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いよいよ深刻になるSARS [2003年04月30日(水)]

村を消毒
朝、村で借りている部屋に行くと、入口の前にカンペイちゃんがチョークでこう書いていた:
「昨日、黄院長が医院の職員を集めて会議を開いた。この会議では、非典型肺炎の予防と治療に関する政府からの文書が討議された。孫さんが村中を消毒し、感染を防ぐ予定だ」。


『非典型肺炎予防常識』
昼過ぎ、リンホウ医院の医者・陸さんが村人に「非典型肺炎予防常識」という文書を配って歩く。私も1枚渡される。
内容は、「1.非典型肺炎とは」、「2.感染経路」、「3.症状」、「4.家族に発病者が出た場合の対処法」、「5.予防方法」、「6.消毒」、「7.地域における総合的予防措置」、「8.学校等における予防措置」と物々しい。
字を勉強しなかった郭さん、インイン、インチン、若深さんにもその文書は渡される。郭さんはしばらくそれを眺めている。逆さまだが。

村に泊まる許可
ついに、村に泊まる許可が下りた。昨日の会議で私が村に泊まることについても話し合ってくれたそうだ。昼ご飯の後、村長のうちで飲茶タバコして、医院にモノを取りに行く。やっと、駐在員らしくなってきた。
カンペイちゃんと自転車 [2003年04月29日(火)]

「ワーアイクゥーコーハン」(古巷の町に行ってきます)。
朝ご飯を一緒に食べたインチンにそう言って古巷の町にいく。ちょうど、カンペイちゃんが古巷に行ってカオリン(過去2回キャンプに参加した桝田香織)に手紙を出すというので、一緒に自転車を走らせる。今日こそはメールをチェックしないと。
ガリガリにやせ、眼がよく見えないカンペイちゃんは、危なっかしく自転車をこぐ。町まで出るためには舗装されていない山道を登らなくてはならない。カンペイちゃんはゆっくりと自転車を押して歩く。町へ出た後も大変だ。不必要に長い警笛を鳴らしながら大型トラックが彼のすぐ横を通り過ぎる。急に方向転換した自転車とぶつかりそうになる。後ろからついて行く私を心配して振り返り、道の脇に落ちそうになる。いつも笑っているカンペイちゃんの顔がこわばりつづける。
今回、カンペイちゃんの用事は、カオリンへの手紙だけだった。体力的、金銭的(8.6元(約130円))犠牲を払うカンペイちゃん。「犠牲」という言葉は彼にとって心外だろう。村人たちのキャンパーへの気遣いはスゴイ。


ロウソク生活のワケ
もう1つ、FIWC関東委員会のワークキャンプが引き起こしたとも言える問題を見つけた。許さんと蘇さん、許松立さんが住む長屋から電気を奪ってしまったのだ。
リンホウ医院はすべての村人が新しい長屋に引っ越すことを望んでいるので、古い長屋に住みつづけるこの3人の長屋の電気を停めてしまったそうだ。しかし、3名は引っ越さず、ロウソク生活を送る。その理由は、新しい長屋が熱いことと、FIWC関東のキャンパーのために部屋を空けておきたいからだという。8月以降、夏が終わり、キャンパーが帰った後、彼らは引っ越す予定だ。

SARSの脅威?
夜、チァロン(マーク)からの電話がある。しばらく医院の職員と話していた彼は3つの注意事項を私に申し渡す。
@ 古巷には不必要に行かないこと。
A どうしても行かねばならないときは、マスクをつけること。
B 風邪の徴候があったら医院に報告すること。
そんなに危険なのだろうか。情報が入らないので、いまいちよく分からない。さっき、シュウシュウにマスクを渡された。黄院長から預かったという。院長は言う、
「多くの人々と接触する可能性がある町に頻繁に行ってはいけない。SARSに感染する恐れがあるからだ」。
半隔離の村を社会に開こう。そんな想いでリンホウに来た私は、半隔離状態に追い込まれた。

ネットに接続
このままでは、駐在した意味が半減してしまう。学生との連絡をもっと密にしなければならない。しかし、携帯電話はリンホウ医院では圏外だ。
私は意地でパソコンをネットに接続した。SARSなんかに負けねーぞ。
やっぱり調子がおかしい郭さん [2003年04月28日(月)]

水道水で満たされたバケツを天秤棒で担ぎ、郭さんは許さん宅へと向かう。途中、郭さんは水を担いだまま井戸に立ち寄る。井戸をしばし見つめる。
許さんの水がめに水をあけた後、郭さんは空のバケツを天秤棒で担ぎ、コンクリートで固められた井戸の前に再度、立ち尽くす。もはやこの井戸から水をくむことはできない。


メールが見れない…
今日こそ、メールをチェックしよう。リンホウに来て以来、忙しくてまだ一度もメールを見ていない。意を決して古巷の町に向かう。
が。2月に場所を確認しておいたネットカフェは開いてない。朝9時では早すぎたのか。買い物を済ませた後も開いていない。じゃ、ギョウザでも食べながら開くのを待つか。しかし、2月によく行ったギョウザ屋も開いていない。
散々探し回り、他のネット=カフェを見つけた。店員さんは結構カワイイ。まあ、がんばった甲斐があったと言うべきか。
「いま停電中よ」。
結局、メールは見られなかった。

