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リンクスの妖精と妖怪 [2009年07月23日(木)]


 上空で海鳥たちが風に向かって飛んでにるのに一行に進まない。暗雲が一瞬のうちに現れると、煩かった海鳥の鳴き声が消えて、鳥たちはブッシュに隠れ忍んだ。牧草地はおろか何の役にもたたない自然の砂丘地帯がリンクス、そのままを生かしたのがゴルフコースだ。強風にあおられる灰色の砂丘、いまにもとけ込んでしまいそうな乏しい色彩の砂丘に、海鳥の姿もない。妖精と妖怪が一緒に隠れ棲んでいるようなダークグリーンの世界に、強風に対する太く低いピンフラック、僅かな緑色を染めたグリーンの上に、墓標のように立っている。妖精と妖怪が一緒に隠れ棲んでいるような世界に、ひょっとするとジョナサン・スウィフトの「ガリバー」か、ジエームス・ジョイスの「ユリシーズ」に会えるかもと、同伴プレーヤーのアイルランド人のジョデイ・バークは、笑いながらキャディバックからレインコートをだして着始めた。リンクスには一日に春夏秋冬が突然やってくるが10分ほどでもとの青空になる。

 ブラックブッシュトーナメントは、毎年六月に北アイルランドの北東海岸コーズウェイで開催される。全英オープンも行われたこともあるロイヤル・ポートラッシュなど、百年以上も古い歴史がある四つのリンクスコースが試合の舞台になる。世界十四ケ国から集まったアマチュアが千人以上も参加した。大会は所属クラブハンディが十八以上であれば。四日間の試合料金、九千円ほどのグリーンフィー込みの費用で誰でも出場資格が得られる。日本人参加者は我々東京キラーズ会の翻訳家、編集者等十三人だ。還暦を迎える五人の仲間が汗を流しに行った。五年連続参加した後、アイルランド、スコットランドのリンクスを回って全英オープンを観戦した良き時代であった。

 今年の全英オープン2日目、注目の17歳、石川遼は予選で夢破れ、同組で回ったタイガー・ウッズもこの日74、通算5オーバーで、1996年のプロ転向後、メジャー大会では2006年全米オープン以来2度目の予選落ちとなった。遼くんは10番のドウナツバンカーに入れたので運が切れ、ダブルボギーをきっかけに11番から5連続ボギー。バンカーは羊たちが雨と強風から逃れるためにリンクスに造られた避難場所だ。59才のトム・ワトソンもプレーオフでバンカーに入れて崩れた。全英オープンを五回制覇している。健闘は驚くべきだ。「ガリバー」の妖怪が現れたのかも知れない。セントアンドリユースの支配人、キース・バーハーさんは「今年も来ましたね、世界一予約で混雑しているボロコースへようこそ。スコットランドはリンクス以外に美しいコースがいっぱいありますよ、明日案内しますよ」高齢にもかかわらず自分の車で連れてってくれたが、五年ほど前からクリスマスカードが来なくなった。

 1888年2月、ニューヨークのハドソン河上流、マンハッタンのリンゴ園にスコットランド人のジョン・リードの仲間が3ホールを造った。アメリカ最古のゴルフ場セントアンドリユースの誕生だ。聖アンデレは青地に白、クラブハウスに元リンゴの木の枝が飾られていた。
フランスはフランスだ [2008年01月12日(土)]

