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幻の超特急・亜細亜号「パシナ」 [2009年08月16日(日)]

 一九三四年、南満州鉄道が製造したパシフィック・七型急行旅客用蒸気機関車。重量二〇二トン、最高速度・百三〇キロ。大連ー長春間・七百一キロを(約東京ー岡山間に相当) 八時間三十分で運行。一九三四年一一月ー一九四三年二月、わずか九年三ヶ月の運命だった車輪配列を表す「パシナ」は、大陸の大平原を真っ白い煙を吐きながら大東亜共栄圏の牽引車、幻の超特急として爆走したのだ。戦争の悲劇の象徴として。

 旧満州で暮らした人たちに、大陸の一番の印象は、とたづねると、ほとんどの人が「真っ赤な太陽」と答える。パシナの動輪は直径二メートル、真っ赤に塗られていた。

 一九八二年六月一四日の深夜、一五回目の中国取材旅行から自宅に帰り着くと、岩波ホールの高野悦子さんから父の与作が亡くなったと、電話があった。戦前、日本最大の国策会社南満州鉄道で、大陸の鉄道施設開発に青春の夢をかけた父上には面識がなかった。お通夜にかけつけると、姉上の淳子さん(岩波雄二郎夫人)と並んで肩を落としていた。焼香をすませて二人の前に行くと、いきなり手を握った瞳には涙が溢れている。

 「お願い、亜細亜号の写真を撮ってよ。どうしても写してほしいの」。その場の雰囲気にのまれて、思わず口走ってしまった。「いいよ、僕が亜細亜号を撮ってあげるよ」と。

 亜細亜号を撮影することには目算があった。「仁義なき戦い」以来、東映の松田仁プロデュサーから、中国のSLを映画にという話があったからだ。しかし、映画製作は莫大な資金もさることながらズブの素人だ。よほどの度胸がなければ、手をつけられる仕事ではない。

 「よし、中国へ行って考えてみるか」高野さんの言葉から勇気をもらって、八月、梅棹忠夫氏を団長の民族学研究内蒙古自治区の旅に参加した。大草原の果てに彼方の満州。パシナが走る姿を心に描いた。日本の二〇六倍の大地に、約七千三〇〇両のSLが活躍している中国、SLの宝庫だ。

 包頭から東映の松田氏に、映画製作を引き受けたと連絡した。向こう側の 北京に戻ってから関係部署の交渉のために一人で残った。中国撮影家協会、鉄道部、映画公司に交渉したが、なかなか承知してくれない。中国の鉄道五万二〇〇キロは、いま電気化、ディゼル化を進めているのに、それでは社会主義建設の大方針にそぐわないと、必死になって説得した。

 「勝利号、解放号、建設号、それに毛沢東号、周恩来号、朱徳号と英雄たちの名を付けたSLが、東北の大草原を爆走する姿こそ新しい長征のの旅ではありませんか」。とこの話が効いた。

 泊まっていた北京飯店の大きな部屋で、撮影ロイヤルティの交渉が始まった。金額はとくに記さないが、一千万単位だ。

 初日、XX US ドルでどうか、と言われ早速、東映松田氏に連絡すると高すぎるとの返事。鉄道部と。映画公司の人たちの顔が見えやすい逆光にならないように椅子を置き換えて二日目、同じ金額でXX 円でいかが、と提案された。高すぎるから東京に帰ると言うと、明日もう一度話しましょうと帰った。三日目、同じ金額でXX 中国元ででいかが、と。素早く頭の中で計算すると四分の一になった。東映松田氏も九月十日から二十日までの撮影で了解した。いつの間にか窓からの光が順光になっていたが、ほっとした安堵感が胸にこみ上げてきた。三日後にパシナの撮影隊が出発するから淳子さんと準備するようにと高野さんに電話した。

 あわただしくとってかえっして、成田空港へ行く。撮影スタッフ十七名と初顔合わせで紹介されたが、困ったことに映画カメラマンが一人もいないのだ。つまり、いじったこともない映画用アリフレックスカメラを回さなければならないのだ。

