。林さんが書いた「今回訪問する医院のリスト」のこの病院の名前の前には「注意聯系」とあることに気づいた。「聯系」は「連携」の意味だろう。なんともやり切れない気分だ。こうなってくると、温院長にも疑いの眼を向けざるを得ない。
5コ目の村のデータ
医院名称:潯住院部
電話:0754−8539406
設立:1956年
郵便番号:51504(皮膚院)
院長:王建中、李佩華
村長:―
村内電話:―
住所:広東省汕頭市金平区
村人数:7名(最大200名前後)
平均年齢:70歳
生活費(月/人):220元(約3300円)
医療費:―
医師:毎週木曜日に診察
結婚状況:―
穏やかな村人
14時、汕頭(スワトウ)市に着く。汕頭市皮膚病院で次の訪問先・潯住院部の院長を待つ。昨日眠れなかったという林さんはうとうとしている。
14時50分、院長と会って訪問の目的を伝えると、村を目指す。約40分で着いた。この村には7棟の建物があるが、村人は6名しかいない。水道はなく、井戸水を使っている。電話もない。ガスももちろんない。住居は雨漏りがするという。集会所の屋根にはレジャーシートが張ってある。生活費は220元(約3300円)、医療費は50元(約750円)だ。
林さんが村の基本データを集めるために村人にインタビューしていると、全員の村人が集まってきた。足を切断した村人2名は自作の台車に乗っている。みんな穏やかな笑顔なのが印象的だ。ここはワークキャンプに最も適しているだろう。空き部屋がたくさんあり、キャンパーが泊まりやすい。ワークも手ごろな屋根直しだ。
林さんの執筆
16時40分、次の訪問先・潮陽市竹棚医院の院長を待つ。待ち時間、私は眠ることにする。が、疲れているはずの林さんは新しいノートを取り出し、何やら書き始めた。「7月9日」という文字が見える。今回の旅の記録のようだ。彼はメモなどを見ず、サラサラと書き進めていく。
4コ目の村のデータ
医院名称:掲東県西坑医院
電話:0663−3311762
設立:1956年4月
郵便番号:515561
院長:鄭樹通
村長:囉癒居
村内電話:―
住所:広東省掲陽市掲東県地都鎮西坑医院
村人数:99名(最大585名)
平均年齢:70.2歳
生活費(月/人):140元(約2100円)
医療費:50元(約750円)
医師:?
結婚状況:3組
掲陽へ
6時15分、掲陽行きのバスに乗り込む。朝ご飯は温院長にもらった袋いっぱいの肉まん。お腹いっぱいになってぐっすり眠ると8時50分、掲陽に着いていた。すぐに掲東県西坑医院の鄭院長ら職員が迎えにきてくれる。鄭院長はバンから降りるなり私たち3人と握手する。
素晴らしい施設
村に着く。規模は小さい。村全体を壁が囲んでいる。2階建てのコの字型の建物だ。他にも長い長屋がある。水洗トイレがある。シャワー室が3・4コある。ガスまである。さらに村人に後遺症が全くない。子供までいる。みな表情が異常に明るい。
(これはワークキャンプの必要は全くないな…)。
そう思ったのも無理はない。ここは村ではなく、病院だったからだ。ここにいる人々は医院の職員だ。快復者が住む村はここからさらに山奥に入ったところにある。
壊れた発電機
院長、医院の職員と村長が訴える、
「村の電気は水力発電でまかなっている。しかし今の季節は雨が少なく、発電ができない。見てくれあの川を。水が少ないだろ。1日に4時間しか電気が使えないんだ」。
院長は小型水力発電機を買いたいという。現在のモノは30年以上経っており、壊れているそうだ。費用は30〜40万元(約450〜600万円)だ。
村へ
村もかなりキレイだ。各部屋に浴室がある家屋もある。水道もある。村人は99名。生活費は1人あたり1ヶ月140元(約2100円)、医療費は50元(約750円)だ。ただし、義足は自腹を切ったという。1本が1000元(約1万5000円)だったそうだ。そして、電気は1日に4時間だけ、晩にしか使えない。
歩く人民元
院長と医院の職員、村長、林さんとオウさんは先に行ってしまった。私は、仙人のようなある村人が気になり、話しを続ける。名前は李木森さん。携帯電話の番号を教えてくれた。
「ワークキャンプで発電機を新しくしたいと思っています。1日に4時間しか電気が使えないんですよね」。
白髪がきれいで血色のいい白い肌の李さんに言う。
「そうなんだ。電気がないと不便だ。…でもな、発電機は壊れていないぞ」。
李さんは声を潜めてそう笑う。アメリカ人が寄付した高性能の発電機はとても調子がいいという。
驚く私に彼は声を潜めて言う、
「カネだ、カネ。このことは秘密だぞ」。
ここで医院の職員が私を探しに来た。電気が1日4時間しかない理由は謎のままだ。
*
傷を持っているという村人が木陰で涼んでいる。医院の職員は彼の写真を撮るようにと私に言う。村人にカメラを向けると職員は言う、
「靴を脱ぐんだ」。
村人が靴を脱ぐと変形した足と傷が露わになる。1、2、3、シャッターを切る。
義足の足首が見えている村人がいる。医院の職員は、写真を撮る身振りを私に向ける。
「ズボンをまくるんだ」。
医院の職員は村人にそう促す。ワークキャンプの資金集めに使えということだろう。
*
彼らにとって私とワークキャンプは、歩く人民元なのだ。林さんが書いた「今回訪問する医院のリスト」のこの病院の名前の前には「注意聯系」とあることに気づいた。「聯系」は「連携」の意味だろう。なんともやり切れない気分だ。こうなってくると、温院長にも疑いの眼を向けざるを得ない。
5コ目の村のデータ
医院名称:潯住院部
電話:0754−8539406
設立:1956年
郵便番号:51504(皮膚院)
院長:王建中、李佩華
村長:―
村内電話:―
住所:広東省汕頭市金平区
村人数:7名(最大200名前後)
平均年齢:70歳
生活費(月/人):220元(約3300円)
医療費:―
医師:毎週木曜日に診察
結婚状況:―
穏やかな村人
14時、汕頭(スワトウ)市に着く。汕頭市皮膚病院で次の訪問先・潯住院部の院長を待つ。昨日眠れなかったという林さんはうとうとしている。
14時50分、院長と会って訪問の目的を伝えると、村を目指す。約40分で着いた。この村には7棟の建物があるが、村人は6名しかいない。水道はなく、井戸水を使っている。電話もない。ガスももちろんない。住居は雨漏りがするという。集会所の屋根にはレジャーシートが張ってある。生活費は220元(約3300円)、医療費は50元(約750円)だ。
林さんが村の基本データを集めるために村人にインタビューしていると、全員の村人が集まってきた。足を切断した村人2名は自作の台車に乗っている。みんな穏やかな笑顔なのが印象的だ。ここはワークキャンプに最も適しているだろう。空き部屋がたくさんあり、キャンパーが泊まりやすい。ワークも手ごろな屋根直しだ。
林さんの執筆
16時40分、次の訪問先・潮陽市竹棚医院の院長を待つ。待ち時間、私は眠ることにする。が、疲れているはずの林さんは新しいノートを取り出し、何やら書き始めた。「7月9日」という文字が見える。今回の旅の記録のようだ。彼はメモなどを見ず、サラサラと書き進めていく。
posted by tynoon at 04:48| 2003年リンホウ駐在中
2003年07月10日
広東省東部快復村調査旅行
2003年7月10日
「林さんと一緒に村に行く夢を見たわ。そこには子供たちがいるの。1人の村人が死にかけていたわ…。どこの村かしら」。
朝一にジエシャンから携帯にメッセージが入った。今日訪ねる村はどんな村なのだろう。
2コ目の村のデータ
医院名称:陸豊市光地医院
電話:8980360
設立:1957年
郵便番号:516521
院長:盧華民
村長:彭景亮
村内電話:8261012
住所:広東省陸豊市博美鎮
村人数:88名(最大400名前後)
平均年齢:57歳
生活費(月/人):200元(約3000円)
医療費:50元(約750円)
医師:?