コンコルドとラスコー洞窟壁画
 欧州共同体は、ヨーロッパ各国において経済、政治、軍事など社会的なあらゆる分野での統合を目指している。その中心的役割を果たしているフランスのサルコジ大統領は、反米思想を示し、外国人労働者にも強い態度だ。交際中の元スーパーモデルで歌手のカーラ・ブルーニさんと、3度目の結婚宣言をしたり、パリ近郊のユーロ・ディズニーランドでデートしたりして余裕のお国柄、しかし中国に最新型エアバスを売り込む商売人だ。
 まだ航空路線が各国に運行されていない頃、パリは中継都市として度々訪れた。レンタカーを借りてドルトーニュに向かう。どこまでも続く田園風景にブドウ畑や羊・牛の群れ、この国は大いなる農業国なのだ。
 先史時代の美術作品であるラスコー洞窟壁画は、1940年9月、近くで遊んでいた村の子供たちによって発見された。地下に長く伸びる洞窟は枝分かれし、壁画が集中している大空間などがいくつかある。洞窟の側面と天井面(つまり洞窟の上半部一帯)には、数百の馬・山羊・羊・野牛・鹿・かもしか・人間・幾何学模様の彩画、刻線画、顔料を吹き付けて刻印した人間の手形が500点もあった。これらは1万5,000年前の旧石器時代後期に描かれていた。
かつては大勢の観客を洞窟内に受け入れていたが、観客の吐く二酸化炭素により壁画が急速に劣化したため、1963年以降から、壁画の外傷と損傷を防ぐため、洞窟は閉鎖された。
 バリ国際航空ショーに怪鳥コンコルドが初登場した1969年。東京サミット1979年に、出席するフランスのヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領の搭乗機として羽田空港に飛来した。マッハ2の超音速で巡航するコンコルドの勇姿は未来を感じさせるものであった。通常よりも長い滑走距離を必要とすること、また高い騒音と燃費量などで、2003年10月24日に最後の営業飛行を終え、後継機もなく超音速旅客機は姿を消した。



 石原都知事はフランス語は世界の公用語には使えないと苦言して話題になった。
 地球全体の世界政治と経済に大きな影響をおよぼすアメリカ大統領予備選挙が始まった。永いレースは少し理解しにくいが、ヒラリー・クリントンと黒人のオバマ両候補の激戦は注目の的だ。スーパー・チュウスディの結果、次期大統領が決まるようだ。
 不動の大地、いや浮動の大地を救うのは誰か。日本のねじれ国会でテロ対策法が57年ぶりの再可決された。
 果たして洞爺湖サミットの顔ぶれは・・・。
システィナ礼拝堂の天井画 [2007年12月12日(水)]


 日本人で五人目となるローマ法王庁枢機卿は、法王に次ぐ地位にある。浜尾文朗さんが神に召された。カトリックでは「帰天」というそうで天に帰ったのである。

 横浜カトリック教会の司教をしていた頃、いつも気さくでワイン好きの中華街で浜尾司教にご馳走になった。

 システィナ礼拝堂を案内してくれたとき、壮大なサンピエトロ大聖堂が見える窓を開けなからバチカンの話をしてくれた居室は、小さな寝室と書斎、それとバスルームだけだった。



 ローマ法王庁のカトリック教会は高い稜線に囲まれた一画、0.44平方キロメートル、日本の皇居より小さなバチカーノの丘に人口802人、ここは最高機関であり、世界の巨大勢力の一つで大きな影響を与えている。

 システィナ礼拝堂は、1473年にバティカン宮殿内に建立された壮大な礼拝堂です。ミケランジェロが33歳のときから5年間をかけた作品「天地創造」の場面を中心とした天井画を描いた。ほかに39の絵画からなって旧約聖書の中の記述に従い、「大地と水の分離」、「アダムの創造」、「エヴァの創造」、「原罪」、等となっている。

 ローマ教皇にふさわしい巨大教会堂として再建されたサン・ピエトロ大聖堂は、世界最大級の教会堂建築である。高さ約120m、その巨大さ、荘厳さ、内部装飾の豪華さを含め、聖堂の中の聖堂と呼ぶにふさわしい威容を誇っている。ミケランジェロのピエタを横に見ながら大聖堂を案内してくれた。中世にヨーロッパ各地に建設された巨大教会堂の天蓋は高く、自然に上を見上げて祈るような気にさせてくれる。聖ペテロなどといわれる墓碑と遺骨が並ぶ大聖堂の地下、そのの上が祭壇、全体を覆う大天蓋に斜光線が帯状に差し込んで美しかった。 

 ミケランジェロが描いたシスティナ礼拝堂に観光客も誰もいなかった。「ごゆっくり、礼拝の時間なので」といって浜尾さんは私を残して行った。

 20メートルの高さの暗いところにある天井画を見るのに首が痛くなるので礼拝堂の真ん中に大の字になって眺めた。目を奪うばかりの素晴らしさでした。時の経つのを忘れて幸せ感にしたった。