 大連駅は亜細亜号の始発駅、日本の上野駅をモデルに造られている。向こう側のホームにSLが入ってきた。急いで三脚にカメラを乗せ、ゆっくりパーン撮影を試みた。回りきれずパトンとカメラが倒れた。見ていた高野姉妹は、いたたまれないような顔で眺めていた。映画初撮影の大失敗。

 映画監督兼、構成監督兼、撮影監督兼、東京鉄道研究会会長と、にわか団長として、いらだちながら蘇家屯機関区の接待所で挨拶をする。中国流の長い説明が腹立たしかった。パシナが窓越しに見えるからだ。流線型の巨大な鉄の塊が朝の太陽を浴びて真っ黒に光り輝いている。蒸気機関車の貴公子パシナは貫禄十分な勇姿で、歴史の風雪を耐え抜いていた。

 現役のSLを隣の線路に並べて、パシナの煙突に合わせて蒸気を上げてもらう。手前の線路にもう一台、ゆっくり走らせる、石炭車の上に乗って撮影開始だ。全長二〇五・七メートル、高さ四・八メートルの巨大さに圧倒された。

 松花江に父上の遺骨を流す前夜、高野姉妹の部屋を訪ねた。大連で買った漆塗りのお盆と数本のロウソクを立てて浴槽に浮かべてテストしていた。故人が大好きだった酒を遺骨にふりかけ、明日は松花江ですよ、と言っていた。

 「高野与作先生が松花江に戻ったのを祝って乾杯」。鉄路局の超俊文副局長が晩餐会を開いてくれた。

 春は南から杏の花で、冬は北から氷柱で知らす、詩の列車がかららん鐘を、鳴らして走るよ南満本線。

 古い唱歌を口ずさみながら、日中友好のためにも、高野姉妹のためにも、よかったし思う。

 映画「真っ赤な動輪」は、中国ロケを四回に分けて撮影・完成した。チャゲアンドアスカ作曲の音楽「明日に向かって走れ」をテーマ曲にして、一九八二年七月に、東映系で全国一斉公開された。

追記
 蒸気機関車の吐き出す煙が迫力を増す冬の時期に二回目のスタッフ二四人と撮影した。鉄道公司は北京ーハルピン間を運行している列車にさらに二両を付けてくれた。撮影目的地で切り離し、次の目的地まで運行している列車で運んでくれる。ホテル代が助かった。
 三回目ー四回目は、辺境の地トルファンや景勝地、桂林などを、キヤノン・スキューピックを担いで、二四〇〇〇キロの一人旅をして完成した。

 もう一台のパシナは、北朝鮮国境の丹東機関区でボイラーとして使われていた。

 映画編集の事後取材で旧満鉄役員やインドネシヤ、タイに駐在経験した人たちに、当時の話を聞いた。大東亜共栄圏の構想はもの凄く遠大で、石炭、石油エネルギー確保のために、亜細亜号を東京まで走らせる夢を描いていたらしい。 

参考サイト:
富山治夫・世界の旅」(財)ハイライフ研究所のウェブサイトより配信
Posted by 富山治夫 at 20:32 | 中国 | この記事のURL
万里長城 [2009年04月27日(月)]