結婚状況:12組
ヤサシイ…
光地医院の職員がホテル―1晩350円―の薄い扉を叩く、
「朝ご飯を食べに行こう!」
バンに先に乗り込んでいた医院の職員・呉召南さんは、バンに乗ろうとする林さんの腕をとる。
朝ご飯は飲茶形式。いろいろな点心がワゴンで運ばれて来、うまそうなモノを選ぶことができる。盧華民院長を初め、医院の職員4人と共に食事をする。
体がゴツイ呉さんは林さんとオウさんのお茶がなくなるとすかさず注ぎ足す。
9時過ぎ、医院のバンで村に向かう。この車の後部座席のクーラーは調子が悪い。送風口から水が滴り、風に乗って林さんが座っている場所に時々飛んでくる。呉さんは送風口を手で抑えつづける。
30分ほどで村に着いた。暑い。呉さんはみんなにミネラルウォーターを配る。手が不自由な林さんとオウさんにはフタを緩めてから渡す。
村の様子
この村の建物は新旧の差が激しい。薬局がある建物は灰色く黒ずんでいる。赤い星が外壁に堂々としていることから、かなり前に建てられたことがわかる。その隣にある村人の家は白いキレイな建物。2階建てだ。扇風機、電話があり、室内にトイレと台所がある。ただしプロパンガスは空だ。この住居の奥には少し古めの長屋、さらに奥には相当古い長屋がある。長い木材を外壁につっかえさせて補強してある。
村の水は、キリスト教会が寄付した大きな貯水タンクで賄われている。生活費は200元(約3000円)、医療費は50元(約750円)だ。
息子、孫
村人は現在88名だ。結婚している村人が12組おり、子供が11人住んでいる。46人の住居が安全で、22人の家が危険な状態にある。20人は村外の家族の下にとどまっているという。
安全な2階建ての家の1階に住むおじさんは、両足が不自由で車椅子に乗っている。おしっこは管からしているという。奥さんはその2階に住んでいる。
「妻は手足の指がないんだ」。
そう言う彼の隣に座って赤ちゃんを抱っこしているのは誰だろう。
「息子だ」。
背が高くてハッキリした顔立ちの彼ははにかんで笑う。このおじさん村人は息子とお嫁さん、孫3人と一緒に暮らしている。この村人はにこやかだ。他の村の人々と同じ微笑だが、彼の表情には暗い影を感じない。
雑貨屋
村には雑貨屋がある。中国のどこにでもあるような普通の雑貨屋だ。ビール、ジュース、お菓子、タバコ、石けん…。だいたいのものはそろっている。村人の夫婦がそれを営む。中学生くらいの少女が2・3歳の女の子を抱いている。
「私の娘よ」。
雑貨屋のおばちゃんは言う。少女は妹をベッドの上に座らせる。カメラを向けると女の子は下を向いて固まってしまう。私の妹も同じように恥ずかしがったものだ。
ワークキャンプの可能性
院長にワークキャンプができるかどうか尋ねてみた。
「村に必要なものは、看病用の部屋、医療設備、村人の家屋だな」。
この村はリンホウほど生活状況が悪いとは思わないが、ワークキャンプをすることは可能だろう。この村は快復者の子供がいることで特徴的だ。子供が住んでいるハンセン病の村は初めて見た。この村でのキャンプはどんなキャンプになるだろう。
盧院長
医院のバンで陸豊のバスターミナルに着く。バンを降りるなり林さんはチケットを買い、バスに乗り込もうとする。
「まあまあ、待ってくださいよ。次に行く病院に電話しますから。場所がわからないでしょう」。
次に訪ねる恵来県康復医院に光地医院の盧華民院長が電話してくれる。
「30分後に恵来県康復医院の職員が迎えに来てくれます」。
お迎えを待つ間、盧院長は林さんと話しこむ。何を話しているかよくわからないが、「リエンシー」という言葉をよく聞く。これからは連絡を密にして協力していこうという意味だろう。盧院長は私に携帯電話の番号を訊くほどの熱意を見せる。
3コ目の村のデータ
医院名称:恵来県康復医院
電話:0663−6682010
設立:1957年3月
郵便番号:515200
院長:温展鵬
村長:方古
村内電話:―
住所:広東省恵来県恵城鎮
村人数:85名(最大400名以上)
平均年齢:57.5歳
生活費(月/人):135元(約2025円)
医療費:50元(約750円)
医師:少なくとも1名
結婚状況:16組
あたたかい巨漢
恵来県康復医院のバンが来た。穏やかな顔をした大男が、降りてくるなり私たち3人と握手する。14時半、町中の医院の事務所に着いた。
事務所で巨漢はお茶を入れ、名刺をくれる。「温展鵬院長」とある。西洋医学を修得した内科医だ。彼はHANDA通信の束を持ってくる。HANDAが毎号を郵送しているそうだ。
「いつもHANDA通信を読んでますよ。あの林さんに会えるとは。来ていただけて嬉しく思います」。
温院長は豪快に笑いながら大きな身振りで話す。林さんはHANDA通信で文章を書いているので、院長は彼の名前を知っていた。
「村には86歳から21歳まで85名が住んでいます。生活費は1人につき1ヶ月135元(約2025円)です」。
温院長は村の状況を林さんとオウさんに伝えていく。
「いやあ、お疲れさまです、お疲れさまです。こんなに暑い中わざわざお越しいただきまして」。
右手のこぶしを左手で覆って軽く会釈する彼の言動は、私が抱く「ハンセン病の病院の院長」のイメージをひっくり返す。
「うちの病院では、村人に急患があれば夜中でも村まで行きます。この前は夜の12時に村に行きましたよ」。
イヤミな印象を与えずに院長はそう言って笑う。林さんがねぎらう、
「あなたは村人に対してよくしてますね」。
「いや、村人が私に対してよくしてくれているんです」。
温院長は即答する。感じ入った林さんは言う、
「あなたは素晴らしい!」
村へ
15時半前、医院の4WDで村に向かう。
「キミは前の座席に座るといい」。
話好きの温院長は私にそう言うと、林さんの隣に座る。村に至る山道はリンホウやヤンカン村ほどデコボコではない。景色も素晴らしい。途中にある湖の色には眼を奪われた。しかし、長い。延々と話し続ける2人にとっては20分という時間は短かったかもしれないが。
建設中の家屋
村に着くと、すでに医院の職員3名が村人の部屋の前に座り込んでおしゃべりしている。
この村にも子供がいる。13名いるそうだ。
村には教会がある。白い壁にくすんだ赤の十字架がかかった建物だ。その隣の建物は薬局。屋根は雨漏りがするという。
「この村には電話がありません。携帯の電波も悪いんです」。
温院長はそう言いながら私たちを村の奥に案内する。そこには建設中の家屋があった。レンガをすべて積み終わり、屋根も出来上がっている。2階建てで、各部屋に台所とバスルームがある。陸豊市光地医院の新しい住宅と同じつくりだ。
「2人で1部屋を使う予定です。政府が11万元(約165万円)援助してくれてここまで出来上がりました。ただ、あと24万元(約360万円)必要なんです」。
現在は工事を中断している。完成すれば40人が住めるという。
仕事大好き
「林さんは酒は好きですか。今晩飲みましょう」。
温院長は林さんに親しく話し掛ける。
「いや、仕事があるからな。次の村に行かなければ」。
「何を言っているんですか。ここ潮汕(潮州と汕頭(スワトウ)一帯)の習慣で、主人は客人をもてなすものなんです」。
林さんは少々困った様子だが、次の瞬間、彼の頭は仕事に向く、
「この管は何だい?」
村のさらに奥へと続く小道を金属のパイプが横切っている。
「これは水道管です。あの山から水を引いています」。
村には水道が整備されている。
ワークキャンプの可能性
村の奥の奥には男の村人ばかり10人弱が住む長屋があり、そのまた奥には女の人のみが暮らす長屋が建っている。この長屋は熱い。そして暗い。圧迫感がある狭い空間にベッドが2つ置いてある。古い建物だ。特に壊れそうな様子はないが、とにかく暑い。窓のとり方が悪いのだろうか。
「新しい住宅が完成すればここの人たちは引っ越せるんだが…」。
そう温院長は語る。名前だけでなく心も温かい院長がいるこの村は、村人の心に余裕があるような印象を受ける。景色もいい。ここでもキャンプをしたい。
社会復帰
17時過ぎ、今晩泊まるホテルに行く。部屋で温院長に村の基礎データを表に書き込んでもらう。
部屋に1人の男が入ってきた。院長を初め、医院の職員たちは親しげにあいさつする。ふと、彼の手を見ると、ハンセン病の後遺症が少し見られる。
「このホテルの経営者だ。彼はあの村に住んでいたんだぞ」。
温院長はそう説明する。この人は社会復帰した後、ホテルの経営を始めた。指には金の指輪が2つ輝き、携帯電話も持っている。
コンコン。ドアをノックする音が聞こえたかと思うと、小さな女の子がヒョコッと顔を出す。
「パー!」(パパ!)
彼の娘だ。
林さんとHANDAの認知度
温院長、その他の職員3名と共に夕食をとる。そこへ貫禄のあるオジサンが入ってきた。
「衛生局長だ」。
局長は全員と握手し、席につく。彼はレミーマルタンを注文した。…うまい。
温院長は局長に林さんを紹介する、
「この方は『苦難不在人間』の筆者ですよ」。
呉衛生局長は驚き、「アー」と声をあげて林さんをもう一度見る。
*
ブランデーに酔った温院長はHANDAの話をつづける、
「HANDAの秘書長は活躍されてますね」。
「陳志強?」
1人の医院の職員がそうつぶやく。ここの医院の関係者は『苦難不在人間』やHANDA通信を読んでいるようだ。
出会い
最後はお粥で締める。
「村人の家は雨漏りがするから、建設が中断されている家を完成させたいなぁ。要はカネの問題なんだ」。
温院長は言う。
「あなた方には感動しますよ」。
オウさんは答えていった。
「あなた方に会えて、ホントにうれしい」。
林さんも言う。
私にとっても温院長との出会いは今回の旅で最もうれしいことだ。この縁は大切にし、ワークキャンプとネットワークづくりを共に進めていきたい。
ワークキャンプ@リンホウの中国側リーダー決定
夜、携帯が震える。
「ウェイ?」(もしもし?)
「今晩は。お元気ですか?」
いきなり日本語が耳に飛び込んでくる。誰だ?日本の友達の顔と声を一致させようと、頭はフル回転する。
「聞こえますか?」
「だ、誰ですか?」
「アイ・アム・ローリー」。
インジエの英語名だ。そういえば彼は最近、日本語を勉強していると言っていた。
彼は8月のリンホウでのワークキャンプに参加するという。ついでに頼んでみた。
「中国側のリーダーをやってくれないかな?」
インジエは引き受けてくれた。ヤンカン村のトンビンに続き、リンホウにも中国人のリーダーが誕生した。彼は9月、大学院に進学する。チァロン(マーク)、ジエシャン(ジル)、シャオハン(ラッキー)と同じ学年のインジエはリンホウでの経験が他の中国側キャンパーよりも長い。リーダーとして適任だ。
「林さんと一緒に村に行く夢を見たわ。そこには子供たちがいるの。1人の村人が死にかけていたわ…。どこの村かしら」。
朝一にジエシャンから携帯にメッセージが入った。今日訪ねる村はどんな村なのだろう。
2コ目の村のデータ
医院名称:陸豊市光地医院
電話:8980360
設立:1957年
郵便番号:516521
院長:盧華民
村長:彭景亮
村内電話:8261012
住所:広東省陸豊市博美鎮
村人数:88名(最大400名前後)
平均年齢:57歳
生活費(月/人):200元(約3000円)
医療費:50元(約750円)
医師:?
