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2002年09月13日

初めての韓山師範学院

マイケルの義理の弟、チウ=タンポンさんの運転する車で、韓山師範学院にいった。外語系(外国語学部)の事務所に行くと、許偉智先生という日本語教師に会えた。彼によると、ここの学生は第二外国語として日本語を勉強している。3-4年次に勉強し、4年次には実習や卒論で忙しい。英語学科の学生は80%女性で、1学年140人で合計600人いる。11月は中間試験なので、土日のみの参加になるだろうということだった。今年の冬休みは1月20日から2月12日。春節終了と同時に新学期が始まる。許先生の受け持つクラスの授業が16時15分に終わるので、そのときFIWC関東委員会の活動を紹介し、キャンパーを募集することになった。11時半はカナダ人の英語の先生ラリー=モリスに会い、キャンプの紹介を頼んだ。
昼飯と潮州観光のあと、大学の構内を歩いていると、日本語学科の学生に会った。ビラを渡し、メールを教えてもらった。これから実習を控えた4年生なので、キャンプに参加できるかはビミョウとか。
昼食前にばったり会った学生から団委会のチョン=ウェンフォン氏を紹介されたので、14時45分に会いに行った。FIWC関東委員会の活動目的やキャンプの申し込み方法を訊かれた。またワークスケジュールを1週間前までに知らせることや、ここの学生は週末しか参加できないことを告げられた。チョン氏はFIWC関東委員会の活動を了解してくれた。
16時15分、許先生に伴われ、英語学科の学生50-60名の前に出た。名前を黒板に書くと、爆笑。一通り西尾さんがFIWC関東委員会の活動を説明し、キャンパーの募集をした。問い合わせ先のメールを書き、モグネット中国版のURL、キャンプ開催の日程を書き、質問に答えた。
「私たちは就職活動や実習で忙しい。いつ参加するのか」。「他のFIWCのキャンプ参加してもいいのか」。「村人のために何がしてあげられるのか」。「FIWC関東委員会の活動内容が今ひとつ見えない。例を挙げて説明しろ」。

2002年09月12日

初めてのリンホウ

リンホウ医院。医師3人(ふたりは定年退職)、総務(会計)、薬の管理者。看護婦はいない。
村。いちばん若い郭聯浩(46)は他の村人の世話をしている。まきを割ったり、水を汲んだり、4キロ離れたふもとの町まで自転車で買い物に行ったりもする。「来てくれてありがとう」といっていた。小額のお礼も村人からもらっている。近くではさつまいもを育てている。
比較的新しい建物がたっている。8部屋ある。狭くてベッドを置いただけでいっぱいになってしまう。台所がない。夏季は暑い。ということで、新築にもかかわらず、みなは古い家に住んでいる。

村人紹介―
☆蘇文秀(74)
村長。「カムシャ、カムシャ(感謝)」を連発。彼は夏以外は小さな新築の家に住んでいる。台風のときも小さな家のほうが安全なので、そこに退避。1979年に右足を切断した。今もそれが痛み、何もできない。スタッフ(院長か)はよく村長のところに顔を出してくれるそうだ。”He does not have any hope in the future”というマイケルの訳に衝撃を受けつつ、次の家へ向かった。もう村長という役職に疲れたので、代わってほしいとか。
途中、濁った井戸が会った。村人はこれを沸かして飲んでいる。マイケルによると、「きれいではないが、村人には耐性ができているのでは」ということだった。この水はアルカリ性が強いため、茶が黒く変色する。現在、水質調査中。結果が分かるのは数日以内。計画ではこの井戸水を1トンほどの金属製のタンクに吸い上げ、カーボンでろ過して飲料水にする予定だ。

☆許ベンスイ(70)
昔は歩き回って薪を集めていたが、現在は足が痛くてできなくなった。トイレに行くのも一苦労。料理をしてくれる人も必要なので、トイレのある家に一箇所に集まって住んだほうが便利だとのこと。「ありがとう。お体に気をつけて」とこちらの心配までしてくれた。

☆陳宏広(75)
左足が完全に膿んでおり、包帯にまで膿がしみていて、筋肉はほとんどない。「痛い、カネない、薬ない。これから死ぬんだ」といっていた。彼はこの村でいちばん病状がひどく、歩くことはほとんどできない。隣に住む許ベンスイさんが料理をしている。時々消炎薬をもうらうが、無意味。

☆医者(陸さん。ただの薬剤師?)
「毎日村に来ています」というリンホウ唯一の医者は、30半ばの健康そうな男性。私たちについて回っていたが、村人と話すことはほとんどなく、少しはなれたところにうつむき加減で立っていた。