追記、

 淡い記憶を蘇らせながら一年間で五十稿のブログを書きました。写真アーカイブ保存をするために、撮影場所と日時を明確に記録しておくためでした。撮影年号などが判らない映像はあまり意味をもたないためです。デジタル時代になって、山頭火の句のように、ワケイッテもワケイッテも「老化脳」にデジタルは難解です。

 最新IPF3プリンターで A2 サイズと11x14インチに四百枚ほどプリント制作をしています。人との出会いと訪れた国々の想いでは、時の流れの貴重な贈り物でした。ブログのアクセス数の多いのも驚きでした。

ブログを綴って、改めて人生とは・・・記憶の旅なのかという想いを深くした。感謝・感謝

                2007年12月13日
ドンキ・ホーテの旅 [2007年11月21日(水)]

飯沢  先生(セビリヤ) 

 スペインは不思議な國だ。世界遺産が一番多い國なのに何度行っても何故か解らないまま、いつも欲求不満になる。七つの海を制覇して多くの國を植民地にしたスペイン語圏に旅をしても同じような感触が残ってしまうのは何故なのか。

 情熱の國とか、ピレネー山脈を超えたらヨーロッパでは無いと言われている國のど真ん中、カイドスの谷に巨大な十字架、高さ150米、横棒46米、その基壇の岩山を262米もくり抜いて教会を造った。スペイン内戦の慰霊塔としてフランコ大統領が政権を取ると同時に建設が始まった。

 バルセロナのシンボルとなったガウディ設計のサクラダハミリヤ聖家族教会は、百年後まで建設が続くといわれる。とてつもない想像力と偉大なる奇想とは、ゴッホ、ピカソ、ダリなど巨匠たちを生んだ風土に誇り高き寛容とでもいうのだろうか・・・。



 マドリードのスペイン広場に、ドンキ・ホーテの作者セルバンテスの銅像の足下に、正義の騎士ドンキ・ホーテと従者サンチョパンサーの騎士像がある。シェスタ・昼寝の習慣があるこの國では、午後の時間帯には商店、レストランも閉まって町が閑散としているが、夕暮れ時の散歩時間当たりから深夜まで活気づいてくる。

 ミゲール・デ・セルバンテスは、1547年に生まれ、スペイン無敵艦隊の食料調達係で不正をして投獄された。獄中でドンキ・ホーテの前編を書き上げ、三度目の獄中で後編を書く、69才で死ぬ前の年だった。

 「サンチョパンサーよ、かなたを見るが良い。あそこに三十かそこらの不埒な巨人どもが姿を現しているではないか・・・。」行くてにあった最初の風車にまっしぐらに襲いかかった。

 ラ・マンチャ地方を中心に物語が進むドンキ・ホーテの舞台、プエルト・ラピセの丘、四つ羽根の風車は水銀鉱山用だったが、観光客に見せるために粉を引いていた。

 水汲み風車で有名なオランダのキンデルダイク風車は低地の國を救った。

コルトバの古い旅籠で大立ち回り、カタリーナと新婚生活を送ったエスキビアス、トソボ村の想い姫の家、ドルネシアノ町に再現されていた。 

アルマグロの古い小さな劇場でセルバンテスがつくった劇が上演されていた。中世の面影を残すラ・マンチャ地方の田園風景には、騎士道が生きていた。

 スペインの風土と文化がカタロニャ、アンダルシャ、バスク地方など、それぞれ違う國なのだ。グラナダはムーア人のイスラム教徒が造った壮麗なアルハンブラ宮殿、ローマ人などさまざまな異教徒がスペインの大地を通り抜けて行った時代を、いまに背負っているようです。

 陽の当たる場所と日陰で生と死を予感させる闘牛、神への祈りを歌と踊りで表現するフラメンコ、奇抜な幻想と現実の狭間にとまどいを感じる國であった。

朝日新聞の先輩、劇作家・飯沢 匡さんとの旅。

 
平凡社 カラー新書19 ドンキ・ホーテの國 1975年 飯沢 匡
リスボン [2007年11月16日(金)]



 ヨーロッパやきもの旅行・太陽 1975年3月号 作家・安岡章太郎さんとイタリヤ・スペイン・ポルトガルなど6ヶ國の旅をした。

 スペインのオリーブ畑の風景からポルトガルに入ると急に緑が多くなりコルクの木に変わった。ワインを保存する革命的なコルクの栓は、ポルトガルの重要な資源だ。金門橋そっくりの大きな橋を渡るとリスボン市街に入る。七つの丘があるリスボンは、美しく坂が多い。装飾タイルでおおわれ、幾何学文様のような道路の埋め込みと、登山電車みたいな路面電車が走る楽しい町だ。