結婚状況:12組
ヤサシイ…
光地医院の職員がホテル―1晩350円―の薄い扉を叩く、
「朝ご飯を食べに行こう!」
バンに先に乗り込んでいた医院の職員・呉召南さんは、バンに乗ろうとする林さんの腕をとる。
朝ご飯は飲茶形式。いろいろな点心がワゴンで運ばれて来、うまそうなモノを選ぶことができる。盧華民院長を初め、医院の職員4人と共に食事をする。
体がゴツイ呉さんは林さんとオウさんのお茶がなくなるとすかさず注ぎ足す。
9時過ぎ、医院のバンで村に向かう。この車の後部座席のクーラーは調子が悪い。送風口から水が滴り、風に乗って林さんが座っている場所に時々飛んでくる。呉さんは送風口を手で抑えつづける。
30分ほどで村に着いた。暑い。呉さんはみんなにミネラルウォーターを配る。手が不自由な林さんとオウさんにはフタを緩めてから渡す。
村の様子
この村の建物は新旧の差が激しい。薬局がある建物は灰色く黒ずんでいる。赤い星が外壁に堂々としていることから、かなり前に建てられたことがわかる。その隣にある村人の家は白いキレイな建物。2階建てだ。扇風機、電話があり、室内にトイレと台所がある。ただしプロパンガスは空だ。この住居の奥には少し古めの長屋、さらに奥には相当古い長屋がある。長い木材を外壁につっかえさせて補強してある。
村の水は、キリスト教会が寄付した大きな貯水タンクで賄われている。生活費は200元(約3000円)、医療費は50元(約750円)だ。
息子、孫
村人は現在88名だ。結婚している村人が12組おり、子供が11人住んでいる。46人の住居が安全で、22人の家が危険な状態にある。20人は村外の家族の下にとどまっているという。
安全な2階建ての家の1階に住むおじさんは、両足が不自由で車椅子に乗っている。おしっこは管からしているという。奥さんはその2階に住んでいる。
「妻は手足の指がないんだ」。
そう言う彼の隣に座って赤ちゃんを抱っこしているのは誰だろう。
「息子だ」。
背が高くてハッキリした顔立ちの彼ははにかんで笑う。このおじさん村人は息子とお嫁さん、孫3人と一緒に暮らしている。この村人はにこやかだ。他の村の人々と同じ微笑だが、彼の表情には暗い影を感じない。
雑貨屋
村には雑貨屋がある。中国のどこにでもあるような普通の雑貨屋だ。ビール、ジュース、お菓子、タバコ、石けん…。だいたいのものはそろっている。村人の夫婦がそれを営む。中学生くらいの少女が2・3歳の女の子を抱いている。
「私の娘よ」。
雑貨屋のおばちゃんは言う。少女は妹をベッドの上に座らせる。カメラを向けると女の子は下を向いて固まってしまう。私の妹も同じように恥ずかしがったものだ。
ワークキャンプの可能性
院長にワークキャンプができるかどうか尋ねてみた。
「村に必要なものは、看病用の部屋、医療設備、村人の家屋だな」。
この村はリンホウほど生活状況が悪いとは思わないが、ワークキャンプをすることは可能だろう。この村は快復者の子供がいることで特徴的だ。子供が住んでいるハンセン病の村は初めて見た。この村でのキャンプはどんなキャンプになるだろう。
盧院長
医院のバンで陸豊のバスターミナルに着く。バンを降りるなり林さんはチケットを買い、バスに乗り込もうとする。
「まあまあ、待ってくださいよ。次に行く病院に電話しますから。場所がわからないでしょう」。
次に訪ねる恵来県康復医院に光地医院の盧華民院長が電話してくれる。
「30分後に恵来県康復医院の職員が迎えに来てくれます」。
お迎えを待つ間、盧院長は林さんと話しこむ。何を話しているかよくわからないが、「リエンシー」という言葉をよく聞く。これからは連絡を密にして協力していこうという意味だろう。盧院長は私に携帯電話の番号を訊くほどの熱意を見せる。
3コ目の村のデータ
医院名称:恵来県康復医院
電話:0663−6682010
設立:1957年3月
郵便番号:515200
院長:温展鵬
村長:方古
村内電話:―
住所:広東省恵来県恵城鎮
村人数:85名(最大400名以上)
平均年齢:57.5歳
生活費(月/人):135元(約2025円)
医療費:50元(約750円)
医師:少なくとも1名
結婚状況:16組
あたたかい巨漢
恵来県康復医院のバンが来た。穏やかな顔をした大男が、降りてくるなり私たち3人と握手する。14時半、町中の医院の事務所に着いた。
事務所で巨漢はお茶を入れ、名刺をくれる。「温展鵬院長」とある。西洋医学を修得した内科医だ。彼はHANDA通信の束を持ってくる。HANDAが毎号を郵送しているそうだ。
「いつもHANDA通信を読んでますよ。あの林さんに会えるとは。来ていただけて嬉しく思います」。
温院長は豪快に笑いながら大きな身振りで話す。林さんはHANDA通信で文章を書いているので、院長は彼の名前を知っていた。
「村には86歳から21歳まで85名が住んでいます。生活費は1人につき1ヶ月135元(約2025円)です」。
温院長は村の状況を林さんとオウさんに伝えていく。
「いやあ、お疲れさまです、お疲れさまです。こんなに暑い中わざわざお越しいただきまして」。
右手のこぶしを左手で覆って軽く会釈する彼の言動は、私が抱く「ハンセン病の病院の院長」のイメージをひっくり返す。
「うちの病院では、村人に急患があれば夜中でも村まで行きます。この前は夜の12時に村に行きましたよ」。
イヤミな印象を与えずに院長はそう言って笑う。林さんがねぎらう、
「あなたは村人に対してよくしてますね」。
「いや、村人が私に対してよくしてくれているんです」。
温院長は即答する。感じ入った林さんは言う、
「あなたは素晴らしい!」
村へ
15時半前、医院の4WDで村に向かう。
「キミは前の座席に座るといい」。
話好きの温院長は私にそう言うと、林さんの隣に座る。村に至る山道はリンホウやヤンカン村ほどデコボコではない。景色も素晴らしい。途中にある湖の色には眼を奪われた。しかし、長い。延々と話し続ける2人にとっては20分という時間は短かったかもしれないが。
建設中の家屋
村に着くと、すでに医院の職員3名が村人の部屋の前に座り込んでおしゃべりしている。
この村にも子供がいる。13名いるそうだ。
村には教会がある。白い壁にくすんだ赤の十字架がかかった建物だ。その隣の建物は薬局。屋根は雨漏りがするという。
「この村には電話がありません。携帯の電波も悪いんです」。
温院長はそう言いながら私たちを村の奥に案内する。そこには建設中の家屋があった。レンガをすべて積み終わり、屋根も出来上がっている。2階建てで、各部屋に台所とバスルームがある。陸豊市光地医院の新しい住宅と同じつくりだ。
「2人で1部屋を使う予定です。政府が11万元(約165万円)援助してくれてここまで出来上がりました。ただ、あと24万元(約360万円)必要なんです」。
現在は工事を中断している。完成すれば40人が住めるという。
仕事大好き
「林さんは酒は好きですか。今晩飲みましょう」。
温院長は林さんに親しく話し掛ける。
「いや、仕事があるからな。次の村に行かなければ」。
「何を言っているんですか。ここ潮汕(潮州と汕頭(スワトウ)一帯)の習慣で、主人は客人をもてなすものなんです」。
林さんは少々困った様子だが、次の瞬間、彼の頭は仕事に向く、
「この管は何だい?」
村のさらに奥へと続く小道を金属のパイプが横切っている。
「これは水道管です。あの山から水を引いています」。
村には水道が整備されている。
ワークキャンプの可能性
村の奥の奥には男の村人ばかり10人弱が住む長屋があり、そのまた奥には女の人のみが暮らす長屋が建っている。この長屋は熱い。そして暗い。圧迫感がある狭い空間にベッドが2つ置いてある。古い建物だ。特に壊れそうな様子はないが、とにかく暑い。窓のとり方が悪いのだろうか。
「新しい住宅が完成すればここの人たちは引っ越せるんだが…」。
そう温院長は語る。名前だけでなく心も温かい院長がいるこの村は、村人の心に余裕があるような印象を受ける。景色もいい。ここでもキャンプをしたい。
社会復帰
17時過ぎ、今晩泊まるホテルに行く。部屋で温院長に村の基礎データを表に書き込んでもらう。
部屋に1人の男が入ってきた。院長を初め、医院の職員たちは親しげにあいさつする。ふと、彼の手を見ると、ハンセン病の後遺症が少し見られる。
「このホテルの経営者だ。彼はあの村に住んでいたんだぞ」。
温院長はそう説明する。この人は社会復帰した後、ホテルの経営を始めた。指には金の指輪が2つ輝き、携帯電話も持っている。
コンコン。ドアをノックする音が聞こえたかと思うと、小さな女の子がヒョコッと顔を出す。
「パー!」(パパ!)
彼の娘だ。
林さんとHANDAの認知度
温院長、その他の職員3名と共に夕食をとる。そこへ貫禄のあるオジサンが入ってきた。
「衛生局長だ」。
局長は全員と握手し、席につく。彼はレミーマルタンを注文した。…うまい。
温院長は局長に林さんを紹介する、
「この方は『苦難不在人間』の筆者ですよ」。
呉衛生局長は驚き、「アー」と声をあげて林さんをもう一度見る。
*
ブランデーに酔った温院長はHANDAの話をつづける、
「HANDAの秘書長は活躍されてますね」。
「陳志強?」
1人の医院の職員がそうつぶやく。ここの医院の関係者は『苦難不在人間』やHANDA通信を読んでいるようだ。
出会い
最後はお粥で締める。
「村人の家は雨漏りがするから、建設が中断されている家を完成させたいなぁ。要はカネの問題なんだ」。
温院長は言う。
「あなた方には感動しますよ」。
オウさんは答えていった。
「あなた方に会えて、ホントにうれしい」。
林さんも言う。
私にとっても温院長との出会いは今回の旅で最もうれしいことだ。この縁は大切にし、ワークキャンプとネットワークづくりを共に進めていきたい。
ワークキャンプ@リンホウの中国側リーダー決定
夜、携帯が震える。
「ウェイ?」(もしもし?)
「今晩は。お元気ですか?」
いきなり日本語が耳に飛び込んでくる。誰だ?日本の友達の顔と声を一致させようと、頭はフル回転する。
「聞こえますか?」
「だ、誰ですか?」
「アイ・アム・ローリー」。
インジエの英語名だ。そういえば彼は最近、日本語を勉強していると言っていた。
彼は8月のリンホウでのワークキャンプに参加するという。ついでに頼んでみた。
「中国側のリーダーをやってくれないかな?」
インジエは引き受けてくれた。ヤンカン村のトンビンに続き、リンホウにも中国人のリーダーが誕生した。彼は9月、大学院に進学する。チァロン(マーク)、ジエシャン(ジル)、シャオハン(ラッキー)と同じ学年のインジエはリンホウでの経験が他の中国側キャンパーよりも長い。リーダーとして適任だ。
posted by tynoon at 04:46| 2003年リンホウ駐在中
2003年07月09日
広東省東部快復村調査旅行
2003年7月9日
広東省康復村調査の旅
今日から少なくとも10日間、HANDAの林志明さんとオウ・ジンジャオさんと3人で、広東省のハンセン病康復村を周る。村の場所、人口、傷の状態などの基本データを収集し、HANDA指定の表に書き込むことが目的だ。訪問予定地は、汕尾市、揚陽市、汕頭(スワトウ)市、潮州市、梅州市にある13の村だ。
1コ目の村のデータ
医院名称:海豊皮防院
電話:0660−6403123
設立:1958年
郵便番号:516400
院長:彭逢信
村長:欣栄村
村内電話:0660−6413046
住所:広東省汕尾市海豊県城東鎮東園郷
村人数:56名(過去最大225名)
平均年齢:63歳
生活費(月/人):200元(約3000円)
医療費:50元(約750円)
医師:?
