幻の超特急・亜細亜号「パシナ」 [2009年08月16日(日)]
![]() 一九三四年、南満州鉄道が製造したパシフィック・七型急行旅客用蒸気機関車。重量二〇二トン、最高速度・百三〇キロ。大連ー長春間・七百一キロを(約東京ー岡山間に相当) 八時間三十分で運行。一九三四年一一月ー一九四三年二月、わずか九年三ヶ月の運命だった車輪配列を表す「パシナ」は、大陸の大平原を真っ白い煙を吐きながら大東亜共栄圏の牽引車、幻の超特急として爆走したのだ。戦争の悲劇の象徴として。 旧満州で暮らした人たちに、大陸の一番の印象は、とたづねると、ほとんどの人が「真っ赤な太陽」と答える。パシナの動輪は直径二メートル、真っ赤に塗られていた。 一九八二年六月一四日の深夜、一五回目の中国取材旅行から自宅に帰り着くと、岩波ホールの高野悦子さんから父の与作が亡くなったと、電話があった。戦前、日本最大の国策会社南満州鉄道で、大陸の鉄道施設開発に青春の夢をかけた父上には面識がなかった。お通夜にかけつけると、姉上の淳子さん(岩波雄二郎夫人)と並んで肩を落としていた。焼香をすませて二人の前に行くと、いきなり手を握った瞳には涙が溢れている。 「お願い、亜細亜号の写真を撮ってよ。どうしても写してほしいの」。その場の雰囲気にのまれて、思わず口走ってしまった。「いいよ、僕が亜細亜号を撮ってあげるよ」と。 亜細亜号を撮影することには目算があった。「仁義なき戦い」以来、東映の松田仁プロデュサーから、中国のSLを映画にという話があったからだ。しかし、映画製作は莫大な資金もさることながらズブの素人だ。よほどの度胸がなければ、手をつけられる仕事ではない。 「よし、中国へ行って考えてみるか」高野さんの言葉から勇気をもらって、八月、梅棹忠夫氏を団長の民族学研究内蒙古自治区の旅に参加した。大草原の果てに彼方の満州。パシナが走る姿を心に描いた。日本の二〇六倍の大地に、約七千三〇〇両のSLが活躍している中国、SLの宝庫だ。 包頭から東映の松田氏に、映画製作を引き受けたと連絡した。向こう側の 北京に戻ってから関係部署の交渉のために一人で残った。中国撮影家協会、鉄道部、映画公司に交渉したが、なかなか承知してくれない。中国の鉄道五万二〇〇キロは、いま電気化、ディゼル化を進めているのに、それでは社会主義建設の大方針にそぐわないと、必死になって説得した。 「勝利号、解放号、建設号、それに毛沢東号、周恩来号、朱徳号と英雄たちの名を付けたSLが、東北の大草原を爆走する姿こそ新しい長征のの旅ではありませんか」。とこの話が効いた。 泊まっていた北京飯店の大きな部屋で、撮影ロイヤルティの交渉が始まった。金額はとくに記さないが、一千万単位だ。 初日、XX US ドルでどうか、と言われ早速、東映松田氏に連絡すると高すぎるとの返事。鉄道部と。映画公司の人たちの顔が見えやすい逆光にならないように椅子を置き換えて二日目、同じ金額でXX 円でいかが、と提案された。高すぎるから東京に帰ると言うと、明日もう一度話しましょうと帰った。三日目、同じ金額でXX 中国元ででいかが、と。素早く頭の中で計算すると四分の一になった。東映松田氏も九月十日から二十日までの撮影で了解した。いつの間にか窓からの光が順光になっていたが、ほっとした安堵感が胸にこみ上げてきた。三日後にパシナの撮影隊が出発するから淳子さんと準備するようにと高野さんに電話した。 あわただしくとってかえっして、成田空港へ行く。撮影スタッフ十七名と初顔合わせで紹介されたが、困ったことに映画カメラマンが一人もいないのだ。つまり、いじったこともない映画用アリフレックスカメラを回さなければならないのだ。 大連駅は亜細亜号の始発駅、日本の上野駅をモデルに造られている。向こう側のホームにSLが入ってきた。急いで三脚にカメラを乗せ、ゆっくりパーン撮影を試みた。回りきれずパトンとカメラが倒れた。見ていた高野姉妹は、いたたまれないような顔で眺めていた。映画初撮影の大失敗。 映画監督兼、構成監督兼、撮影監督兼、東京鉄道研究会会長と、にわか団長として、いらだちながら蘇家屯機関区の接待所で挨拶をする。中国流の長い説明が腹立たしかった。パシナが窓越しに見えるからだ。流線型の巨大な鉄の塊が朝の太陽を浴びて真っ黒に光り輝いている。蒸気機関車の貴公子パシナは貫禄十分な勇姿で、歴史の風雪を耐え抜いていた。 現役のSLを隣の線路に並べて、パシナの煙突に合わせて蒸気を上げてもらう。手前の線路にもう一台、ゆっくり走らせる、石炭車の上に乗って撮影開始だ。全長二〇五・七メートル、高さ四・八メートルの巨大さに圧倒された。 松花江に父上の遺骨を流す前夜、高野姉妹の部屋を訪ねた。大連で買った漆塗りのお盆と数本のロウソクを立てて浴槽に浮かべてテストしていた。故人が大好きだった酒を遺骨にふりかけ、明日は松花江ですよ、と言っていた。 「高野与作先生が松花江に戻ったのを祝って乾杯」。鉄路局の超俊文副局長が晩餐会を開いてくれた。 春は南から杏の花で、冬は北から氷柱で知らす、詩の列車がかららん鐘を、鳴らして走るよ南満本線。 古い唱歌を口ずさみながら、日中友好のためにも、高野姉妹のためにも、よかったし思う。 映画「真っ赤な動輪」は、中国ロケを四回に分けて撮影・完成した。チャゲアンドアスカ作曲の音楽「明日に向かって走れ」をテーマ曲にして、一九八二年七月に、東映系で全国一斉公開された。 追記 蒸気機関車の吐き出す煙が迫力を増す冬の時期に二回目のスタッフ二四人と撮影した。鉄道公司は北京ーハルピン間を運行している列車にさらに二両を付けてくれた。撮影目的地で切り離し、次の目的地まで運行している列車で運んでくれる。ホテル代が助かった。 三回目ー四回目は、辺境の地トルファンや景勝地、桂林などを、キヤノン・スキューピックを担いで、二四〇〇〇キロの一人旅をして完成した。 もう一台のパシナは、北朝鮮国境の丹東機関区でボイラーとして使われていた。 映画編集の事後取材で旧満鉄役員やインドネシヤ、タイに駐在経験した人たちに、当時の話を聞いた。大東亜共栄圏の構想はもの凄く遠大で、石炭、石油エネルギー確保のために、亜細亜号を東京まで走らせる夢を描いていたらしい。 参考サイト: 「富山治夫・世界の旅」(財)ハイライフ研究所のウェブサイトより配信 |






