 リスボンのイメージは、映画「カサブランカ」を想い出す。イングリット・バーグマン・ハンフリー・ボガードが共演したす。第二時世界大戦中、ナチに追われた金持ちのユダヤ人や貴族たちが、宝石や金を身に付けてリスボンに集まった。アメリカに亡命するヨーロッパで只一つの窓口であったリスボンに、逃げるまでの間、ヤミ商人たちの餌食に・・・。

 運命の歌といわれるファドは、悲しい民衆の歌だ。細い路地がいりくんだリスボンの下町アルファーマで生まれた。何軒もある小さな居酒屋から流れてくる。
 リスボンから百三〇Kmほどの巡礼の聖地、ナザレは美しい漁村だ。崖の上建つ教会の前で、何軒もの露店でいわしを焼いて売っていた。
 固い壜とコルクの栓、壷を頭に乗せた女が夕暮れの中にいた。小さい頃から頭の上に重い物を乗せてきたため、頭のてっぺんがへこんでいる黒衣の女の額に深く刻みこまれたしわをほころばせて陽気に笑った。

 
1975年8月号 「世界」
ブラウナウの午後 [2006年11月14日(火)]
モーツアルトとヒットラー


 旅の達人・森本哲朗さんとは、六十九年にサハラ砂漠三ヶ月半の長期取材以後、地球を何周も廻った。朝日新聞の先輩後輩の間柄なので、兄弟感覚になった旅が懐かしい。それに世界の主だった各都市に支局があるので、旧友を訪ねては情報を得ることができた。どこの町に行っても本屋を見つけると三時間は出てこないのがただひとつの難点だった。大量に買った本を自宅に送るのだ、探求心の旺盛な森本さんは、無邪気で嬉しそうな笑顔で待ち合わせ場所にくると「すまん、すまん」。
 ドイツの旅で、テーブルに置いてある一輪挿しが気になり少し移動すると、遠くで見ていたボーイがすぐに元の位置に笑顔で戻すしてしまう。また動かすとすぐに元通りにされる。オーストリヤのザルツブルグに入っても同じように几帳面な国民性だ。音楽の都には文明と文化の香りが漂っている。街の路地からは、壁一面の日時計から五十以上もある時計塔が何処からも望める。
 八歳で交響曲を作曲し、三十五歳の短い生涯の間に八百曲を旅の人生で作曲したモーツアルトが一七五六年に生まれた記念館がある。原本の楽譜には改正した跡がなく記憶のままを譜面に残したという。シュトラッセガルト通りの石畳が夕暮れが迫ると、行進曲のリズムに軍靴の音が脳裏に聞こえてくるようだ。この街の調和のとれた美しさは、いったい何なのだろうか。

 ヒットラーがオーストリヤを併合したのは、一九三八年。多数の学者、音楽家、ユダヤ人が脱出した。二人が乗った車は打ち合わせした訳でないのに、田舎道を走りブラウナウに向かっていた。
西ドイツ国境を流れるイン河畔にあるこの町は、広場を中心にした色彩が鮮やかでのんびりとしていた。ポムメル宿屋で、一八八九年四月、税関史を親にヒットラーは生まれた。「いまは技術学校になっているあの三階だよ」、と学生が教えてくれた。橋を渡ればリンツ市。イン河のほとりで釣り糸をたれるチョビ髭の老人は、ヒットラーにそっくりだ。バン屋の親父も、この街にはヒットラーに似た人でいっばいだ。
         一九七四年六月 世界

 誰も訪れることのないポムメル宿屋、いつも観光客が絶えないモーツアルト記念館。歴史上に名を残した光と陰に・・・。

 ウィーン少年合唱団が〇六年六月、キヤノンの招きでサントリーホールで公演した。「ザ・サウンド・オブ・ミュージック」をテーマにした少年たちの歌声は素晴らしかった。ザルツブルグからナチに追われて亡命するトラップ一家の物語。
 