結婚状況:8組
出発―イノシシな林さん
6時20分、HANDAゲストハウスの呼び鈴が鳴る
「ハロー、ハロー!」
林さんだ。6時半の約束だったのだが。
7時、269番のバスでHANDAの裏のバス停から出発する。まずは汕尾市を目指す。バスを乗り継いで8時45分に長距離高速バスのバス停(天河車站)に着く。ところが。林さん、汕尾行きのバスは9時半までないじゃないですか…。
汕尾行きのバスのバスに乗り込むと、乗務員が健康診断表を提出するように言う。SARSの流行以来、長距離バスに乗るときはこの診断表を出さなければいけないのだが、形式的なものだ。
「問題ない、問題ない」。
林さんはそれで押し切った。
陽気な林さん
12時40分、汕尾に到着。
「メシ、メシ、メシ」。
林さんは日本語で連発する。食堂に入り、ご飯が来ると林さんは日本語で言う、
「ありがと、ありがと!」
ここ汕尾市は潮州市の隣だ。近くのテーブルのお兄ちゃんが「マイ、マイ、マイ」と言っているのが聞こえる。久しぶりに潮州語圏に入った。
13時10分に乗ったバスは20分後、海豊のバスターミナルに入っていく。
手探りの旅
「この海豊皮防院はどこだ?知ってるか?」
林さんはバスの運転手に尋ねる。隔離されていた村の存在を知る人は少ない。電話番号と住所以外は情報がまったくない旅だ。駅前の三輪オートバイの運転手に聞く。彼は少し場所がわかるようだ。
13時50分、かなり走った三輪オートバイは止まり、運転手は病院に電話をかける。
「なんだよ、行き過ぎちまったぜ」。
日差しが真夏のように強い。三輪オートバイの屋根を通り抜けて暑さが伝わってくるかのようだ。3人でぎゅうぎゅうに座っているので、なおさらだ。ふと膝に林さんの硬い手を感じたかと思うと、彼は笑う、
「辛苦、辛苦。エッハッハッハッハ…」(おつかれ、おつかれ)。
彼の気遣いに疲れが少し引く。
林さんの力
14時ごろ、比較的大きな道を走っていると、道に面したところにキレイ目の建物が現れる。「海豊県皮膚病防治医院」とある。
「村はここから2キロ離れたところにある」。
医院の職員は堅い表情で語る。オウさんはHANDAの紹介文やHANDA通信を職員に渡し、訪問の目的を伝える。医院の職員はオウさんから受け取った表に村の基本データを書き入れていく。今回の旅では、この表で各村のデータを集めることが目的だ。生活費は1人あたり1ヶ月200元(約3000円)。医療費も50元(約750円)が支給される。合計するとリンホウの2倍以上だ。村人は56名で、傷を持っている人は85%だそうだ。
林さんは彼に書き方を教えていく。林さんは人を和ませる力を持っている。医院の職員たちからは笑い声が出始めた。お茶が出てくる。医院の職員たちはきちんと林さんの話しを聴く。
職員にもらったミネラルウォーターを持って村に出発だ。ここに来たときの三輪オートバイが待っていてくれたので、彼の運転で行く。医院の職員もついてきた。
おばあちゃん
舗装された道を外れ、山道を行く。ヤンカン村よりはマシだが、三輪オートバイの揺れは激しい。
村に入ってまず目に入ったのは、大きな木2・3本の下で涼む、たくさんの村人だ。村長さんがすぐに寄ってきて、握手する。オウさんはとても親しげにしっかりと両手で握手した。
1人のおばあちゃんが、かなり離れたところで1人涼んでいる。
村には6棟の住居がまとまって建っている。そのうちの3棟は“E”の字型につながっている。家々には赤やオレンジ色のお札が貼ってあり、建物自体もきれいだ。奥には貯水タンク、トイレもある。水道も各建物に大体2つずつある。
「ここでワークキャンプできますかね?やるとしたら何をつくりましょうか?」
「村までの道を舗装してくれないか。他の仕事はない」。
水道、トイレ、家屋の方が優先順位が高い。とりあえず、ここでのキャンプは見送るべきか。
村での滞在は1時間弱だった。村人たちにサヨナラを言って三輪オートバイに向かおうとする。が、あの独りのおばあちゃんが気になり、彼女のところに言ってみる。
「モウ…、モウ…、…」(ない…、ない…、…)
おばあちゃんは何かがないと繰り返し言う。ささやくような小さな声だ。足が痛いとも訴える。
三輪オートバイでバスターミナルに戻りながら思った。この村は村人が明るく、比較的キレイな施設でワークキャンプの需要はないようだ。しかし、あのおばあちゃんだけはどうしても気になる。
やっぱりイノシシ
16時5分、海豊のバスターミナルから陸豊へ向かう。16時50分に陸豊につく。
「今日はうまくいったな」。
村が見つからないこともある調査旅行の初日は、首尾よく村の基本データを得ることができた。今日はここに泊まって明日陸豊の村に行こうとオウさんは言う。しかし。
「さあ、陸豊の村に行こう」。
林さんはやる気満々だ。
17時20分、三輪オートバイで陸豊にあるという「光地防治医院」につく。街中の普通の病院のようだ。17時を回っているためか、閉まっている。電話をかけて見ると、電話番号が間違っていた。
17時35分、皮膚防治医院という他の病院を見つけたのでそこを訪れる。
「うちは関係ない」。
HANDAの書類を見せるオウさんにそこの職員は言う。激しい口調だ。三輪オートバイに戻る。
なぜかこのあたりは病院が多い。「慢性病防治站」という病院をみつけ、そこの事務所にいく。
「明日の8時半か9時にまた来てくれ。一緒に村に行こう」。
どうやらこの光地医院に村は所属しているようだ。そこの職員の携帯電話を教えてもらった。結構適当にあしらわれた感だが、林さんは明るく言う、
「そうかそうか。ありがとう。バイバーイ、バイバーイ!」
スタスタ彼は歩いていく。明日の朝を待ち切れない彼は、光地医院に向かいながらその職員の携帯電話に電話してみる。出ない。と、偶然さっきの職員に道端で会った。
「明日行こうって言ってるじゃないですか。仕方ないですね。院長を呼んでみましょう。慢性病防治站で待っていてください」。
林さんの熱意と精力。彼はちょっと位のことではへこたれず、笑いを忘れない。誰かが言ったコトバをふと思い出す、
「いつもクルマトラジロウを忘れずに」。
慢性病防治站に戻る2人の力強い足取りに、私は勇気づけられる。
院長が18時51分にきた。みんなで夕飯を食べに行く。彼はわざわざ遠いところまで車を走らせ、海が見えるレストランに連れて行ってくれる。エビ、カニ、サカナ…、そしてビール。労働の後のビールはうまい。
広東省康復村調査の旅
今日から少なくとも10日間、HANDAの林志明さんとオウ・ジンジャオさんと3人で、広東省のハンセン病康復村を周る。村の場所、人口、傷の状態などの基本データを収集し、HANDA指定の表に書き込むことが目的だ。訪問予定地は、汕尾市、揚陽市、汕頭(スワトウ)市、潮州市、梅州市にある13の村だ。
1コ目の村のデータ
医院名称:海豊皮防院
電話:0660−6403123
設立:1958年
郵便番号:516400
院長:彭逢信
村長:欣栄村
村内電話:0660−6413046
住所:広東省汕尾市海豊県城東鎮東園郷
村人数:56名(過去最大225名)
平均年齢:63歳
生活費(月/人):200元(約3000円)
医療費:50元(約750円)
医師:?