『苦難不在人間』を村人に
以前に触れた『苦難不在人間』(ハンセン病快復者・林志明の著作)を蘇さんに貸す。蘇さんは本好きで、老眼鏡をかけて本を読むからだ。今は唐代の歴史モノを読んでいる。
「それを読み終わったら、『苦難不在人間』を読んでくださいね」。
『苦難不在人間』の意味は、「苦難のない社会」だ。
「なになに、『苦難不在人間』?ハハ」。
私には、蘇さんの笑いがこう言っているように聞こえた、
「そんな社会はあるか」。

ハンセン病への偏見はないのかな
居合わせた四川省出身のお姉ちゃんと貴州省出身のお姉ちゃん(4月27日参照)が、蘇さんに貸したその本を手に取る。概要が書かれたページを読んでもらった。
「あー!この本はハンセン病だった人が書いたんだ!」
2人は興奮して食い入るように読み始める。隔離される経緯をつづった部分を読み、彼女たちは大声で何か話している。どうやら、リンホウの村人も同じ経験をしたんだということを話しているようだ。
四川省出身のお姉ちゃんは、私よりもリンホウ歴が長い。昨年9月にFIWC関東が初めてここに来たときには、すでに彼女たちは村に住み込んでいた。彼女は、近くの採掘現場で働いている、一緒に四川省から来た人々の食事の世話をしている。彼女ら四川省の人々に、ハンセン病差別を感じさせるような言動は全く見られない。彼らは蘇村長・許さんのことを尊敬しているほどだ。
「許さんは本当にいい人なんだ」。
そう言いながら彼らのうちの1人は、許さんに両手でタバコを渡す。
蘇村長が繁体字をスラスラと書いていくのを見て、
「スゲーたくさん知ってるな…」。
とシミジミ感心していたこともある。

村人の家計圧迫
インチンは昼ご飯を食べさせてくれた。そして今、夕飯をいただいている。ビール付きだ。私にだけ特別に卵焼きのスープを出してくれる。
「んコイタン、ホーチャ!」(卵はうまいぞ、食べなさい!)
いくら勧めても、彼女は頑として食べようとしない。ビールを無理やり彼女のコップに注ぐと、彼女は興奮して断る。半分怒って、私に全部飲むように言う。
昨日は許さん宅で昼夜と2食いただいた。ビールと焼酎が出てきた。その前の昼夜は蘇さんが招待してくれた。このときも、ビールと焼酎だ。さらにその前の昼はインチンだ。調理器具を村に持ってきて以来、まだ2回しか料理していない。このままでは、村人の家計を圧迫してしまう。1ヶ月120元(約1800円)で暮らす彼らにとって、一瓶3.5元(約53円)のビールは大きな出費だろう。いかに断るべきか、あるいはいかに返礼すべきか。蘇村長に尋ねてみると彼は言う、
「彼らはおまえさんと飯を食いたいんだ。そんな遠慮はいらん」。
リンホウの人々には、「自分のモノ」という感覚があまりないのかもしれない。
「いつ死ぬかはわからない」。
村長はよくそう言う。人を喜ばせることができるなら、自分のモノがなくなっても一向に構わないという考え方なのではないか。

またまたSARS
ジエシャン(ジル)から電話が来る。
「SARSのせいで今、大学から外出することが制限されてるの」。
学生が構内から出るときは、許可が必要で、もし外出したら医師の診断書がないと大学に入れないという。中国の大学には寮が完全整備されており、学生はほとんどすべて寮に住んでいる。大学には店もあり、学生は外に出なくても普通に生活できる。とはいっても、あまりに厳重だ。もちろん今まで通り、最近潮州に来たヒトは構内に入れない。
今日、テレビで臨時放送があった。SARSへの注意を呼びかけた放送だ。それを見ながら医院の職員は顔をしかめる。いよいよSARSの危機が実際の問題になってきた…。
村人の家計を圧迫 [2003年04月27日(日)]

はじめて、医院で朝ご飯を食べなかった。朝起きてすぐ、村に向かう。やっと自分で料理ができる。が。やる気満万で米を研いでいる私の肩を若深さんが叩く。彼は身振りで部屋に来いという。さては…。
予想は的中した。若深さんは甘く煮た豆を食べろという。結局こうなってしまうのか。もちろん、村人がご飯をくれるのはとても嬉しい。しかし、私のせいで村人の家計を圧迫してしまうのではないかという心配がある。

