殆ど同期日=40余年前=に台湾国立師範大学国語学課に留学しそれ以来の友人であるSが三年半の癌闘病生活で10月25日土夜明け4時に亡くなった。この男、一時は台北で生徒数400名にも達する大きな日本語学校を経営、入学学生の授業申込み日銭が入るのでその現金を不動産投機に回し時勢に乗って台北市内に11件以上も有していた。1990年前にその不動産パブルがはじけてこれまでの大名生活が一瞬に消し飛び民間からの債権者がドット押し寄せて来た。台湾籍の奥さんは旦那の手を取って先ずは国外脱出し国民党政府の反攻大陸スローガンならぬ反攻台湾不動産市場の体制建て直し=I shall return-マッカーサー将軍=と日本に飛び逃げた。然し、Sは俺の人生の場は台湾だと手を引く奥さんの手を振りきり台湾に居座ることにした。奥さんは台湾に残ると腹をくくった旦那に民間債権者の取立て騒ぎが降りかかるのを避ける愛情から離婚を申し出た。Sの在台湾居留資格は奥さんの国籍に対する依親規定であるので離婚と同時に法律的には一般旅行者と同じ二ヶ月以内の滞在となったしまった。今思いだだすとその時の光景はSの奥さんから「倒産しました。今飛行場です。Sさんは台湾に残るといってます。宜しく相談に乗ってくださいね!さようなら」
この電話口での言葉を峰太郎は受け取った時峰の上さんに「大変なことになった。当座の生活費としてSに銭を渡してあげよう!」と伝え会社の金庫から当時の金で七万元(当時の新入社員の月給二万元位)を峰はSに直接渡した。「当面はこれでしのいで!」と、、、実際にS夫婦のどたばた劇の様相は全く不明であった。---続きます---
この電話口での言葉を峰太郎は受け取った時峰の上さんに「大変なことになった。当座の生活費としてSに銭を渡してあげよう!」と伝え会社の金庫から当時の金で七万元(当時の新入社員の月給二万元位)を峰はSに直接渡した。「当面はこれでしのいで!」と、、、実際にS夫婦のどたばた劇の様相は全く不明であった。---続きます---