 一九四五年、ヒットラーは銃口を口に入れて自殺。 
あまりにもありふれているために、かえって認識されることのない真理がある。だから自然の摂理の最も目立った原則を、人は見ずに通りすぎてしまう。 「わが闘争」より。


スコッチウィスキー [2006年10月17日(火)]
 シーバスリーガル

 近頃、先生のいじめで自殺、飲酒運転の事故が多過ぎる。世の中が少しゆるんで、緊張感が欠けてきたのだろうか・・・。
 若いときから酒好きであった私は、『女性自身』にいた頃、銀座の美人ママに酒の飲みかたを教わった。
 「角びんを飲む人は、それなりのお友達が多く、ダルマが好きな人は、平均的おつき合いのできる人、スコッチウィスキーを上品に召し上がる人は、いつも一つ上を目指している」と。では、どの銘柄が良いのと聞くと、カテイサークの兄貴分は、シーバスリーガル、その親分がロイヤルサルート、貴方にはシーバスが似合う。クラブが客を選ぶとき、上品な会話を楽しむ人が永いおつき合いができるから、と言われた。

 一九三三年、アメリカ狂乱腐敗に陥した悪法、禁酒法が撤廃される日、ボストン、ニューヨーク港湾に、帆船カテイサーク号を先頭にして、積み荷のスコッチウィスキーを満載にしていた艦船から一斉に陸揚げされた。ゲール語で「短いシャッツ」のカテイサークは、アメリカで一番の消費量を誇って、ロンドンのテームズ河畔、グリニッチに美しい帆船が永久保存されている。
 イギリスで重要な産業のひとつ、スコッチウィスキーを取材に行った。何処の蒸留所を訪ねても大麦をネズミから守っている大貫禄のネコが出迎えてくれる。大麦を乾燥させる燃料になるのがアイレイ島ては原野のピートが、スコッチ特有の芳香を生み出してくれる。
 世界中を旅をしていると、ホテルのバーで軽く飲むことが習慣になった。カウンター越しに並んだ壜のラベルに「12」中央に1801とあるシーバスリーガルをダブル注文すると、バーテンダーがびっくりした視線で、すぐに親しみのある笑顔に変わり、別のコッブに氷り水を添えてくれる。アメリカでは、ビバリーヒルズウイスキーと言われるシーバス、カウンター越しバーテンダーとの会話が一人旅の寂しさを芳醇な香りで包んでくれる。
( 一九八七年十二月号 太陽 )
 銀座のママは、その後、新宿にクラブを出した。スコッチの絆とでもいうのか、一緒に新宿に土地を購入して、隣同士に住んで三十五年が過ぎた。

アイルランドの風 [2006年09月07日(木)]
妖精と妖怪が棲む「聖なる島」


  アイルランド共和国。
 この国は知られているようで。実はあまり知られていない国のようだ。紀伊国屋書店の旅行書売り場ででアイルランドに関する本と簡単なガイドブックを探したが、何ひとつ手にすることができなかった。地図もイギリスと一緒の図版だけだ。

 イギリスにはたびたび訪れる機会があるが、今までアイルランドまでに足を延ばそうとは思わなかったのは、八百年以上におよぶイギリス支配からの独立戦争、そして北アイルランドの爆弾テロ事件のイメージが、余りにも大きく災いしているからだ。

 旅行者に人気がない理由は定かでないが、グレートブリテン島を支えるよえにして浮かぶアイルランド島は、サハリン北部に位置し、北海道ほどの面積がある。その島に約五百万人 (内、北アイルランドは百五十万人) が生活している。日本とはユーラシヤ大陸を挟んで東と西の両極端に位置している。

 出発前に資料の本を求めることが出来なかったので、帰国後に版元からとりよせたのは、司馬遼太郎著 ( 街道をゆく・朝日新聞社) アイルランドへ行きたい ( 新潮社) アイルランド歴史紀行 (筑摩書房) 、あいるらんど概説 (アイルランド外務省) アイルランド大使を経験した波多野祐造著 物語アイルランド (中公新書) などだ。

 人工が僅か三百五十万人のアイルランドは、小国ながら世界各地に住むアイルランド系の人々に。現大統領のメアリー・ロビンソン女史が就任演説で「世界に七千万人を越す同胞代表として」と、大いに抱負を語った。 
 