 目まぐるしく伝えてくるニュースに、どのように壁を作るかがキーワードになりそうだ。水際対策の無いままマスクを壁にメキシコのコルドバ保健相は25日、同国で発生している豚インフルエンザの状況について発表、同日までの感染者数は1324人で、死者数は81人に達したと明らかにした。死亡者のうち死因が豚インフルエンザと確定した人数は20人で前日と変わらない。
 単純にいって民族の分水嶺である。騎馬民族の侵入を防ぐために、農耕民族が長城を築いた。フランスと中国学者の調査共著「THE GREAT WALL」に書いてあった。
 その万里長城の実際は8851キロ。中国の調査で判明した。これまでは全長6300キロ以上といわれてきた。長城は東端の遼寧省虎山から西端の甘粛省嘉峪関青海省まで10の省、自治区、直轄市にまたがっており、のろし台も5723カ所あったという。レンガなどできた人工の壁があるのは全体の約70%に当たる6259.6キロ。残りは塹壕(ざんごう)やがけなどの険しい地形を利用していた。
 万里の長城は古代から各地で築かれてきたが、調査対象となったのは明代(1368−1644年に築かれた長城。北京市郊外にあり観光名所となっている現在の長城も明代の遺構とされる。
 壁といえば、ベルリンの壁崩壊は、1989年11月9日に突如として東ドイツ政府が、東ドイツ市民に対して旅行の自由化を発表した事による。実質的には意味を持たなくなったからだ。
 イスラエル、ガザ地区の壁。それは1996年にはほぼ完成された。パレスチナ人の、目的のセキュリティとテロ対策です。2000年12月と2001年6月の間には、ガザ地区からのイスラエルの分離壁の一部を再建された。ガザ地区包囲は、壁に隣接地にイスラエルのセンサ、高技術観測とフェンシングのワイヤを作られる 、コンクリートと鋼製の壁に隣接地に8メートルの高電子センサーや地下のコンクリートの壁にトンネルを防ぐために装備以上のコンクリート壁。 2005年には、すでに既存のスチール製の壁、エジプトとの国境の長さを実行中に追加建設された。  
 イスラエルのガザ地区の壁を分離壁を最初にイスラエルのラビン首相のリーダーシップの下で 構成されています 。
 これを書き始めているうち、世界的な広がりを見せ始めた豚インフルの死者が81人に増加した。インターネットが世界の壁を乗り越え、携帯電話の普及で情報交換がたやすくなった。が、最初の患者は、南部オアハカ州の女性。症状は重篤で死亡したため、本格的な調査を開始。女性と接触した人は多く、45人の感染が判明した。しかし、この女性が今回の流行の最初のケースかどうかは不明という。

Posted by 富山治夫 at 11:35 | 中国 | この記事のURL
好評に終わった唐詩展 [2009年03月11日(水)]


  天末懷李白・・・・・杜甫
涼風起天末  涼しい風が天末より起る
君子意如何  君子の意は如何に
鴻雁幾時到  鴻雁は幾時か到る
江湖秋水多  江湖の秋は水多し
文章檜命達  文章は命の達するを檜み
魑魅喜人過  魑魅は人が過るを喜び
應共冤魂語  應に冤魂を共と語らん
投詩贈泊羅  詩を投じ泊羅を贈るべし

          はるか遠い地に涼しい風が吹き   
          始めてきた。貴君はいかがお過 
          ごしですか、鴻雁はいつになっ
          たら便りを運んでくることや
          ら、捕らわれた李白の身を按じ  


 沙邱城下寄・・・・・李白

我来竟何事  我来る何事ぞ
高臥沙邱城  高臥する沙邱城
城邊有古樹  城邊に古樹が有り
日夕連秋聲  日夕の秋聲に連る
魯酒不可酔  魯酒に酔うべからず
斉歌空復情  斉歌は空しく復情あり
思君若汝水  君を思うて汝水のごとく
浩蕩寄南征  浩蕩として南征を寄す

          魯酒では酔えないと、兄として親交の 深  
          かった杜甫が李白を詠んだ詩は多い。
                               
                              曲阜・山東省




 映像イメージ化を試みた「唐詩百景」が好評のうちに一ヶ月の展示を終わりました。共同通信社から全国の地方紙に配信されました。佐賀新聞は、逢入京使・・・岑参と、客中行・・・李白の同時掲載。新潟日報は、春望・・・杜甫、上三峡・・・李白、毎週月曜日に連載が始まりました。大きな紙面の扱いに驚いております。中国国際放送局 東京支局の傅 穎さんのインタビュー記事が中国全土に配信されるそうです。
 展示中に大学関係者、唐詩研究家、学生、唐詩に興味ある人から沢山の電話やメールを戴きました。ありがとうございます。
唐詩は、文学遺産として中国が京劇とともに誇っています。中国は文化革命以後、簡略漢字の教育が行われて、若い学生たちは古い漢字の唐詩が読めなくなったといわれています。北京オリンピック開会式で、大スクリーンに
「飛流直下三千尺、疑是銀河落九天・・・李白、(飛流直下すること三千尺、疑うらくは銀河が九天に落つるかと)」が映されたのが印象的な場面であった。歌舞伎が京劇から、遣唐使が伝えた唐詩は、日本史上、文化文明に限りなく大きな影響をあたえた、「源氏物語」や古文書などにも・・・。
中国全人代会議が金融危機の暴風が吹き荒れる中、社会不安に直結する雇用問題への危機感にかかわらず経済成長率「GDP8%成長死守」へ市場経済原理よりも社会治安維持を優先させる数字といえるかも知れない。
 出会いと友情の絆、李白を兄として親交の深かった杜甫と、遥か遠い地の杜甫に、李白の詩を。
Posted by 富山治夫 at 13:48 | 中国 | この記事のURL
ふりむけば中国「唐 詩」 [2009年02月05日(木)]


