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キャンパーがリンホウで感じたこと [2003年03月15日(土)]

このような村人をワークキャンプで訪ねた中国の学生、日本のキャンパーは、何を感じたのだろうか。みんなはキャンプ中、村について、村人について語ってくれた。キャンプ後、手紙をくれた。そんなみんなの声を集めてみた。

・ジル(韓山師範学院外国語学部4年、♀)
インチンと話すのが好き
さあ、昼メシだ。…ジルがいない。またインチンの部屋かな。行ってみると、師範学院の学生・ジル(♀)とインチンが話し込んでいる。2人は仲良しで、昼ゴハンの時間を忘れるほどだ。
 「ニーハオ、ニーハオ」。
 そう言いながら部屋に入っていくと、ジルは振りかえって笑いかける、
 「私とインチンは苗字が同じだったの!」
 インチンは自らの体験を学生たちに語る。当時隔離された患者たちのが多くが10代だったこと、村に来てから40年近くになること、かつてリンホウにカナダ人の医師がいたこと…。
 「インチンと話すのが好き。インチンは話したいことがたくさんあるの。全部を聴きたい」。
 ジルはインチンの、そして村人の魅力に気づきはじめた。言葉の壁がない彼女には、インチンの生涯を聞き書きしてもらいたい。

ジルからの手紙
私は帰国後、ジルから手紙を受け取った。以下はその翻訳抜粋;
リンホウに初めて行ったときのことをまだ覚えてる。村人の生活状況は想像をはるかに超えていた。こんなひどい環境で暮らしている人がいるのをこの目でみて、ショックを受けた。それでも、日本のキャンパーが村人に対して友好的だった。中国語であいさつし、握手する姿を見て、リョータ(燎太郎)の村人との関係は、私たち学生たちとの関係よりも、近いと感じた。中国人として恥ずかしかった。
こんなことを言うのも難だけど、私は自分をけっこう親切な人だと思っていた。でも、村人と握手できない自分を見つけたとき、村人と親しく話すことができない自分を見つけたとき、そしてそれを日本のキャンパーがしているのを見たとき、私は学ぶべき何かがあることに気づいた。リョータは私と同じような経験をしたんだよね。
リョータといっしょに(長屋Bの建て替えについての)アンケートを取っているうちに、だんだん村人を受け入れていく自分がいた。アンケートを取っている時に村人の話や経験を聴いたから。私は、今まで知らなかった人生についての何かをつかんだような気がした。
人生においてのたくさんの栄枯盛衰を聞いてきたけど、村人の人生を知るようになって初めて、生きるための精神力とは何かを理解し始めた。村人にとってそれは本当に困難だったけど、彼らは生き抜いた。村人を尊敬する。
でも、このことを知らない学生を含めた多くの人たちは、初めは村人を受け入れられないと思う。でも、一度でも村人の生活を実際に見て村人を理解するようになれば、そうしたらみんなが私たちみたいに最善を尽くして村人を助けたいと思うはず。だから、村のことを多くの人に広めていくことが本当に大事だと思う。そうでしょ?
前にも話したように、私はいつも人生の意味を探している。満足のいく答えを見つけるのは難しいし、もしかしたら答えはないかもしれない。でも、最善をつくす。それに私はいつも人生を楽しんでるし。みんながそれぞれの価値観を持っていて、それぞれが価値があると思うことに従って生きているよね。小説には人生の歩み方のすべてがあって、私たちはすべての種類の人々、人間の本質を知ることができる。だから私は小説を読むのがすき。リョータもこの問いの答えを探してるのよね?リョータがその答えを探す方法を知りたい。

・マーク(韓山師範学院外国語学部4年、♂)
11月キャンプでは、学生たちは日帰り参加だったが、マークは6日間キャンプに参加した。初日は村で、以後はリンホウ医院に泊まった。2月キャンプでも彼は医院に一泊した。そのマークが手紙をくれた;
初めはワークキャンプのことを何も知らなかった。リョータが助けを必要としていたし、日本の文化を知りたかったからキャンプに来てみたんだ。
最初は、通訳だけやってればいいと思ってた。でも、想像を超えた現実が待っていた。村は街から遠く離れていて、村まで行くのは大変だった。そのうえ村の状況はとても貧しかった。でも、むかし田舎に住んでいたからその状況を受け入れることができた。それにリンホウ医院の職員と村人がとても親切にしてくれた。とても居心地がよかった。医院が用意してくれた歓迎のための夕食をまだ忘れられない。
村に着くと村人はすっかり準備を整えていてくれた。彼らの暖かい歓迎にとても感動した。荷物を置いた後、リョータと一緒に村人の家にいったね。何人かの村人は足がなく、指がなく、目が変形していた。ボクは少し恐かったが、敬意を払った。それでも、ボクはまだ病気を恐れていた。だから、リョータが村人と握手するのを見て本当に感動した。日本のキャンパーが来てくれたこと、幸せを運んできたことで、村人も喜んだ。
最初の夜、ボクは村に泊まった。でも、たくさん蚊がいてよく眠れなかった。寝返りをうつと木のベッドはギシギシいうし。それに、夜トイレにも行きたくなった。こういったことがキミたちの眠りを妨げただろう。だからリンホウ医院で寝ることにしたんだ。医院なら夜に勉強もできるしね。
多くの問題に直面したので、キャンプ中の物事はうまく進展しなかった。自分の食事のことを考えなければならなかった。そのころ十分お金を持ってなかったから、問題だったんだ(注、マークはキャンプ費の支払いを免除されていたが、遠慮して私たちと食事するのをためらった)。そのうえ、中国の習慣から考えると居心地が悪く感じた。でも、ボクはひどい間違いをおかしていた。キミたち日本の側に立ってみようとしなかったんだ。キミたちの見方から僕は物事を考えるべきだったと思う。今でもそのことをすまないと思っている。でも、今はお金の問題はもはやどうでもいい。「協力」がはるかに大切だということがわかったんだ。
その次の日、村人がボクに赤い包みに入ったお金をくれたんだ。断ろうとしたんだけど、村人は受け取るようにと言って譲らなかった。ついに、ボクは村人のために食べ物を買うことにしてそれを受け取ったんだ。金額は多くなかったけど、村人の親切な心にとても感動した。後で、彼らはお金がほとんどないことをしって、それを返そうとしたけど、彼らは同意しなかった。だから春節(旧正月)の前に村人に会いに行ったんだ。今もそのお金は記念にとっておいてある。そのお金を使わないために、陽子にバス代を借りたんだ。
キミたちと一緒にいればいるほど、だんだん深くキミたちのことを知るようになった。協力の精神(食器を一緒に洗うこと)、独立の精神(市場に自分たちだけで行くこと)、働き方(歌を歌いながら食器を洗ったり、汗を流した後にビールを飲んだり)。ボクの忍耐力はキミたちと働く間に培われた。市場でキミたちを待っていたり、お腹がすいてもガマンしたり。「お腹すいた」っていう言葉を言わなくてもすむようになったよ。長時間待たなくちゃいけなくても、あまりお腹がすかなくなったよ。市場に行ったときのことが懐かしい。楽しかったな。
キャンプ最終日のことは忘れられない。人生における重要な教訓を学んだよ。あの時、インチンが死にそうになってたよね。彼女のうめき声を聞いたとき、彼女の手をキミが握ったとき、キミの涙を見たとき、ボクは人生って短いんだなと思った。ボクたちは気遣いを示さなければいけないんだなと思った。いつかボクたちも年を取り、病気になり、助けと愛を必要とする。今では家族のことが前よりも好きになったよ。ボクたちは人を愛することを教えてもらったと思う。
ボクたちのワークキャンプに参加する人がどんどん増えている。ボクのように、ワークキャンプは人の人生を変える。今、ボクはワークキャンプの精神を理解し始めた。初めはほとんど知らなかったけど。
   *
マークからの手紙の中に、私は「ボクたちのワークキャンプ」という言葉を見つけた。

・阪井悠子(17)
許さんが悠子ちゃんにお茶を入れてくれる。
 「苦いから飲めないー」。
 許さんは菊の花のお茶を入れてくれる。貴重品の砂糖もたっぷり入れてだ。
 「自分が傷ついた人ってやさしいよね。傷つくからやさしくなれる」。
 悠子ちゃんはゆっくりとそう言うと、許さんにお礼を言って菊茶を飲む。
 「うわーッ、甘い!」