 年表によると、千八百四十五年から三年間にわたる冷害は、ジャカイモの立ち腐れ病原病が原因となって島全体を襲った。大飢饉のために、人々は餓死をするか移民となって国を出るしか方法がなかった。粗末な船での国外脱出のため、目的地に着くまでに多くの死亡者を出した。この時期に全人口の約半数の人が国を離れた。

 アイルランド系移民が三千万とも四千万ともいわれるアメリカ社会では、故ジョン・Fケネディ、ロルナルド・レイガン大統領など、政治家、映画演劇人、消防士、警察官にアイルランド系が多い。それに今年のノーベル文学賞は、詩人シゥイマス・ヒーニ氏に決まった。ノーベル文学賞を四人も生んだ文学の国だ。バーナード・ショーやジェイムス・ジョイス、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)らは、今までイギリス人とばかり思っていたが誤りだった。独特の伝統的な文化を育てたアイルランドは、イギリスの一部として長い間支配下にあったが、まったく別の国だったのだ。

 暖かいメキシコ海流に浮かぶこの島は、絶えず霧が立ちこめて、大西洋からの強い偏西風がいつも吹いている。風に負けない不屈のケルト民族の精神が、カトリック宗派を信仰する緑の風土に根付いている。


 ケルト民族の宗教や哲学、盛衰の歴史などは、少々、難解過ぎる。だが、もっと身近なものとして現代社会における音楽・映画演劇・ウイスキーやゴルフリンクス、ゲーリックフットボールなど、アイルランドは、世界文化発祥の原点ともいえる。

 アイルランドの国を何も知らずに行ったきっかけは、東京キラーズ会のゴルフ仲間たちが、三年前から連続出場していた北アイルランドのブラックブッシュ・アマチュアトーナメントで知り合ったジョディ・バーク氏を、昨年十月に、日本に招待したからだ。日高CCの例会で優勝したときラ・ヒンチのネーム入りタオルを、鼻毛をボァートと伸ばしたジョディから戴いたのが出会いだ。その時にアイルランドで一緒にプレーしないかと、誘われれるままに、アイルランドに行く約束をしてしまった。

 ブラックブッシュトーナメントは、毎年六月に北アイルランドの北東海岸コーズウェイで開催される。全英オープンも行われたこともあるロイヤル・ポートラッシュなど、百年以上も古い歴史がある四つのリンクスコースが試合の舞台になる。今年は世界十四ケ国から集まったアマチュアが千人以上も参加した。この大会は所属クラブハンディが十八以上であれば。四日間の試合料金、九千円ほどのグリーンフィー込みの費用で、誰でも出場資格が得られる。日本人参加者は我々十三人だ。うち四人は四回目の出場だ。還暦を迎える五人の仲間が汗を流しに行った。
  
 北アイルランドのベルファスト空港に、得意ポーズの親指を立てたジョディが笑顔で迎えてくれた。韓国製のレンタカーを連ねて最北西端のコーズウェイに向かうと、なだらかな緑の丘に、ポツン、ポツンと白い家が建っている。水などの生活施設はどうしているのかと、余計なことを考えながら眺める景色は、絵はがきのようだ。

 「エエッ、これがゴルフリンクス」

 見わたす限りの大小の丘に、柔らかい葦のような草が銀色になびいて輝いている。黄色の小さな花が咲くコースにはトゲがある。ラフは足首がすっぽり埋まるフェザー草だ。樹木らしいものは一本も見あたらない砂丘に、また砂丘だ。 

 その上に鉛色のの雲ん゛流れていく。牧草地はおろか何の役にもたたない自然の砂丘地帯を、そのまま生かしたのがゴルフリンクスだ。強風にあおられる灰色の砂丘、そしていまにもとけ込んでしまいそうな乏しい色彩の砂丘には、海鳥の姿もない。肩ぐらいに低いピンフラックが、僅かな緑色を染めたグリーンの上に、墓標のように立てられている。 妖精と妖怪が一緒に隠れ棲んでいるようなダークグリーンの世界に、ひょっとするとジョナサン・スウィフトの「ガリバー」か、ジエームス・ジョイスの「ユリシーズ」に会えるかもと、少し謙虚にチョッピリ他流試合でゴルフの向上心・・・を。

