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蘇文秀村長との筆談 [2002年11月14日(Thu)]

原田「ぼくの名前の『僚』という字は『燎原の炎』に由来しているんですよ。激しい名前ですよね」。
村長「『燎』という字はよくないな。『僚』はいい字だ。たしか同じような名前の日本の首相がいたな。おれは新聞を読むのが大好きなんだ。寝るときに読むんだ。劉友南や方紹平も少し読んでるぞ。なんていう名前だったかな…。以前田中角栄ってのもいたな」。
原田「橋本龍太郎ですか」。
村長「そんな感じだったかな。いまの首相は小…」。
原田「小泉純一郎です」。
村長「あぁ、そうだった」。
原田「ぼくは村長を尊敬してます。聡明で、村人もみな慕っています。いつもたくさんの村人がきて、談笑してますね。本当のおじいちゃんみたいに感じます」。
村長「それはいいすぎだ」。
原田「村長と知り合えてよかったと思います」。
村長「我々は同じ国の人間であるかのようだ。おまえさんの良心がとても好きだ。友人だ。ただし、おれに残された時間はわずかだ。西に沈んでいく夕日のような人間だ。まもなく沈む夕日だ。おまえさんの前途に光明あれ」。

村長「郭がいってることは意味がなく、言いたいことをすぐに言うんだ」。
原田「郭さんがいってることを詳しくしりたいです」。
村長「かれは『陳宏広は死んだ。本来16人いたのに、3人死んだ』といっている。『兄の子供―彼の甥―は記者だ』といっている」。
原田「彼の甥はここにきたりするんですか」。
村長「春節のときにきた」。
原田「郭さんの親戚は兄と甥だけですか」。
村長「兄が4人いて、出稼ぎで商売をしている。おれの両親はもうなく、2人弟がいて、甥が6人いる。出稼ぎで生活している。彼の父母は存命中おれが郭を世話し、彼の金を管理するよう頼んだ(?)。郭はちょっと家をみてくるそうだ。盗まれることを恐れてるらしい。頭悪いな」。
原田「ぼくはそうは思いません。彼はいい人です」。
村長「(方さんについて)いつもと違う。身体の調子がわるい。眠くならないのだそうだ。今日、古巷で点滴を打ってきたそうだ。やせたなあ。68歳だ」。
原田「陳志強先生から聞いたんですが、彼は目を病んでいるそうですね」。

原田(『麻風病普査登記表』と書かれた書類を見ていると)
村長「全国調査を行ったときのものだ」。
原田「全人民を調査して、そのうちのハンセン病の人を隔離したんですか」。
村長「そうだ。ハンセン病の者は隔離され、この村で生活した。労力があるものは労働をした。一軒ずつ調査され、300人が病型にしたがって分類された」。

原田「…はじめに悲しい歴史…、次に友愛の重要性をわかってもらいたい」。
村長「現在、中国はハンセン病は基本的に消滅したと宣言した。発病したらすぐに治療し、隔離されることもない」。

村長「おれは長年簡体字を使ってきた。繁体字は少し覚えているだけだ。小学校3年のとき、日中戦争のときだ。勉強することができなくなって、出稼ぎ生活に入った」。
家屋建設をすべきか否か―話し合い [2002年11月13日(Wed)]