・中平勝(62)
リンホウを去り、広州に帰ってホテルに泊まる。体調を崩している中平さんはすぐにベッドに横になった。私はシャワーを浴びようと彼の隣でバックパックを開いている。と、中平さんの声がする、
 「村人の家の床、早く板張りになるといいですね」。
 寝ているのかと思っていたが、中平さんは、足が不自由で冷たいコンクリートに座り続ける村人のことを想っていた。 
 「(キャンパーがリンホウを去るとき)村長泣いてましたよ」。
 あの快活な蘇村長にとっても、別れはつらい。中平さんの想いは、まだリンホウにあるのだろう。
   *
帰国後、中平さんはキャンプの感想を書いた手紙をくれた;
GNP急上昇中で、草木もなびく中国の旅。
 広州から潮州の長距離バスの車窓から、バラック小屋がコロニーとなって延々と続く、その向こうに近代的マンションが又続く。
西尾雄志さん島倉陽子さんに伴って頂き4日夕方近く、FIWCメンバーに迎えられて、「中国ハンセン病療養所の中でも最も貧困」といわれているリンホウ医院に着く。
現地中国からのラジオ放送にもあった如く、当地のハンセン病対策は大幅に遅れていた。
隔離は撤廃されていたが、トイレのない、要バリアフリーの建物。冷たいコンクリートの上での薪による粥食自炊。完成はしたが軒下の水道。シャワー浴のできない環境。着た切りの粗末な衣類。鶏の卵、たまに食べるという鶏肉の蛋白質、猫の額ほどの畑からのビタミン補給。月1回日本円で1800円の給与金。
かつて300人程いた入所者は今、高齢の13名が残っている。
入所者の身体の状態は、歩行面では、不能4/13名。松葉杖歩行1/13名。全盲に等しい人1/13名。片眼失明2/13名。手指、足趾面は変形・欠落10/13名。知覚麻痺者が多く、創部のある人7/13名で、うち緊急に高度医療で対処の必要な人が1名いた。
医薬品の投与に至る過程の中にも問題が多々見受けられる。医学・看護学の専門的知識の普及と指導に、日本の専門医の訪中指導があればいいと考える。何よりマンパワーが不足している。
3月11日に帰国したが、地元韓山師範学院のボランティアグループと、日本FIWC関東委員会の交流で、師範学院の学部長と学生の中に、真摯な魂を見たのはこれからの希望だ。きっとよい環境になる。そう信じている。
日中友好の観点から医療と物的・労働の援助を訴えたい。
おわりに [2003年03月11日(火)]

「無用人」。
蘇文秀リンホウ村村長は自らをこう呼ぶ。リンホウの人々はハンセン病と共に生きてきた。特効薬のない時代、彼らは自らの身体が病に冒されていくのを見た。社会が、そして家族が自分を差別し、隔離するのを見てきた。隔離村では長時間労働と空腹を強いられた。そんな過酷な経験が村長に「無用人」と言わせているのだろう。
しかし。ハンセン病を闘い抜いてきたという経験は、私たちにとって、差別の対象ではない。尊敬すべき偉業だ。ハンセン病専門医・小笠原登はこう語った、
「人間の美醜は身体に存するものではなく、内面においてのみ存するものだ」。
長年隔離されて来た村・リンホウには今、多くの人々が行き来する。日中のキャンパーがワークキャンプをする。建設業者がくる。村外の人々が訪れる。村を定期的に支援する団体が韓山師範学院に設立されつつある。これらの人々を引きつけているのは、村人自身だ。
リンホウの人たちにビリビリっときた私は2003年4月から、FIWC関東委員会中国駐在員兼HANDAのタダ働きスタッフとしてリンホウに駐在する。目的は、リンホウ村支援団体を韓山師範学院内に設立することだ。
現在、中国には600〜800の快復村があるといわれている。リンホウ村支援団体の基礎が固まったあとは、中国のハンセン病快復村を支援する学生のネットワークをつくりたい。各村の地元にある大学内に快復村支援団体をつくり、支援活動を行ってもらう。定期的に代表者が集まる会議を開きたい。このネットワークを通して、たくさんの村人たちが、「無用人」という言葉が自分たちには当てはまらないことを知るかもしれない。
再見、リンホウ [2003年03月10日(月)]

3月10日、別れの日は雨だ。
 「涙雨ですね」。
中平さんは言う。
7時過ぎ。郭さんは淋しそうに笑うと、私の手を握る。しばらく離さない。
許さんはお茶を入れてくれる。合間に、私のノートに書く。ふるえる手で、ふるえる字をゆっくりと書く、
「我祝你們一路平安 順心順意」。
  *
「四月、再来」。
指が短いインチンの両手を握ってそう言うと、彼女は泣く。インチンの部屋の外ではインインと郭さんが泣いている。私は彼らと握手すると、涙がにじみ出てくる。
「悲しくてもうご飯が喉を通らない」。
インインは言う。村人に歌をよく歌っていた悠子ちゃんは最後の歌を歌う。インチンは黙って、じっとそれを聴く。終わると、インチンはしゃくり上げる。
そこへ陸さん夫妻が来る。悠子ちゃんが陸さんの奥さんにネックレスをあげ、首にかけてあげると、奥さんの涙は号泣に変わった。
私は、3週間後の4月には駐在員としてここに来る。それでも、村人の涙を見ると、キャンパーとの、私との別れを心から悲しむ村人が流す涙を見ると、涙がにじむ。
   *
中庭にはみんなが集まっている。郭さん、劉さん、若深さん、松立、村長、カンペイちゃん、曽さん、孫シュウシュウ。
私は車に乗り込む。郭さんが瞬きをたくさんしながら、もう一度握手して言う、
「タイラン!」
私は「リャンハウヒャン」と声を出せなかった。
孫シュウシュウが近づいてくる。さっき、リンホウ医院までモノを運ぶのを手伝ってもらった。彼にはいつも世話になりっぱなしだ。それを想った瞬間、涙があふれる。
「不要、不要!」
笑顔のシュウシュウに泣くなと言われ、私は無理して笑うが、返って涙の量は増える。
   *
2000年のフィリピン=キャンプで見たフィリピンの村人の涙と、リンホウの人々の涙は明らかに違う種類だ。リンホウの村人には切羽詰った悲壮感がある。
(師範学院の学生といっしょに、半隔離村を外に開いていこう)。
そう強く想う。
村の外の人々の変化 [2003年03月06日(木)]

日中の学生の活動は、村の外の人々のリンホウに対する見方を少しずつ変えているようだ。潮州の人々はリンホウとワークキャンプのことを知り始めている。村の外の人々がリンホウに遊びにきた。地元テレビがリンホウを取材した。今後、ハンセン病、リンホウ村、そしてワークキャンプへの社会の関心がどのような効果をもたらすだろうか。

潮州の街の人たち―開元寺の住職
フリーデーのとき、潮州の有名な寺院・開元寺の向かいにあるお茶屋さんの女の子と悠子ちゃんが友達になった。悠子ちゃんと私はその店を経営している開元寺の住職と筆談する。住職は書く、
「開元寺去了嗎?」
開元寺には行ったかという意味だ。
「ううん、まだ!でもね、リンホウに行ったの!」
悠子ちゃんはそう言うと、私にハンセン病を中国語でどう書くのかを訊き、こう書く、
「麻風病村人我」。
住職は驚いて言う、
「あんた麻風病(ハンセン病)村の人なのか!?」
「違います。私たちはハンセン病を経験した人たちが住む村の家屋を建て替えているんです。彼らの生活環境はひどいものです」。
私はこんなことを意味するだろうと思われる漢字を並べて書いてみた。住職はわかってくれたようだ。住職は村のことやワークキャンプのことについて筆談で尋ね、最後に書く、
「そうか。村人の幸福を祈る!何か手伝えることがあったら言ってくれ」。

古巷の町の人たち
キャンプ中の食事は当番制でキャンパー自身が料理する。食事当番には2人が1日交代で割り当てられる。2人は自転車で20分の山道を登り下りしながらクーシャン(古巷)の町まで買い出しに行く。帰りは雑貨屋で冷たいビールを飲みながら、山道を上がる英気を養う。村には冷蔵庫がないので、冷たいビールは買出しの時にしか飲めない。その雑貨屋のおばちゃんは、私たちがリンホウにいることをなぜか知っていた。
 クーシャンの市場の肉屋のオヤジも知っていて、タバコをくれ、周りの人にリンホウでのキャンプのことを話していた。このオヤジとは2002年11月キャンプ以来の顔見知りだ(相変わらず値下げ交渉には応じないが)。
 リンホウ医院の職員・蔡さんは、その一族を連れて村に来た。1〜2歳の男の子から15歳くらいの少年、60歳ほどのおじいちゃんまでが車2台で山奥のリンホウまでやって来た。リンホウ医院の近くでウナギの養殖をしているおばちゃんも村にやって来た。
リンホウ村とそこでのワークキャンプのことは、次第に潮州で知られ始めている。村を訪れる人も増えてきている。もっと人の往来を村に生み出せば、ハンセン病快復村・リンホウを巡る状況は変わるかも知れない。

