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シベリヤ冬の旅 [2009年08月18日(火)]
星のささやき


 白と灰色だけの大地には色彩がない、単調で変幻自在に移り変わる太陽は、いつも水平線に寄り添うようにしている。日照時間がわずか二・三時間ほどの極寒大地は、東西七千キロ、南北三千五百キロ。ここを訪れるためには特別なビザが必要だ。ウオッカが飲めることだ。と、
 モスクワのノーボスチ通信社プラテ記者に、流暢な日本語で挨拶されたのが初対面。
 「ヤクーツクで立ち小便した男が男性自身が心配になり医者に診てもらうと、これは手術しないと駄目だ。別の名医に相談すると、手術は必要ない、この椅子の上に立って飛び降りるように指示をした。すると、肉体の一部がポロンと床に落ちた」。
 暗く永い冬を過ごすロシア人は、ジョークが好きだ。風刺雑誌のクロコダイルは、四百万部の発行部数を誇っているという。
 モスクワから国内線でウラジオストックまで戻ってからシベリヤ冬の旅が始まった。      
 ハバロククス、イルクーツクと飛ぶ国内航空は高度をあまり上げない。眼下に果てしなく広がる一面のタイガに、泡が固まったようなものがポツン・ポツンと見える。泡は集中暖房のために街全体を覆って大気と冷気を調整機能をしている自然現象なのだ。
 戦後、極寒のシベリヤに抑留された六十万の日本兵は飢えに苦しみ、十五万の兵士が白い大地から帰らなかった風土に、哀悼の意をこめて眺めていた。
 零下二十五度を超えていたイルクーツク、超深度のバイカル湖は凍結していなかった。科学者の街アカデミーゴロドフは、螺旋状に整備されて三万人の住民は、センターまで何処からでも歩いて十分で行かれる。ブラーツクには巨大発電所がある。北極海にそそぐエニセイ河は結氷していた。凍土地帯にあるアルダンを経て、零下四十七度のヤクーツクに着いた。もっとも北極圏に近い都市は、零下五十度を超えると学校が休校になる。子供たちは凍った道路でアイスホッケーを楽しんでいた。
 夜間撮影といってもまだ三時を過ぎたばかりだ。羽毛防寒具に身を固め、自動車を走らせることができるという強いウォツカを呷って街に出るが、ものの十分もしないうちに肺と内臓が吸い込む空気でキリキリと締めつけられる。耐寒用に油抜きしたカメラは動いていたが、バッテリーと三脚はどうすることもできない。ファインダーを覗く目蓋はマスクからの蒸気で凍りつき、こすり続けないと、すぐに重くなった。少しだけ大気に触れている頬は、ガラス繊維がぶつかり合うような音が聞こえる。この音をヤクーツクの人は、
 「星のささやき」とロマンチックな言い方をしていた。
 外いたのは十五分ほどの短い時間だった。疲れ果ててホテルに戻ると残酷な事態が起こった。マイナス五十度からいきなりプラス二十度、机の上に置いたカメラが、あっとゆう間に白く凍ってしまった。カメラを手にするとバリッツと異様な音がした。電灯を消してベットの上で毛布に包まり、手探りでフイルムを引き出すと、フイルムは裂けていたのには驚いた。
 ジガンスクは北極圏にある村。モンゴル系の顔をした人たちは、鼻が凍傷にならないために、お互いに鼻を摘んで挨拶を交わし、コルホーズではトナカイを飼育していた。
 雪原で尿意をもよおしてきたが、あの医者のジョークを思い出すと勇気がでないが、我慢できなくなってしてしまった。すると、何処にいたのか沢山のトナカイが、塩分の匂いを嗅ぎ付けて集まってきた。
 夕食は、そのトナカイの御馳走だ。皮膚呼吸をしない動物の肉は意外に旨く、とくにタンの刺身はマグロを思わせるぐらいだった。
 遥か遠方からの来客をもてなすのは、女房に優秀民族の種付けをしてもらうという習慣がジガンスク地方に、昔はあったそうだ。
 トナカイの角をモスクワで検疫証明書を受けてきたが、羽田空港で没収されたのが残念だ。