香織「今回のキャンプでいちばん良かったことは、中国人学生が参加したことだ。それをさらに促すことができるキャンプがあるのではないか」。
眞人「村人は1部屋を使って鶏を飼っている。それほどの場所がない新築の長屋に村人は引っ越してくるのか」。
陽子「娯楽室は重要だ」。
香織「娯楽室の機能は、足の不自由な人が利用できてこそ最大限に活かされる」。
僚太郎「鶏の飼い方の問題や、劉さんと他の村人の人間関係の問題があるにも関わらず、ほんとうに13人全員が引っ越してくるのか」。
泉「村人が何をしてほしいのかをきちんと把握する必要がある」。
僚太郎「村長は、家屋新築よりも生活費補助の方が必要だと村の人が言っていることを話してくれた」。
眞人「生活費補助はFIWCのやることではない。ワークキャンプをする団体なんだから」。
香織「ワークを介在として、物質的ゆたかさよりも精神的ゆたかさを高め、村人の気持ちを揚げてあげたい」。
僚太郎「家屋新築計画を実行するにあたって問題なのは、@鶏の飼い方、A共同台所、B村人の人間関係だな」。
香織「曽さんが薪を割るのを見ていたのだが、1つ割るのにかなりの時間をかけて割っており、見ていて冷や冷やした。大事なのは、@村人との交流、A鶏小屋や共同台所の視点から家屋新築が必要かを見極めること、B中国人学生の参加を促すこと、C村人との他の交流の仕方を考え、接点を増やすことだ」。
雄志「これまでの議論は、今後のキャンプの方針を決める上では論点先取りだ。ハンダや医院側はいろいろ考えた上でこの計画を立てた。ここで家屋建設計画を白紙に戻し、その実行が数年後に延びた場合、村人が亡くなってしまう可能性が高い。それこそ自己満足となってしまう。3月にキャンプをする上ではこの計画を実行するかしないかを決めなければ」。
陽子「これからの活動は、ハンダとの関係を良くしていき、他の村での活動につなげていくのか」。
原田「政治は政治なんだな。おれがいちばん嫌いなことを、おれがやろうとしている。少数派の意見を立てるのか、多数派の意見を押し通すのか。ハンダレベルのワークをやるのか、村人レベルのワークをやるのか。キレイな家に住むのはうれしいだろうが、60・70歳の人が今の生活を激変させて果たして適応できるのかは、心配だ」。
泉「未開の人が東京にきて果たして幸せなのか」。
香織「私たちには想像も及ばない、慣れへの時間がかかるかも」。
雄志「下見のとき村人は苦労を訴えた。この計画がベストだと思うが」。
陽子「スリランカの貧しい村の井戸はとても遠いところにある。それでも彼らが平気なのは、足が健康だからだ」。
僚太郎「下見に問題があった。わずか半日の滞在で、ハンダや院長、医院の職員、衛生局長など十数人が村人を1人1人訪問したが、こうした方法で果たして村人は自分の必要を自由に訴えることができただろうか」。
雄志「3月は家屋新築計画を実行に移すのではなく、ワンクッションおくのか」。
眞人「ワンクッションおいても、もし必要とわかれば8月にこの計画を一遍にやればいい」。
雄志「しかし、マーケティングの問題がある。いかにキャンプ費を稼ぐかだ。娯楽室をつくるとなればカンパを集めやすいが、ただの調査キャンプだと難しい」。
僚太郎「いろいろあるが、結局、やるのか、やらないのかだ」。
雄志「郭さんの意見は参考になると思う。郭さんが賛成するなら建ててもいいのでは。いちばん自由だし」。
香織「逆もある。もっとも不自由な人の意見を汲み取る方がいいのでは」。
僚太郎「村人にもう一度ワークの必要性に関する調査をしよう。師範学院の学生の力を借りて」。
香織「プランの説明のポイントを考えよう」。
雄志「無難な案だが、合意を今回得たとしても、次回はまた新たな問題が見えてくる。その都度立ち止まるのか。それとも、強行するのか。心構えとして明確にすべきだ。妥協線はどこに引くのかを決め、3月は調査をするのか、娯楽室建設でいくのかを決めるべきだ」。
香織「FIWCが帰国後、村人と話し合うことのできる人を中国に確保せねば」。
雄志「村人の本音を聴きたい。マークが村人といい関係をつくらねばならない。3月に調査キャンプをやるとしても、学生は週末しか参加できない。それなら、8月に調査するのか?などと手間取っていると、完成はどんどん遠のく。僚太郎案で行くのか、香織案で行くのか」。
僚太郎「香織案でいくとして、仮に村人の間で意見が割れたらどうするのか」。
香織「一か八かの賭けは恐い。私が重視しているのは、快適な暮らしよりも、村が開けていって交流が盛んになること」。
陽子「家屋新築計画実行後の方が交流しやすいのでは」。
香織「”step by step”でやりたい」。
雄志「ハイリスク、ハイリターンは嫌だ。お祭りを見て村が開けていけばいい」。
香織「自分でニーズを発見するか、他の人から教えられるか。村が開かれていく過程で村人自身が気づく」。
雄志「何を活動としてできるのか」。
香織「学生など外の人との交わり」。
雄志「目的は、@生活状況改善、Aハンセン病差別問題解消。ハイリスク、ハイリターンでない素朴な活動をしたいのが香織。いきなりゴールを目指すのか、回り道するのか。結局、「『民主主義vs.権威主義』セな。『みんなの意見』ってのはありえない」。