テレビが来た
3月9日、潮州市の地元テレビがリンホウを取材しに来る。このテレビ局の人は師範学院外国語学部の邱学部長の友人なので、この取材が実現した。まずテレビカメラが向くのは、リンホウ医院の院長がFIWC関東委員会委員長の西尾雄志に旗を渡す場面だ。この旗にはこうある、
「送 友好国際労働営東京委員会(注、関東委員会のこと) 『無私奉献、品徳高尚』 潮安縣嶺後医院 贈」。
つづいてカメラは男のキャンパーが泊まっている部屋を撮影する。掃除しておくべきだった。
テレビ局の人は、村人、学生、キャンパーたちにテーブルを囲んで座らせる。そして言う、
「トーキング、トーキング!」
おしゃべりは命令されてするものではない。さらに、
「はい、次は村長のうちでトーキング!」
村長は緊張気味に私たちに語りかける、
「おまえさん方は中国語がうまいな。たいへんなキャンプ生活でも不満を言わないな」。
脈絡も何もあったものではない。
「はい、じゃあ、今度は歌って!」
亮輔のギターを中心に集合写真のように並んだでキャンパーと学生が歌い、対面で村人が聴いている場面がカメラに収められる。テレビはカンペイちゃん、院長、ナンシー、私にインタビューすると、帰っていく。
   *
この番組は実際に放送された。しかしその内容は、「日本からきた学生」のことが中心で、ハンセン病の医学的知識やリンホウ村の困難な状況についてはあまり触れていなかったという。この番組はどんな影響を社会に与えるだろうか。
村人との毎日 [2003年03月01日(土)]

・蔡玩銀(チョワ=ウィンウィン、♀)(62)、許若深(ンコウ=ジャクシン、♂)(70)
今回のワークキャンプでは水道を設置する。蛇口の個数と設置個所はどこがいいのだろうか。ジルとルーシーの協力で、村人全員にアンケートをとる。)結果、13個の蛇口を部屋の外につけることになった。そのアンケートでインイン(ウィンウィンのあだ名)の部屋に行ったとき。
「あんた、去年の11月、死にそうになってたインチンを見て泣いたろ」。
インインと若深さんがそう私をからかう。ルーシーは爆笑する。ジルはこの話をマークから聴いて知っていた。この話は結構有名なようだ。

・郭聯浩(グェ=リャンハウ、♂)(49)
井戸を奪う
リャンハウヒャン(郭聯浩さんのこと。「聯浩兄」の潮州語読み)はリンホウでいちばんの友達だ。普通語を話さず、字も書かないリャンハウヒャンとは微妙な潮州語とスキンシップで通じ合っている。
 リャンハウヒャンが井戸を愛し、単なるアルバイト以上の情熱をもって水くみをしていることは11月のキャンプ報告に書いた通りだ。今回のキャンプでは水道を設置し、そんなリャンハウヒャンから井戸を奪ってしまった。
 2月25日、水道が引かれた。井戸から電動ポンプでくみ上げた水を長屋Aの屋根にある金属製の貯水タンクまで引く。屋根からはホースが垂れている。まだ蛇口はついていない。
 キャンパーの料理用に溜めてある水が足りなくなったことに気づいたリャンハウヒャンは、天秤棒にバケツを提げ、水道の前を素通りし、井戸へ向かう。
 井戸には電動ポンプがついている。いつもバケツを置く場所には、水道管が伸びている。バケツを置くと立つ場所が十分にない。ポジショニングをしばらく試行錯誤し、リャンハウヒャンは1杯水をくむ。そして、「フフン」と無表情で笑うと、水を井戸に戻し、井戸を離れる。
 長屋Aに戻るとリャンハウヒャンは、貯水タンクから伸びるホースをバケツに突っ込み、水が満たされるの黙って見つめる。ホースの先から、水が勢いよく吹きだしている。
 その夕方、水道を設置した蔡さんが帰っていく。バイクのアイドリングの音を聞きつけたリャンハウヒャンは蔡さんに近づき、お礼を言った。
 *
翌26日7時前。リャンハウヒャンの水くみが始まる。歩けない村人が水道の恩恵を受けるには、長屋Bの完成を待たなければならない。リャンハウヒャンは水道をひねる。勢いよく水がバケツに流れ込む。彼はボソリと言う、
 「好(ハオ)」。
 リャンハウヒャンは蘇さん宅に水を担いでいく。蘇さんと話し込んでいた私は、2杯目をくみに行ったリャンハウヒャンを追う。天秤棒のバランスをとりながら坂道を下るリャンハウヒャンの姿を、朝日の逆光が薄黒くする。昨年11月と同じ絵だ。しかし、これまでと違い、リャンハウヒャンは井戸を素通りし、水道へと向かう。ポンプがつき、水道管が走る井戸を見、少し淋しくなった。

・劉友南(ルー=ユウラン、♂)(72)
知られざる劉さんの一面
村に来て20年という劉友南さん(68)は一風変わった村人だ。農歴上の祭日には、お札を燃やしながら祈る。彼の文章は複雑な修飾語が並ぶ。美に対する執念は凄まじく、菊の鉢植えを10個ほど古巷の町から運んだ。歩いて片道1時間の道を2往復したというから、合計4時間かかっている。
 そんな劉さんはチャーミングな一面を持っている。部屋の前に立て掛けてあった棒が倒れ、菊の花が首を落としてしまった時のことだ。劉さんは花を左腕に抱き取り、右手でそっと撫でながら、
 「アァァ、ヨシヨシ…」。
 これが悠子ちゃんに受けると、今度はわざとボールペンを落とし、
 「アァァ、ヨシヨシ…。痛くない、痛くない」。

・蘇文秀(ソウ=ブンシュウ、♂)(75)
蘇村長の甥
蘇文秀村長の机の上にはガラス板が張ってあり、その下には写真や新聞の切り抜きが並んでいる。その中に「蘇某」という見慣れない名前と電話番号がある。筆談で訊いてみよう、
 「これ誰ですか?」
 「あぁ、これは弟の子供だ」。
 「村に来ることはあるんですか」。
 「休暇中に来ることもある」。
 「何で一緒に住まないんですか」。
 「親族は別々に住んでるからな」。
 そう書いた蘇村長は、続いてボールペンを動かしていく。
 「HANDAの陳さんにあいさつを伝えてくれ、彼の健康と仕事がうまく進むことを祈ると」。
 以後、甥の話に触れることはなかった。

神経痛
 郭さんが水枕をもって蘇村長宅に入って行く。後を追うと、蘇村長がベッドに座り、右足をさすっている。
 「スゥーッッ!」
 聞いている方も痛くなりそうな声をあげ、蘇村長は太腿だけ残る右足を押さえて痛がる。郭さんは暖かい水枕を村長の右足に添え、心配そうに村長を見る。
 「痛い…!」
 村長は深く息を吐きながら右足の上に突っ伏し、のた打ち回る。
 1979年、蘇村長は右足を切断した。以来、時折このような痛みが彼を襲うという。
 そう教えてくれたカンペイちゃんは言う、
 「今晩、彼は眠れないな…」。

・蘇振権(ソウ=チンクァン、♂)(75)
ポークジャーキー
蘇さんのうちに真人と遊びに行き、米焼酎を飲ませてもらった。肴はポークジャーキー(ビーフジャーキーの豚肉版)。これが、うまい。口に入れた瞬間はマズイが、噛んでいくとホントにうまい。遠慮しつつも「ホーチャ、ホーチャ」(うまい、うまい)と食べていると、蘇さんは1袋持って行けと言う。貴重な蘇さんの肴を持って帰るわけにはいかない。しかし、いくら断ってもどうしてもと言われる。
 「両个、両个」(じゃあ、2コだけ頂きます)。
 「両个?好、好」(2コか?よし、わかった)。
 真人と私は、開いているポークジャーキーの袋から1枚ずつ出そうとする。と、蘇さんは隣の部屋のションリに何か大声を張り上げる。やって来たションリはポークジャーキーをもうひと袋もっている。
 結局、2袋もらうことになってしまった。教訓:「贈り物ははじめから素直に受け取ること」。
 
イチゴにソースを?
また、蘇さんと米焼酎を飲んだ。肴は焼豚、ゆで卵、イチゴ。このイチゴは、いつも卵や野菜をくれる村人たちや、ポークジャーキーをくれた蘇さんやションリへのお返しとして私たちが贈ったものだ。
 「甘くないからな」。
 そう言いながら蘇さんはイチゴにニンニク=ドレッシングをつけて食べる。あまり美味しそうにはしていない。味見するべきだった。贈り物、失敗だ。