田記者
10時過ぎ、村の部屋で机に向かっていると、若深さんのデカイ声がする、
「チーチャー!」(記者)
すぐさま部屋の外に出ると、がっしりした若いおじさんがバイクから降りてヘルメットを脱いでいるところだった。
「ニーハオ、ニーハオ」。
彼は旧友に会うかのような握手を返してくれる。姓は田、名は培青。44歳の彼は『潮州日報』という新聞社の記者だ。私が自己紹介すると、彼はそれを遮る。田さんはFIWC関東委員会のキャンプ報告を読んでいるからすでに知っているという。私が村人に書いた手紙まで読んでくれたそうだ。
田さんは3ページに渡る文書を見せてくれる。彼が書いたリンホウについての記事だ。来週の水曜日に新聞に載るという。記事は、昨年9月にFIWC関東委員会が初めてリンホウに行ったときのことから2月のワークキャンプまでのことが書かれている。
田さんは大きくうなずきながら、蘇村長の話を集中して聴いている。村人の話にこれほど熱心に耳を傾ける人を他に見たことがない。彼は昔リンホウの近くに住んでいたという。子どもの頃は薪を拾い集めてカマドで料理していたそうだ。

許さん・曽さんと昼ご飯
11時少し前。私は昨日、許さんのところで昼ご飯をご馳走になる約束をしていたので、田記者に理由を説明してサヨナラを言う…が、その次の瞬間、一緒に行こうと彼を誘っていた。
「ハオ、ハオ、ハオ!」(おう、行こう、行こう!)
彼はワークキャンプ的なノリを持っている。キャンパー以外の人で、村人と食事をしようと誘う気になった人は彼が初めてだ。
「60〜70年代、ハンセン病は感染しやすい病気だと政府が宣伝したため、人々は、現在のSARSを恐れるようにハンセン病を避けたが、今は一緒に飯を食えるんだ」。
許さんがつくった焼きビーフンをほおばり、ビールで流し込む田さんは興奮してしゃべりまくる。曽さんは異常にご機嫌で、焼酎をクピクピ飲む。


あんた、1年もここにいるのか!?
昼食後、私が村で借りている部屋で、田さんと話す。
「あんた、1年間もここにいるのか?!いったい何するんだ?」
私は、リンホウを支援する団体が師範学院に設立されるのを見届けたいこと、その後は広東省に学生の支援ネットワークをつくりたいことを話す。
「ハオ!」(いいな!)
田さんは親指を立て、力強く私の方に突き出す。ただ、資金面に問題があることを忠告する。社会はハンセン病問題に対して無関心で、寄付は集まらないだろうという。ここぞとばかりに私は筆談する、
「だからこそ、田さんの力が必要なんです」。
「そうか、来週の水曜日にリンホウの記事が出た後の社会の反応を見てみよう。潮州の慈善団体『福利院』に一緒に行ってやってもいいぞ」。
強力な助っ人を得ることができたのかも知れない。

蘇村長の甥
痛いほどの握手を交わし、田記者はスクーターで帰っていった。と、蘇村長の部屋から若い男の人が出てくる。自転車に荷物を結び付けている彼を、村長は静かに見守る。顔が村長に似ている。
「ルーダパーパ?」(お父さん?)
がっしりした体格のその人に聞いてみる。
「プースー。ワーダパーパーダカーカ」(いや、オヤジの兄貴だ)。
その人は静かに微笑みながら答える。照れながら2人は写真に収まった。
キコキコ自転車を鳴らしながら帰っていく彼の後ろ姿を見、ちょっと淋しくなった。

人の往来がある村
村を通り抜けて山を上っていくと、採掘現場がある。そこでは四川省・貴州省出身の人々が働いている。彼らのボスと思われる人はタニムラ=シンジそっくり。彼が奥さんと2人の孫を連れて村にやって来た。大騒ぎしてサトウキビとナシを食べ、お茶を飲み、帰っていく。何しに来たのかはよくわからない。
村には結構、外部の人が来る。四川省・貴州省から出稼ぎに来た10人ほど人々は村人の許さんの隣に住んでいる。廃品回収業者がくる。床屋さんが来て、村人の髪を切る。野菜を売りに来るおじさんがいる。村長の甥といい、カンペイちゃんの帰省といい、中国の人々に異常な偏見はないように見えるのは気のセイか。
やっぱり、この部屋はいいなぁ [2003年04月26日(土)]

引越し
午前中、料理に必要なモノを村に持っていく。きのう蘇村長が院長に要請状を書いてくれたおかげで、村で料理する許可を得ることができたからだ(ただし、寝る場所は医院)。いつまでも医院にご飯を食べさせてもらっていてはダメだ。「お客さん」気分が抜けず、医院では落ち着くことができない。村にも拠点がないので、長時間村にとどまりつづけると疲れる。このままではリラックスできる場所、落ち着いて机に向かえる場所がなく、参ってしまう。
引っ越した先は、いつもキャンパーが使っている部屋。やっぱり、ここはいい。シュウシュウと掃除し、台所をつくり、勉強机とベッドを置く。すっきりとした部屋ができた。落ち着く。HANDAのニュースレターの翻訳がはかどる。村人との距離もいつも通りに近づいた気がする。