僚太郎「どっちにしろあり得ないなら、やっちゃおう」。
香織「やることによるリスクを考えないと」。
雄志「しかし、村人には残された時間が少ない」。
眞人「どこでラインを引くのか。学生をまきこむことが目的なら、調査段階からかませるほうがいい。最終目的は何か」。
僚太郎「学生を巻き込みたい、村人に家を建てて生活状況を改善したい、しかしハイリスク・ハイリターンは避けたい、そして時間がない。その中で最良の選択が、家屋新築計画を強行することで村人もハッピー、中国人学生も巻き込める」。
泉「中国人学生が長期にわたって関わることを目指すなら調査段階から、短期なら建設だけでいい」。
眞人「今のままでは中国人学生を巻き込むことは難しい。日本人とのコミュニケーションを目的にお気楽で来てる感じだから。それなら、中国人学生はもはやどうでもいい。そもそもFIWCはどこかで足を洗う団体。1年くらいの短い期間でしかものを考えられないんだ。それなら家をつくろう」。
僚太郎「そもそも3月のキャンプに参加するのかわからない。それでも、問題を指摘するのは大事。たとえその人は抜けていくとしても」。
雄志「で、3月のキャンプでは何をやるかだ」。
僚太郎「土曜日に中国の学生の協力で調査しなおそう」。
陽子「3月に倉庫と娯楽室をつくり、8月にその他を完成させる。その中で中国人学生が関わっていき、何十年か後にサルポダヤのようになればいい。悪い方向にはいかないと思う。村人はきてくれるだけでうれしいと思うだろう。とりあえず中国人こいよ、というショック療法でいきたい。そこから問題意識が芽生えてくる。そこからの広がりに期待」。
雄志「中国キャンプをやるきっかけは、ワークキャンプへの疑問。バングラ・フィリピン・ネパールなどでやってきたが、果たして村人の役に立ってきたのか。答えは『ノー』だ。ここらでドカンと村人の生活をよくするキャンプをやりたい。この試みはワークキャンプの枠を超える。ODAや世銀への憧れと対極にある活動―あの人とこの人は仲が悪いとか、鶏の飼い方とか、一人一人の顔がわかる活動がしたい。きちんと調査したいという香織の指摘で忘れてはならない部分を思い出した。学者や研究者ではない人間として決断せねばならない。彼らの生活を左右することへの責任を持ってみんなで決断せねば。その上でこの村への思い入れが大事。それを大事にしながら考える。3月は先走る思いがある。娯楽室建設がたぶん正解だろう。しかし、1人1人のニーズを聴こう。それでも決まらなかったら3月に調査メインのキャンプをしてもよし。3月に何をするかは日本で決めたい。
香織「3月に何をするかは安易に言えない。@コの字の長屋をつくらないにも関わらず娯楽室をつくるなら、足の不自由な人が来れるようにしなければならない。A調査方法は「はい・いいえ」ではなく、生活の変化をきちんと伝え、村人がどう思うのかを把握しなければならない。Bこの活動は中国人同士でやるのが最終目的。キャンプを踏み台にして中国人同士の基盤をつくりあげたい」。
眞人「長期的に関われるかどうかわからないので、ワーク重視でいきたい。その過程で中国人の学生を巻き込んでいけたらいいな」。
泉「段階的にやりたいと思ったが、いろんな意見を聞き、また自分が3月これるかという問題もあり、揺らいでいる。キャンプ運営という観点から決断せねばならないこともあるが、目に見えるものに頼りすぎず段階を踏むべき」。
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僚太郎「結局こういった規模の大きい計画と、1人1人の顔が見えることを目指すワークキャンプは対立するものなのではないか」。
雄志「1人1人の顔が見え、しかもビッグプロジェクト。各人のニーズに合わせた部屋づくり。理想は簡単に出てくるが、次の活動につながなくてはならない。学者が議論しているのではなく、これはワークキャンプなのだから」。
泉「(部屋の外で陽子と)飲んでいう意見はしらふのときと違う。夜遅くなると次の日が辛くなるし。3月これないから、自分にできることだけ言おうかな」。
眞人「神戸の震災キャンプのとき、被災者がいい飯を食ってボランティアは冷や飯を食っていた。もらえばもらうほど主体性がなくなる」。
雄志「身体が不自由なんだから、主体性とかそういう問題ではない」。
香織「メリットとデメリットをまとめたい」。
雄志「村人にリスクとリターンを表にして見せても、彼らこまるよな。いくら考えてもわからないのは村人もおれらも同じ。どう判断するのか。村のリーダーの意見でか。結局、カネを持つものがその権利を持っている。なぜか、それをおれらが持っていて困るよな(笑)。成功すれば『おれらの土器だ!』、失敗して火事になったら『火をつけたのは叔叔だ』ってのと似てるな。
眞人「そもそも下見が不充分だったのではないか」。
雄志「それは違う。これが限界だった」。
眞人「それにしても、たった半日で200万円のワークを決めてくるのはちがう」。
雄志「どうすれば200万円を納得するのか。これから修正していけばいい。(雄志節で)村人が鶏を飼いたいとか、郭さんが水くみしたいとか、そんなことを考えるNGOが他にあるか!我々責任主体、理想論だけでなく、意志決定をせねば」。

