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済州島 [2008年01月07日(月)]

 新宿歌舞伎町の裏、職安通りは韓国街になった。コンビ二もスーパー、商店の看板は韓国語があふれている。大久保駅にかけて7万人とも10万人が住んでいるという。巨大ジャガイモという店もあり、トルハルハンも立っている。早稲田通りの交差点を半径1Kmに、韓国系キリスト協会が5つも建っている。この付近を毎日散歩しているが、すれ違う人たちから日本語は聞こえてこない。数年前までは、中国、イラン、ペルー人と国際色豊であったが、近頃
は韓国と中国人が目立っている。一人が部屋を借りると、いつの間にか三、四人が同居しているようだ。

 沿海州灘に浮かんでいる済州島は、大きな馬鈴薯型をした火山島、東西約80Km南北約40Km、玄武岩礁の風土は黒褐色で、朝鮮半島で一番大きい島だ。この島に季節を変えて4回ほど取材にいったが、毎回、入国手続きのとき飛行場で半日も待たされる。どうやらブラックリストに載っているらしいのだ。ソウル・釜山に行っても同じありさま、韓国は好印象ではなかった。荘厳な奇岩絶壁、西帰浦は新婚カップルでいっぱいだ。本土には海女がいない、済州島の海女は日本の海女より永く潜れるので漁獲量が多い。日本の大和桜の元木があるというので行ってみると、大きな老木に桜が咲いていた。守り神のトルハルハンが民家の入り口に立っている。「アイゴー・アイゴー」悲しい泣き声が黒い石垣に挟まれた道から聞こえてくる。三神人あり地、地中から湧き出した神など、信仰心は歴史的に深い。

 東京大学出版会「済州島」によると、大阪市において、韓国人の90%は済州島人であった。かって島の南部の西帰浦港と大阪の尼ヶ崎を結ぶ阪済線が存在していた関係で、多くは朝鮮本土を知らずに渡ってきた。その後、東京の三河島、三谷地区等に移住して、ゴム靴職人や裁縫業についた。
 韓国の次期大統領に決まった李明博は大阪生まれだ。当選から一夜明けて「過去の政権は北への批判を遠慮してきた」「経済再生」と記者会見で。韓国歴代大統領は、政権時代の疑惑で裁判にかけられている。李明博も立候補の段階ですでに疑惑をもたれているものの、保守大統領の椅子を勝ち取った。
アンコールワット [2007年10月28日(日)]
「やや!!。暗闇の中で大地がうごめいている。」



 夜になっても茹だるような温度が下がらない。
アンコールワット遺跡と並んでアンコールトム。
この遺跡の中心となっているのがバイヨン寺院、巨大な石が四方に向かって彫られた観音像の顔が迫りくる。
 遺跡を侵食する樹木、自然の生命力をまざまざと見せつけられる危機迫る姿の夜間撮影を試みた。カメラを三脚に乗せるが、三脚ごと動いてるのだ。闇の中でトッケイ(ヤモリ)の大合唱と猫か栗鼠みたいな小動物が目の前を走り去る。足下の枯れ葉を懐中電灯で見ると、無数の赤い蟻が沸き上がるように地面全体に積もった枯れ葉を動かしているバイヨンの南大門だった。


1992年、アンコール遺跡として世界遺産に登録。
ヒンドゥー教寺院として建立。敷地は東西1500メートル、南北1300メートル、周囲を幅200メートルの堀で囲まれている。12世紀前半アンコール王朝のスールヤヴァルマン2世によって建設されたという。これらの遺跡群を発見したのは一八六〇年、フランスの博物学者アンリー・ムーオによって世界に知らされた。
 雨期と乾期に大きく二つに別けられる気象風土、何処から膨大な石材を象が運んできたのだろうか、財宝はどこえきえたのか、何故、西向きに建てられているのか、興味える疑問が幾つもある。これらの疑問について上智大学アンコール調査資料にも載っていない。

 三重の回廊に5つの塔、広大な堀からなる建造物アンコールワット。第一の回廊には伝説や神話が見事な彫刻で彫られている。第三回廊のデバター(女性像)の美しい壁画には、それぞれ身に着けている物、表情、姿に個性がある。急勾配階段を中央塔へ登ると、上部テラスから塔の四方に彫られた観音像の顔が迫りくるように見える。ほぼ等身大の象が彫られたテラスなど数々の見どころが圧巻だった。石像や回廊を血管のように細くからまる樹木、押しつぶしそうなフイカス属の樹木の種子は、割れ目に飛んで来て、石の隙間を広げて大きく育っていく。
 何でこんな風になるのか大自然の不思議です。
 六日間の取材日程の最終日に夕焼けをみるために、アンコールワットの正面に團伊玖磨さんと石のテラス腰掛けていた。ほとんどの遺跡を見終わって満足感に溢れていた。雲ひとつ無い西の空が真っ赤に染まり樹海の向こうのトンレ・サップ湖の方向に太陽が沈んでいった。ワットの五つの塔を紅色の豪華な絵巻物のようになって美しい。すると数知れぬネズミの鳴き声が聞えてきた。空に流れる黒い帯が五つの塔から沸き出しているのだ。何千何万のコウモリの塊りが西の樹海の向かって消えてしまった。フイルムでは写す限界をこえていたので残念でたまらなかった。
 四月の終わり、もうすぐ雨期がやってくる。
 カンボジヤ内戦のポルポト軍がアンコールワットに入った。射撃訓練で石像群が狙われたと報道があった。