様子がおかしい郭さん
早速、郭さんと真夏日の午後、水くみに行く機会が訪れた。前回のワークキャンプで水道を設置して以来、郭さんは井戸ではなく水道で水をくみ、歩けない村人のところへ運んでいる。
郭さんは水道の水を箸くらいの細さにしぼり、水がバケツに落ちていくのをじっと見つめる。バケツが一杯になると水道を止めるが、木陰に座りつづける。
「もう行こうよ」。
そう言っても、ニヤリとして何度もうなずくだけだ。バケツをぶら下げた天秤棒を肩に載せ、やっと歩き始めたかと思うと、何でもないところで立ち止まる。
「行こうよ」。
そう声をかけると、ニヤリとして何度も小さくうなずく。
カンペイちゃん宅に水を届けると、郭さんは空のバケツを担いで蘇さんの家に向かう。水道とは逆の方向―水をくめなくなった井戸がある方向―だ。
「バケツ、空だよ」。
郭さんは立ち止まり、ニヤニヤするだけだ。
「行こうよ」。
何度もうなずきながら、郭さんは水道の方に歩き始める。


明日は行けない
0時前、医院の電話が鳴る。こんな時間に誰だろう。チュウエイ(医院の職員)は2階にいて電話に出られない。仕方がないので、受話器を取ってみる、
「ウェイ?」(もしもし?)
「○?%&×=?!#」
わかるはずもない。とにかく、チュウエイを呼ばねば。
「ト、ト、トンイーシャ」(ちょ、ちょっと待っててください)。
2階に上がるが、チュウエイは寝ている。「寝ている」って何て言うんだったっけなぁと思いつつ戻ると、電話は切れていた。ホッとして机に向かうと、再びけたたましい電子音が響く。
「ウェイ?」
「○?%&×=?!#」
「タ、タ、タースイチョウラ」(か、か、彼は寝てます)。
と、受話器からは笑い声と共に、
「ボクだよ、マークだよ!」
何だよ、チァロン(マーク)か。散々からかったあげく彼は明日、村に来られないという。彼らが来てくれることを村人と一緒に楽しみにしていただけに、痛い。半隔離の村で暮らしていると、外部の人間が無性に恋しくなることがある。ワークキャンプ開催を楽しみにしている村人の気持ちに少し近づいたかもしれない。ただ、彼らが村に住んでいる年月は数十年という長さだ。私はまだ1週間もたっていない。
「何でワークキャンプに参加するんだい?」 [2003年04月25日(金)]

朝8時半、黄院長がリンホウ医院に来た。私が院長室でパソコンをいじっていると、彼が入って来る。
「何でワークキャンプに参加したんだい?」
院長が筆談してくることは珍しい。私はキャンプに参加しようと思った経緯を書いていく。かなり時間がかかったが、院長は私のペン先をずっと追ってくれる。次のようなことを書いた。
私がハンセン病関係のワークキャンプに初めて参加したのは2002年2月、就職活動真っ盛りのときのことだ。FIWC関西委員会主催が主催する楊坑村(ハンセン病村)でのキャンプだ。参加した理由は、就職する前に自分自身の中にも差別意識があるのかを確かめたかったからだ。
そんな自虐的なことをしたわけは、幼い頃の経験による。私は小学校の頃イジメられたので、差別というものを憎んでいる。新聞記者になって、差別問題に取り組みたいと思った。2002年1月、私は某新聞社の志望書の志望動機欄にこう書いた:「差別をなくしたい」。
そのとき、ふと思った、
「おれは差別しないのか?」
この疑問を抱いて以来、就職活動とキャンプとどちらを優先するか悩み始めた。そして2002年2月、楊坑村のワークキャンプに行くことにした。

私は差別者だった。楊坑村の人々に初めて会ったとき、私は「ニーハオ」と言うのが精一杯だった。ハンセン病の治療が適切になされなかったため、彼らの顔や手足は変形している。私は驚き、恐れ、握手することはできなかった。
しかし、キャンプ期間中の10日間、村人と一緒に過ごすうち、彼らは普通のおじいちゃん、おばあちゃんであることに気づいた。いや、普通どころか、尊敬に値する人々であることに気づいた。有効な治療法がない時代にハンセン病を病んだ彼らは、身体が変形した。家族さえも彼らを差別した。にも関わらず、彼らはあんなにいい笑顔を見せる。なぜだろう。日々、自分が悩む問題は、ほんの些細なことに思えてきた。
彼らとの出会いが、私を変えた。彼らのことをもっと知りたい。彼らの生き方から何かを吸収したい。そんな想いが、私をワークキャンプに参加させている。

医院の職員も差別されてるんだ
しっかり読んでいてくれた院長は次のように書いていく、
「そうか。でも、差別をなくすのは容易なことではないぞ。特に、中国が『改革開放』政策を取って以来、人々の貧富の格差はどんどん拡大している。私たちはここリンホウで仕事しているだけでなく、県の衛生局で会議を開き、社会の支援を求めている。それでもまだ我々医院の職員でさえ、差別されることがあるんだ」。
「日本や地元潮州市から学生たちがリンホウに来て、テレビが取材して以来、差別は少なくなったなんてことはありませんかね?」
「この広い社会において、キミたちや師範学院の学生、潮州のテレビのように熱心に取り組む人はまだあまりいない。差別する人は少なくない」。
まだまだ、差別問題の先は長いようだ。