☆蘇振権(74)
歩けないので、郭さんが1日4杯、バケツで水を運ぶ。屋根は雨漏りする。何をすればいいかを私たちが考えるということがいちばん大切だ、といってしまうほど何もかもが大変で、何を望んでいいかも分からないほどだそうだ。「腹いっぱい食いたい!」「歩けないので他人に何もかも頼るのがいやなので、車椅子とそれが使える環境がほしい」とのことだった。足は関節に異常があるらしく、不自然に曲がる。紙に4人の名前を書いて渡した。

☆?
左右の指がまったくないが、足は健康。政府援助は120元だけで、米と肉を買ったら終わり。医者に見てもらうのにはカネがいるとも言っていた。家は雨漏りしている。

☆許若深(69)
足は健康だが、左足に赤いビニール袋の長靴を履いていたので、傷があるかもしれない。きれいな白髪のおじいさん。天井からは空が見える。ふたりの女性の村人を世話している。彼は28歳のときに入所した。

☆方紹平
「おつかれさま!若いですねぇ!」
部屋に入るなり歓迎された。元気。明るい。歩ける。笑顔には金の前歯2本が目立つ。ハザマカンペイにそっくり。夏暑い小さな家に住んでいるが、食事はこの家で作っている。彼は角膜潰瘍で、量目ともよく見えなくなったので、自転車での買い物が困難になった。「いちばん大変なことは?」というマイケルの問いに対しては、「たくさんありすぎていえない」とのことだった。
最後は「おつかれさま!」と元気に見送ってくれた。ふと、中国のおいしい菜っ葉が目に入ったので「ホーチャ」というと、かなり受けた。

家屋再建―
初めのアンは、今ある廃屋を1部屋ふたりで4部屋つくり、現在の暑い新築の家は台所にするというもの。廃屋のリフォームは不可能.というのは、壁がレンガではなく土壁なので、くずれてしまうからだ。
しかしこの案だと部屋数が足りない。そこで代替案として、L字型の建物を作り、個室7コと倉庫1つ、娯楽室1つの計9つに仕切るという提案がなされた。村人は14人なので、現在ある新築の8室と合わせて部屋数は十分足りる。トイレもつくる。夏季の暑さ対策としては、断熱材を敷く案や、二重構造の屋根をつくる案が出た。詳しい家屋設計図とあわせて、業者が2-3日中にHANDA宛に計画書を出してくる予定。
予算は1平方メートル当たり400元で、181平方メートルあるので、72,576元(108万円)ほどか。詳しく話し合うため、昼食をかねて町まで出た。
昼飯後、マイケルが院長と組長にFIWC関東委員会のワークについて紹介してくれた。彼らによると、FIWC関東委員会が労働するには業者と話し合いを持たなければならないという。というのも、業者は自分たちだけで作業を進めたがるらしいからだ。また、ワーク中に事故がおきると、外国人である私たちの扱いが面倒なことになることを警戒していた。
ワークの作業手順:家屋の建設・トイレ・水道で合計120万円必要な一連の作業の費用をまかなうためには、HANDAの意に反してワーク手順を@トイレA水道B家屋の順に変更し、3階のキャンプに分け、各キャンプでキャンプ費を40-60万円見込むことによって全額を調達することを考えていた。しかし、院長によると、それは不可能だということだ。なぜなら、作業中にはトイレが必要なことは当然である上に、家ができてからそれに合わせて水道を引かなければ成らないからだ。そのため、ワーク手順は、8月に家屋建設、9月に水道システムという順序になった。しかし、それではキャンプ費を稼げない。そこで、11月に破壊キャンプ、3月に断熱材キャンプを行うことになった。トイレはそれに間に合わせて院長が設置してくれる。
ワーク中の滞在場所は”anywhere”ということだった。暑い小さな家でも、病院でも、村の空き家でもOKで、最大20人ほどが滞在可能で、電気も通っている。ただ、ビールを冷やす冷蔵庫がないのが気がかりだ。
再び問題になったのは、FIWC関東委員会が家屋建設のどの肯定に携わるかだ。院長は、日本人がケガをして問題になることをとても恐れている。彼は業者の蘇さんを呼んで、直接話し合うことにした。蘇さんにFIWC関東委員会ができることを聞く。彼によると、まず@土地を測りなおし、A設計図をつくり、BHANDAにそれを送るという。土地の測量は明日やるといっていたが、ビビアンにせかされてこれから行くことになった。蘇山によると、院長の心配とは裏腹に、FIWC関東委員会の参加については問題ないという。
村で測量士、A-3日で見積もりが出ることになった。HANDAがそれを受け取り次第、FIWC関東委員会に送ってくれる予定だ。