 長安の都が賊軍の手に堕ちて、国は破壊されたが、山河は昔のままである。町並みにも春がきて、花が咲き草木も昔のままに変わっていない。
 安禄山の乱に遭い、長安で幽閉された時に詠んだ杜甫の代表作。国と我が身を憂う詩を多く残し、五十九年の生涯を終えた。交河故城 甘粛省

「唐 詩 百 景」 解説・訳 蔡 子民 写真 富山治夫
監修・共同通信社編集委員 牧野俊樹
新橋駅前・メディアタワー3F
2009年2月11日-3月8日 (年中無休)
 ふりむけば中国。文学世界遺産「唐詩」のイメージ映像化を試みました。

半年前になる北京オリンピックは「鳥の巣」で開会式が行なわれた。巻物があった床が開くと活版印刷の巨大活字群が登場した。活字一文字一文字の中に人が入って上下することで版面は海面のように波うち、その左右に金文、小篆、楷書で「和」の字が表示された。さらに活字群によって万里の長城が築かれると桃の花が開花し、オリンピック精神である「平和」をアピールした。そして最後に活字の上面に相当する部分が開き、活字群を動かしていた
人々が顔を出すことによって、機械等で活字群を動かしていたのではなくた。
李白の詩の一節「飛流直下三千尺、疑是銀河落九天(飛流直下すること三千尺、疑うらくは銀河が九天に落つるかと)」が競技場のスクリーンに映されたのが印象的な場面であった。
唐代は、西暦 618ー907年。初唐・中唐・盛唐・晩唐の四期に時代区分され、詩が多く詠まれた盛唐が最盛期であった。多くの詩人たちは戦乱を逃れて旅を続けた。詩人の数は2、900余人、詩の数は48,900余詩という。『三国志』の戦乱と激動の記録は、文人の詩想を大いに刺激した。「唐」とは、「ひろい」という字句。黄河・長江文明の悠久の歴史が中国人民の今が在る。文明文化と歴史、ふりむけば中国悠々。
1960年代後半から1970年代前半まで文化大革命が続いた中国は、観光客を受け入れていなかった。
1973年5月、日中文化交流写真家代表団10名の一員とて、木村伊兵衛先生と初めて訪中した。カメラを肩に何台をぶら下げた一行が珍らしいらしく、毛沢東語録を手にした群衆に取巻かれ人垣根でシャッターを切るよりも、見られに行ったような時代から35年間で百回を越える中国撮影旅行をした映像から19点を展示しました。

   