 「勝った負けたかはゴルフにおいては小さなことだ。常にゴルフそのものが勝者だから。偉大なゴルフは人の心を通いあわせるものだ」。

帰国する二日前に、ジョディ・バーク氏が六十八歳の誕生日を迎えた。東の果てからやってきたゴルフ狂の同世代十三人で、ささやかな祝宴を開いた。その席でのスピーチは感動的だった。

 公務員を退職したジョディは二十二年前に愛妻に先立たれて、その後は一人暮らしだ。老後はアイルランドのセントアンドリュウスと称される人口が五百人ほどの小さな町、ラ・ヒンチに住んでいる。年会費を二万五千円ほどラ・ヒンチゴルフクラブに払い込めば、一年中毎日プレーしても無料で過ごせる。雨が降ろうが風が吹こうが、コースに出ない日はないという彼は、ゴルファーにとって理想像のようだ。ゴルフを友にして、一度決めたことには、決して妥協を許さない頑固さもあるが、情熱を秘めた瞳が謙虚で優しい人柄を示している。

 最北西端の北アイルランドでの試合が終わって、ジョディが住んでいる大西洋岸のゴールウェイ地方り南にあるラ・ヒンチに向かう。緑の丘陵地帯がどこまでも続くゴールウェイは、ジョン・フォード監督のふるさとだ。装飾彫刻をされたケルト十字架が立つ教会の数がやたらに多く、古い石で囲まれた牧草地の中で、強風にさらされた牛や羊たちが、置物のようにまるで動かない。通り過ぎる小さな町にある警察署は、どこもテロ対策のために、堀を幾重にも鉄条網で囲われていた。

 北アイルランドとアイルランド共和国のボーダーには、人影が見当たらなかった。

 ラ・ヒンチのホテルに着くと、ジョディの仲間が数十人も待ち構えていた。歓迎宴席が設けられた私の隣の席には赤ら顔のマーフィが座ったピノキオのように鼻がつつ立っている。前の席にハンデ九だという奥さんは、映画「風と共に去りぬ」の女主人公、ビビアン・リーのように美形だ。そういえば、この一週間、化粧をしてスカートをはいた女性らしい女性に巡り会っていない。パンツ姿に化粧もしていない女性ばかりだった。風を避けるような格好で散歩する力強いアマゾネス嬢ばかりだった。

 アイルランドには数多いB/B (ベットと朝食)の民宿とホテルに分宿するのだが、私はジョディに誘われて、丘の上にある彼の家に泊まることになった。翌朝。牛の泣き声で目を覚ますと、窓の外は牧場だった。この国は総人口よりも牛や羊が多い。家畜が働くので人間はゴルフができるが、羊たちが小屋の陰に集まると、その日は風が強くなるのでコースには出ない。海に囲まれているのに、キリスト教徒の習慣で金曜日以外は魚貝類を好んで食べないジョディは、紅茶を入れる用意をしながら応接間に飾られていたスコアカード見せてくれる。三年前にワンランドのプレーの間にホールインワンを二度もやったカードだった。持病の腰痛と闘いながら肝臓の適出手術を二年前に受けた。「ハンデ六から十二に下がったが、神様がもう一度ゴルフができるように願いを叶えてくれたからです」。例の親指を立てて嬉しそうに笑う顔に、理知的な心に情熱を秘めたジョン・フォード監督が映「静かなる男」で観せたアイルランド魂を感じさせる。

 何から何まで世話をしてくれるジョディは、疲れを知ないようだ。自分に正直に生きる彼と過ごした三週間の旅も終わった。

 空港ロビーで分厚い胸を抱いて分かれを惜しんだとき、涙をこらえた瞳が光っていた。ジョディに鼻毛を切れよと、別れの時まで言えなかった。その鼻毛が少し濡れていた。この国の風を思えば、やっぱり言わない方がよかった。仲間の一人が、「トミー、来年もまて来るね」
「もうゴメンだよ」。すると、
「きっと、鼻と耳にボアーと伸ばした。ジョディに、また、会いたくなるぜ」

       「世界」一九九六年一月号
柔らかな握手 [2006年08月30日(水)]


