CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
« 中央アジア | Main
明けましておめでとうございます。 [2007年01月05日(Fri)]


新年は家族でデイズニーシーのカウントダウン、Misiaのライブに感激しました。少しづつ前向きに、少しづつ愉しみながら、写真保存のアーカイブに猪突。
初夢は、日本国平和憲法を世界に輸出していました。
今年もよろしくお願いいたします。 
Posted by 富山治夫 at 05:54 | その他 | この記事のURL
アーカイブへの提言 [2006年10月26日(Thu)]
 世界中で記録された写真は、現在のところ保存する場所がない。
五十年、百年後に、このままでは戦後の映像が何処に保存されているのか解らなくなってしまう。国の機関で保存することが望ましい。
 存在感のあったアナグロ写真からデジタル画像に移り変わった時代になって、とくに危機感を感じてしまう。昭和生まれの写真家が残した貴重な写真データは、写した本人しか知らない、残された家族は調べることもできずに、大量のネガフイルムはただのゴミになって処分するにも困ってしまう。
 写真家の仕事は、学者、編集者、作家、あるいは撮影依頼のイベント担当者との同行取材が多く、文化・芸能人、いろいろな分野で活躍している人たちとの交流が自然に生まれる恵まれた職業だ。

1、写真データベースの標準化 
 過去からのメッセージの写真フイルムを、デジタルデータベースとしてスキャナーで取り込む、A3サイズ 350DPIで、ハードディスク250GBに保存する。写真フイルムはインデックスを付けて別名で保存する。
2、ブログ
 記憶の旅。出会った事柄、「絆」とも思える人々からの教訓を軸にして、年月日などを出来るだけ正確に記して、六百字から八百字程度の原稿にまとめ記憶を蘇らせる(撮影年月日、掲載誌、題名)。ブログに掲載すると同時にクォークで保存して参考資料にする。 
3、インターネットの活用
 インターネットの時代、できるだけ多くの人たちが光画像を共有することができる。世界中の写真愛好家、美術館、大学などとリンクさせることによって、写真を楽しめると同時に保存場所が明確になる。

 自分史をブログに書き始めて二ヶ月の間に、二十五編を公表した。アクセスの多いのに驚くと同時に、写真保存のフォーマットになると思った。膨大なフイルムの中から思い出深いカットをスキャンして映像化してみると、その時の旅、その時の出会い、「過去からのメッセージ」が蘇ってくるので楽しく、それに惚け防止になる。

 保存する方法、標準化のフォーマット、その他、ご意見をお知らせください。

Posted by 富山治夫 at 15:14 | その他 | この記事のURL
 脳梗塞 [2006年10月02日(Mon)]
 あのいまわしい予兆がまた始まった。脳梗塞のだ。夜明け前に足の指、足裏、ふくらはぎがツルのだ。
 靴下とバンツのゴムが当たる皮膚、頭などを痒きむしる血でシーツが汚れる。ベットの上で、起き上がることも降りることもできない痛みを、治まるのをじっと油汗を流しながら我慢するしかない。三回目なので早速、医者にいったが、糖尿病の血糖値が上がったのではないか、と検査結果は一五四ポイントでたいしたことではない。

 二〇〇二年五月、ゴルフ練習場の帰りに、自宅の手前三〇〇メートルの中央線ガード下で、突然、右半身が動かなくなった。窓の外に垂れ下がった手はブラブラ、右足でアクセルを踏むことができない。いったい何が起こったたのかさっぱり検討がつかない。幸い渋滞していたので、左だけでそろそろと運転して自宅車庫に入れた。車から降りようとしたが、右足がきかず、ドアの外で倒れてしまった。やっとのことで、部屋のソファーに倒れ込んだ。女房から鎮静剤バッハリンを一錠もらい、そのまま寝てしまった。顔半分の筋肉はいうことをきかなくなり、目はたるみ、口は落っこちてろれつが回らない。翌朝一番、かかりつけの医院に行くと、先生が看護婦にすぐ救急車だ急いで、都立大久保病院脳外科に電話連絡をした。
 診察室で女医先生がバッハリンをいち早く飲んだのが大正解、脳の極々細胞は一日に二万から五万細胞が切れて、日いち日とボケが進行するのですよ、三階でMRIを撮ってからまた来てください。