潮州工夫茶道、潮州語講座
蘇さんがお茶に誘ってくれた。私に潮州式のお茶の入れ方―潮州工夫茶―を教えてくれるという。
 まず、小さい急須に茶葉を半分くらい入れていく。もういいかな?
 「ケッコウ、ケッコウ」。
 蘇さんに「結構だ」と言われたような気になって手を止めると、蘇さんは再び、
 「ケッコウ!ケッコウ!」。
 どうやら身振りから判断して潮州語の「ケッコウ」とは、当然のこととして「結構」ではなく、「もっと入れろ」という意味らしい。
 かなりの葉っぱを詰め込んだ。3分の2以上は入った。それでも蘇さんは、
 「ケッコウ、ケッコウ」。
 結局、フタがギリギリしまる位の量の茶葉を押し込んだ。もう、お湯は沸いたかな?ヤカンのフタを取ろうとすると、蘇さんは首を横に振り、
 「ブェ」(まだだ)。
 お湯を急須に注ぐと、すぐに蘇さんは2つのお猪口にそれをあけるように言う。この一番茶はお猪口を洗うのに使う。その間に急須にお湯を入れておく。
 30秒ほど経った。お茶を入れようとすると、
 「ブェ」(まだだ)。
 1分ほど置いてから、お茶を注ぐ。
 「チャッタェ!」(飲んでいいぞ)
 苦味のある潮州工夫茶。蘇さんは悠子ちゃんにもすすめるが、彼女は苦いこのお茶が苦手だ。「悠子喝白湯」と筆談すると、蘇さんは
 「クンチュイ?」(お湯?)
 と言い、コップにお湯を入れてくれた。
 蘇さんがあまりお茶を飲まないので言ってみた、
 「チャッタェ!」
 蘇さんはグッとお茶を飲み干して「請茶」と書き、
 「チアンタェ!」
 と発音してみせる。こちらの方が丁寧な表現なのかもしれない。
 他にもよく使う表現をいくつか教えてもらった;「ウー」(ある)、「アヤマイ」(いるか、いらないか)、「ルーホウ」(こんにちは)。

多すぎる贈り物の断り方
お茶も一段落つき、さて帰るかというとき。蘇さんは部屋の奥の方で何かゴソゴソやってる。見に行くと、卵を袋に入れていた。次々と入れていく。10コ以上ある。まだまだ入れる。
 村人にとって卵は貴重なタンパク源だ。その上、キャンパーは卵を町で十分に買ってきたので、もらっても腐らせてしまうかもしれない。どうしても断らなくてはならない。師範学院の学院の学生によると、言葉が通じない分、村人は贈り物で感謝を表現しようとするそうだ。その気持ちは受け取らなければならない。しかし、村人の食生活を圧迫するような事態は避けなければならない。しかし、まったく受け取らないわけにもいかない。私は、ポークジャーキーの二の舞を演じないよう、筆談で誤解のないように卵の量を減らしてもらうように頼んだ。
 「今キャンパーは6名なので、6コだけでいいです。たくさん頂いても腐らせてしまうかもしれません」。
 蘇さんは納得してくれた。
師範学院によるリンホウ支援 [2003年02月26日(水)]

リンホウでカルチャーショックを受けた韓山師範学院の学生たちは、本格的にリンホウの支援に乗り出そうとしている。その準備は着々と進んでいる。キャンプ中のフリーデーには大学を訪れ、「外青隊」(「外語系青年志願者服務隊」という英語をボランティアで教えるサークル)に属する学生にリンホウ村やワークキャンプについて話し、村でのパーティーに誘った。パーティーには16人の学生が訪れ、3グループに分かれて村人を訪問した。
キャンプ終盤には、リンホウ支援に積極的な4人の学生と集まり、村での活動の方向について考えた。その夕方には外国語学部の学部長を交えた会議をもち、学部長の協力を得たリンホウ支援活動ができることになった。

フリーデー=ミーティング@「外青隊」
今日は2月26日、フリーデーだ。韓山師範学院に行き、リンホウ村とワークキャンプの話をする。英語をボランティアで教える団体「外青隊」とのちょっとしたミーティングだ。
11時ごろ大学につき、とりあえず昼ご飯を食べる。
「ビール、飲もっか…!」
私たちは気持ちよく酔う。ローリーが一気飲みを始める。ちょっと飲みすぎたか。
「そろそろ、ミーティングをする教室に行こうか」。
マークに言われ、彼の後についていく。
階段を上がり、廊下を歩いていくと、たくさん学生がいる教室がある。
(ここじゃないべ…)。
「ここだよ」。
マークは言う。「外青隊」の学生は40人はいるか。…ここまできたらやるしかない。幸か不幸か酒が入っている。ジルとレオも助けてくれるだろう。
私がしゃべったのは、ワークキャンプ、ハンセン病、リンホウ村の状況について、またワークキャンプに参加した動機、初めてハンセン病経験者と会ったときの驚き(FIWC関西委員会主催2002年2月ヤンカン村ワークキャンプ報告参照)、またキャンプ中に村で生活するうち村人と仲良くなっていく過程についてだ。ジルとレオの助けで、私の言いたいことは何とか学生たちに伝わった。他のキャンパーは1人ずつ自己紹介とキャンプでの感想を語る。最後に、3月2日のパーティーに「外青隊」のメンバーを誘った。

パーティー@リンホウ村
3月1日、パーティーの前日。亮輔と私はパーティーの段取りをする。
「学生たちは朝9時に来るはずだから、リンホウ医院で学生たちを向かえて、まずそこでハンセン病について説明しよう。隔離のことや、はじめてハンセン病経験者に会ったときの驚き、村の状況なんかを話そう。そうすれば学生たちは心の準備ができて、みんなの村訪問が効果的になるよ」。
「そして、歩きながらワークキャンプでつくったものを説明して、村に着くと同時に、今回のワーク・長屋Bの建て替えの現場を見る」。
「そのあと、学生たちをいくつかのグループに分けて村人を訪問しよう」。
しかし。2日のパーティー当日、学生たちは8時ごろ、いきなり村に現れる。亮輔と私は混乱する。料理をつくる他のキャンパーたちはあわてる。結局、ハンセン病やワークキャンプについての説明は、村ですることになってしまった。
段取り通りには進まないが、それでも、みんなよく聴いてくれる。村人訪問もうまく行く。彼らの反応・感想をここで紹介したい。

・ピーター
ピーターは驚いた。老朽化した家、擦りきれた服、薪を使っての料理、電話がないこと―。
 「今は21世紀だぜ!?」
 そう語るピーターは、それでもハンセン病を恐れないと言う。
 「ハンセン病についての正確な知識がおれにはあるからね」。

・ジョアン
中国美人系のジョアンは、正直な気持ちを伝えてくれた。
 「私は始め、村に行くことをバカにしていたの。テレビでハンセン病のことを少しだけ知っていたから、興味本位で村に来てみたのよ」。
 しかし、そんな彼女にも村人はとても親切にしてくれる。特に日本のキャンパーと村人が仲良くしている姿を見て、ジョアンは「自分に欠けているものに気づいた」と語る。
 「先生になったら生徒たちに教えたいの、どのようにしたら人に気遣いを示すことができるのかを」。

・チーホン
村長が入れてくれたお茶を飲みながら、チーホンは方さんと大げさな身振りで話す。笑いが絶えない。
 ところが、後遺症が重い村人のところにいくと、黙ってしまう。歩けない許さんや蘇さんの部屋に行くと、彼らの部屋をグルリと見まわす。身体が不自由で掃除が出来ない彼らの部屋は荒れている。チーホンの声から張りが消えた。
 「中国は経済成長を重視していて、福祉は忘れられている。アジア人は年取った人を大切にするはずなのに…」。

・ナンシー
村人訪問の後は昼食パーティーを開く。村人は出席を頑なに拒んだので、中国の学生と日本のキャンパーとで昼ご飯を食べる。このパーティーの場でナンシーは言う、
 「村人のために何ができるの?!ガスを買おうか。洗濯機を買おうか。薬は足りてるの?卒業生の蚊帳と布団を寄付しようか?」
 何がっていきなり言われても…。ガスは維持管理にお金がかかる。洗濯機は高すぎるだろう。薬は一応リンホウ医院が出している。私は、また次の機会に話そうとごまかす。
 「いつ!?」
 ナンシーは眉間にシワを寄せて私に詰め寄る。3月7日に話し合いを持つことにした。