―こうして、結局、村人全員に対してアンケート調査をすることになった。
蘇文秀村長との筆談 [2002年11月13日(Wed)]

村長「中国と日本の習慣は違うんだ」。
原田「村長の宗教は何ですか」。
村長「カトリックだ」。
原田「聖書とか持ってるんですか」。
村長「潮州に家があるんだが、そこにある。もって来れなかった。蘇瑞良とおまえに馬鹿にされたと誤解して、郭朕浩がおこってるぞ」。(笑)
原田「なんでですか」。
村長「誤解だ。聞き違いだ。精神が不正常なんだ」。
原田「この村のミカンはNGOが植えたと聞きましたがそうなんですか」。
村長「いや、孫バン盛と陸裕城が植えた」。
原田「村人が食べるためですか、それとも売るんですか」。
村長「彼ら2人が植え、収穫したら売り、租金に当てている」。
原田「いくらですか」。
村長「1年に1人につき200元だ。12月に支払う」。
原田「ミカンはいくらで売れるんですか」。
村長「市場価格は常に変わるからな」。
原田「ミカンの売上は租金を払うのに十分なんですか」。
村長「収穫高によるな。それにしても、施肥と農薬散布に毎年カネがかかりすぎる」。

○月×日
村長「将来中国にきて医学を勉強せんか」。
原田「ぼくはジャーナリストになりたいんで、今のところ考えていません」。
村長「記者とは偉大だ」。
原田「ただ、日本では記者になるのが大変なんです。難しい試験や面接をうけないといけないんです」。
村長「おまえに雄々しい志・大志があれば、必ず成功し、勝利する」。<你在雄心壮志、一定成功、勝利。>
原田「謝謝!」

村長「家族は何人だ」。
原田「6人です。父母ともに52歳、20歳と11歳の妹、弟が17歳です。父と母は高校の同級生だったんですよ」。
村長「ご両親の職業はなんだ」。
原田「父は従兄と中古タイヤを輸出する会社を経営しています。母は主婦です」。
村長「日本に愛人はいるのか」。
原田「いますよ。結婚はしてませんけど」。
村長「そういうのをな、潮州語では「未婚妻」っていうんだ(笑)。おまえの家族はどこに住んでるんだ」。
原田「神奈川県です。東京の隣の県です(地図を描いて説明)」。
村長「日本まで飛行機で何時間くらいかかるんだ」。
原田「4時間半くらいです」。
村長「広州白云機場からか」。
原田「そうですよ」。
村長「いくらかかるんだ」。
原田「45000円だから…3000元です。(村長と方さん、異常に驚き、興奮状態になる。)日本の物価はとても高いんです。日本人はたくさんのお金を稼ぎますが、生活費も高いので、裕福な生活をしているとも限りません。中国人の方がゆったり暮らしていて、精神面では豊かもしれません。多くの日本人はカネの亡者となり、家族を顧みずに働きます。うちはお金がないので奨学金で大学にいっています。1つを学費に、もう1つをワークキャンプや生活費に当てています。将来この奨学金は返さなければいけないんです」。
村長「おまえは絶対に聡明で進歩的青年だ。ところで、渡航費はいくらかかったんだ」。

村長「全額自分で払っているのか」。
原田「全額は無理です。奨学金を使っています」。
村長「他の4人はどうなんだ」。
原田「泉・眞人・陽子は働いているので、自己負担です。西尾雄志はたぶん奨学金の一部を利用していると思います。彼はいま博士過程で勉強中です」。
村長「香織は大学生だったよな。費用はどうしてるんだ」。
原田「彼女はどうしているか知りません」。

村長「ここ何日かでやせたんじゃないのか」。
原田「そうですかね」。
村長「今年何歳だ」。
原田「24です」。
村長「<青年人有為。前途光明。>」


原田「林さんという広州在住のハンセン病快復者の方は、彼の生涯を記録した本を書いたんです。彼は偏見や隔離政策などの過ちが繰り返されないようにと願って、ハンセン病問題の存在を人々に知らせたんです。村長は聡明なので、同様の本が書けると思うんです。なんとか出版にまでこぎつけたいと思うのですが」。
村長「ハンセン病が感染しにくいことを中国政府は宣言した。しかし、まだ多くの人が差別し、軽視する。彼らの目に我々が入ると、すぐに目をそらす」。
原田「曽さんは何歳ですか」。
曽「66歳だ」。
村長「曽先生は陸裕城と交代で草刈や魚の養殖をしている」。
曽「おまえ、鶏をさばいたことあるか」。
原田「ありませんね」。
曽「おまえはやらなくていいぞ。ギャーギャー鳴いて大変なんだから」。(まくしたてるようにしゃべって帰っていくが、ライターを返しにもどってくる。すぐまた帰る)。
村長「あいつは飲んでるんだ(笑)。我々13人は同じように隔離され、山間区に住み、自分たちでうまく生活してるんだ」。
原田「昨日ぼくは蘇さんとちょっと飲みましたよ」。
村長「そういえば、眞人さんが夕飯前(正確には昼食前)におまえのことをあちこち探してまわってたなあ」。
原田「村長も飲むんですか」。
村長「飲まないなあ。曽はおまえさんが孫バン盛といっしょに餃子を持って行ったときも相当飲んでいたなあ。(ネコを指差し)これを贈るのは飛行機で禁止されるらしいな。こいつの名前は『一男』で、そっちが『一女』だ」。

