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スワニー川の彼方 [2009年08月17日(月)]


 ステファン・フォスターは、三十八才の生涯に残した歌は百八十八曲。アメリカンカントリーミュウジュックは、世界中の人々に親しまれた。アイルランド系の移民として一八二六年にピッツバークで生まれた。

 最近余り耳にしないカントリーミュウジュック「故郷の人々」「金髪のジエニー」「草競馬」「マイ・オールド・ケンタッキーホーム」など、アイルランド民謡のリズム感が漂う代表作がある。この頃のアメリカでは、リンカーン大統領が再選され、南北戦争の終結に向かっていた。

 ニューヨークのウォドルフホテルで東京から飛んでくる團伊玖磨さんと待ち合わせて、フォスターの記念碑をたどる旅にでた。ピッツバーク大学フォスター記念館、デトロイド・デァボーン公園の移築された生家、ケンタッキー、インデアナポリス、シンシナティ、フロリダのスワニー川、ゆかりの地はさまざまな風土であった。



 フォスターは、晩年をニューヨークの1ストリートの東果て、中華街に近いバゥワリーストリートにあるアメリカンホテルという名ばかりの木賃宿でアルコール中毒によって悲惨な最後を遂げた。通称、酔っぱらい通りでは資本主義の物欲からはみだした落伍者がたむろしていた。信号待ちの車の窓ふきで二十五セントコインをねだる。一j貯まると一目散にドラックストアに飛び込んでビールを買う。マンハッタンの寒さは厳しく、朝になると公衆電話ボックスでうずくまって死んでいる傍に受話器がぶら下がっていた。
 フォスターが残した財布の中に三十八セントと「親しい友、優しい心」と書いた紙片があった。

   遥かスワニーの流れる彼方     
  そこは、私が思いを馳せるところ
  そこは、私の懐かしい仲間の住むところ

フォスターは、兄を訪ねて、この曲のタイトルを相談した。合衆国南部の地図を広げ鉛筆を指した所がスワニー川だった。

 フロリダ州特有の湿原を流れメキシコ湾にそそぐその川がどんな川か知るよしもなかった。川巾15米ほどの小さな川は、水質は鉄分を含んでコカ・コーラと同じような色に青空が反射していた。水しぶきが上がると5米ぐらいの鰐が数匹泳いでいた。ユーカリか柳のような大きな木にスパニッシュ苔が白く垂れ下がっていた。

 シーズン外れなので客は一人もいない小さなフィシングキャンプモテルのロビーに白いピアノがあった。翌朝、「これ、今朝書いた三週分のパイプのけむり頼むね」と言うと、團伊玖磨さんは、ピアノに向かい夢中になって弾き始めた。いつの旅でも飛行場からエアカーゴで原稿をアサヒグラア編集部に送るのが役目であった。

 ステファン・フォスターに触発されたのか、そのモテルに一週間も泊まることになってしまった。食事もあまり取らず、会話も少なくなった團さんに、何を作曲しているのかと訊ねると、「武田泰淳のひかりごけ、人が人を食べて生き延びていく恐ろしい話です。」

オペラ「ひかりごけ」は大阪のフェステバルホールで1972年、初演は大好評であった。もちろん大阪に観に行った。
 1971年 週刊朝日カラー別冊秋号


参考サイト:
富山治夫・世界の旅」(財)ハイライフ研究所のウェブサイトより配信
戦いのない革命 [2009年06月02日(火)]