       
Posted by 富山治夫 at 13:20 | 中国 | この記事のURL
三国志 [2008年11月11日(火)]
「写真ほど素敵な商売はない」備忘録的ブログのアクセスが二万を越えました。皆様に感謝いたしております。ブログはアーカイブ写真保存をするために、その国と場所の状況など撮影日時を記録に残すことから始めました。  いま評判のレットクリフを観に行きました。中国の後漢末期から三国時代にかけての魏・呉・蜀の三国が争覇劇は、C Dとの組み合わせ合成画像のド迫力と、スピーカーが破れるほどの大音響の中で、戦いのシーンは、これでもかこれでもかと延々と繰り替えされる。老化した脳酔にはきつかった。むかし、観ているうちに京劇の取材をしたときの演目を思い出した。天才軍師諸葛亮孔明が繰り広げる戦闘シーンは、「孫悟空」の大立ち回りや「霸王別姫」「水満金山」などの動きとよく似ている。風光明媚な桂林あたりでロケをしたと思われるが、曹操軍八十万と劉備軍五万の戦闘ばかりなので、中国流しつっこさに映画の魅力が楚々がれた。  1971年以来、120回ほど中国を訪れたが、いつも鞄に入れていた岩波新書の「唐詩選」の古くなった本を読み返してみた。中国が世界に誇る唐詩は、国を越えての文化遺産なのだ。唐代に入って詩人たちが五万詩以上書き残したという。日本には江戸期に絵本漢詩 として伝わったそうだ。京劇が北京オペラとしてヨーロッパに紹介されたように、唐詩も読む音調として伝わったのかも知れない。中国は文化革命以後、簡略漢字の教育が行われて、学生たちは古い漢字の唐詩が読めなくなったといわれている。  現代語感写真展を開いている時、銀座の大手デパートの展示場係の人が現代語感の続きみたいな展示を考えて下さいと言われた。うれしい話だった。  「愛と平和」をテーマにした唐詩をモノクロ写真で新しい唐詩百景として構成し直すことにイメージ化してみた。  金融危機、株、円高、世界恐慌の「三国志」が始まろうとしている地球国。
Posted by 富山治夫 at 05:11 | 中国 | この記事のURL
ハルピン・その人脈記 [2008年06月17日(火)]
 秋葉原事件、岩手・宮城内陸地震の被災者にお悔やみ申し上げます。
 1981年、ハルピンには夏と冬、二度訪れたことがある。東映映画「真っ赤な動輪」の撮影のためだ。撮影隊のスタッフに高野悦子(岩波ホール総支配人)と姉の淳子(岩波雄次郎夫人)を加えたのは。満鉄の線路を調査・施設をした父上の与作さんのお通夜のとき、「あじあ号」を写してあげると約束したからだ。当時、日本が世界に誇った世界最高水準の蒸気機関車、パシナ号は、瀋陽郊外の蘇家屯機関区に置いてあった。新京(長春)と港湾都市大連との間を結ばれ南満州鉄道連京線によって運営され、大連港を発着する日本への定期船と連絡していた。「あじあ号」はこの区間の速度向上のため、世界水準を目標に計画された超高速弾丸列車で、比較的短期間で開発が進められた。1万2千キロを運行した。、わずか9年3ヶ月の運命だった。中国SL蒸気鉄道映画のドキュメントに欠かせない。冬の季節は蒸気と煙が迫力を増す。映画「真っ赤な動輪」で中国全土、5万に2千キロのSL鉄道撮影も終り、1982年7月に、東映系で全国一斉公開された。詳しくは、黒竜江への旅・新潮社刊/シネマ人間紀行・毎日新聞社刊/高野悦子著  明治維新 - 初代首相の伊藤博文は明治憲法起草に関わり、満州・朝鮮問題についてロシアと非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、韓国の民族運動家安重根によって狙撃されて死亡したのは1909年10月だった。ロシア統治時代の建物が街中に数多く残るハルピンは、松花江(スンガリー川)のほとりに広がっている。人口:約957万人。黒龍江省の中南部、北流してアムール川に注ぐ松花江の河畔に位置する。市名は白鳥を意味する満州語「ハルウェン」に由来している。
 ウィキペディア百科事典でハルビンゆかりの人物の稿を検索すると、後藤 新平、近衛 秀麿、多くの文化人や政治家、朝比奈隆 加藤登紀子、などの音楽関係者等、その中にベアテ・シロタ・ゴードンさんの名前があった。22歳で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民政局に所属し、制定会議のメンバーとして日本国憲法の起草で人権条項作成に関与した。 日本では憲法24条(家族生活における個人の尊厳と両性の平等)草案を執筆した事実が1990年代になって知られる。米国のトップシークレットとして、ベアテさんは50年間、そのことを語らなかった。団伊球磨さんとニューヨークで別れるとき、困ったとき連絡しなさいと渡された電話番号がベアテさんのだった。磨そんな偉い人とは知らずにニューヨーク・リバーサイドのベアテさんの家で、お母さんのシロタおばさんのお宅にホームステイしていたのは、1971.12月から翌年の3月だった。  父のレオ・シロタは「リストの再来」と呼ばれ、すでに国際的に著名なピアニストで、そのころのヨーロッパは、1917年のロシア革命のユダヤ人排斥によって一家は追われ、ハルピンからウイーンに国に帰れなくなっていた時期。山田耕筰はレオを東京音楽学校(現・東京芸術大学)教授に招聘して、ベアテさん一家は、東京に居を構えた。1995年10月 『1945年のクリスマス 」日本国憲法に男女平等を書いた女性の自伝 』(構成・文:平岡磨紀子)、柏書房から出版後、日本全国の支援団体から講演依頼が多くなり、日本全国の支援団体から講演依頼が多くなり、毎年、5月になると来日、精力的に全国を駆け巡った。シロタ・ベアテ・ゴードンさんが毎年のように我が家にやってくるようになった。高野悦子さんをわが家で紹介した。
 映画『ベアテの贈りもの』2005年4月30日に岩波ホールで封切り、全国で好評上映された。    巡り巡る不思議な縁の出会い、人との絆「一期一会」を大切に・・・。
Posted by 富山治夫 at 17:12 | 中国 | この記事のURL
震度7.8の大地震 [2008年05月13日(火)]