16:22
村長「ハンセン病の薬はもう飲む必要がない。現在13人全員が治癒しているんだ。風邪薬くらいは飲むが。医者の陸先生は毎週末に1度巡回しているんだ」。

原田「明日は韓山師範学院に行き、市内に滞在します。15日の午後にはここに戻ります」。
村長「明日14日は潮州に泊まって、それから戻ってくるのか」。
西尾「そうです」。
村長「潮州には観光名所が多いぞ。きっと見るのは楽しいぞ。ここは蚊が多いしな(笑)。誰か案内してくれるものはあるのか」。
原田「リンホウ医院から三輪オートバイで師範学院まで行き、そこで友達の学生に会います」。
村長「明日、当直のものに三輪オートバイを手配するように頼んでおいたぞ」。

村長「左手は不自由になり、1979年には右足に悪い症状がでて、医者は切断以外に治す方法がないといった。そんなおれが村の事務をすべてやっているんだ。相当たいへんなものだ。もう74歳だ。年をとったものだ。青年には洋々たる前途が広がっている。すばらしい。おれはもう74になった。ここに至って何の益があろうか」。
西尾「また3月に来ます」。
村長「人生ここに至ればもはや意味がない」。
蘇文秀村長との筆談 [2002年11月12日(Tue)]

村長「西尾雄志さんは、遠く日本から万里の道のりを越え中国にきて、疲れているにも関わらず、車を降りるなり労働に参加した。すばらしい。しかし、明日は休息をとってもらいたい。みなさん、ゆっくり休みなさい」。

村長「おまえたちは11月17日に日本に帰るんだろう、とても悲哀的で苦しい」。
原田「来年の2月か3月にまた来ますよ」。
村長「おまえたちのうち何人がまたくるのか」。
原田「ぼくと西尾雄志は確実にきます」。
枡田「わたしは来春、卒業し、就職します。就職の前に研修があるので、不確実ですが、また来たいと思っています」。
村長「何の仕事をするんだい」。
枡田「編集者です」。
村長「新聞社のかい」。
枡田「いいえ、わたしの会社は情報誌の出版社です」。
村長「記者になれるのかい。まあ、中国とは違うんだろうな」。
枡田「わたしの会社は特殊で、編集だけでなく、自分で記事を書くこともあるんです」。
村長「『記事』ってなんだい、よくわからんのだが」。
原田「記者が取材してきたことを文章にまとめたものを日本では『記事』といいます」。
村長「なるほど。(枡田に)太郎さんは将来、記者になって駆けずり回るそうだぞ」。
原田「ぼくの名前は『僚太郎』で、姓は『原田』ですよ」。
村長「そうか、そうか。たくさん取材しないとな。おまえは足が長いから走りまわるのにも問題ないだろう」。(笑)

村長「おまえたちが17日に日本に帰ったあと、村がまた静まりかえったら、それに慣れるのは難しく、とても苦しい。永遠におまえたちの功労を忘れないぞ」。
原田「ぼくたちもあなた達を永遠に忘れません。ぼくたちが帰ったあとも、中国人の学生はここに来るはずですよ。ぼくたちはお別れパーティーを土曜日にやりたいと思ってます」。
村長「村ではいらん。医院がおまえたちを招待するだろうからな」。

村長「(ハンコを見せながら)村人が生活費を受け取りにきたとき押すんだ。毎月1人60元だ。(ハンコを押して)『潮安県リンホウ農場財務専用章』とある」。
枡田「1ヶ月60元で暮らせるんですか」。
村長「実際は米を買うために120元があり、節(祭り)のために積みたてている」。

○月×日
原田「いま彼(真人)は疲れて寝てます」。
村長「潮州では『工夫茶』というんだ」。
西尾「苦い」。
原田「ぼくは苦いの好だけどな」。
村長「医院の職員で当直の者は毎日この村にきて、自分の名前をこれに書き込んでいくんだ」。
原田「ぼくは黄院長を村で一度しか見てませんよ。代理人が彼の名前を書いてるんですか」。
村長「そうだ」。
原田「本当なら、本人が村にきたときだけその名前をかけるんじゃないんですか」。
村長「いや、彼はここの院長で、政治経済各方面の管理全般をおこなっているから問題ないんだ」。
原田「重病人は古巷医院に行くと村長はいわれましたが、まだそれを見てないんですが」。
村長「年をとっているから不定期なんだ。突然何かが起こって村にある薬では間に合わないときに初めて古巷医院にいくんだ。きわめて稀なことだ。考える必要もないことだ。死を待っているんだ。消えて無くなる最後だ」。
原田「陳宏広さんは古巷医院にいったんですか」。
村長「いや。75歳の彼自身が年をとったことを感じていたし、長い間苦しみ、古巷医院は無用だった。(蚊にくわれたところをかきむしる原田をみて)おまえの肉と皮は甘いから蚊が食いたがるんだろう(笑)。ここの山間区は蚊が多いから長袖長ズボンと靴下をはきなさい」。
原田「孫叔叔はこないだの晩、リンホウ医院でテレビを見てたですけど、その番組は中国と日本の戦争を扱ったもので、日本軍の残虐行為についてたくさんの人が証言していました。叔叔の顔はとても悲しそうでした。彼のお父さんは亡くなったそうですが、戦争で殺されたのですか」。
村長「彼の父は戦争で死んだのではない。農業を営んでおり、解放後(1949年10月1日中華人民共和国成立後)病死したと聞いている。たしか30年ほど前のことだ」。
蘇文秀村長との筆談 [2002年11月11日(Mon)]