村に住むのはダメだ
「ここでの生活はどうだい?」
そう尋ねる院長。いい機会なので、彼に頼んでみる、
「村はやっぱりいいですね。村人と一緒に住ませてください。ここ院長室に泊まるのは気が引けてなりません」。
「遠慮するな。職員2人が定年退職して部屋が空くんだから。村は地形が複雑で、ここのように周囲を囲う壁もないし、外の人間が来ることも多い。何か危険なことが怒るのを恐れている。医院に住みなさい」。
「でも、村に住みたいんです。村人がいるから危険なこともないと思います」。
「危険じゃないと思うことが危険だ。遠く日本から来てくれたことをとても感謝している。キミの安全を守ることは我々の重大な責任なんだ。村は以前、ものがよく盗まれた。村人が見張っていると言っても、彼らは年を取っているから無理だ」。
やっぱり、ダメか…。

ケンカはしていないのかな?
カンペイちゃんが長屋Aを去ったことは以前に書いた。彼と筆談する機会があったので、なぜ長屋Aから引っ越したのかを訊いてみる。
「涼しいからこの部屋にしたんじゃ」。
確かにこの部屋にはとてもいい風が吹いてくる。
「でも、3月は長屋Aで寝てましたよね?」
「冬はあの長屋を使うんじゃ」。
他の村人と何か問題があることは一切触れなかった。カンペイちゃんはホントに誰かと問題があるのか。チァロン(マーク)が大袈裟なだけではないだろうか。
ちょっと調子が出てきた日 [2003年04月24日(木)]

調子が落ちている原因は、コトバにあるかもしれない。声でのコミュニケーションの大切さを改めて感じる。
今日は朝から日本語を話す画家の楊さんが訪ねて来て、久々に日本語を使う。蘇さん・松立さんとお茶を飲み、潮州語を教わり、発音練習に付き合ってもらう。四川省から出稼ぎにきている人たちや村長と滅茶苦茶に中国語を並べて意思疎通をはかる。インイン・インチンと習いたての潮州語で笑う。HANDAのヴィヴィアンと電話する。
やはり、声を交わすのは気持ちいい。筆談にもいい味があるのだが、隣同士に座って携帯のメールをし合っているような感覚もある。ずーっと筆談では辛い。
中国語でのコミュニケーションのコツは、デカイ声で、はっきりと、リズム良く発音することにあるようだ。だんだん通じるようになってきたと思うのは気のセイか。これからHANDA通信を訳す事で語彙を増やしていきたい。

村に住めるか?
明日は黄院長がリンホウ医院にやってくる日だ。村の1室に住む許可を得たい。どの村人の家に行っても必ず村で寝るようにと言ってもらえる。そうしたいのはやまやまだが、院長が許可をくれない。
いつも村人にそう言い訳をしていることをヴィヴィアンに話すと、
「えー、僚太郎らしくないんじゃないですか〜」
と笑われる。
確かにそうだ。明日は院長に頼んで村に移動することにする。
気分最悪の日 [2003年04月22日(火)]

リンホウに昨日きたばかりなのだが、午後から気分が落ち気味だ。原因は多々ある。

率直に言ってくれ
朝、医院で食事を済ませた後、マークと村に向かう。彼は朝から元気がない。
「どうした?昨日あんまり寝れなかった?」
「いや、ラッキー(林少杭♂)がもしかしたら明日の勧誘を延期することになるかもしれないってメールしてきたんだ」。
訳を訊いても彼は答えない。
村までの6分ほどの道を歩きながら、昨日話した問題についてマークにもう一度きいてみる、
「チァロン(マークのことは中国名「佳栄」で呼ぶことにさっき決めた)、何か問題があったら率直に言ってくれ。でないと、おれは対処しようがない」。
「わかった、昨日の問題のことを話すよ。チャン=ジョンウェン(レオ)たちは、英語を教えるボランティア団体としてリンホウ村への寄付を2700元集めたんだ。そのお金で村にコンロを買おうとしたんだけど、学部長に反対されたんだよね。チャン=ジョンウェンの団体は学部長の許可なしに寄付を使えないんだ。自由に寄付を使うためには新しい団体―『愛心天使』を設立しないといけない」。
チァロンが話し終えるか終えないかで、曽さんと遭遇、
「アーっ、タイラン!」
そう言いながらタバコをくれる。続けて曽さんはチァロン(マーク)に浴びせるように話し始める。そのまま村に着き、話題は逸れてしまう。


汕頭(スワトウ)人
村人の食生活が豊かだ。2月のキャンプのときも豊かだったが、それは旧正月中で積み立てておいたお金を放出したからだ。今回はなぜだろう。
「このお菓子は汕頭(スワトウ)のカトリック教会が持ってきてくれたんだって」。
インチンの言葉をチァロン(マーク)が訳す。その他にも石鹸などの日用品、薬、服などたくさんのものを持って来てくれたらしい。この教会は、潮州テレビが放送した、リンホウでのワークキャンプを扱ったニュース番組を見て村にやって来たという。
やはり、教会と協力するのが得策か。先の白諸村でのシスターたちの活動にせよ、彼らには頭が下がる。
朝8時過ぎ、チァロン(マーク)は大学に帰って行った。