 四川省で、12日午後、大きな地震が襲った。震度7.8の大地震は、成都旧市街地のビル20棟が倒壊したとの情報が、震源地から千数百キロ離れた北京も揺れた。中国では多数の死者を出した大地震がたびたび起きている。四川省の風土は、日本の風景とよく似ている。世界遺産の楽山大仏、パンダの故郷でもある四川省。のどかな田園風景は、日本の田舎にそっくりだ。やたらに辛い四川料理も日本人の口に合う。人口一千万を超えた成都には、多くの日本大企業が進出している。赤い土塀の杜甫草堂など馴染み深い。
 地震のニュースを聞いて、まずはお見舞い申し上げます、と同時に、三峡ダムは大丈夫だろうか・・・心配だ。中国・長江中流域の重慶直轄市から湖北省宜昌市一帯に建設中の大型重力式コンクリートダムである。 長さ2,309m、高さ185m、発電量1,820万kw、水没面積630km2、総工事費24兆ウォン、総移住民190万人……すべてが天文学的な数字である。長江流域に13億人の70%を占める人たちが生活しているのだ。地震に対する情報システムと避難計画も存在しない。三峡ダムは、揚子江に作られた最大の脅威であり、水没地域の地域社会を脅かすばかりではなく、下流に住んでいる億百万人の人々にも致命的な災害をもたらす脅威となっている。 懸念される環境悪化は、中国の揚子江にこの三峡ダムが完成すると、水位は「対岸の火事」で済まさず、もっと関心を持って見守る必要がある。

 今までも大地震があった。唐山地震(とうざんじしん)とは1976年7月28日3時42分中国河北省唐山市付近を震源として発生したマグニチュード7.8の直下型地震である。市街地を北北東から南南西に走る断層に沿って大きな水平右ずれが発生し、激震によって中国有数の工業都市であった唐山市は壊滅状態となった。14万8000人が亡くなり重傷者は8万人以上と被害は市民の21.2%に達し、住宅の全壊率は94%だった。これによって再建がほぼ一段落するまでの約 10年間、外国人の立ち入りが制限されていた。
 地震の発生が比較的少ない中国の建物は、耐震構造になっていない。特に内陸部の学校などの公共施設は簡素な構造になっているため、被害が甚大になる恐れがある。   

 中国製ギョーザの中毒事件、チベット暴動、五輪聖火リレーの混乱と続き、先月は列車の正面衝突事故も発生、事件と事故が相次いでいる。一方で物価上昇などによる社会不安も募り、北京五輪を前にどのように社会を安定させるかが最大の課題になっている。
 サイクロンで甚大な被害を受けたミャンマー、サイクロンによる死者は3万2000人以上と発表。 このところ、地球のあちこちで自然の大災害がたてつずけにおこっている。温暖化、温暖化と関心が集まっているようだが、自然現象災害に対処するすべはない。地球は悪夢の世紀に向かっているのだろう・・・か。
 痛ましてい地愼のニュースがテレビ画面にながれているとき、後期高齢者年金通知書が送られてきた。間違っていた。解かりずらい。せめて、「福」「寿」とかのネーミングにしてほしかった。