原田「雄志がここに来るように言えってことですか」。
村長「いや、おまえは彼のところに行かなくていいのかってことだ」。
原田「そうですね、でももう少しここにいます。それとも、もう眠いですか。それならもう行きます」。
村長「雄志のところにいく必要があれば、行きなさい。好きなようにしろ」。
原田「じゃ、いこうかな。いろいろ話したいことはありますが、また明日」。

○月×日たしか、村長宅の壁にはってある職員のリストをみた日。
原田「診察のためにくるんですか」。
村長「村人ひとりひとりやその他を視察するためにくるんだ」。
原田「医院の職員は村人全員を診察するんですか。薬はくれるんですか」。
村長「軽い風邪なら薬をくれるが、重病の場合はむずかしいな」。
原田「重病患者に薬をくれないんですか」。
村長「重病の場合は古巷病院にいくんだ」。
原田「どうやって?」
村長「ルン盛(孫)か誰かひとりに頼んで自転車にふたり乗りしていくんだ」。
蘇文秀村長との筆談 [2002年11月10日(Sun)]

09:09
原田「昨夜は遅くまでありがとうございました」。
村長「9時半なんて夜じゃない」。
原田「家屋新築計画についてご存知ですか?ぼくたちとハンダっていうハンセン病快復者支援団体の陳先生が9月12日ここに来たとき、この計画について話したはずなんですけど(家屋新築計画案を図に描いて説明)。このうちの1室が共同台所になり、水道も引きます」。
村長「すばらしい!」
原田「水道についてですが、いまは郭さんが井戸水を運んでますよね。毎朝水くみについて行っているのでわかるんですけど、郭さんは水くみという仕事が大好きで、誇りを持ってやっていると思うんです。水道ができたら郭さんは水くみができなくなりますが、悲しみますよね?」
村長「毎月カネが稼げなくなるという意味でか?」
原田「郭さんは水くみでお金を稼いでいるんですか?」
村長「我々病人は彼にカネを支払う責任を負っている」。
方「今後、看護や一切の仕事を生活費でもって支払う責任が我々病人にはある」。
原田「郭さんはハンセン病快復者なんですか?」
村長「そうだ」。

2002年11月11日
村長「この2匹のネコを贈りたいのだがどうだ?日本に帰るとき連れていけ」。
原田「せっかくですが、空港の職員が許可してくれませんよ」。
村長「家で飼えばええがな、ええがな」。
原田「郭さんは水くみが好きですよね」。
村長「どうだな」。
原田「いつから水くみをしてるんですか」。
村長「もう15年になるな。ひとり2〜2.5元を彼に払っているんだ」。
原田「毎日ひとりバケツ2杯ずつですか」。
村長「そうだ」。
原田「郭さんはお金のためだけでなく、水くみという仕事が好きで、誇りをもっていますよね」。
村長「いや、カネのためでもある。毎日稼げるからな」。

村長「そうだ、今日は友達がもうひとりくるんだろ」。
原田「午後にきます」。
村長「迎えにいかなくていいのか」。
原田「医院の人とマークがいってくれるんで」。
村長「(タバコの煙をはいて)おれの煙は薄いが、おまえのは濃いな」。