ミーティング@台湾レストラン
3月7日、師範学院の学生代表のナンシーが外国語学部の邱学部長とのミーティングを準備してくれた。その前に、リンホウ支援に積極的な4人の中枢メンバー―マーク、ジル、ラッキー、ローリー―と活動の方向性を打ち合わせておく。
 ジルは言う、
 「学部長が特に村に関心があるみたい。彼は月に1回村を支援する計画を立ててるよ。活動の定期性を確保するためにも、村を支援する新団体を立ち上げたいの。ただ、設立するには学部長の許可が要るの。大学が絡むと、村での活動中の事故に対する責任を誰がとるかとか難しい問題が出てくると思う…」。
 きた、きた。リンホウの支援団体を立ち上げるという学生がついに現れた。ただ中国ではサークル1つ創るにも大変な手続きが必要らしい。学部長の協力が欠かせない。
活動の内容はどうしようと考えているのか。
 「基本的なことは村人と話し合って決めよう。ボクがやりたいのは新聞を寄付することや、潮州オペラを村でやるとか、読み書きを教えるとかだな。村人に生きがいを持ってもらいたいんだ」。
 マークはそう言う。
彼ら4人は、リンホウ村のこと、ハンセン病のことを社会に知らせる必要性を感じている。パンフレットを作成し、大学の新聞や学内放送でリンホウ村のことをみんなに知ってもらうようにする。その後で村での活動内容をさらにつめることにした。
 活動資金についてはどうか。
 「大学に資金を出してもらえないかな。企業訪問して寄付をもらうのもいいね」。
 他にも、師範学院以外の大学との連携についても話し合う。
 「窯業学校や農業学校がリンホウの近くにある。師範学院の分校もあるから、彼らをこの活動に巻き込みたいね」。
   *
ところで、何でこの活動に4人は入れ込みだしたのだろうか。ローリーは言う、
「助けを必要としている人たちがいる。おれは学生だから時間があるし、何かをしたいと思ってる」。
次にマークがくれた手紙の内容とほぼ同じことを話す。それを受けてラッキーは言う、
「高い山の頂上に立って叫べば、こだまするじゃん。去年の11月キャンプに参加したマークの声に答えたのがおれなんだ。こういった(リンホウ支援のような)動きは大好きなんだ。ところでリョータは何でこの活動をしてるの」。
「おれは昔いじめられたことがあるんだ。だから差別を憎んでるだよね。でも、同時に『おれは差別しないのか』っていう疑問があった。そんなこともあって2002年2月、ヤンカン村っていうハンセン病快復村でのワークキャンプに参加してみたんだ。
やっぱり、おれは差別した。ハンセン病の後遺症に驚いて、握手できなかったんだ。でも、村で生活するうち、だんだん村人と仲良くなった。差別心は、ある程度の時間をいっしょに過ごせば減ると思う。ワークキャンプではいろんな人と出会って、自分の考え方や感じ方が変わる。だから好きなんだ。
あとね、そのヤンカン村に1人のおばあちゃんがいて、彼女がすごくいい顔で笑うんだ。彼女はハンセン病を病み、社会や家族から差別され、村で何十年も暮らしている。そんな彼女が何であの笑顔で笑えるのか。その謎を解きたいんだ。亮輔は?」。
「おれは高校時代、世界に失望してた。絶望ばかりで希望がなく、悪いニュースであふれている。そんなとき、文化祭実行委員会の委員長をやった。それが大成功したんだ。そのとき思った、もしかしたらおれのリーダーシップで世界を変えられるかもしれない。そしてアメリカに留学した。でも、そこでおれはアメリカの資本主義に失望したんだ。今は下から活動して世界を変えていきたいと思ってる。だからこの活動をしてるんだ」。
 ジルは語る、
「私は10代のころから人生の意味を探してる。1人では何もできない。お金は幸福をもたらさない。答えが見つからなかった。そんなとき、初めて村に行き、村人と出会ったの。村を去るとき、何かを感じたんだ。満足感…じゃないな、まだわからないけど、この気持ちが私にこの活動をさせてる」。
このおしゃべりをすべてここに書くことはできない。この時間を共有し、私たちは強くつながった。妙な一体感が6人に生まれる。台湾レストランで私たちは手を合わせ、支援団体設立を誓い、学部長との会議へと向かった。
ちょっとクサイけど、事実です。

ミーティング@師範学院職員室
16時半、師範学院の職員室で邱学部長、学生、キャンパーがミーティングを開く。
中平さんの話で会議を始める、
「ハンセン病快復者を支援する国際NGOの『IDEA』の日本支部のコーディネーター・森元美代治さんには昨年からワークキャンプに参加するよう誘われていました。今回参加してみましたが、優しい学生を見たのは初めてです。本や森元さんの話で聴いてはいましたが、実際に出会うことができて嬉しく思います。
ハンセン病は消滅しつつありますが、後遺症の問題は残ります。私は看護士の資格を活かして活動したいと思います。
リンホウ村には、眼の見えない人、指・足がない人、ケガがあるまま歩いている人がいます。傷の手当てがうまくいっておらず、いつまでも治りません。そのことを、村人は理解していないようです。彼らを支援するマンパワーの必要性を認識しました。私たちが何をできるのかを、みんなで、この場で考えていきましょう」。
学部長は言う、
「みなさんは遠路はるばる中国まで来てくださった。この活動に協力するのは私たちの義務です」。
このミーティングでは、以下のことが決まった;
(1) 高度な医療設備のある病院に村人が通院・入院できるシステムをつくること
(2) 活動の定期性を確保するため、師範学院内にリンホウ村支援団体を設立すること
(3) 活動資金は、師範学院の学生や企業からの寄付で賄うこと
(4) この活動のPRに力を入れ、多くの学生が参加できるようにすること
 学部長は言う、
「この活動はとても意義深い。協力していきますよ」。
ただこの活動を成功させるためには、リンホウ医院の院長の協力が欠かせない。これまで私は、村人の生活・医療環境の改善に興味をもっていないように見えたリンホウ医院に批判的だった。しかし、敵をつくっても仕方がない。医院を協賛者としてこの活動に取り込もう。この活動が大きくなればなるほど、社会はリンホウ村に注目する。社会の関心を引けば引くほど、協賛者としてのリンホウ医院は村人の生活・医療改善を考えざるを得なくなるだろう。
「じゃあ、今から院長に電話して協力をお願いしましょう」。
学部長はその場で院長に電話する。
   *
話がまとまると、もう18時半を過ぎていた。6階の職員室を出ると、そこには潮州の街の夜景が広がる。日が落ちた空の向こうは灰水色から夕日色にグラデーションしている。韓江沿いの城壁は電球色にライトアップされ、それがかすかに河面に映る。階段を下りていくみんなの声を聞きながら、ひとり、夜景に見入る。
村人との毎日 [2003年02月26日(水)]

この2月のキャンプでは、前回のキャンプでは考えられなかったことが村人との間で起こった。あのシャイな曽さんと焼酎を飲み、陸さんが奥さんを連れて村に来、目の見えないインチンと飲茶タバコができた。
 新たな事実の発見もあった。金歯のカンペイちゃんや孫シュウシュウは旧正月には帰省すること、右足を切断した蘇村長は激しい神経痛のために眠れない夜があること、インチンは自分を社会と家族のお荷物だと考えていること―。
 「自腹で行く『うるるん滞在記』(TBS系)」。
 吉田亮輔はワークキャンプをこう評する。キャンプ中は村人との濃い時間を過ごす。が、時間は限られている。亮輔は、村人のために何ができるのか分からなくなった。そのとき、ふと気づいたそうだ、
 「自分のためにいろいろな経験をしないと」。
 キャンパーはリンホウに家を建てる。それでも、「村人に与えてばかりではない」。ワークキャンプでは、自分の価値観が覆されるような出会いがある。村人はキャンパーの「先生になる」こともある。
初参加のキャンパーは新たな出会いを見つける。2度目、3度目のリンホウとなるキャンパーは、村人との関係が一歩進んだことを感じる。そんな村人との毎日をのぞいて見よう。

リンホウの人々
・孫鑾盛(ソン=ルンセン、♂)(58)
村人の帰省
カンペイちゃん(方紹平さんのあだ名。間寛平に似ていることからついた)の姿がない。部屋にはカギがかかっている。2月20日、村に着いて早々キャンパーの間に不安が走る。カンペイちゃんは昨年11月、体調を崩していた。もしや…。
 翌21日、カンペイちゃんは金歯を見せながら自転車で帰ってきた。カンペイちゃんは帰省していたという。今日は、金ボタンが光る深緑のジャケットに黒の渋いハットを合わせている。
 「妹が上海で買ってきてくれたんだ。潮州ではきっと買えないぞ」。
 そうダミ声で笑う。
 *
 その夕方。
 見知らぬ少年が運転するバイクとリンホウ医院の前ですれ違う。
 「あ、シュウシュウが後ろに乗ってた!」
 バイクは町の方へ走り去った。村人に訊いてみると、あの少年は孫シュウシュウの親戚だという。シュウシュウも2月21〜25日、帰省した。
 村人が帰省できるとは知らなかった。中国では1月の終わりから旧正月になる。この時期には帰省することもあるそうだ。しかし、カンペイちゃんにせよ、シュウシュウにせよ、外見上の後遺症がない。後遺症が重い村人は帰省しないようだ。
 25日、村に戻ってきたシュウシュウは、自室で独り夕飯を食べている。高さ10センチ程の椅子にしゃがむように腰掛け、ゴハンを箸で口に押し込むように食べる。背中を丸めて座るシュウシュウを裸電球がぼんやりと照らしている。