 
1968年、週刊朝日カラー別冊夏号



追記、家族付き合いをしていた團伊玖磨さんとは、南米のアマゾン、オーストラリヤ、タイ、中国、アメリカなどと地球狭しと楽しい旅をご一緒させて戴いた。

オペラ「夕鶴」童謡「ぞうさん」などの作曲家、随筆アサヒグラフ長期連載「パイプのけむり」などでも知られる團伊玖磨さんはグラフ廃刊まで34年間続いた。最後の随筆は、「さよなら」だった。2001年6月17日午前1時40分市の病院で死去した。77歳だった。取材中に一度もメモを取る姿をも見なかった。
北京の日中友好協会から知らせが合ったので旅行の準備をした。
ハノイの記憶 [2006年11月13日(月)]
   ハノイの「ドラえもん」

 これといった目標物の見当たらない深い緑の樹海の間を、茶褐色の紅河が蛇行している。ベトナムの首都ハノイのメイバイ空港に近づいたのだ。一度は訪れてみたいと思っていたベトナムの首都ハノイ。昔から抱いていた疑問と、ささやかな記憶が蘇る。
 日、仏、米、中と、三十年もの長期にわたった戦争の果てに勝ちとった誇りある民族の統一。それを果たしたのは、一九七五年四月三十日。このとき、私はパリにいた。
 この日のフィガロ紙の一面はF I N (終わり)の三文字だけだった。パリのブルジェ空港に続々と輸送機が着陸してきた。幼児を胸に抱きかかえながら、黒衣装に身包んだシスターの行列がつづき、無言のまま空港ロビーを通過していった。その子供たちは、もう二十歳になっている。

 「独立と自由ほど尊いものはない」空港ロビーにに飾られた建国の父、ホー・チミンのタペストリーが「ハノイへの記憶」を、一層鮮明にしてくれる。
 空港から国道一号線を南に向かう頃、斜光線が田園風景の水牛や稲穂をきれいに浮かばせる。道の両脇の農家には、色彩も鮮やかなカラーテレビがつけっばなしになっていた。その明かりで人々が生活する様子を視野にいれることができるのだだが、交通量が少ないのに対向車と交差するときの乱暴な運転に思わず目を覆ってしまう。北爆で何回も破壊されたロンビェン鉄橋を渡ると、森と湖の美しいハノイ市街だ。
 改装された最高級のメトロポールホテルの立派なバーには、世界中の銘柄のアルコール類が並び、サロンでは民族音楽が演奏されていた。アオザイの衣装を着たスタイル抜群の女性たちの働く姿は魅力的だが、日本の小中学生ほどのと背丈と体格だ。全般的に小さいのは、長い間つづいた戦争で食料不足がもたらした経済後遺症のためなのか、よけいなことを考えながらベトナム製ビール#333 パーパーバーのビールを飲む。