結婚状況:8組
出発―イノシシな林さん
6時20分、HANDAゲストハウスの呼び鈴が鳴る
「ハロー、ハロー!」
林さんだ。6時半の約束だったのだが。
7時、269番のバスでHANDAの裏のバス停から出発する。まずは汕尾市を目指す。バスを乗り継いで8時45分に長距離高速バスのバス停(天河車站)に着く。ところが。林さん、汕尾行きのバスは9時半までないじゃないですか…。
汕尾行きのバスのバスに乗り込むと、乗務員が健康診断表を提出するように言う。SARSの流行以来、長距離バスに乗るときはこの診断表を出さなければいけないのだが、形式的なものだ。
「問題ない、問題ない」。
林さんはそれで押し切った。
陽気な林さん
12時40分、汕尾に到着。
「メシ、メシ、メシ」。
林さんは日本語で連発する。食堂に入り、ご飯が来ると林さんは日本語で言う、
「ありがと、ありがと!」
ここ汕尾市は潮州市の隣だ。近くのテーブルのお兄ちゃんが「マイ、マイ、マイ」と言っているのが聞こえる。久しぶりに潮州語圏に入った。
13時10分に乗ったバスは20分後、海豊のバスターミナルに入っていく。
手探りの旅
「この海豊皮防院はどこだ?知ってるか?」
林さんはバスの運転手に尋ねる。隔離されていた村の存在を知る人は少ない。電話番号と住所以外は情報がまったくない旅だ。駅前の三輪オートバイの運転手に聞く。彼は少し場所がわかるようだ。
13時50分、かなり走った三輪オートバイは止まり、運転手は病院に電話をかける。
「なんだよ、行き過ぎちまったぜ」。
日差しが真夏のように強い。三輪オートバイの屋根を通り抜けて暑さが伝わってくるかのようだ。3人でぎゅうぎゅうに座っているので、なおさらだ。ふと膝に林さんの硬い手を感じたかと思うと、彼は笑う、
「辛苦、辛苦。エッハッハッハッハ…」(おつかれ、おつかれ)。
彼の気遣いに疲れが少し引く。
林さんの力
14時ごろ、比較的大きな道を走っていると、道に面したところにキレイ目の建物が現れる。「海豊県皮膚病防治医院」とある。
「村はここから2キロ離れたところにある」。
医院の職員は堅い表情で語る。オウさんはHANDAの紹介文やHANDA通信を職員に渡し、訪問の目的を伝える。医院の職員はオウさんから受け取った表に村の基本データを書き入れていく。今回の旅では、この表で各村のデータを集めることが目的だ。生活費は1人あたり1ヶ月200元(約3000円)。医療費も50元(約750円)が支給される。合計するとリンホウの2倍以上だ。村人は56名で、傷を持っている人は85%だそうだ。
林さんは彼に書き方を教えていく。林さんは人を和ませる力を持っている。医院の職員たちからは笑い声が出始めた。お茶が出てくる。医院の職員たちはきちんと林さんの話しを聴く。
職員にもらったミネラルウォーターを持って村に出発だ。ここに来たときの三輪オートバイが待っていてくれたので、彼の運転で行く。医院の職員もついてきた。
おばあちゃん
舗装された道を外れ、山道を行く。ヤンカン村よりはマシだが、三輪オートバイの揺れは激しい。
村に入ってまず目に入ったのは、大きな木2・3本の下で涼む、たくさんの村人だ。村長さんがすぐに寄ってきて、握手する。オウさんはとても親しげにしっかりと両手で握手した。
1人のおばあちゃんが、かなり離れたところで1人涼んでいる。
村には6棟の住居がまとまって建っている。そのうちの3棟は“E”の字型につながっている。家々には赤やオレンジ色のお札が貼ってあり、建物自体もきれいだ。奥には貯水タンク、トイレもある。水道も各建物に大体2つずつある。
「ここでワークキャンプできますかね?やるとしたら何をつくりましょうか?」
「村までの道を舗装してくれないか。他の仕事はない」。
水道、トイレ、家屋の方が優先順位が高い。とりあえず、ここでのキャンプは見送るべきか。
村での滞在は1時間弱だった。村人たちにサヨナラを言って三輪オートバイに向かおうとする。が、あの独りのおばあちゃんが気になり、彼女のところに言ってみる。
「モウ…、モウ…、…」(ない…、ない…、…)
おばあちゃんは何かがないと繰り返し言う。ささやくような小さな声だ。足が痛いとも訴える。
三輪オートバイでバスターミナルに戻りながら思った。この村は村人が明るく、比較的キレイな施設でワークキャンプの需要はないようだ。しかし、あのおばあちゃんだけはどうしても気になる。
やっぱりイノシシ
16時5分、海豊のバスターミナルから陸豊へ向かう。16時50分に陸豊につく。
「今日はうまくいったな」。
村が見つからないこともある調査旅行の初日は、首尾よく村の基本データを得ることができた。今日はここに泊まって明日陸豊の村に行こうとオウさんは言う。しかし。
「さあ、陸豊の村に行こう」。
林さんはやる気満々だ。
17時20分、三輪オートバイで陸豊にあるという「光地防治医院」につく。街中の普通の病院のようだ。17時を回っているためか、閉まっている。電話をかけて見ると、電話番号が間違っていた。
17時35分、皮膚防治医院という他の病院を見つけたのでそこを訪れる。
「うちは関係ない」。
HANDAの書類を見せるオウさんにそこの職員は言う。激しい口調だ。三輪オートバイに戻る。
なぜかこのあたりは病院が多い。「慢性病防治站」という病院をみつけ、そこの事務所にいく。
「明日の8時半か9時にまた来てくれ。一緒に村に行こう」。
どうやらこの光地医院に村は所属しているようだ。そこの職員の携帯電話を教えてもらった。結構適当にあしらわれた感だが、林さんは明るく言う、
「そうかそうか。ありがとう。バイバーイ、バイバーイ!」
スタスタ彼は歩いていく。明日の朝を待ち切れない彼は、光地医院に向かいながらその職員の携帯電話に電話してみる。出ない。と、偶然さっきの職員に道端で会った。
「明日行こうって言ってるじゃないですか。仕方ないですね。院長を呼んでみましょう。慢性病防治站で待っていてください」。
林さんの熱意と精力。彼はちょっと位のことではへこたれず、笑いを忘れない。誰かが言ったコトバをふと思い出す、
「いつもクルマトラジロウを忘れずに」。
慢性病防治站に戻る2人の力強い足取りに、私は勇気づけられる。
院長が18時51分にきた。みんなで夕飯を食べに行く。彼はわざわざ遠いところまで車を走らせ、海が見えるレストランに連れて行ってくれる。エビ、カニ、サカナ…、そしてビール。労働の後のビールはうまい。
posted by tynoon at 04:44| 2003年リンホウ駐在中
2003年07月07日
2003年7月7-8日
2003年7月7日
医療改善策
朝8時半、HANDAの医師・マイケルと村の医療をいかに改善するかを話し合う。
「最善の策は、緊急医療基金の設立だ。ガン、心臓病などの大きな病気が見つかった場合、この基金から医療費を村人に支給する。ただし、こういった基金は資金提供者の理解を得にくい。寄付したお金の消える先が明確に見えないからだ。
次善策は、村人個人の病気を見つけ次第、資金提供者に協力を仰ぐことだ。健康状態をきちんと示し、必要な医療上の処置とそれにかかる費用を計算すれば、資金は比較的集まりやすいだろう」。
いずれにせよ、村人の健康診断を実施しなければならない。1年に1度でよいとマイケルは語る。もちろん、問題が発見された場合はさらなる検査が必要だ。健康診断にかかる費用は、1人当たり100〜200元(約1500〜3000円)だという。何とかボランティアの医師に健康診断を行ってもらいたい。
広東省快復村調査旅行
マイケルと話していると、快活な声がする。
「林志明さんだ」。
マイケルが言う。あの『苦難不在人間』の著者だ。彼は広東省全体のハンセン病快復者が住む村の調査を行っている。今回の旅には私を連れて行ってくれると先日きいていた。しかし、ワークキャンプの準備があるので一緒にはいけないだろう。残念だが、次回を待とう。ところで、どこを周るのだろうか。
「今度の調査では、潮州、汕頭(スワトウ)、南澳島、恵来、掲西、陸豊、海豊など7ヶ所にいくぞ」。
林さんは元気に言う。潮州、スワトウ?私が行きたいと思っている村が含まれているではないか!どのくらいの期間をかけて調査するのだろうか。
「7つを周るのに最低で10日はかかる」。
いつから?
「明後日からだ」。
何ともせっかちな。
「おまえさんは明日、ヤンカン村に行くんだろ。手紙を書くからオウさん(ヤンカン村の代表)に渡してくれ。今回は彼と一緒に行くんだ」。
そう言うと、彼はすぐに席を立ち、手紙を書き始める。そして、5分と経たないうちに持ってくる。
「オウさんに渡すのを忘れないでくれよ」。
何かの文書の裏に書かれたオウさんへの手紙では、旅の支度をして私と一緒に明日HANDAに来るようにとある。
林さんのイノシシっぷりに共感した私はいつの間にか、この調査旅行について行くことにしていた。
ワークキャンプ人気とマイケルの苦境
「FIWC関西委員会がワークキャンプをヤンカン村で8月にすると急に言い出したんです。困ったもんですね」。
ちょっとした冗談のつもりで言ったのだが、マイケルの顔が困った表情になる。
「な、何かやばいことでもありますか?」
マイケルによると、ヤンカン村ばかりにワークキャンプが集中すると他の村から不満が出るという。ワークキャンプを誘致しているHANDAの秘書長として、マイケルは他の村に対して申し訳なく思うそうだ。
「そんなにワークキャンプって村人に人気があるんですか?」
マイケルは大きくうなずく。ヤンカン村の状況は物的、精神的によくなった。そろそろ他の村に移ってはどうか。リンホウも来年でおわりにしてはどうか。彼はそう提案する。
「考えておきます…」。
FIWCとHANDAのワークキャンプに対する考え方は違うようだ。FIWCはどちらかというと、キャンパーが村で何を感じるか、またキャンパーと村人個人個人との関係を重視する。そのため、1ヶ所の村で長くキャンプを続けたい。一方、HANDAは中国のハンセン病問題として大きくワークキャンプを見ている。そのため、各村でのワークキャンプの回数は平等になるべきだと考える。FIWC関東委員会の中国駐在員であり、同時にHANDAのワークキャンプコーディネーターの名前を借りている私はビミョウな立場に立っていたようだ。
*
ヴィヴィアンと夕ご飯のギョウザを食べながら、マイケルに言われたことを話す。
「そうですよー。ワークキャンプをするのがヤンカン村ばかりじゃHANDAとしては困りますよー」。
ムムム…。
「でも、村人ひとり1人との関係を薄くしてキャンプをするのはどうかな…」。
ふとひらめいた、
「だからこそ学生によるハンセン病支援のネットワークをつくればいいんだ。そうすればFIWCとHANDAの両方の考え方を立てることができる」。