「乾!乾!乾!」
「あんたを歓迎するぞ。ここ何日か、いつ来るか、いつ来るかと思っていたんだ。うちに来たら茶、飲んでけ」。
お茶を飲みながら許炳遂さんのありがたいコトバに浸っていると、曽さんが焼酎の入ったペットボトルを提げてやって来た。
「タイラン、飲むぞ!」
「飲むぞってまだ朝の9時じゃないですか…。これからHANDAのニュースレターを訳さなきゃなんないし、夜にしましょうよ」。
「アーっ、そんなのどうでもいい、飲むぞ!」
曽さんはタップリと酒を注ぐ。
(ま、ちょっとだけなら…)。
「カン!」(乾杯!)。
誘惑に負けて飲む酒はうまいな。そう言った友人がいたが、ホントにうまい。
「タイラン、茶も飲め!」
曽さんにとっては、お茶がチェイサーのようだ。
「悠子は8月に来るのか?」
「まだわかりませんね」。
「そうか。カン!」
2人でグビっと焼酎をあおる。
「例の携帯電話型ライター(アンテナの部分を押すと呼び出し音と共に火がつく。曽さんのお気に入り)は持ってきたか?」
「あー、うちに置いてきちゃいましたよ」。
「何だ、持って来なかったのか。カン!」
もう一口。朝から酔ってしまう。

体の不自由さと共に生きる村人
蘇さんのところに行くと、彼は竹細工をしている。
「これ、ホウキですか?」
そう尋ねると、蘇さんはそれで地面をピシャリと叩いてみせる。ハエ叩きだ。蘇さんに編み方を習う。
「こうですか?」
「イヤ、違うな」。
「こうかな?」
「イヤ、違う。貸してみろ」。
ハンセン病の適切な治療がなされなかったため、蘇さんは手が麻痺している。指も短くなっている。それでも、刃物のような道具を使って、巧みに竹を編んでいく。3月は竹で大きな籠をつくっていた。

若深さん、インイン、インチンにお昼ご飯を招待された。メニューはご飯、春雨スープ、菜の花の炒め物、ソーセージ。眼が見えず、指があまりないインチンがご飯を食べる姿を始めて見る。インチンはインインに助けてもらいながら食事をとるのだと私は思っていた。違う。インチンはベッドの上に座ったまま、自分で食べる。
「ミー、ミー、来来!」
「ミー」とは潮州語でネコのことか、それともインチンのネコの名前か。とにかく、彼女はベッドの下に置いてあるネコ用の皿に食べ残りを移す。
(インチンは眼が見えてるんじゃないか?)
そう疑いたくなるほど、彼女は正確に食べ物を移していく。こぼさない。

リンホウの人々はハンセン病の後遺症が重い。眼の見えない人、指がない人、足が1本ない人。それぞれが道具を工夫し、不自由な身体を補っている。自分の身体の不自由さを受け止めて生きている。彼らのその姿を見ると、自分がちっぽけに見えてならない。

気が狂いそう!
しょぼい話だが、リンホウ2日目にしてイッパイイッパイになる。昼ご飯を食べて、HANDAのニュースレターの翻訳をしているときのことだ。うまい具合に翻訳は進まない。
原因は、まず、リンホウ医院の待遇が良過ぎて恐縮し過ぎてしまうことにある。部屋は院長室、電気・ガス・水道・電話代はいらない、ご飯は黙っていても自動的に出てくる、皿すら洗わせてくれない。返って居づらい。
村人も歓迎してくれ過ぎる。茶飲め、酒飲め、お菓子もって帰れ、卵もってけ、昼飯くってけ、虫刺されの薬をやるぞ…。このままでは村人の家計を圧迫してしまう。
さらに、私の仕事はかなり大変で、しかも多いことに気づいたことも原因だ。HANDAのニュースレターの翻訳は意外と時間がかかる。斜め読みして内容を把握するのと、一字一句を翻訳するのとではエライ違いがある。しかも、医院の職員が遊びに来るので、集中できない。師範学院の学生団体設立も前途多難だ。モグネットや他の団体にもレポートを書きたい。
(頭使うことは午前中に済ませて、午後は村や大学に行こうかな。で、夜また頭使って…。あー、時間が足んねー!)
悩んでいても翻訳は進まない。Blue Heartsをかけて、部屋を掃除し、荷物を整理する。

郭さんも心配だし…
もう1つの原因は、郭さんにある。ジエシャン(ジル)によると、3月に日本のキャンパーが帰った後、郭さんは脳の状態が悪化したという。言われてみると、郭さんが大きな声でしゃべっているのをまだ聞いていない。あまり元気がない。
夕方、新しい部屋に引っ越した郭さんを訪ねる。彼は虚空を何度か拝むと、お茶を入れてくれるという。
「チョウ」(座りな)。
やっと聞き取れるくらいの、かすれたヒソヒソ声。お湯を沸かしている間、
「チョイシャ」(ありがとう)。
そう小さく言って、郭さんは私にしばらく手を合わせる。彼は横を向くと、潤んだ赤い目を拭う。
2人は無言で、お湯が沸くのを待つ。ヤカンがカタカタいう音と、郭さんが鼻をすする音だけが部屋に響く。
喉の下の方が痛くなってくる。