 「まさか、まさか」のGM破産。リーマン・ショックで、世界に大恐慌金融危機をお越し、続いて「まさか」の落ちた偶像。
1908年から開始されたT型フォード製造において適時改良が加えられながら1914年にハイランドパーク工場内にベルトコンベアが導入され、この時点が、組み立てに関する大量生産方式の基本形完成の年だ。20世紀はじめには、蒸気自動車と電気自動車が、ガソリンエンジン車と覇権を争っていた。
トーマス・エジソンは電気自動車の改良と普及に努めていたが、広大な国土を持つアメリカでは航続距離の短さがネックとなり、内燃機関を研究していたヘンリー・フォードによる『T型フォード』が、自動車市場を完全に内燃機関自動車に支配されるようになった。
「揺り籠から墓場まで」アメリカ人にとって自動車は暮らしのなかで掻かせない。
アメリカ東部、ミシガン州デトロイト郊外にあるヘンリーフォードミュージアム、デアボーン自動車博物館を訪れたことがある。
アメリカ発で起きた金融危機と構造的な問題を抱えるアメリカの自動車産業がどうサバイバルするのか。金融危機が引き金となった自動車販売の不振は単に経済問題だけではなく、その背景には世界の政治状況も複雑に絡み合っている。この大きな問題を考えるには、アメリカ資本主義の崩壊。自動車危機は、20世紀の大量生産システムが終わりを告げようとしているのではと感じていました。
自動車を生んだ欧州、自動車を発展させたアメリカ。こうした自動車100年間の歴史がいま大きく変わろうとしているかもしれない。いや、変わらなければならないのかもね。
自動車をつくるのにいろいろな産業が必要です。1台の自動車を安く作るには、大量生産が不可欠でした。そしていろいろな部品が必要なのです。
 いままでアメリカで起きた金融危機と自動車危機について、アメリカの状況はとても深刻である。そして電気自動車やハイブリッドという新しい自動車を普及させることで、環境問題と経済問題を同時に解決させるという政策があることが理解できるのですが、円高とアメリカ失速のダブルパンチ、「戦いのない革命」とでもいうのか、果たして日本への影響は・・・?。




アルカトラス島 [2007年09月25日(火)]
サンフランシスコ湾に浮かぶ小さなアルカトラス島は、アル・カポネが収監されていた有名な刑務所だ。ゴールデンブリッヂやサンフランシスコ市街のビル群が目の前に望める最も景色がいい場所にある。この島は本来アメリカインディアンの土地であった。1934から63まで連邦政府の刑務所として使用されていた。
 1970年秋、15人のインディアンが閉鎖されていたこの刑務所の島を占拠した。


フィッシャーマンズワーフで漁船をチャーターしてインディアンたちと同乗すると10分ほどでアルカトラス島に着いた。断崖絶壁に小さな船着き場があり狭い急な階段を登ると、西部劇でおなじみのインデアンの住むテントが並んでいた。100人ほどのインデアンが暖く出迎えてくれた。旧監獄は、二階建てで中廊下を挟んで両側に鉄格子が並んでいた。吹き抜けの天井の明かり取りが不気味な感じで照らしていた。全米から応援に駆けつけたインディアンたちが独房に寝袋を持ちんで寝ていた。ベトナム戦争末期に流行したマリハナ匂いががどの部屋からも籠っていた。広い作業部屋に弁護士、医者、インテリ層の幹部が集まってお祈りの準備をしていた。種族が多いインディアンは、アメリカ合衆国に563の連邦承認部族政府(インディアン・テリトリー)が存在する。プエブロインディアンは、ブラックメッサ山を信仰し、ナバホ、アパッチ、シャイアンなど、種族によって信仰がことなる、月や太陽であったり、河であったりしているために、20米ほどもある七色の長い布の先端を結んで皆んなで握って祈るそうだ。
 日が沈むと寒くてとても寝られない。アル・カポネが入っていた202号房は、3畳ほどの部屋に便器と措末な手荒いがあるだけで、窓は二重窓になっているため、サンフランシスコ市街のビル群の景色は望めない。寝袋とマリハナを持って来たおばさんが添い寝で身体を暖めてあげると言うのだが、マリハナの匂いがキツくかんべんしてもらった