このネットワークを構成する各大学の支援団体は、1つの村でワークキャンプを続ける。一方、年に数回ネットワークに属する諸団体の代表が会議を開き、まだ支援団体がついていない村でのワークキャンプの可能性を探る。これによって、ひとつ1つの村と支援団体との関係は深く、同時に広い範囲での支援活動を展開することができる。
2003年7月8日
ヤンカン村キャンプ下見
ヴィヴィアンの友達のジエチオンと彼女の姉のジエフェイとヤンカン村村でのワークキャンプの下見に行く。
村に着くと、初めてここを訪れたジエフェイは筆談する、
「ここの環境はとても居心地がいいわ」。
口数の少ないジエフェイは村人とのワークの話し合いになると、人が変わったように積極的に意見を言う。村人との話し合いを強力に引っ張っていく。トイレをつくる予定のカマドの部屋に行き、トイレをつくる位置を確認する。すぐに部屋の外側に回ると、肥溜めをつくる場所を決める。
「うちの父が建設業だから、彼に教えてもらえば、キャンパーだけでトイレをつくれるわ。キャンプ期間は4日間だけだけど、何とか大丈夫よ」。
材料費は彼女たちが先払いしてくれるとまで言う。
「じゃ、測量を始めましょう」。
私はただただついて歩くだけだ。
トイレの必要性
ヤンカン村にはすでにトイレが1つある。今回のキャンプではその反対側にもう1つのトイレをつくる。本当にトイレは2つ必要なのだろうか。そんなことを考えながらボーっと村の中庭を眺める。
と、1人の村人が中庭を横切って歩いていく。キコキコ…。普段は外しているブリキの義足を2本つけ、松葉杖にすがるようにしてトイレに向かって歩いていく。彼の腕は手首を失っている。トイレットペーパー代わりの竹の棒を小脇に挟み、歩いていく。キコキコ…。
現在あるトイレは、彼の住んでいる長屋の反対側にある。数十メートルは離れている。雨の日はどうしているのだろう。やはり、彼の部屋側にもトイレは必要だろう。
何践隆さん
キコキコ歩く村人の家に遊びに行く。
彼は、教会が寄付したという車椅子を持っているが、手首から先がないので足で動かすと話してくれる。進行方向の逆向きに車椅子を向けて座り、足で地面を蹴りながら進む。実演して見せてくれた。
彼は松葉杖なしでも立つことができる。ホウキで部屋の前の廊下を掃き始めた。汗だくだ。替わろうとすると、彼は笑顔で断る。
掃除後、ジエチオンは彼が義足を外すのを手伝う。
「ワー、重い!」
義足を持ったジエチオンが言う。確かに重い。これを履いて歩くのは相当の力がいる。彼は扇風機を出してくれ、汗だくの自分ではなく、ジエチオンと私だけに風が当たるように置いてくれる。
彼の腕の先に張ってあるガーゼがはがれているのにジエチオンが気づいた。しかし1度はがれたテープはなかなかくっ付かない。ガーゼも汚れている。
「え、他のガーゼはないの?何で?え、痛くないの?感覚がないの?」
ジエチオンはひとつ1つに驚き、私に逐一報告する。
「え、42年もこの村にいるの!?」
ジエチオンは小さく叫ぶ。
その村人は薬の箱を机の上に置いた。引き出しからボールペンを出すと、腕と腕の間に挟み、字を書き始める。一画一画をゆっくりと書いていく。何践隆。彼の名前だ。
ヤンカン村ワークキャンプ各リーダー決定
FIWC関西委員会さん、すみません。勝手に中国側の各リーダーを決めさせていただきました。もちろん、総リーダーは関西委員会の槻美代子さんです。
中国側リーダー:リァオ=トンビン
中国側ワークリーダー:リァン=ジエフェイ
中国側レクリーダー:リァン=ジエチオン
医療改善策
朝8時半、HANDAの医師・マイケルと村の医療をいかに改善するかを話し合う。
「最善の策は、緊急医療基金の設立だ。ガン、心臓病などの大きな病気が見つかった場合、この基金から医療費を村人に支給する。ただし、こういった基金は資金提供者の理解を得にくい。寄付したお金の消える先が明確に見えないからだ。
次善策は、村人個人の病気を見つけ次第、資金提供者に協力を仰ぐことだ。健康状態をきちんと示し、必要な医療上の処置とそれにかかる費用を計算すれば、資金は比較的集まりやすいだろう」。
いずれにせよ、村人の健康診断を実施しなければならない。1年に1度でよいとマイケルは語る。もちろん、問題が発見された場合はさらなる検査が必要だ。健康診断にかかる費用は、1人当たり100〜200元(約1500〜3000円)だという。何とかボランティアの医師に健康診断を行ってもらいたい。
広東省快復村調査旅行
マイケルと話していると、快活な声がする。
「林志明さんだ」。
マイケルが言う。あの『苦難不在人間』の著者だ。彼は広東省全体のハンセン病快復者が住む村の調査を行っている。今回の旅には私を連れて行ってくれると先日きいていた。しかし、ワークキャンプの準備があるので一緒にはいけないだろう。残念だが、次回を待とう。ところで、どこを周るのだろうか。
「今度の調査では、潮州、汕頭(スワトウ)、南澳島、恵来、掲西、陸豊、海豊など7ヶ所にいくぞ」。
林さんは元気に言う。潮州、スワトウ?私が行きたいと思っている村が含まれているではないか!どのくらいの期間をかけて調査するのだろうか。
「7つを周るのに最低で10日はかかる」。
いつから?
「明後日からだ」。
何ともせっかちな。
「おまえさんは明日、ヤンカン村に行くんだろ。手紙を書くからオウさん(ヤンカン村の代表)に渡してくれ。今回は彼と一緒に行くんだ」。
そう言うと、彼はすぐに席を立ち、手紙を書き始める。そして、5分と経たないうちに持ってくる。
「オウさんに渡すのを忘れないでくれよ」。
何かの文書の裏に書かれたオウさんへの手紙では、旅の支度をして私と一緒に明日HANDAに来るようにとある。
林さんのイノシシっぷりに共感した私はいつの間にか、この調査旅行について行くことにしていた。
ワークキャンプ人気とマイケルの苦境
「FIWC関西委員会がワークキャンプをヤンカン村で8月にすると急に言い出したんです。困ったもんですね」。
ちょっとした冗談のつもりで言ったのだが、マイケルの顔が困った表情になる。
「な、何かやばいことでもありますか?」
マイケルによると、ヤンカン村ばかりにワークキャンプが集中すると他の村から不満が出るという。ワークキャンプを誘致しているHANDAの秘書長として、マイケルは他の村に対して申し訳なく思うそうだ。
「そんなにワークキャンプって村人に人気があるんですか?」
マイケルは大きくうなずく。ヤンカン村の状況は物的、精神的によくなった。そろそろ他の村に移ってはどうか。リンホウも来年でおわりにしてはどうか。彼はそう提案する。
「考えておきます…」。
FIWCとHANDAのワークキャンプに対する考え方は違うようだ。FIWCはどちらかというと、キャンパーが村で何を感じるか、またキャンパーと村人個人個人との関係を重視する。そのため、1ヶ所の村で長くキャンプを続けたい。一方、HANDAは中国のハンセン病問題として大きくワークキャンプを見ている。そのため、各村でのワークキャンプの回数は平等になるべきだと考える。FIWC関東委員会の中国駐在員であり、同時にHANDAのワークキャンプコーディネーターの名前を借りている私はビミョウな立場に立っていたようだ。
*
ヴィヴィアンと夕ご飯のギョウザを食べながら、マイケルに言われたことを話す。
「そうですよー。ワークキャンプをするのがヤンカン村ばかりじゃHANDAとしては困りますよー」。
ムムム…。
「でも、村人ひとり1人との関係を薄くしてキャンプをするのはどうかな…」。
ふとひらめいた、
「だからこそ学生によるハンセン病支援のネットワークをつくればいいんだ。そうすればFIWCとHANDAの両方の考え方を立てることができる」。
このネットワークを構成する各大学の支援団体は、1つの村でワークキャンプを続ける。一方、年に数回ネットワークに属する諸団体の代表が会議を開き、まだ支援団体がついていない村でのワークキャンプの可能性を探る。これによって、ひとつ1つの村と支援団体との関係は深く、同時に広い範囲での支援活動を展開することができる。
2003年7月8日
ヤンカン村キャンプ下見
ヴィヴィアンの友達のジエチオンと彼女の姉のジエフェイとヤンカン村村でのワークキャンプの下見に行く。
村に着くと、初めてここを訪れたジエフェイは筆談する、
「ここの環境はとても居心地がいいわ」。
口数の少ないジエフェイは村人とのワークの話し合いになると、人が変わったように積極的に意見を言う。村人との話し合いを強力に引っ張っていく。トイレをつくる予定のカマドの部屋に行き、トイレをつくる位置を確認する。すぐに部屋の外側に回ると、肥溜めをつくる場所を決める。
「うちの父が建設業だから、彼に教えてもらえば、キャンパーだけでトイレをつくれるわ。キャンプ期間は4日間だけだけど、何とか大丈夫よ」。
材料費は彼女たちが先払いしてくれるとまで言う。
「じゃ、測量を始めましょう」。
私はただただついて歩くだけだ。
トイレの必要性
ヤンカン村にはすでにトイレが1つある。今回のキャンプではその反対側にもう1つのトイレをつくる。本当にトイレは2つ必要なのだろうか。そんなことを考えながらボーっと村の中庭を眺める。
と、1人の村人が中庭を横切って歩いていく。キコキコ…。普段は外しているブリキの義足を2本つけ、松葉杖にすがるようにしてトイレに向かって歩いていく。彼の腕は手首を失っている。トイレットペーパー代わりの竹の棒を小脇に挟み、歩いていく。キコキコ…。
現在あるトイレは、彼の住んでいる長屋の反対側にある。数十メートルは離れている。雨の日はどうしているのだろう。やはり、彼の部屋側にもトイレは必要だろう。
何践隆さん
キコキコ歩く村人の家に遊びに行く。
彼は、教会が寄付したという車椅子を持っているが、手首から先がないので足で動かすと話してくれる。進行方向の逆向きに車椅子を向けて座り、足で地面を蹴りながら進む。実演して見せてくれた。
彼は松葉杖なしでも立つことができる。ホウキで部屋の前の廊下を掃き始めた。汗だくだ。替わろうとすると、彼は笑顔で断る。
掃除後、ジエチオンは彼が義足を外すのを手伝う。
「ワー、重い!」
義足を持ったジエチオンが言う。確かに重い。これを履いて歩くのは相当の力がいる。彼は扇風機を出してくれ、汗だくの自分ではなく、ジエチオンと私だけに風が当たるように置いてくれる。
彼の腕の先に張ってあるガーゼがはがれているのにジエチオンが気づいた。しかし1度はがれたテープはなかなかくっ付かない。ガーゼも汚れている。
「え、他のガーゼはないの?何で?え、痛くないの?感覚がないの?」
ジエチオンはひとつ1つに驚き、私に逐一報告する。
「え、42年もこの村にいるの!?」
ジエチオンは小さく叫ぶ。
その村人は薬の箱を机の上に置いた。引き出しからボールペンを出すと、腕と腕の間に挟み、字を書き始める。一画一画をゆっくりと書いていく。何践隆。彼の名前だ。
ヤンカン村ワークキャンプ各リーダー決定
FIWC関西委員会さん、すみません。勝手に中国側の各リーダーを決めさせていただきました。もちろん、総リーダーは関西委員会の槻美代子さんです。