 ローマ空港に着陸すると、タラップ近くに数台の黒いリムジンが並んで止まった。誰か高貴な人の出迎えだ。隣に座っていた横浜カトリック教会司教の浜尾文郎さんが、席を立ちながら「もう親しく話ができなくなります」。タラップを一人で降りていくのを窓越しに眺めていると、出迎えのバチカン関係者に囲まれて車が走り去る。なんと、浜尾文郎さんは、バチカンの枢機卿だったのだ。

 京都金剛流古典能楽団が薪能をローマ法王パウロ二世に献納する文化交流の一員として同行した。

 カステル・ランドルフォはローマ教皇の夏の離宮、アッピァ街道を南西に六十キロの小高い頂にある。、ローマ時代からの石畳を敷き詰めた古道の両側には、イタリヤ国花のキョウチクトウの紅白の花が咲き乱れていた。厳重なボディチェッツクを受けて庭に入ると、手入れされた回廊に遺跡の石像がならんでいる。やや広い場所に、自然の笠松を背景に鏡板がない仮設能舞台が作られていた。夕闇が迫る頃になると、五十ほどの椅子席に招待された婦人同伴の各国大使が席につく。日本からは随行した桑原武夫、管康男、両京大名誉教授、天竜寺の平田精耕氏、後から来た評論家の草柳太蔵、秋山ちえ子さん等だ。二人とも女性自身時代にお世話になっていたので、久しぶりの再会であった。

 八時が過ると、純白の僧衣をなびかせてパウロ二世が着席する。設置された薪に火が灯され「羽衣」が金剛巌宗家によって上演された。

 四百年前、天正少年使節団がグレゴリオ十三世に暖かく迎えられたような想いが、その瞳に喜びと感激を表した。「カミサマニカンシヤ」と日本語、ついでラテン語で「主の祈り」。通訳する浜尾さんも少し興奮していた。演者に一人一人暖かい握手した。私も浜尾さんに呼ばれて、パウロ二世と握手、その手の平は、とても柔らかく慈愛に満ちたいた。

 追記、二〇〇五年パウロ二世が逝去。バチカンの浜尾さんに、この時写した写真を送った。

一九八四年
殿下お疲れでは、 [2006年08月30日(水)]


 スエーデンのストックホルムに着くと、街のただ住まいや人々の動きがなぜか冷たく感じる。と、同行したコロンビア大学のサイデン・ステッカー教授に尋ねると、北欧の国々の中でも最も豊かな鉱物資源に恵まれた先進工業国だからですよ。ストックホルム市庁舎の塔は百〇六米、優雅を誇る。玄関には、甲冑の騎士がブロンズ製の馬に乗って迎える。このホールで、ノーベル賞授賞式のバーティが行われる。川端康成の授賞式にはサイデン教授が解説をしたのだ。



 国際文化交流の佐渡宝生流本間英孝代表能公演がドラマテン王立劇場で催された。「葵の上」を今井康男が演じた。ロイヤルボックスにグスタフ国王と美しいシルビァ王妃、説明役にはサイデン教授が同席していた。

 白夜と森と湖に囲まれた伝説の国では、この夏の時期が一番だという。

 皇太子殿下の答礼晩餐会は日本大使公邸で演能後開かれた。

 この日のために新調したタキシードに着替えて薄暮の公邸に向かった。

 金茶色のロングドレスをお召しになった美智子妃殿下は、体の大きな人たち囲まれていた。正装した紳士淑女の肩を分けながら、タバコを吸うため庭に出ようとしたとき、目の前に突然、皇太子殿下の顔が現れた。とっさに「殿下、お疲れではありませんか・・・。」瞳に優しい笑顔をうかべ、「ご苦労様、大丈夫ですよ」と一言。

一九八五年六月

 追記。

 美智子妃殿下には、女性自身の時代に、ご成婚の頃に沢山写真を写させて頂きました、と。

ホテルのバーでサイデン教授がぼやいた。公演時間の関係で、演目の「羽衣」が急に「葵の上」になったので、解説が上手く出来なかった。野村万作の狂言「棒しばり」は、酒の話なので楽しまれたよぅだ。ところで、ニューヨークのベアテ・ゴードンさんのお母さんが危篤なのを知っていますか、と。同席の万作さんは、小石川高校の先輩。北欧には雷が落ちないので、狂言「雷」は受けなかった、と。