・方紹平(ファン=シャオペン、♂)(69)
カンペイちゃん、大丈夫かな…
キャンパーは毎晩、リンホウ医院でワークの汗を洗い流す。医院までは帰省中のシュウシュウに代わってカンペイちゃんが送ってくれる。キャンパーがシャワーを浴びる間は、医院の会議室でテレビを見ながら順番待ちのキャンパーや医院の職員と時間をつぶして待っていてくれる。
 キャンパー6名全員がシャワーを浴び終わるまでには1時間以上かかる。カンペイちゃんはお疲れの様子だ。
 「肩、もみましょうか?」
 強くもんだら肩がこわれそう。骨に皮がかぶっているだけのような感じだ。次は首のマッサージ。左手で額を押さえて右手で首の後ろをもむ。首が取れそうに細い。
 *
 カンペイちゃんは昨年11月に比べて目が見えなくなってきている。
 「ハンセン病の療養中に漢字を覚えたんだ」。
 そう金歯を見せるカンペイちゃんは昨年、5ミリ程の字をビッチリ書き込んだ手紙をくれた。今回の文字は二周りほど大きい。筆談のときも紙の端を越えて書き続けても気づかない。ボールペンを持つ手は小刻みに震えている。
 カンペイちゃんは新聞を読むのが好きだ。鼻が紙面につくほど目を近づけて熟読している姿をよく見かける。11月キャンプの報告書を渡した夜も、薄暗い電灯の下、日本語の漢字を拾い読みしていた。
彼の視力はいつまで持つのだろうか。

カンペイちゃんの気遣い
カンペイちゃんに謝りたいことがある。
 「カオリンに宛てた手紙を盗み読みしてしまってごめんなさい」。
 3月8日0時ごろ。カンペイちゃんの部屋(長屋A)の電気がついている。こんなに遅くまで何してるんだろう。窓から部屋をのぞいて見ると、蚊帳が張ってあるベッドの脇に、乱雑にサンダルが転がっている。このごろ体調を崩しているので、電気も消さずにベッドに転がり込んだのかもしれない。
 ふと、窓際にある机の上を見ると、書きかけの手紙がある。いけないと思いながらも読んでしまった。こうある。
 「香織様 余っている毛布が1枚あります。薄い毛布ですが、必要ですか。寒い」
 手紙はここで終わっている。



・陸裕城(リッ=ジュシアン、♂)
ハンセン病が治ったら
 村人の陸さんが女のヒトを連れて村にやって来た。3月8日のことだ。
 「奥さん??」
 陸さんの肩に腕を回して耳元でそうささやくと、陸さんは満面の笑みで、
 「そうだ」。 
 ハンセン病が治ったあと結婚したという陸さんは、村の内外に家を持っている。ときどき村に来て、畑の世話をしている。奥さんと一緒にオレンジに農薬をまく陸さんは笑顔だ。
 ハンセン病が治った人がリンホウ村を出た例は他にもある。取り壊す前の長屋Bの倉庫から小指くらいの木片が3枚でてきた。何かの名札のようだ。蘇村長とカンペイちゃんにこの人たちについて訊いてみた。2名は亡くなっていた。しかし、1名はまだ生きているという。その人は15歳のとき父親と共に村に来て、治癒後に村を出た。現在、彼は55歳、父親は75歳だという。
 では、なぜ13名の村人は治癒後も家に帰れないのか。医院の職員・チュウウェイに訊いてみた。
 「村人の家族は、政府が村人を養うことを望んでいるんだ。村人は働けないからな」。

・許炳遂(ンコウ=べンシュイ、♂)(71)
ションチー
「ションチー」は、西尾「雄志」FIWC関東委員会委員長の中国語読みだ。許さんは西尾さんのことだけ何故か名前で呼ぶ。
 「ションチー、ライ!チャ!」(雄志、来い!茶飲め!)
 張りのある声で許さんがションチーにお茶をすすめる。
 許さんとションチーはどうやら両想いらしい。西尾さんがリンホウで撮った写真(36枚)を帰国後に見ると、許さん絡みの写真が13枚あった。
 「なんで許さんはションチーのことがそんなに好きなんですか?」
 許さんに訊ねてみる。すると許さんは2002年の日めくりカレンダーを持ってきて、9月12日のページを開く。そこには「西尾雄志」の文字が。この9月12日は、FIWC関東委員会の4名―中村博志、西尾雄志、茂木亮、原田僚太郎―がリンホウの状況を下見した日だ。その時、自己紹介を兼ねて私たちは日めくりカレンダーに名前を残した。許さんは、今回のキャンプ中に村に来た師範学院の学生にもこのカレンダーを見せていた。


肉の腐ったようなニオイが広がる。足の裏のほぼ全体がビチャビチャ。骨が見えている。周りにはボツボツがある。
 許さんが左足に巻いている緑色のパンツをほどいたのを見て、中平さんは驚いた。村人が包帯を取り替えるのを元看護士の中平さんが手伝ったときのことだ。
 許さんは他にも傷が多い。右手の人差し指と中指の付け根の間に深さ1〜2ミリのヒビ。左手の人差し指の第3関節には1円玉大のヤケド。歩けないためにいつも地面に触れている左ひざの外側には擦り傷。右手の薬指には絆創膏。
 「別に痛くはないんだ」。
 お茶を入れ終えた許さんはそう言いながら、フタが開いている小さなヤカンの中に手を突っ込んでそれをつかむと、ひっくり返して熱湯を捨てる。
 「あー!!」
 と私が叫んだ時はすでに遅い。許さんは平然とし、熱湯を浴びたその手にタバコをもち、火をつける。
 ハンセン病の治療が遅れた場合、治癒後も知覚麻痺が残る。痛みも感じないため、傷をつくりやすく、また治りにくい。
 中平さんが蘇さんの両手に包帯を巻く手伝いをした時のことだ。
 「包帯を汚さないように注意してください。でないと包帯がバイキンの巣窟になりますよ」。
 私が筆談で蘇さんにこう注意を促すと、足が不自由な蘇さんは身振りを交えて言う、
 「そんなこと言われたって、手を地面について移動するんだから汚れるさ」。
 もっともだ。現在のリンzウでは、村人は傷の治療に専念することができない。たとえ足が不自由で歩けないとしても、基本的には1人で生きていかなくてはならない。麻痺した部分がある手で薪を割り、火を起こし、包丁を使い、料理する。切り傷、擦り傷、ヤケドを負う要素があふれている。

・許松立(ンコウ=ションリ、♂)(67)
不思議な靴下
(…ションリの靴下、変わった色だなぁ)。
 後ろ姿のションリ。そのズボンの裾からのぞいている靴下は、灰色地に赤い線が所々に入っている。変わった模様だ。
 (…皮膚だ!)
 ションリの足首の皮膚は灰色になっており、それがヒビ割れてアカギレのようになっている。左足首はピンク色にえぐれている。そういえばションリさんは前回のキャンプよりも歩き方がぎこちない。彼も歩けなくなるのだろうか。

・曽繁余(チャン=フアンガー、♂)(66)
「乾!」
村でのパーティーに来た師範学院の学生16名が帰って行った。リンホウ医院まで見送りに行った真人、カオリン、私は少し淋しさを感じながら村までの道を歩く。
 小高い所にある曽さんの家の前を過ぎようとした時だ。
 「来(ライ)!」(来い!)
 とテンションの高い曽さんの声がする。ふだんシャイな曽さんは、飲むと積極的になる。
 曽さんは焼酎と塩辛い卵焼き、キャベツ炒め、ナシを出してくれた。
 「乾(カン)!」(乾杯!)
 グラスを合わせて焼酎を飲む。
 「このキャベツは古巷の町で買ったんですか?」
 「いや、もらったんだ。乾!」
 グラスを鳴らして焼酎をチビリ。強烈な酒だ。
 「お前さん方はおれに気遣いを示してくれるんだな。乾!でもな、おれはお前さん方に気遣いは示さんぞ。乾!だがな、誰も他におれに気遣いを示さないから、感謝するぞ。乾!」
 曽さんはしゃべりまくり、自分が飲むたびに乾杯する。彼のペースで飲むとグビグビ飲むことになる。
 「ホラ、卵焼き食え。乾!」
 このしょっぱさが焼酎によく合う。
 「曽さんは何歳ですか?」
 「66だ」。
 「ボクは25歳です」。
 「アー!乾!」
 酒盛りは延々と続く。
 この日以来、曽さんはシラフでも話しかけてくれるようになった。寒くないか、蚊に食われたのかとキャンパーを気遣ってくれる。タバコを配るかのようにくれる量も増えた。すぐに自分のがなくなってしまう程だ。