中国側リーダー:リァオ=トンビン
中国側ワークリーダー:リァン=ジエフェイ
中国側レクリーダー:リァン=ジエチオン
posted by tynoon at 04:42| 2003年リンホウ駐在中
2003年07月01日
2003年7月1-6日
2003年7月1日
香港とタバコ
最近1箱4元(60円)の中国タバコ・「紅梅」(ホンメイ)を愛煙している。
広州から直通電車で香港の九龍に着く。駅ビルを出ると、東京のような街並みが広がる。まずはタバコを吸おう。地図を広げてホテルを探しながらホッと煙を吐く。
携帯灰皿をなくして以来、私はタバコをポイ捨てする中国の習慣に徐々に染まってきている。ただ、何となく後ろめたい。捨てる前に道を見てしまう。今日も下を見ると、ここ香港の道には吸殻が落ちていない。私は吸殻を持ったままバス停へと向かった。
と、目にとまったのは、罰金1000香港ドル(約1万6000円)という看板だ。タバコのポイ捨てを初め、ガム、ゴミと何でも道に放り投げれば1000ドルも同時に投げ出すことになる。
予約済みのホテルがある油麻地あたりでバスを降り、タバコを吸う。最後の1本だ。キョロキョロしながら道を歩いていると、キオスクのような店にマルボロが置いてある。旧友に会ったような懐かしさを覚え、手に取る。
「22(香港)ドル(約352円)だ」。
店のおっちゃんはさらりと言う。
「22ドル!?たけー!ま、しょうがねぇか」。
30ドル出すと、おっちゃんは言う、
「32ドルだ」。
私の聞き間違いだった。確かに値札には32ドルとある。約512円だ。最も安いのは中国産のタバコだが、それでも20香港ドル(約320円)だ。中国から持ち込める安タバコは5パックまでだという。
さらに香港のタバコはパックの3分の1程を健康に対する警告が占めている。せっかくのデザインが台無しだ。この警告にはいくつかの種類があり、肺炎バージョンや心臓病バージョンがある。政府はタバコを吸わせまいと必死なようだ。
孤独
私は日本にいるとき、ひとりでいるのが好きだった。ひとりで音楽を聴きながらタバコを吸い、しょうもないことをボーっと考えるのが大好きだった。
今は違う。ホテルに独り。久々に飲むウイスキーもおいしくない。私は人とのつながりを求めて止まない。
2003年7月2日
ビザ更新
1000香港ドル(約1万6000円)がビザ更新のために飛んだ。1年間のマルチビザだ。FIWC関東委員会の中国キャンプ駐在員の任期は今年の4月から1年だが、このビザはそれ以上の滞在を許可している。つまり、私は今後もこの仕事を続ける気で満々というわけだ。あとは、経済的な支援をどこまで受けられるかにかかっている。
インキンタムシとリンホウの医療
お食事中の方々、大変申し訳ございません。私はここ何週間かひどいインキンタムシに悩まされておりました。リンホウの蘇村長に相談すると、塗り薬を2本くれました。ところが、これが効かないんです。どんどんひどくなっていくんです。このかゆみは痛みを伴うようになり、すべてに対する集中力が無くなってきました。
(このままではまずい…)。
危機感を覚えた私は、昨日、勇気を振り絞って広州の大きな薬局に行きました。辞書で「インキンタムシ」を引くと、「腹股溝癬」とあったので、それをそのまま店のお姉ちゃんに見せました。お姉ちゃんは静かに1本の塗り薬を出してきました。
これが効くんです。あれほどひどかった痒みが、今日、ほとんどなくなりました。あの数週間に渡る苦しみはなんだったのでしょう。
「あんたアホか。そんな恥をさらして何を言いたいんだ」。
リンホウの医療水準の低さがこの例から分かると思うので、あえてこんなことを書きました。リンホウの人々は、あのダメな薬を使っているんです。リンホウの人がインキンタムシかどうかは知りませんが、一般的な皮膚の炎症に対してあの薬を使っているようです。効きません、あれは。リンホウの医療水準を改めて改善したいと思いました。
2003年7月3日
リンホウに看護士が
香港の看護士・ファニーと、脳腫瘍の手術後のリハビリに精を出すグレイスに会う。リンホウに来て村人の傷を治療してもらうよう頼むためだ。彼女が属しているMMCというキリスト教系のボランティア団体は、HANDAの要請に応じて中国のハンセン病村で治療を行っている。両団体との調整がつけば、ファニーはリンホウに来ることができるという。
健康診断の中身
6月30日に書いた「健康診断」について、ファニーに相談してみる。彼女曰く、健康診断は年に1度でよいそうだ。その診断項目は、体温、血圧、眼の色、口臭、顔色、尿検査、お腹の触診、呼吸の状態など、村で実施できるものばかりだ。体温と血圧によって大体の問題は発見できるという。これをボランティアの医師が行ってくれればよいのだが…。
1つの村での年間医療費の概算
1つの村で1年間にかかる医療費をファニーに概算してもらう。
「標準的な薬が20〜30(約300〜450円)元、脳検査が1000元(約1万5000円)、血液検査が100元(約1500円)以上だから…。13人で1万元(約15万円)くらいでいいわね」。
ただし、この額に手術費は含まれていない。保険医療などは考えられない中国では手術が異常に高い。1回の手術で1〜2万元(約15〜30万円)は覚悟しなければならない。
中国のハンセン病の状況
現在の中国のハンセン病医療を巡る状況は、新患患者よりも快復者の方が難しいという。
「新患はMDT(多剤併用治療)で在宅治療するから問題ないの。でも快復者たちの後遺症のケアはほとんどされていないから、そっちの方が問題が大きいわ。1980年代まで薬が外国から入ってこなかったから後遺症が重いのよね」。
確かに、中国の快復者の多くは、ひどい後遺症を持っている。ケアはほとんどされていない。
2003年7月4日
香港企業の支援
父の仕事の関係で香港で会社を経営する人に会うことができた。彼女は学生のネットワークをつくるという計画に理解を示してくれた。金銭的な支援もしてくれそうだ。ただ、そのためには私が詳細な計画を彼女に伝えなければならない。
広州へ戻る
昼、タバコが切れた。しかし1箱に500円以上も払えない。もう1晩香港に滞在する予定だったが、日本並みかそれ以上の香港の物価に耐え切れず、逃げ出すことにした。
16時、広州に着いた。まずタバコを買う。紅梅を指差し、10元(約150円)札を出すと5元(約75円)が返ってくる。懐かしい中国のボッタクリが始まった。
「紅梅は4元(約60円)じゃん」。
タバコ屋のオネーチャンは眉毛を動かすと、1元(約15円)硬貨を持ってくる。
暑い。排気ガスがスゴイ。久しぶりの中国だ。吸い終わったタバコをポーンと放り投げてみた。
2003年7月5日
ワークキャンプ@ヤンカン村
FIWC関西委員会がヤンカン村でのワークキャンプ計画を復活させた。日程は8月5〜12日で、トイレをつくりたいという。勢いで私は準備に協力することを約束してしまった。リンホウのキャンプの準備もあるのだが…。
2003年7月6日
花都康復村訪問
総勢20名で広州近郊の花都康復村を訪れ、共同台所の掃除をする。この訪問を企画したのは、『広州トゥディ』誌の記者・ステフォンとHANDAだ。ステフォンはこれまで6つの村で同様の活動をしてきたという。
参加したのはステフォンとその家族、彼の友人、身体の不自由な人を支援する団体の人々、HANDAのマイケルとユキ、そして学生たちだ。学生は、チュアン=ティエンフォン(♀、広東商学院)、ワン=シュアン(♂、培英中学)、リァン=シァオドン(♀、中山大学)、そしてトンビンだ。ティエンフォンと私は昨年の9月に会っていたので、そのコネを使って呼んだ。トンビンを誘ったのはHANDAのユキだ。ワン=シュアンを連れてきたのは、彼の親の英語の先生でもあるステフォンだ。17歳のワン=シュアンは、烏龍茶系美人のシァオドンと一緒にきた。
花都村
キレイだ。舗装された道が花都村まで届いている。29名の村人が住む2階建ての白い建物からは、「村」というよりも「病院」あるいは「老人表」を連想する。1ヶ月に支給される額は1人300元(約4500円)とリンホウの3倍近くだ。
村人の表情も明るい。年に1度、香港からの学生が日帰りで村を訪れるそうで、集会所の壁にはその時の写真が飾ってある。後遺症のケアもなされているようだ。リンホウのように包帯が目立つ村人は見かけなかった。義足をつけている村人もいる。
掃除
11時、村人が振舞ってくれた大量のライチを集会所で食べながら休憩した後、共同台所の掃除を始める。白いタイルの立派な台所だ。窓がたくさんあり、採光も十分だ。天井から大きな扇風機が吊り下がっている。流しには蛇口が4つある。大きなガスレンジが2つ。その上をしっかりした換気扇が覆う。ハエ取り紙や電動ハエ取り機はリンホウでは考えられないシロモノだ。
掃除はかなりハードだ。扇風機にはベッタリと油がこびり付いている。換気扇の覆いの汚れもひどい。掃除後、白いタイルの壁は白さを増した。
ワークキャンプの可能性
花都の施設はリンホウと比較にならない程きちんとしている。ただ、精神的な支援は必要なようだ。今日はステフォンや学生たちが来ているので村人は元気だが、普段はそうでもないようだ。ある村人は語った、
「月300元じゃ足りない。40年前にハンセン病が治って村の外で仕事を探したが、見つからなかった。普段はテレビを見たり、カードゲームや将棋をしたり、お茶を飲んだりしている」。
13時45分、村を後にする。滞在は3時間ほどだった。ワン=シュアン、シァオドン、ティエンフォンはたくさんの村人と握手している。と、村人の輪から外れたところに、1人のおばあちゃんがいる。
「ツァイチェン」(さよなら)。
握手するとおばあちゃんは手を握ったまま語り始める、
「身体に気をつけてな。また来てな。私は眼が見えないんだけど」。
もっとたくさんの言葉をくれたが、車に乗り込まざるを得ず、トンビンの通訳を介する間がなかった。
この村でもワークキャンプをしたい。ワークのニーズはほとんどないが、村に泊まりこんでおじいちゃん、おばあちゃんと話がしたい。ステフォンの企画にせよ、香港の学生の訪問にせよ、日帰りでは短すぎる。
プレゼン次第
14時過ぎ、参加者全員で遅い昼ご飯を食べる。
「リョータ、キミはどのくらい中国に滞在するんだね」。
大柄で白いひげを生やしたステフォンに訊かれ、私は1年だと答える。
「1年?留学生か?」
彼は、私の計画―広東省に学生によるハンセン病支援ネットワークをつくる―を聴くと、資金源確保の重要性を説く、
「企業訪問して資金を集めるのは、今からでもできる。ネットワークができ始めてある程度の影響力を持つのを待つ必要なんてない。きちんとしたプレゼンをして企業を納得させればいいんだ。写真や地図、グラフを使い、広東省全体のハンセン病の村の様子を明確に具体的に示せばいい。その上で、綿密な計画とそれに必要な予算を提示するんだ。ただ『お金をください』では企業は動かないだろうが、明確なプランを示せば支援してくれるだろう」。