 伝統に誇りある民族が、長期戦争に学んだ「新しい風」がドイモイ(刷新)だ。
 「すべてを変革して、新しい物を生み出すベトナム独自の社会主義」。ドイモイは急激な変革を望まない、と名付け親の元首相代理で経済学者のグエン・スアン・オアイン氏は、語っていた。(NHK特集)で。
 社会主義路線を進めていた国の象徴はレーニンの銅像であった。ソ連邦崩壊後、倒されて解体された国が多いというが、市の中央に建てられているレーニン像はまだ健在だ。ハノイの大学にはロシア語の教科はあるが。まだ英語の授業は行われていないという。
 南は教育熱心で開放的、北は保守的で忍耐強いといわれるベトナム。南北の経済には大きなひらきがあるようだ。インフレも三ケタを記録していたが、九二年度には十七・五&に落ち着いた。そけでもベトナム通過一万ドンに対して一ドルの換算率。五千円を両替してみたら分厚い札束が輪ゴムで括られて、ポケットに入らない。  
 建て替えられたドンスアン市場に向かう通りには、路地ごとに沢山の露店が並んでいる。衣料品や食料品、テレビ、ビデオ。扇風機などが道路に積み上げられている。電器屋、大きな花輪のケーキフラワーが飾られた花屋。その前の美容院では、お客が一緒になってカラオケを楽しんでいた。ホテルから近いチャンティエン通りがこの街一番の繁華街だ。映画館前にあるアイスクリーム屋が、若い人たちの一番人気。
 市民たちが憩うホアンキエム湖には、十五世紀のレロイが明軍を破った記念碑の亀塔遺跡が小島に建てられている。昼寝をする人、肩を寄せる若いカップルたち。すべてがのんびりとした時の流れの中にある。岸辺から水面にはりだした太い木の上で、子供が本を読んでいた。よく見ると、藤子・F・不二雄の「ドラえもん」。小市民の家族の絆が大切にされ、のび太くんと一緒にわるものをこらしめるキャラクターに、ベトナムの子供たちの人気が集まるのかも知れない。
 フランス統治時代を思わせる落ち着いた町並みに、朝夕のラッシュ時におこるオートバイの騒音がものすごい。日本製の中古車軍団が道路狭しと爆走する。ハノイ市公務員平均年収が五百四十ドル。新品のオートバイが年収の五倍に当たる二千五百ドルだ。ボディにに書かれた保育園の日本語をそのままにしたバスが走る。ベトナムと日本の外交関係成立二十周年を記念して、十月に日本月間が催された。オープニングセレモニーには、多数の外交関係者が招待され、盛大に打ち上げられる花火がハノイの夜空を彩る。日本・ベトナム友好という仕掛け花火が湖面に浮かぶと、市民からの大歓声が上がった。この日はレーニン劇場でも平和音楽祭が開催されていた。
 ベトナムの食文化はおよそ三つに分けられる。五本指、ナイフとホーク、そして漢字文化圏だった箸。朝夕は餅米で作った汁うどんが普通のせいか。米を加工した食品や菓子などの種類多く、農業国ベトナムは、年間の米輸出量二○○万トンで世界第三位だ。水田の中には墓地が一定方向に向いて点在し、その間を重そうな水桶を肩に担ぎ、黙々と女性たちが行ったり来たりしていた。その水田を見るために紅河堤防の道路を走ってきたのだが、途中、犬の料理屋が軒を連ねて、篭に入れられた犬たちが可哀想でうんざりしてしまった。食習慣が違う国民性だから豚や牛と思えばと自分に言い聞かせるのだが、やはりなじまない。そういえば、ヘビ。猫、ネズミ、ヤモリなどが市場で売られていたことを思い出す。 
 東南アジア最大の国際河川メコン河流域では、昨年のカンボジァ和平の実現でやっと戦火が収まった。ベトナムの国民総生産の伸びは年八・三%と二ケタに迫る勢いで、世界中から注目され。東南アジアの大動脈メコン河流域は。豊富な資源開発と市場経済開放の巨大な可能性を秘めている。米国のベトナム禁輸解禁と国交正常化は、二十一世紀にむかう長期陣取り合戦の一歩でもある。

            一九九四年六月 世界
 
瀬戸内寂聴さんとチベットの旅 [2006年10月30日(月)]
 文化勲章の叙勲おめでとうございます。



 チベットのポタラ宮を見たら、死んでもいい・・・と、高山病の予防薬を飲みながら、大きな声で話していた瀬戸内寂聴さん。
 厳重な鎖国政策をとっていたチベットは、世界の秘境と呼ばれていた。八一年に観光が許された一行は、チベット学者で構成されていた。団長は高野山大学学長の酒井真典師、それにチベット語が堪能な学者が三人もいた。比叡山の千日回峯行をなしとげた大阿闍梨の小林栄茂師と私は同室だった。
 平均海抜四千メートルのチベット、ラサ市の中心街にある金色屋根の大昭寺はラマ僧たちで溢れていた。八角街の石畳の上をひれ伏しながら五体投地で回って祈る巡礼者、舌をペロリと出してチベット式挨拶をする遊牧民。歴代ダライラマの大宮殿ポタラ宮は、文成公主を祀る法王堂に灯明用バターを持った参拝者が絶え間なく、チベットの象徴のようにそびえ立っていた。          
 目が覚めると、ホテルの前に沢山の群衆が列をつくっていた。日本から来た生き仏の大阿闍梨さんの「お加持」をしてもらうために待っているのだ。僧衣に着替えた小林栄茂師が背を丸めて牛のように突き出した頭を、叩きながら走って行った。
 「千日回峯行最終の室堂行は、暗闇の中で何を考えているのですか」と、昨夜、寝ながら尋ねたら、「決まっているだろう、寿司に天ぷら、大好きな食べ物が走馬燈のように頭の中をぐるぐる回っている。室から出るときに、明かりが目に直接入らないように白い布越しに二つの茶碗が差し入れられる。一つには水がなみなみと、口の中をすすいて空の方に移す、そのときに一滴ても喉を通せば、毒素が回って生命が危険になる」。

 薬屋で瀬戸内さんが「六神丸」を買っていた。日本人がよく買う六神丸の効用は、盃に十粒ほど大吟醸酒で溶いて男性自身のあそこに塗ればながもちするそうですよ。と冗談に言った。
 東京に帰ってから何度も電話を頂いた。徳島の知人にあげたら大事件が起こって、その人が離婚したというのだ。また暫くして、あの人が若い奥さんと結婚したとの知らせに、六神丸の効用ですよと、よかった、よかった。

 詳しくは瀬戸内寂聴著「わが性と生」新潮社。

河口慧海が学んだセラ寺の庭に咲き誇っていた背の高いコスモスが、とても印象に残っている。

             一九八一年三月号 旅