嫌な夢
そういえば、昨日の夢も痛かった。郭さんと別れ、夕飯を食べに医院に戻る道で思い出した。4月に某新聞社の記者になった、大学で仲のいい友人の夢だ。彼は言う、
「想ってた以上に記者は楽しいよ。おれサァー、社内での成績がDランクだったんだよねー☆」
なぜか、夢の中でこの新聞社は記者をAからZまでにランク付けている。彼は新入社員の中ではダントツの成績だそうだ(※彼はとてもイイやつで、大好きです)。
記者志望だった私は昨年9月、新聞社の入社試験の秋採用を受けずにリンホウ村に行った。夢の中で私は思う、
(あー、あん時、秋採用うけてれば、もしかしたらおれも新聞記者に…)。
潜在意識の中で、私は後悔しているのだろうか。

追い討ち
ジエシャン(ジル)から電話がかかってくる。
「ハーイ!リョータ(僚太郎)!」
「オー、ジエシャン?」
ちょっと救われた気分がした。
「謝らないといけないことがあるの」。
ドキッとして理由を訊く。
「今朝シャオハン(ラッキー)がチァロン(マーク)にメールしたから知ってるかもしれないけど、うちの大学ね、SARSのせいで外国人が出入り禁止になっちゃったの…。だから明日、リョータは来れないわ。明日の勧誘と木曜日のインタビューは延期しましょう。」
救いは吹っ飛んだ。SARSだ。だからチァロンは今朝、元気がなかったのか。ジエシャンによると、SARSの危機が去るまで、外国人の出入り禁止は続くかもしれないという。それっていつの話なんだろう。「愛心天使」の設立はいつになるんだろう。FIWC関東のワークキャンプ(8月)はどうなるんだろう…。
とりあえず、彼らの時間がある日に大学の外で話し合うことにし、失意のうちに電話を切る。

ちょっとだけ救われる
5分と経たないうちに、再びジエシャンから電話があった。
「明日、大学の近くで話し合いましょう」。
とりあえず話し合いの場を持ち、団体設立の準備を進められそうだ。しかし、これからどうなのか。「愛心天使」設立が不透明度を増せば増すほど、私の気持ちも落ちていく。
(おれにも天使が必要だな…)。
リンホウ到着 [2003年04月21日(月)]

ついに、リンホウにいく。10時のバスで広州を発つ。

興奮する学生たち
アホみたいにでかいバックパック、CDのデッキが入ったバッグ、タコ傷削りの道具が入ったプラスチックのケース…。これらを背負って16時、潮州に着く。
バスの待合室でタバコを吸っていると、「アーっ」という奇声が聞こえる。師範学院の学生・マーク(朱佳栄♂)の声だ。彼は、クラスメートのジル(蔡潔珊♀)と一緒に迎えに来てくれた。
あいさつもそこそこに、彼らはリンホウを支援する団体の話を興奮して始める。
「ボクたちの新しい団体の名前は『愛心天使』ってゆうんだ。ポスターが明日には出来上がる」。
「これが私たちの新しい団体のチラシよ」。
チラシには「愛心天使」のロゴまでついている。
「水曜日には大学内でメンバーを募集するんだ」。
「木曜日には大学内の放送で僚太郎にインタビューするから、話す内容を考えておいてね」。

院長室を占拠
だんだんリンホウに近づく。砂埃がすごい。眼も口も覆わなければならない程のこの空気が懐かしく、心地よい。
「院長室を1年間使いなさい」。
リンホウ医院に着くと、職員の高さんはそう言う。2階の倉庫に泊まると言っても、彼は頑として譲らない。院長の意志だという。

いつも通りの曽さん
薄暗くなってきた19時ごろ、村に向かう。向こうから黒い人影が。村人の曽さんだ。
「アーっ、タイラン!」(僚太郎の『太郎』の中国語の読み方)。
「アーっ、曽先生!」(「先生」は「さん」の意)
抱き会って再会を喜んだ後、いつものように彼はタバコをくれる。変わったのは、帽子が赤のニット帽から黄色のナイキになったことくらいだ。

静かな郭さん
さらに行くと、長屋Bの窓から光がもれている。3人が引っ越したと聴いていたが、もっと多そうだ。
手前から3つ目の部屋の入口に若深さんが座っている。
「あーっ、ニーハオ、ニーハオ!この部屋はどうですか」。
「うーん、なかなかいいぞ」。
彼の奥の部屋は郭さん。部屋からゆっくりと出てきた。前回の再会のときと同じく、郭さんは静かにうなずく。
「新しい部屋はいかがですか」。
郭さんは親指を立ててニヤリと笑う。茶色の新しい茶器がおいてあり、静かにお茶を入れてくれた。

インチンとハグ
長屋Bのいちばん手前の部屋にインチンの姿が見える。
「ニーハオ、ニーハオ!」
爆音でラジオを聞いている彼女には大声で怒鳴っても聞こえない。ドアを開けて言ってみる、
「ライラ!」(来ましたよ!)
「オー、タイラン?ハオハオハオ!」
ベッドに座るインチンに寄って行くと、彼女の方から抱きついてきてくれる。
その物音を聞きつけた、隣の部屋のインインもインチンの部屋の入口に来て、ウッフッフ、と例の調子で笑う。