 先住民族のネイティブインディアンには名格言がある。
 分かち合うことが出来れば、悲しみは半分に、喜びは2倍になる。
 怒りは自分に盛る毒。

 かつて合衆国連邦とインディアンとの間ではインディアンの土地を収める権利の条約が結ばれ、合衆国はこれらの部族の自治政府を承認し、部族の主権と自決権を支援している

 1868年にアルカトラス島の余剰地をインディアンに返還するという条約が合衆国政府との間で結ばれたのにもかかわらず未だに履行されていない。それに抗議してアルカトラス島の領有権を宣言し、島を占拠したのだ。 
 占拠したメンバーは最初は15人だったが、一時は 600人近くのインディアンが島にテントを張って移住した。しかし運動の盛り上がりは段々と冷めて、1971年6月11日に武装警官により強制退去が行われた。その時点で島に残っていたのは、15人だけであった。
 インディアンの重要な産業であるカジノ事業は、現在のインディアンの主な経済収入の一つで、カジノ産業のほか、観光やゴルフ場、製造業、産業廃棄物処分業などに進出している部族もある。USオープンで有名なシネコックゴルフ場などもインディアン居住区にある。
現在のアルカトラス島は、一大観光地になってフィッシャーマンズワーフからの観光船はひきりなく行き来している。
アメリカはアメリカだ。 [2007年09月11日(火)]
 2001.9.11 、ニュウヨークのワールドトレードセンタービルの同時多発テロによる崩壊事件の映像からは、信じることのできない大きな衝撃と深い悲しみを受けました。21世紀最大の衝撃映像記録として暗く残った。



6年前の事件後、テロを口実にアフガン戦争、イラク戦争と泥沼の迷宮に埋もれてしまったアメリカ。   
 かってベトナム戦争 (1960-1975)にアメリカが介入したのは1964年。北ベトナムにアメリカが負けたのが1974,4だ。全米の若者達に徴兵拒否のデモが行われ、女子学生たちも裸になって街を走り抜けるストリーキングで抗議した。1970年のワシントン反戦デモでベトコンの旗を振る学生も現れた。カルホルニャの山中に幾つものにわか禅寺が出来て若者達が逃げ込んだ。



 テロ事件は今に始まった事ではない。初めての日米間衛星テレビ中継が成功したが、それがケネディ暗殺事件を受信した1963年11.23。ことになった。科学技術のめざましい発達に伴って、カメラはさまざまな戦争の歴史を記録してきましたが、しかし、顔が見えないテロは、「過去からのメッセージ」として伝えようもなく、虚無感に襲われるばかりだ。。
 多民族国家のアメリカの愛国心は、星条旗に忠誠心を誓うことだが、いわゆる「エデンり園」、地球の警察官と自負してしまったアメリカ人はパレードが大好きだ。だが、ベトナム帰還兵のパレードが催された話は聞いた事が無い。イラク帰還兵のパレードは・・・。
ベトナム戦争が終結した74年、日本ではオイルショックが起きた。

 アメリカが風邪を引けば、日本は肺炎を起こす。
「あいまいな」性格な日本。ねじれ国会が開会した。テロ特措法・社会保険庁の年金問題、カネと領収書、くるくる代わる農相、不信が積もり紛糾する。職を賭してと言った安倍総理、独立国としての毅然とした態度が美しい國の第一歩になる。

 チャッブリンの「モダンタイムス」は、極端に細分化・機械化された非人間化を映画で痛烈に非反した。そのためにアメリカから追放された。

 6年前の二ューヨークの事件は、文化と分明に対する新たな挑戦だ。人間の心を持っている同じ人間が信じられない行動を起こしたのだ。絶対に許されることではない。あのテレビ映像が後世に伝える画像として残ることは、写真にたずさわる人間として悲しい。いま何ができるのか、いまできることは、と、考えると、生きることの本質を改めて考えなくてはならない。