・蔡玩卿(チョワ=ウィンケン、♀)(70)
「お荷物」
インチン(ウィンケンのあだ名)が泣いている。ジルに肩をさすられながら涙を流す。
 「日本と中国の学生たちに感動してインチンは泣いていたのよ」。
 後にジルが涙の理由を話してくれた。
「社会と家族のお荷物」。
インチンは自分をそうみなしてきた。ところが、今では学生が村人たちを気遣ってくれる。彼女にとって驚きだった。
 「他人が自分に対して親切にしてくれるなんて期待していなかった」。
 そう語るインチンは、感極まって泣いてしまった。
 ただ、インチンには新たな不安がある。今度は、自分たちが「学生のお荷物」にならないかを心配しているという。涙が出たのはそのためでもあった。
 「お荷物」。
インチンのこの言葉の裏には、村人は「受ける側」であり、学生たちが「与える側」であるという考え方が見える。私はそうは思わない。インチンの涙が教えてくれること、郭さんの水くみから見えてくること、カンペイちゃんの笑顔が教えてくれること。村人と私たちの関係に、「一方的に受ける側」は存在しない。そもそも、祖母や祖父の家を訪ねるようなものなのだから。
ワーク [2003年02月22日(土)]

長屋建て替え、水道設置
今回のワークキャンプでは、長屋Bを建て替え、水道を設置した。不規則な天候―曇、雨、夏日、朝晩の冷え込み―だったが、無事に建設を終えることができた。総建設費は2万7400元(約41万1000円)だった(カンパをしていただいた方々には心からお礼を申し上げます。ありがとうございました)。

リンホウとの出会い―リンホウ村キャンプの始まり
FIWC関東委員会は2002年7月、中国のハンセン病療養所・リンホウ村の写真を見た。悲惨なものだった。この写真は、中国のハンセン病経験者を支援するNGO・広東省漢達康福協会(HANDA)が日本のある財団に送ってきたものだ。その財団の紹介によってFIWC関東はHANDAと接触をとり、ここでワークキャンプを開催することに決めた。

同年9月にはリンホウの状況を下見し、HANDAといっしょにリンホウの生活環境を改善する案を練った。その結果、老朽化した長屋Bを建て替え、村人13名全員が1ヶ所に集まって住むことができる「コ」の字型の長屋をつくり、そこに集会所と共同台所、倉庫、水道、トイレを設置することにした。長屋Bの対面に立つ長屋Aは安全なので、そのまま利用する。
 この計画に従い、2002年11月にはトイレを、今回の2003年2月には長屋(倉庫を含む)と水道をつくった。8月には集会所あるいは共同台所を建設する予定だ。

ワーク変更
村人を気遣う黄紹傑リンホウ医院長
当初、今回のキャンプでは集会所を建設する予定で、中国に発つ前から棟梁(建設業者の社長・蘇壮祥)との交渉を進めてきた。キャンプ2日目の2月21日には、リンホウの地元の大学・潮州韓山師範学院の学生のマークとジルの通訳で棟梁と話し合い、午後には集会所建設の契約を交わすことになった。
 が。リンホウ医院の黄院長が午後、契約を交わす前に村にやって来た。彼は長屋Bを建て替えて6部屋(村人の個室5部屋と倉庫)をつくることを強く主張する。というのも、リンホウは4月から雨季に入り、屋根に穴があいている村人の家は雨漏りが激しいからだ。

大幅値下げ
黄院長の言うことはもっともだ。しかし建設費用はどうなるのか。長屋Aの1部屋の2.5〜3倍ある集会所の建設費は2万3000元(約34万5000円)だ。長屋Bを建て替えて長屋Aの1部屋と同じ大きさの部屋を6つ造るとなると、建設費は2倍程度になるのではないか。
 値下げしてくれた。2万5500元(約38万2500円)で6部屋をつくることができるという。さらに黄院長は、水道も今回のキャンプで設置しようと提案する。その費用は2900元(約4万3500円)で、そのうちの1000元(約1万5000円)を医院が持ち、FIWC関東委員会は1900元(約2万8500円)出せばよいという。こうして2月キャンプでのワークは、長屋Bの建て替えと水道設置(各部屋の外側に1つずつ設置)に決まった。その費用は、合計で2万7400元(約41万1000円)だ。

リンホウ医院の変化?
2002年11月の時点で棟梁は、トイレを除いたすべての建設(長屋Bの建て替え、集会所、台所、倉庫、水道)に10万元(約150万円)かかると言っていた。それが今や、長屋Bの建て替え(倉庫を含む)と集会所の建設にかかる費用は、合計で5万400元(約75万6000円)だと言う。台所の建設費が含まれていないとはいえ、大幅な値下げだ。建設業者を紹介したリンホウ医院がリベートを減らしたのだろうか。リンホウ村に対する医院の意識が変わってきたのかも知れない。

「村人の生活を改善したい」(黄楚偉)。
黄楚偉(ファン=チュウウェイ)(25)はリンホウ医院でいちばん若い職員だ。チュウウェイは、11月キャンプの後、死にそうになっていたインチンを見舞った。医者も連れて行ったという。今回のキャンプ中にも真人とカオリンは、インチンを訪ねるチュウエイを目撃している。さらに、インチンさんが傷のある両足に包帯を巻く手伝いを中平さんがしていると、どこから聞きつけたのかチュウウェイがやってきて、中平さんに丁寧に「謝謝」と言う。
 そんなチュウウェイに、村人のことをどう思うのか訊ねてみた。
「ホントに、村人の生活を改善したいと思ってる」。

ワーク開始:長屋Bの破壊
2月21日の夕方、廃屋となっている長屋Bは壊されることになった。パワーショベルが山道を上る音が聞えてくる。
 みんなが見守る中、パワーショベルがその爪を長屋Bの屋根に振り下ろす。鉄筋はおろかレンガさえも入っていない壁は、音を立てて簡単に崩れる。物凄い土煙が上がり、傾いた陽射しに照らされる。
 煙りの向こうを遠巻きに見つめる村人たち。郭さんは独りヒザを抱いて座り、崩れゆく長屋Bを見ている。曽さんはタバコを持ったまま口を開け、長屋Bを眺める。長屋Bを臨む高台からは、若深さんが眉間にシワを寄せて破壊を凝視している。
 村人は何を思っているのだろう。長屋Bができたばかりの20数年前、リンホウの人々はどのような生活を送っていたのだろうか。ついさっき、長屋Bの倉庫から園内で通用していた食券が出てきた。当時リンホウには食堂があり、この券を使って食事をとったという。
 長屋Bの最後の1枚の壁が倒された。隔離時代の遺物である廃屋は瓦礫の山と化した。これからは、学生たちが村で活動する新しい時代がやってくる。

建設業者との契約
第1回キャンプと同様、今回のキャンプの建設も、中国の建設業者を雇ってその手伝いをするという形で進める。
 2月22日14時過ぎ、業者と契約を結ぶ。この交渉にはリンホウの地元の大学・潮州韓山師範学院の学生のジル、レオ、ダンシー、ピーターが当たってくれる。
 (ケンカしてるのか?)
そう思うほどの大声でダンシーは棟梁と交渉している。レオによると基礎の深さやレンガの強度に問題があるという。契約を結ぶに当たり、学生たちは業者に7つの確認事項を呈示した。
(1) レンガの長さは18センチ。
(2) 基礎の幅は50センチ、深さは30センチ。
(3) 梁の太さは最低9〜11センチ。
(4) 各部屋に窓(80×100センチ)2つとドア(80×200)をつける。
(5) セメント製の床の厚さは5センチで、床下には石と砂を敷く。
(6) 内壁の補強(セメントの3度塗り)は床から15センチ、外壁の補強は40センチ。
(7) 地面から屋根までの高さは320センチ。

ワーク、キャンパー、中国の学生
今回の長屋の工事は規模が大きい上にキャンプ中に長屋を完成させようとしたので、大勢の労働者が村を訪れた。前回のような小規模なトイレ建設と勝手が違ったために業者の仕事を手伝いにくかったが、真人を中心にキャンパーは重要な役割を担った。
 今回、村人はワークにほとんど絡まなかったが、前回のトイレ建設のときに友達になった棟梁やメキシコ(蘇錫栄)とよくおしゃべりしていた。
 潮州市の大学・師範学院の学生が村にやって来たときは、村人訪問が中心となり、あまりワークには参加できなかった。ただ、やるときはやる。夏日に村に来たローリーはきちんと着替えをもってきており、やる気満万だ。基礎を掘っているジルに、真人が言う、
「ジーンズ、汚れてるよ」。
「汚れても構わないわ」。