『苦難不在人間』
私が手紙、写真と一緒に送った本・『苦難不在人間』を蘇村長は読んでくれていた。この本は林志明というかつてハンセン病を病んだ人が書いた。ハンセン病を生きた彼の半生をつづったこの本は、蘇村長の精神の糧になっているという。

テレビの反響
劉さん宅に行くと、劉さんは何やらゴソゴソ探し始める。出てきたのは、1枚の名刺。「楊道明 画家」とある。村にやってきたという楊さんの名刺には、物々しい肩書きが並ぶ。「中華人民共和国體育運動委員会籠球裁判員、中華體育籠球協会会長、広東省潮州市老齢人書画研究会会長」。
どうやらこの画家は、中国のナショナル=バスケットボール=リーグのえらい人のようだ。しかも名刺の裏面には日本語が書いてある:「ワタクシハ、ヨウ トウメン デス」。
3月のキャンプ中、潮州の地元テレビ局がリンホウを取材した。この番組を見て、楊さんはリンホウを訪れたという。マークが彼に電話したところ、時間のあるときにまた村に来るということだ。

4人だけで…?
「水曜日の勧誘をするのは、ボクとジル、ラッキー(♂)、リョータ(僚太郎)だよ」。
4人だけ?「愛心天使」―リンホウを支援する団体―のオリジナル=メンバーが4人だけだって?耳を疑う。
「ローリー(馮英傑♂)は来ないの?」
「彼は足を捻挫したから…」。
「ナンシーは?」
「ナンシーって誰?」
英語名はときどき通じないことがある。
「ヤン=リィ(楊麗♀)」。
「さぁてね」。
「じゃあ、レオは?」
「レオって誰?」
「チャン=ジョンウェン(張増文♂)」。
「あー…。うーん、ちょっと問題があってね…」。
「問題って?」
「うーん、ちょっと複雑で何て言っていいかわからない…。別にケンカしたとかゆうことではないんだけど…」。
チャン=ジョンウェンというのは、師範学院内の英語を教えるボランティア団体のボスだ。彼は3月のキャンプではリンホウを支援する団体の設立に最も積極的だった学生の1人だ。
そういえば、中国に来る前、チャン=ジョンウェンとのメールのやり取りで気になることがあった。彼とヤン=リィは2700元(約4万500円)の寄付を集め、そのお金で村に扇風機を買おうとした。しかし、学部長からストップがかかったという。1台180元(約2700円)の扇風機を13台買うのはコストがかかりすぎるというのが理由らしい。
「問題ってさ、学部長とじゃね?」
「うーん、まぁ、そんなところだね」。
マークはそれ以上、何も言わない。
曁南大学訪問 [2003年04月20日(日)]

曁南大学の学生たちと会う機会があった。広東省にハンセン病支援のネットワークをつくる上で、彼らは協力してくれそうだ。

曁南大学訪問
曁南大学は広州市にある名門大学。ここの卒業生でもあるHANDAのヴィヴィアンの紹介で、この大学の日本語学科の学生・梁棟彬くん(♂)と知り合うことができた。梁くんは今年の2月にFIWC関西委員会のメンバーと会っている。同委員会主催の8月キャンプ(ハンセン病療養所・楊坑村)に参加してくれそうだ。キャンプの日程を6月15日までに教えてくれと彼は言う。
ヴィヴィアンは途中で帰ったが、梁くんと頼暁恵さん(♀)、馬哲くん(♂)と夕飯を食べることになった。みな日本語学科の学生なので、日本語でコミュニケーションをとることができる。ワークキャンプのことやハンセン病のことを話し、楊坑村を支援する団体を大学内につくってくれるように頼んでみた。
「うーん、難しいですねー。でも、やってみます」。
日本語検定の1級を持つという梁くんの協力は頼もしい限りだ。つづけて彼に提案してみる、
「FIWC広州委員会をつくって、委員長になってよ」。
梁くんは照れながらも嬉しそうにする。
別れ際、馬くんが言う、
「キャンプのことを友達に話しておきます」。
頼さんもかなりキャンプに興味を持ってくれているようだ。彼らの今後の動きに期待したい。

SARSとワークキャンプ
「SARSのせいで、キャンプは中止になるんじゃないですか」。
梁くんはそう言う。そう言われてみれば、SARSが夏までに収まらないとキャンプ開催は難しいかもしれない。ただ、マスコミの報道が行き過ぎている感は否めない。SARSにかき乱されている香港の映像は、ここ中国でもよくテレビで目にするが、広東省広州市では「対岸の火事」だ。現に私はSARSの脅威をここ広州市で感じない。
「香港は大変みたいですけど、ここは大丈夫です」。
梁くんはそう言い切る。ワークキャンプ開催に特に支障を来たすわけではないと思う。香港の映像を映し、広東省全土が危険だとするのはどんなものか。
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