村長「ゆっくり話すと普通語は比較的簡単で、交流も容易だ」。

原田「この村にいると心が和みます」。

原田「郭さん、大好き」。
方「彼はもっとも優れた労働力でもあるんだ」。

村長「(陸さん(?)がビニール袋にはいった食べ物をもってくる。お金を払う村長。)これは潮州語で「肉巻」というんだ。1斤3元だ」。
原田「豚肉ですか」。
村長「そうだ」。
原田「陸さんはどこに住んでるんですか」。
方「陸さんは潮州市内出身の人だ」。
原田「奥さんがいるんですよね」。
村長「3人子供がいる。20歳の女の子・18歳と15歳の男の子だ」。
原田「陸さんは病気が治ってから結婚したんですか」。
村長「そうだ。(医院の職員について)彼は医院の幹部で姓は許だ。一緒にきた人は奥さんだ」。
原田「陸さんの奥さんはハンセン病快復者なんですか」。
村長「いや、彼女は健康な人だ。姓は蘇という」。
村長「現在この村の13人は政府民生局による毎月の救済を受けているが、生活は苦しい。但…」。
村長「『原田』は姓だよな」。
原田「そうですよ」。
村長「中国の姓は1字のが多い。2字のもあるにはあるが」。
原田「日本には3字の姓もありますよ。『小笠原』とか」。
村長「中国にも3字の姓がある」。

村長「彼は楓洋の人間だ。よその土地の人間だ。彼から許炳遂はものを買っている。おまえが日本政府に頼んで寄付金を頼んでくれるという話を、彼は病人にした。しかし我々はみな年をとり、2年ほどで死に絶えるだろう。新家屋を建てるよりは生活費の方が必要だと彼らはいっている。どう思うかね?」
原田「ぼくは家を建てて、みなさんの生活を改善したいと思ってます」。
村長「彼らが言うことには、彼らは現在の家にまだ住めるので、カネは普段の生活の足しにしたいそうだ。病友がそういっていた。11人の男・2人の女、全員の家はまだ住める状態だ」。
原田「ぼくたちの活動は『ワークキャンプ』なんです。労働を通して村人とよい関係をつくっていきたいんです。ただお金を渡すだけではあとにいい関係が残りにくいと思います。ぼくは村人と約20日暮らし、ともに働き、筆談によって話しをしたいんです。新家屋建設が不要なら、他にどのようなワークが考えられますかね?」
村長「今おまえたちは働き過ぎている。身体を大切にして、健康な状態で帰国し、ふるさとへもどりなさい」。
蘇文秀村長との筆談 [2002年11月10日(Sun)]

2002年11月10日09:09
原田「昨夜は遅くまでありがとうございました」。
村長「9時半なんて夜じゃない」。
原田「家屋新築計画についてご存知ですか?ぼくたちとハンダっていうハンセン病快復者支援団体の陳先生が9月12日ここに来たとき、この計画について話したはずなんですけど(家屋新築計画案を図に描いて説明)。このうちの1室が共同台所になり、水道も引きます」。
村長「すばらしい!」
原田「水道についてですが、いまは郭さんが井戸水を運んでますよね。毎朝水くみについて行っているのでわかるんですけど、郭さんは水くみという仕事が大好きで、誇りを持ってやっていると思うんです。水道ができたら郭さんは水くみができなくなりますが、悲しみますよね?」
村長「毎月カネが稼げなくなるという意味でか?」
原田「郭さんは水くみでお金を稼いでいるんですか?」
村長「我々病人は彼にカネを支払う責任を負っている」。
方「今後、看護や一切の仕事を生活費でもって支払う責任が我々病人にはある」。
原田「郭さんはハンセン病快復者なんですか?」
村長「そうだ」。
蘇文秀村長との筆談 [2002年11月09日(Sat)]

13:07
村長「おまえさん方、村の誰もついていかずに古巷にいったろ。心配だった」。
方「おまえさんたちは毎朝郭聯浩と一緒に水くみをしている。えらいなあ」。
原田「ただついて歩いてるだけですけどね」。