 撮影用手術着に着替えて廊下の長椅子で順番待ちをしていると、隣に週刊誌をカバーに張り替えた台本に目を投している人がいた。顔を見ると、子午線の祀り以来親しくなった前進座の嵐圭史さんではないか、どうしたのと訊ねると、「国立劇場で鑑真和尚の唐招提寺、天平の甍を上演する前にMRA検査を受けに来たんです」。
 フイルムが仕上がるのを待って、再度、診察室
戻ると、フイルムをみながら、大きな欠損は見当たりません。この薬は、小児用バッハリンです。お大事に・・・。 
 約ひと月ほどで、もと道理とまではいかないが少し回復した。 
 嵐圭史さんは、国立劇場で鑑真和尚を熱演していた。



 二年後の〇四年、また足がツル現象が起きて来たが対処する方法がない。友人たちに健康センターや有名な治療院を紹介してもらい高い診療費を支払って治療してみたが、どこもいっこうに効き目がない。一・二ヶ月後ぐらいが危険期だ。やがて、その時がやって来た。今度は左半分のシビレ現象が強く、左の体温が冷えてしまう。夏でも左腰、左股が暖まらないので行火を使用しなければならなくなった。
 
 臨死、心臓狭心症、糖尿病、脳梗塞、と危険な病気を体験したが、一度かかったら現状維持のリハビリしかない。なにしろいやなお友達が増えたと思うよりしょうがない。水を沢山飲んで散歩をすることと、ストレスが起こりそうな場から逃げたすことが一番の薬のようです。
 先輩、後輩、仲間たちとの惜別が増えて来た。脳梗塞を経験した仲間に電話してみたら、やはり足がツルのはよくない。すぐ病院で検査しろと。小児用バッハリンが新薬に代わったそうだが、脳梗塞は、三回目はあるが、四回目は無いという。
Posted by 富山治夫 at 03:54 | その他 | この記事のURL
臨死体験 [2006年08月30日(Wed)]


 夜明け前、王子飛鳥山交差点で信号待ちで停車しているとき、突然、タクシーに追突された。気がつくと、車は前方のガードレールにぶつかって止まっていた。リクライニングシートは平らになり、助手席置いてあったカメラバックはバックガラスまで飛んでいた。意識がもうろうとしているとき、ドァのガラスを割る音が聞こえた。救急車で運ばれたのは、十条銀座の小さな岸病院だ。

 手術台の上で、また意識を失った。螺旋状の走馬燈のようなものが、ぐるぐると回転している。その影絵現象に、生まれてから出会った人の顔が次々と現れては消える。何秒か何分かの間であろう。

 四畳半ほどの四角い部屋の真ん中のベットに寝ているのだ。走馬燈が終わる頃、天井の四隅に、もう一人の自分が四人も顔を出す。手招きしながら「早くこっちいこいよ」と。すると手をこすって暖めてくれているような感触が伝わってきた。かすかに目を覚ますと、若い看護婦の顔が顔面の上にあった。生死の分かれ目、救ってくれたのは、あの温もりかも知れない。

 第四頸椎捻挫の重傷、むち打ち症で二ヶ月半の入院生活だった。

 朝日新聞出版写真部を退社してフリーになって二年半。多くの連載を持っていた。カメラ毎日「人間花壇」。アサヒグラフ「二つのイメージ」話の特集「イメージ1967」朝日ジャーナル「開かれた世代・一億人の島」。など仕事に載っていた時期だったので、心身両面の後遺症に苦しんだ。 

 いちばん最初に見舞いに来てくれたのは、立木義浩氏だ。一九六五年、日本写真批評家協会新人賞をいただき、土門拳先生から流政之氏のブロンズ像を、二人で貰ったのが彼と出会いであった。

 地球上の何処で命を亡くそうが同じこととの思いいがつのり、リハビリをかねて香港に三ヶ月間行った。その時、中国で文化大革命が起こり、香港の川に、毎日、中国人の遺体が数千体も浮かんで流れて来た。このすさまじい光景に、人間とは、いったい何だろう。そうだ世界中を見て歩こう、と旅が始まった。

一九六八年八月
Posted by 富山治夫 at 19:34 | その他 | この記事のURL