誇り高き星条旗。永遠に陽よ昇れ・・・。合掌。

1970年当時のフイルムは、退色率も少なく保存されていた。

一九四五年のクリスマス [2006年12月21日(木)]
 一期一会



 国会中継を見ていると、ゴードンさんが憲法に関する演説をしていた。驚いてテレビ局に宿泊しているホテルを教えてほしいと電話すると、教えられないと言うので、電話してくださるように頼んだ。九年前の五月のことだ。
 ベアテ・シロタ・ゴードンさんは、ロシアの天才ピアニスト、リストの再来と言われたレオ・シロタを父に、山田耕筰の招聘で来日したのは五歳のときだ。ウィーンで生まれて日本で育ち、アメリカに留学して米国籍を取得した後、タイム誌のリサーチャーを勤めた。G H Q 民政局員として再来日したしたのは、二十二才の若さで戦後の日本国憲法草案作成メンバーに選ばれた。女性の権利条項に尽力し、米国のトップシークレットだった日本国憲法草案は、五十年以上もの永い間、語ることはなかった。
 玄関に咲いていた満開の木香バラを一枝持ってホテルの部屋を訪ねると、相変わらずの早口の日本語で迎えてくれた。
 一九七〇年にLAに三ヶ月半滞在した。翌年はNYに行こうと決めていたとき、団伊玖磨さんとアトランタ空港で別れるときに、NYで困ったらと、アドレスを貰ったのがゴードンさんの電話だった。NYには知人がまったくいないのでウオドルフアストリァホテルに二週間泊まって部屋探しをしたが探すことが出来なかった。思い出したのが、あのメモだ。
 「すぐにホテルを引き払ってリバーサイドの私の家に来なさい」。
 早口の日本語のひびきが天の声のように聞こえた。リバーサイド公園の高層ビルの十二階に、母上のシロタおばさんの家に三ヶ月半お世話になったのだ。あれから二十六年ぶりの再会であった。鞄から日本語新聞をとりだして見せてくれたのは、憲法草案の秘めた記事だった。それと柏書房から出判された感動の自伝「一九四五年のクリスマス」だ。
 それからというもの日本全国の婦人団体から講演依頼がさっとうしたゴードンさんは、毎年来日するようになって、超過密スケジュールをこなしていた。
 「この家のすきやきが日本一」
 日本にくる度ごとに接待料理ばかりなので飽きてしまった。と言いながら、生タマゴを召し上がらないために、薄味にした家庭料理のすきやきがすっかり定番になった。

 「一期一会」
 中国から伝えられたのは、禅、茶の席で、人との出会いを大切にして、人生を楽しく歩んでいくという言葉だそうです。
 亥年は六回目の年男、写真保存アーカイブに微力を猪突。ふりかえらずに開運を掴み、不思議な縁と絆に感謝。よい旅の時空に、夢を描いてください。
 
 記録映画「ベアテの贈りもの」は、〇五年に岩波ホールで公開後、全国で好評上映された。


デジタル光画とアナログ写真 [2006年09月24日(日)]

 写真が複製技術として誕生してから一六〇余。人類の共通言語として、写真はさまざまな人間の生き方を記録してきた。
 国境を越えた今日の情報文化を築いた写真は、テレビ時代に入ってから、映像に対する概念が大きく変わってきた。いまはデジタル光画の時代を迎えつつある。世の中には、最新技術の代名詞としてデジタル用語が氾濫してきた。
 デジタルとは、一体何だろうかと、手許の「大百科事典」「広辞苑」「ランダム英和辞典」を開いてみた。その項の行数はどれもが少なく、有限桁の数字列による表現とか、ピアニストが引く白と黒のキー盤上に踊る指先の動きのテクニック、などと書かれているだけで、その意味をきちんと把握することはできない。銀塩フイルムの三五ミリサイズには、不揃いの丸い粒子が重なり合って約六百万詰まっている。デジタルカメラは「画素」という四角い点が整然と並んでいる。ですから画素数が多いほうが銀塩フイルムの画質に近いということになるのだ。コンピュターの進歩によって、画像処理が容易になるからで、いちがいに比べることはできない。
 銀塩カメラによる映像を写真というなら、デジタルカメラは「光画」と名付けたい。この二つはまったく別の映像だからだ。このことを認識することによって、新デジタル光画を楽しむことがでまる。
 売れゆきが伸び悩んでいる銀塩カメラに比べ、本年末のクリスマス商戦に向けて、大手カメラメーカー二社が数種類のデジタルカメラを発表した。四百万、六百万画素のプロ用、ハイアマチュア向けのデジタルカメラを揃えた。それに加えて家電メーカーとのデジタルカメラ販売競争が激化する。
 九月十一日のニューヨーク同時テロ事件は、文化と文明に対する新たな挑戦だ。人間の心を持っている同じ人間が信じられない行動を起こしたのだ。絶対に許されることではない。このテレビ映像が後世に伝える画像として残ることは、写真にたずさわる人間として悲しい。いま何ができるのかと考えると、生きることの本質を改めて考えなくてはならない。
 