20:00前
原田「村長はいつも何時ごろ寝るんですか」。
村長「20時から21時の間だな。決まってない。話したいことがあれば22時から23時くらいまでいいぞ」。
原田「ぼくは大学で公共政策を勉強しています。日本のハンセン病政策です。日本政府は1907年から1996年まで隔離政策をとってきました。中国の状況はどうですか」。
村長「中国政府は1957年からだ」。
原田「誰が決定した政策ですか。毛沢東ですか」。
村長「そうだ」。
原田「日本には『らい予防法』という法律がありました。政府がこの法律を廃止したのは1996年のことです。中国にもこのような法律がありますか」。
村長「中国の法律は2000年に感染しないと発表した。治癒する病気で、問題ないと」。
原田「1943年ハンセン病の特効薬プロミンが開発されました。しかし、日本政府は隔離政策を続けました。この政策は許せません。人権侵害以外のなにものでもありません。村長はプロミンを飲みましたか」。
村長「現在この村の13人はみな治癒しており、飲まない。他に何かききたいことはないか」。
原田「村長はいつここに来たんですか」。
村長「1942年だ。そのころは戦争中で、当時おれは11歳だった。現在は74歳だ。年をとった、1979年に右足を切断し、左手は不自由になった」。
原田「いつ読み書きを勉強したんですか」。
村長「小学校3年のとき、家に金がなかったので学校にいくのをやめた」。
村長「明日は3・4人の学生が来るぞ。彼らは自分で何か持ってくるから、おまえさん方はカネを使わずにすむぞ」。
原田「中国人の学生が来るんですか」。
村長「翻訳をしてくれるそうな」。
原田「西尾雄志という友達も11日にきますよ」。
原田「みなさんは文化大革命のときたいへんでしたか」。
村長「我々はこの村で治療中だったので、参加しなかった。幾人かはつるし上げられた」。
原田「現在、毎月120元で生活しているんですよね」。
村長「60元は節日―春節・中秋節・清明節など―に備えて積みたてている」。
原田「国家が支援金を増額するという話しはないんですか。日本には全国療養所入所者協会というのがあり、生活環境の改善などを国家に訴えてきました。中国にはないんですか」。
村長「ないな」。
原田「国家がそういった組織をつくることを禁じているんですか」。
村長「知らないな。我々の生活費は民生局が発給している。日本と同じではない」。
原田「中国のハンセン病快復者も団結して生活の向上を要求したらどうですか。その上で心配なのが言葉の壁です。みなさんは潮州語を話されますが、楊坑村では広東語が話されています。言葉の壁は団結をむずかしくします。そこで、ぼくは普通語と英語を話せる中国人の学生たちが全土の快復者をつなぐ媒介となることを考えています。朱君もその1人となれるかもしれません」。
村長「ここ潮州のハンセン病快復者13人は要求したことがある。しかし、政府は何の対策も講じなかった。おまえさんは普通話をまなべ。潮州一帯のものはだいたい普通話を話すから。国家は普通話を学ぶことを奨励しているんだ」。
原田「そろそろこの辺で。タバコ吸いますか」。
村長「年をとった。たくさん吸っても意味がない」。
蘇文秀村長との筆談 [2002年11月08日(Fri)]

村長「昨日潮州にいって昼間から酒飲んで、晩にも飲みすぎたらしいな。今日はゆっくり休みなさい」。

11:00
村長「二月がなんて?」
原田「中国では2月に春節を祝うんですよね?」
村長「我々は農歴、つまり国歴を使っている。農民が田植えのときに使う暦だ」。
(村長はタバコをくれ、火をつけてくれたあと、自分も吸う。)
原田「筆談じゃなく、ふつうに話したいですねぇ。今度は中国語を勉強してまた来ます。普通語のテキストはもってるんですけど、潮州語のってないんですかね?」
(指でタバコを揉み消す村長。)
村長「普通語のテキストでいいじゃないか。潮州語のテキストなんてない」。
原田「どのくらいの村人が普通語を話せないんですか?」
村長「このテキストはいくらだったんだ?」
原田「113元くらい」。
村長「うーん、高いなぁ。陽子は市場に買い出しにいくそうだが、早くいかないと昼休みで市場は閉まるぞ」。
原田「え…、陽子に伝えてきます。そろそろワークしてきます」。

18:49
原田「明日は皆さん何時ごろ来られますか」。
村長「我々は村人全員に11時半と伝えてある」。
原田「11時半ですね。歩けない村人は背負って連れて来たいのですが、どうでしょうか」。
村長「いや、我々が彼らに食事を届ける。その気持ちだけでうれしい」。
原田「つまり、歩けない方々はパーティーにこないということですか」。
村長「彼らは血もでてるしな」。
原田「彼らの分の敷物も買ったのですが…。わかりました。ぼくたちが歩けない人のところに食事を運びます」。
村長「おまえたちは料理をし、我々が運ぶことにしよう」。
原田「ぼくたちが直接はこびますよ。ぼくたちは歩けない人にも感謝の気持ちや友情を伝えたいんです」。
村長「そうか、わかった。そうしてくれ」。
蘇文秀村長との筆談 [2002年11月07日(Thu)]

17:00。古巷から帰ってきた後。
村長「建築資材がくる明日からまた工事ができるぞ。ところで、今日、潮州でいくら分の買い物をした?(小型の英中辞典をみて)この英中辞典も買ったのか?いくらだ?」
原田「9.80元です」。
村長「うーん、高い」。
原田「(村長は980元と勘違いしたのかと思う)9元と8角ですよ」。
村長「うーん、高い」。
原田「(竹製の帽子を指差しながら)あの帽子はどこで買ったんですか?」
村長「潮州になかったか?いまは冬だから買えないんだろう。暑いときにかぶるものだからな。潮州で見なかったか?」
原田「見てません。残念。もうひとつの黒い帽子、あのハンチングの方はどこで買ったんですか?」
村長「潮州になかったんなら無いな。(原田が虫刺されをかきむしるのを見て)昨日、翁副院長が『風油精』を2ビンくれたろう?あれを塗れば蚊が来ないぞ。香織の腕は虫刺されのあとがすごいな。夜寝るときも日中もしっかり塗っておけよ」。