ワーク工程
「基礎掘り→セメント流し込み→レンガ積み→窓枠・ドア枠→屋根→瓦葺→壁塗り→完成」の工程を示す写真を載せ、それに適当(「テキトー」ではない)にキャンプションをつけてください。真人・亮輔と相談するとか…。

ワーク評価
廃屋は、キレイな瓦ぶきの6部屋に変わった。しかし、大きな問題点がある。ジルからのメールによると、新生長屋Bへの入居希望者が2月26日現在で2名しかいないのだ。もともと長屋Aを寝室に使っていた蘇村長、孫シュウシュウ、カンペイちゃん(方紹平)、劉さん、陸さんと合わせて7名だけが「コ」の字型の長屋に住むことになる。長屋Bの人気の低さの原因は…。

(1)暑さ
許炳遂さんは言う、
 「新しくできた長屋は暑いんじゃないのか?」
 長屋Bは西向きで、夏の西日を直に受けるのではと許さんは心配している。確かに許さんがいま住んでいる長屋は東向きで、しかも大きな木の木陰にあり、涼しい。
 師範学院の学生といっしょに許さんを説得しようとした。
 「冬は暖かいと思いますよ」。
 「夏はスダレをつけましょうか」。
 「寄付を集めて扇風機を買いますよ」。
 最終的に許さんは、多くの村人が新しい長屋に引っ越したら自分も移ると言う。
 「その方がにぎやかだからな」。

(2)狭さ
新長屋Bの屋根が完成したころ、ションリ(許松立)が細長い竹を持って長屋Bの1室に入って行くのを見かけた。中でションリは眉間にシワを寄せて部屋の広さを測っている。
 「ハ、ハオマ?(だ、大丈夫ですよね?)」
 「プーハオ(だめだ)」。
 私の中国語力ではここまでしか理解できない。その後もションリは身振りを交えて言葉を続ける。どうやら「この部屋は狭い」と言っているようだ。
 こんなこともあろうかと、前回の11月キャンプの時、マークとジルの通訳で長屋Bについてのアンケートをとったのに…。あの時はこの広さでいいって言っていたのに…。

(3)台所がないこと
めずらしい。ふだん冷静な若深さんが興奮して蘇村長に何か訴えている。両手を前に突き出して大声で怒鳴っている。潮州語はおろか中国語さえ聴き取れない私は、そのやりとりを茫然と眺めるしかない。
 一段落ついた。若深さんが怒っている理由を蘇村長に筆談で訊ねる。
 「若深はガスが必要だと言っているんだ。薪で料理すると部屋中がススで黒くなるからな」。
 現在、各村人は複数の部屋を持ち、薪で料理する部屋と寝る場所を分けて使っている。ところが新居ではひとり1部屋しかない。ガスが使えればいいのだが、それには維持費がかかる。やはり共同台所も必要なのか。今後の検討課題だ。

(4)キャンパーが宿泊する部屋がなくなること
「私が新しい部屋を取っちゃったら、8月のキャンプでお前さん方はどこに寝るんだい?」
 インチンは自分が引っ越さない理由をこう語る。インチンはそこまで私たちのことを想ってくれている。しかし、これでは長屋を建設した意味がない。長屋Bを建て替えたのは、私たちがキャンプするためではない。村人が安全な部屋に住んでもらうためだ。インチンと仲良しのジルに話し合ってもらおう。
リンホウの人々のくらし [2003年02月21日(金)]

身体が不自由な村人たち
リンホウ村とそこから歩いて10分ほどにあるリンホウ医院は、1960年に設立されたハンセン病の隔離施設だ。設立当初、300名もの人々が隔離された。現在は村人13名が広大な敷地に散らばって住んでいる。全員のハンセン病が治癒しているが、平均年齢は60歳以上で後遺症が重い―8名の手が不自由で、4名が歩けず、1名は右足を切断し、1名は目が見えない。目立つハンセン病の後遺症がない村人は3名だけだ。

リンホウの生活環境
村の家々は築20年以上の木造住宅(長屋Aだけ比較的新しいレンガづくり)といわれ、シロアリの被害のために老朽化している。もっとも危険な部屋の四隅には平均5センチ、最大7センチのヒビが入っている。
 県の衛生局からの生活補助は1人当たり月120元(約1800円)だ。この金額は国が定める最低限度らしい。ほとんどの村人は薪で料理し、水分の多い白粥を食べている。畑で野菜を育てている村人もいる。飼っているニワトリの卵は貴重なタンパク源だ。肉はあまり食べない。
 リンホウの気候は温暖だ。緯度は台湾とほぼ等しく、バナナがたくさん生えている。4月から10月は雨季になる。

助け合う村人
井戸はこの広い村に1つしかない。歩けない村人が汲みに行くのは不可能なので、村でいちばん若い郭さん(49)が歩けない人たちに毎朝、水を運んでいる(1ヶ月につき2〜2.5元(約30〜38円)のお礼を各村人からもらっている)。
 郭さんは、目の見えないおばあちゃん村人・インチン(蔡玩郷)(70)の薬の世話や洗濯も手伝っている。インチンの部屋に水を運んだ後、ビンから錠剤を出し、コップにお湯を注いで手渡す。そして、フィルタをつけたタバコをインチンの口元に持っていき、火をつける。
 外見上の後遺症が見当たらない孫シュウシュウ(孫鑾盛)や、社会復帰して村の内外に家を持つ陸さんは、村人のためにクーシャン(古巷)の町まで買い物にいく。買い物リストを受け取って自転車で出かける姿を何度か見た。
リンホウ村紹介 [2003年02月20日(木)]

再会
ハンセン病快復村・リンホウへ
2003年2月20日、16時30分。昨年11月以来3ヶ月ぶりに見る潮州市の空は曇っている。
 車のクラクションと人々の大声で賑わう潮州の大通りをタクシーで30分走ると、小さな町・古巷鎮に入る。
やがてタクシーは舗装されていない道路を行く。土煙をあげながら山道をのぼる。次第に道の傾斜はきつくなり、ゴミ捨て場の悪臭を過ぎると、トンネルの黒い入り口が現れる。
 トンネルの中は灯かり1つなく、真っ暗だ。前方には、小さく出口が輝いている。10年ほど前に開通したというこのトンネルがなかった時代、人々はこの山を越えるために迂回しなければならなかった。ハンセン病隔離の実態を垣間見ることができる。
 この闇を数分で抜けると、緑の景色が広がる。両側に雑草が茂る土道は、ウナギの養殖池の間を通っていく。リンホウ医院のキレイな白壁が見えてきた。

「危房勿近」
リンホウ医院を過ぎ、ガタガタの小道をさらに数分のぼり、リンホウ村に入る。ソワソワする。3ヶ月ぶりのリンホウだ。小学生のころを思い出す―正月にイトコのうちに遊びに行き、車の窓から年上のイトコの家が見えてくる瞬間と似た気持ち。
 「危房勿近」。
そんな赤いペンキの大きな字が目立つ曽さん(村人)の家の前を通る。倒壊の危険がある家屋に近づくことを警告しているようだ。昨年11月にはなかった。木が覆いかぶさるように生える劉さん(村人)宅にも同じ文字がある。もちろん、村人はそこに住みつづけている。
 土壁が崩れた廃屋・長屋B。その対面に立つ比較的新しい長屋Aとの間の中庭にタクシーは止まる。

静まりかえる村
太陽が雲に覆われて肌寒いリンホウは、ひっそりしている。誰もいない。感動的な再会を勝手に思い描いていた私は、興奮状態のまま黙ってタクシーからバックパックを降ろす。静まりかえる村。これがリンホウの現実か。
 長屋Aの奥にある家から、郭さんがゆっくりと出てくるのが見える。
 「ニーハオ、ニーハオ」
 そう言いながら私は微笑み、握手して軽く肩を抱く。郭さんは黙って、上目遣いでニコリと笑う。
 蘇村長が薄暗い部屋で机に向かっているのが見える。あいさつしながら村長の家に寄って行く。
 「来来、来来、来来…」
 椅子に座って手招きしている蘇村長と両手でしっかりと握手し、抱き合った。後ろからカオリン(枡田香織。今回は2度目の参加)の声がする、
 「あー、ニーハオ!」
 そう叫びながら近づいてくるカオリンの姿が見えると蘇村長は、
 「アィヤー!!来来、来来、来来!!」
 と絶叫し、カオリンとガッチリと握手する。この「痛さがうれしい」とカオリンは語る。
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