 追記、ノーボスチ通信社のフリッツ・プラテ記者は、札幌オリンピックの取材で来日、その後も度々東京と、モスクワで合うことになり、すっかり大親友になった。
  アサヒグラフ 一九七二年一月二十一日号
スパイ容疑 [2006年12月04日(月)]
衆人監視


 闇のロシアを知る情報機関の人たちの暗殺が九二年以降、四十二人になったというから恐ろしい。元KGB長官プーチン大統領批判をしていた元KGB幹部リトビネンコ氏がロンドンで毒薬を飲まされ放射性物質が体内から件質された。アンナ・ポリトフスカヤ女性記者が航空機内で、ウクライナ大統領選でユーシェンコ氏の顔面が突然発疹した事件(04.9)は記憶に新しい。

 二十年以上も前からの親友、ノーボスチ通信社のフリッツ・ブラテ記者は、クリスマス・イブの夜に必ず電話をくれるのだが昨年はなかった。
 モスクワのプーシキン通りから、モスクワ大学に入る路地は、化学者だった叔父の名前が付けられ、プラテ通りのプレートがある。郊外の団地に住んでいる彼は、車を駐車するとワイパーを取ってポケットに入れる。「どうしたの」と尋ねると、「最近、ロシアの若者たちは泥棒が多い、冬にもっとも必要なワイパーはお金になるから」と。

 ロシアの憲兵隊に逮捕されたのは、タギリスタンの首都ドシャンベでのことだった。韓国人が多いバザールを写していると、赤い腕章をした何人もの民間警備員がいつも見張っている。憲兵隊本部の前まで来ると、いきなり二人の兵隊に捕まった。両腕を抱えられ足をばたばたさせながら取調室へ、四畳半ほどの部屋には明かり取りの高窓に裸電球と机が真ん中に一つだけだった。カメラのフイルムを抜かれて取り調べが始まったが言葉がまったく解らない。モスクワのノーボスチ通信社のブラテ記者に連絡を頼むようにアドレスを渡すのだがまったく聞く耳を持たない。どうやらスパイ容疑で調べられるらしい。モスクワから係官がくるまで待てと言って椅子の上で一夜を過ごすことになってしまった。同行の一橋大学教授田中克彦氏と立松和平さんが心配しているだろうと、高窓から見える月がとても悲しく見えた。
 米ソ冷戦時代、共産圏では、写真が写しにくかった。そのために、友好第一、貴方の国を日本に紹介するのに協力をお願いしたい、という行く先の国の言語で書いた貰った紙を見せることにしていたが、アルジェのカスバで、ブェノスアィレスで、マリ共和国で、西安で、いろいろな国で拘束され尋問を受けたたことがある。だが、小さな暗い部屋での孤独な圧縛間と不安感は精神的に三日間も拘束されたら誰しもが負けてしまうだろう、これほど恐ろしい体験はなかった。
 翌日、堅い黒パンとソーセィジが一本。それに紅茶が差し入れられたがまったく喉を通らない。通訳のウラジミル・ハルラメンコ氏と係官が入ってきたのは日暮れ時だった。ひと言ふた言、日本に中央アジアを紹介するために取材にきたのだと話をすると、A4 紙に細かいロシア語で三枚ほども書いてしまう。これはいけない、民間警備員に聞いたことを書いているのに違いないのだ。調書にサインを求められたが断固として拒否した。
 ホテルに隣接された法廷で裁判が始まった。傍聴席に田中教授、立松さんの顔があったのでほっとした。弁論が進むと、田中教授がテーブルをたたいて「朽ちかけた家とか老人たちとか富山君に不利な話しばかり通訳を代わります」と。流暢なロシア語で助けていただいた。      感謝・感謝に感謝。
 久しぶりにホテルで食事していると、ウエィトレスが抜き取られたフイルムをテーブルの上に黙って置いていった。ドシャンベではコダックのフイルムは現像できなかったのだ。

 幾多の侵略と破壊にもめげずに・・・。スパイではないかと疑う邪視の目は「衆人監視」である。
          一九八四年十月号 世界