香港とタバコ
最近1箱4元(60円)の中国タバコ・「紅梅」(ホンメイ)を愛煙している。
広州から直通電車で香港の九龍に着く。駅ビルを出ると、東京のような街並みが広がる。まずはタバコを吸おう。地図を広げてホテルを探しながらホッと煙を吐く。
携帯灰皿をなくして以来、私はタバコをポイ捨てする中国の習慣に徐々に染まってきている。ただ、何となく後ろめたい。捨てる前に道を見てしまう。今日も下を見ると、ここ香港の道には吸殻が落ちていない。私は吸殻を持ったままバス停へと向かった。
と、目にとまったのは、罰金1000香港ドル(約1万6000円)という看板だ。タバコのポイ捨てを初め、ガム、ゴミと何でも道に放り投げれば1000ドルも同時に投げ出すことになる。
予約済みのホテルがある油麻地あたりでバスを降り、タバコを吸う。最後の1本だ。キョロキョロしながら道を歩いていると、キオスクのような店にマルボロが置いてある。旧友に会ったような懐かしさを覚え、手に取る。
「22(香港)ドル(約352円)だ」。
店のおっちゃんはさらりと言う。
「22ドル!?たけー!ま、しょうがねぇか」。
30ドル出すと、おっちゃんは言う、
「32ドルだ」。
私の聞き間違いだった。確かに値札には32ドルとある。約512円だ。最も安いのは中国産のタバコだが、それでも20香港ドル(約320円)だ。中国から持ち込める安タバコは5パックまでだという。
さらに香港のタバコはパックの3分の1程を健康に対する警告が占めている。せっかくのデザインが台無しだ。この警告にはいくつかの種類があり、肺炎バージョンや心臓病バージョンがある。政府はタバコを吸わせまいと必死なようだ。
孤独
私は日本にいるとき、ひとりでいるのが好きだった。ひとりで音楽を聴きながらタバコを吸い、しょうもないことをボーっと考えるのが大好きだった。
今は違う。ホテルに独り。久々に飲むウイスキーもおいしくない。私は人とのつながりを求めて止まない。
2003年7月2日
ビザ更新
1000香港ドル(約1万6000円)がビザ更新のために飛んだ。1年間のマルチビザだ。FIWC関東委員会の中国キャンプ駐在員の任期は今年の4月から1年だが、このビザはそれ以上の滞在を許可している。つまり、私は今後もこの仕事を続ける気で満々というわけだ。あとは、経済的な支援をどこまで受けられるかにかかっている。
インキンタムシとリンホウの医療
お食事中の方々、大変申し訳ございません。私はここ何週間かひどいインキンタムシに悩まされておりました。リンホウの蘇村長に相談すると、塗り薬を2本くれました。ところが、これが効かないんです。どんどんひどくなっていくんです。このかゆみは痛みを伴うようになり、すべてに対する集中力が無くなってきました。
(このままではまずい…)。
危機感を覚えた私は、昨日、勇気を振り絞って広州の大きな薬局に行きました。辞書で「インキンタムシ」を引くと、「腹股溝癬」とあったので、それをそのまま店のお姉ちゃんに見せました。お姉ちゃんは静かに1本の塗り薬を出してきました。
これが効くんです。あれほどひどかった痒みが、今日、ほとんどなくなりました。あの数週間に渡る苦しみはなんだったのでしょう。
「あんたアホか。そんな恥をさらして何を言いたいんだ」。
リンホウの医療水準の低さがこの例から分かると思うので、あえてこんなことを書きました。リンホウの人々は、あのダメな薬を使っているんです。リンホウの人がインキンタムシかどうかは知りませんが、一般的な皮膚の炎症に対してあの薬を使っているようです。効きません、あれは。リンホウの医療水準を改めて改善したいと思いました。
2003年7月3日
リンホウに看護士が
香港の看護士・ファニーと、脳腫瘍の手術後のリハビリに精を出すグレイスに会う。リンホウに来て村人の傷を治療してもらうよう頼むためだ。彼女が属しているMMCというキリスト教系のボランティア団体は、HANDAの要請に応じて中国のハンセン病村で治療を行っている。両団体との調整がつけば、ファニーはリンホウに来ることができるという。
健康診断の中身
6月30日に書いた「健康診断」について、ファニーに相談してみる。彼女曰く、健康診断は年に1度でよいそうだ。その診断項目は、体温、血圧、眼の色、口臭、顔色、尿検査、お腹の触診、呼吸の状態など、村で実施できるものばかりだ。体温と血圧によって大体の問題は発見できるという。これをボランティアの医師が行ってくれればよいのだが…。
1つの村での年間医療費の概算
1つの村で1年間にかかる医療費をファニーに概算してもらう。
「標準的な薬が20〜30(約300〜450円)元、脳検査が1000元(約1万5000円)、血液検査が100元(約1500円)以上だから…。13人で1万元(約15万円)くらいでいいわね」。
ただし、この額に手術費は含まれていない。保険医療などは考えられない中国では手術が異常に高い。1回の手術で1〜2万元(約15〜30万円)は覚悟しなければならない。
中国のハンセン病の状況
現在の中国のハンセン病医療を巡る状況は、新患患者よりも快復者の方が難しいという。
「新患はMDT(多剤併用治療)で在宅治療するから問題ないの。でも快復者たちの後遺症のケアはほとんどされていないから、そっちの方が問題が大きいわ。1980年代まで薬が外国から入ってこなかったから後遺症が重いのよね」。
確かに、中国の快復者の多くは、ひどい後遺症を持っている。ケアはほとんどされていない。
2003年7月4日
香港企業の支援
父の仕事の関係で香港で会社を経営する人に会うことができた。彼女は学生のネットワークをつくるという計画に理解を示してくれた。金銭的な支援もしてくれそうだ。ただ、そのためには私が詳細な計画を彼女に伝えなければならない。
広州へ戻る
昼、タバコが切れた。しかし1箱に500円以上も払えない。もう1晩香港に滞在する予定だったが、日本並みかそれ以上の香港の物価に耐え切れず、逃げ出すことにした。
16時、広州に着いた。まずタバコを買う。紅梅を指差し、10元(約150円)札を出すと5元(約75円)が返ってくる。懐かしい中国のボッタクリが始まった。
「紅梅は4元(約60円)じゃん」。
タバコ屋のオネーチャンは眉毛を動かすと、1元(約15円)硬貨を持ってくる。
暑い。排気ガスがスゴイ。久しぶりの中国だ。吸い終わったタバコをポーンと放り投げてみた。
2003年7月5日
ワークキャンプ@ヤンカン村
FIWC関西委員会がヤンカン村でのワークキャンプ計画を復活させた。日程は8月5〜12日で、トイレをつくりたいという。勢いで私は準備に協力することを約束してしまった。リンホウのキャンプの準備もあるのだが…。
2003年7月6日
花都康復村訪問
総勢20名で広州近郊の花都康復村を訪れ、共同台所の掃除をする。この訪問を企画したのは、『広州トゥディ』誌の記者・ステフォンとHANDAだ。ステフォンはこれまで6つの村で同様の活動をしてきたという。
参加したのはステフォンとその家族、彼の友人、身体の不自由な人を支援する団体の人々、HANDAのマイケルとユキ、そして学生たちだ。学生は、チュアン=ティエンフォン(♀、広東商学院)、ワン=シュアン(♂、培英中学)、リァン=シァオドン(♀、中山大学)、そしてトンビンだ。ティエンフォンと私は昨年の9月に会っていたので、そのコネを使って呼んだ。トンビンを誘ったのはHANDAのユキだ。ワン=シュアンを連れてきたのは、彼の親の英語の先生でもあるステフォンだ。17歳のワン=シュアンは、烏龍茶系美人のシァオドンと一緒にきた。
花都村
キレイだ。舗装された道が花都村まで届いている。29名の村人が住む2階建ての白い建物からは、「村」というよりも「病院」あるいは「老人表」を連想する。1ヶ月に支給される額は1人300元(約4500円)とリンホウの3倍近くだ。
村人の表情も明るい。年に1度、香港からの学生が日帰りで村を訪れるそうで、集会所の壁にはその時の写真が飾ってある。後遺症のケアもなされているようだ。リンホウのように包帯が目立つ村人は見かけなかった。義足をつけている村人もいる。
掃除
11時、村人が振舞ってくれた大量のライチを集会所で食べながら休憩した後、共同台所の掃除を始める。白いタイルの立派な台所だ。窓がたくさんあり、採光も十分だ。天井から大きな扇風機が吊り下がっている。流しには蛇口が4つある。大きなガスレンジが2つ。その上をしっかりした換気扇が覆う。ハエ取り紙や電動ハエ取り機はリンホウでは考えられないシロモノだ。
掃除はかなりハードだ。扇風機にはベッタリと油がこびり付いている。換気扇の覆いの汚れもひどい。掃除後、白いタイルの壁は白さを増した。
ワークキャンプの可能性
花都の施設はリンホウと比較にならない程きちんとしている。ただ、精神的な支援は必要なようだ。今日はステフォンや学生たちが来ているので村人は元気だが、普段はそうでもないようだ。ある村人は語った、
「月300元じゃ足りない。40年前にハンセン病が治って村の外で仕事を探したが、見つからなかった。普段はテレビを見たり、カードゲームや将棋をしたり、お茶を飲んだりしている」。
13時45分、村を後にする。滞在は3時間ほどだった。ワン=シュアン、シァオドン、ティエンフォンはたくさんの村人と握手している。と、村人の輪から外れたところに、1人のおばあちゃんがいる。
「ツァイチェン」(さよなら)。
握手するとおばあちゃんは手を握ったまま語り始める、
「身体に気をつけてな。また来てな。私は眼が見えないんだけど」。
もっとたくさんの言葉をくれたが、車に乗り込まざるを得ず、トンビンの通訳を介する間がなかった。
この村でもワークキャンプをしたい。ワークのニーズはほとんどないが、村に泊まりこんでおじいちゃん、おばあちゃんと話がしたい。ステフォンの企画にせよ、香港の学生の訪問にせよ、日帰りでは短すぎる。
プレゼン次第
14時過ぎ、参加者全員で遅い昼ご飯を食べる。
「リョータ、キミはどのくらい中国に滞在するんだね」。
大柄で白いひげを生やしたステフォンに訊かれ、私は1年だと答える。
「1年?留学生か?」
彼は、私の計画―広東省に学生によるハンセン病支援ネットワークをつくる―を聴くと、資金源確保の重要性を説く、
「企業訪問して資金を集めるのは、今からでもできる。ネットワークができ始めてある程度の影響力を持つのを待つ必要なんてない。きちんとしたプレゼンをして企業を納得させればいいんだ。写真や地図、グラフを使い、広東省全体のハンセン病の村の様子を明確に具体的に示せばいい。その上で、綿密な計画とそれに必要な予算を提示するんだ。ただ『お金をください』では企業は動かないだろうが、明確なプランを示せば支援してくれるだろう」。
posted by tynoon at 04:38| 2003年リンホウ駐在中