至福の紫煙 [2006年08月30日(水)]
 マンハッタンの五番街通りに、ジョージ・ワッサマン氏の私宅があった。

 超高級住宅ペントハウスには、二十三階と四階に通じる専用エレベターがある。乗るには、ガードマンに高額のチップが必要だ。ユダヤ人のワッサマン氏の職業はさだかではないが、エンパイヤステイトビルにオフイスを構え、私宅には、メイド四人とコック二人、フランス人だけの使用人は、英語を習得すれば、即クビにするという恐ろしさだ。職業は定かではないが、たぶん企業投資家だったと思う。

 二十三階フロアーは、使用人の部屋と世界中から集められた骨董品が並べられている。まるで美術館のようだ。部屋の中央にある螺旋階段で屋上の温室まで上れる。二十四階は洒落たリビングルームと寝室がある。どこにも灰皿が置いていない。ヘビースモーカーなので、タバコはトイレの窓を開けて吸うしかなかった。この日招待されたのはユダヤ人老夫婦二組とシロタ伯母さんとだ。リバーサイドトライブのベアテ・ゴードン宅に寄宿して三ヶ半月、お母上のシロタ伯母さんと同居、世話になっていた。ユダヤ人社会の生活の取材をお願いしていたことが実現したのだが、あまりにもハイソサェテイなので驚いてしまった。

 秋空に赤く夕闇がせまると、ダウンタウンの高層ビル群に明かりが灯り、遠くに自由の女神が青く光ってきた。植物園のようなガーデンテラスで刻々と変わっていくマンハッタンの夕景。ニューヨークならではの絶景を望みながら、ワインと豪華なフランス料理をいただく。食後酒のブランデーがテーブルにくばられると、ワッサマン氏は、手巻きのキューバ産コヒバを皆に手渡した。可愛いメイドが骨董品と思われる灰皿を置くと、ブランデーグラスに葉巻の切り口を少し濡らし火を付けた。

 立ち上がって
「皆さん、この一服のために、一日タバコを吸うのを我慢いたしました。さあ、どうぞ」
 
一九七二年 秋

 この稿を書くにを書くに当たって。

 〇六年七月からタバコ税が値上がりした。五十年以上、毎日ロングピース五箱を吸い続けていたので、簡単には止められない。そこで吸ったつもりと「脳」に言い聞かせ、とりあえず本数を減らす努力から始めた。この一月で一日一箱になった。

 十数年前に値上げの時、北海道大学がタバコに関する医学的調査記録が新聞に載っていた。五十代の患者二十人を五年間の追跡調査だった。

 記事によると、ほとんどの人が二年で五キロほどの肥満になった。糖尿病が六人、心臓病が一人、肺結核が三人、軽い脳梗塞が四人、死亡が一人と。

 なほ、タバコのニコチンは、アルツハイマー病の予防、肺に蓄積されたタールが肺ガンになりにくく、タールがボロボロになると菌細胞が付きやすくなるとも記事に書かれていた記憶がある。

 ベアテ・ゴードン女史は、たった二十二歳の若さで日本国憲法草案に携わった。男女平等を憲法に記した。 

〇六年八月