2002年09月10日

再び、ヤンカン村へ

2002年9月、広東省潮州市リンホウ村でキャンプを立ち上げるため、下見に行く。その前にヤンカン村に寄る。

20020910
10時半、ヤンカン村へ到着。
予想以上の大歓迎に感動した。HANDAにFIWCがくると聞かせれて以来、楽しみにしていたとか。ただ、犬のおじさんは言う、
「今回は女の子はいないのか」。
シャワー室を何よりも先に見た。なんと、タイルがはがれまくり。大きく3箇所タイルのない部分が広がり、水槽のふもとにタイルの山ができていた。幸いタイルでのケガはないとのことだったが、本当のところはどんなものか。「モウマンタイ」と村人はいうが、それはぼくたちを心配させまいとする村人の配慮にしか聞こえなかった。村人が提案したように、今後のキャンプにてシャワー室のタイルをどうにかしなければ。タイルを新しく張り替えるのでゃなく、古いタイルをはがしてコンクリート打ちっぱなしの状態にすればいい。すべることを最も警戒していた。

おれが送った写真は無事にヤンカンについていた。うれしいことに、娯楽室の壁にべったりと全面のりで貼られていた。出っ歯のおばあちゃんがうれしそうに写真の貼ってある場所を教えてくれた。

11時ごろから食堂に村人が集まり、自己紹介をした。オウさんが急に語り始めた、
「ハンセン病患者は中国人から忌避されてきた。それにもかかわらず、日本人が10日間も一緒に友達のように暮らしてくれたのは想像すらできないことだった。私の人生にとって意味があることだった。みんな分かれのときに泣いたことがそれを示している。またきてくれることを期待していた。仕事をしなくても、ただ来てくれればうれしい。いつ来てもいい。泊まるのもかまわない」。
このオウさんの肉声をぜひFIWC関東委員会の定例会報告に載せたい。近々、彼はそれを手紙で送ってくれる予定だ。HANDAにも定例会報告を送ろう。

シャワー室について。ソーラーシステムの湯温を調節できないという問題がある。夏は熱すぎ、冬は冷たすぎるそうだ。そのためシャワーの湯をバケツにため、水を加えて湯を適温にして使っているらしい。気候が適すればシャワーとして使えるが、その効果を最大化するには、水と熱湯を混ぜるシステムを導入すべきだろう。

昼食は鶏を2羽絞めてくれた。メニューは内臓と瓜のスープ、内臓の炒め物、ゆで鳥、チンゲン菜、ごはん。だいどころおばさんが給仕までしてくれるという至れり尽くせりの内容。本多智子人気は相変わらずだった。やはり村人にとってコミュニケーションをとれることは大きいようだ。オウさんは国際会議にて英語を話せないことを残念がっていたし、おれが広東語の本をもっているのを見てかなり喜んでいた。智ちゃんが中号で就職したことを話すと、「おめでとう」と伝えてくれとのことだった。村人は話したいことがたくさんあるという。広東語を勉強しよう。

HANDA(IDEAチャイナ)
オフィス―
HANDAの経費はIDEA本部からの助成に加え、ALM (American Leprosy Mission)に申請した資金でやりくりしているという。メンバーは、
Dr. 楊理合
Dr. 陳亮(再勉強中)
Dr. マイケル=チャン(コーディネーター)
Dr. 唐辛
看護士3名
ヴィヴィアン=ポン(1ヶ月前に入ったアシスタント=コーディネーター)
羅運転手
義足技師3名
会計の女の子
出納のかわいいおっちゃん

マイケル以外のドクターは村を回っていることが多く、オフィスにはあまりいないという。

靴、義足工場―
2000年設立。広州付近の17の村へ3000足の靴を出した。足の裏の傷に合わせてインソールを加工したオーダーメイドの靴。プラスチック製の義足もつくっている(ブリキじゃない!)。ふつうは原価600元。それを5元で村人にゆずる。本当のところ、無償で提供したのだが、それでは村人が義足を粗末に扱うので、ひとり5元は最低でも取るそうだ。

キルティング工場―
2名は快復者の子供
4名は快復者
1名はマネージャーの元気な女の子
24名が江西省、広東省雷州の自宅でキルティングのバッグなどをつくっている。

そこで働く呉さんに話を聞いてみた。
98年から働いてる。足の傷が治ってからここで働いている。

楊久妹さん
6月渡米し、HANDAの代表として国際女性会議に出席。HANDAで働く以前の生活は苦しかった。

もうひとりの呉さん
7歳で発病。母もハンセン病で隔離されており、その存在を知らなかったが、発病したときに母の存在を父から聞かされた。現在、夜間学校でデザインを勉強中。

ここの人はすべて家族間感染。このアパートの家賃は一ヶ月1600元。5部屋+トイレ・バス