Posted by 富山治夫 at 18:54 | 中国 | この記事のURL
万里の長城 [2008年05月08日(木)]



 グーグル地図航空写真で万里長城を検索したが、なぜか見ることができない。
 山海関(さんかいかん)は中国万里の長城の東端にある要塞。河北省と遼寧省との境にあり国防の要塞とされた。そのため山海関が天下第一関と称される。東から数えて最初の関所であるからである。満洲族の侵入を何度も跳ね除けた。ここを越えて中原に向かうことを入関して、関内に入ると言い、東北地域を関外もしくは関東という。
したがって、関東州と関東軍の名前の由来も、この山海関より東を関東と称し、西を関西としたという。西域の果てまで悠々6000キロ、嘉欲関まで続く世界一の建造物。
1931年(昭和6)9月18日の柳条湖事件(満州事変勃発)、1932年(昭和7)3月1日の満州国建国と続く戦火拡大の結果、1933年(昭和8)1月に山海関は日本の関東軍により占領された。山海関占領により日本軍による北京攻略の東部ルートが開け、2月には引き続き熱河作戦が行われ、制圧後の熱河省は満州国に併合されたとある。
 [暖春の旅]と名づけて胡主席が国家元首として10年ぶりに来日した。1987年、チベット総書記として争乱をしずめた実績がある。問題が山積みの日中関係に柔らかい風が吹くのだろうか・・・。土産はオス・メスのパンダを供与する外交上手のしたたかさは相変わらずだ。


 愛国心をあらわにした聖火が、チョモランマからリレーされるが、同じ国威を示すのであるならば山海関から八達嶺まで約1000キロを万里長城の狼煙台に点火しつつ塞上を走って北京に入ったほうが、世界中の関心が集まるし、悠久の歴史にふさわしい。
 渤海湾の海岸線は静で美しい。海まで突き出るように造られた長城のあたりで、干よしガリに来た大勢の人々が貝を採っていた。ここは中国で有名な避暑地なので。政府高官の豪華な別荘が建てられている地域になっている。                                         
 険しい山頂をたくみに曲りくねって無駄なく造られたのは、騎馬民族や遊牧民の侵入を防ぐためだ。一緒に連れてくる食料である羊、馬が長城を超えなくするためだそうだ。それにしても6000キロの巨大な防衛戦の異民族対策、秦の始皇帝が前3世紀末に完成した長城と、15世紀に築造された。
 北京から西域に向かう鉄道が八達嶺の山をキックバックを繰り返しながら超えて行く。長城がいちばん美しく残されている八達嶺で交差する。山を超えると張家口の駅がある。歴史書にも載っていない内蒙古自治区側のこの周辺には、数万の日本人が住んでいた。終戦後、侵入してきたソ連軍を関東軍が押し返し、北京-天津から住民を護送して日本に脱出した、と梅棹忠夫先生から聞いた。
 

春望  国破れて山河在り 城春にして草木深し 時に感じては花にも涙をそそぎ 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす 峰火 三月に連なり 家書 万金に抵る 白頭 掻けば更に短く すべてしんに勝つえざらんと欲す・・・杜甫。


 嘉欲関では、長城の修復が行われていた。ここから数キロ先の断崖絶壁で長城の6000キロは終る。長い歴史の果てに漢民族の誇りと尊厳が守られつつも、同化政策の一環としての人権虐待は守られていない。地球全体環境セットが分水嶺を超えるネット時代になって正確な情報開示が望まれている。
Posted by 富山治夫 at 05:55 | 中国 | この記事のURL
1 ふりむけば中国 [2008年05月04日(日)]


 「南船北馬」とても好きな言葉だ。辞書によると「絶えず旅を続けること」「せわしい旅」とある。柄にもなく郭沫若著「李白と杜甫」を鞄に入れて江南のせわしい旅に出た。数年ぶりの中国なので、以前に旅行したときの資料、旅行書や辞書で、中国の風土と習慣の違いを「せわしなく」たどった。
 いま中国では、外資系合弁ホテルの建設計画が目白押しだ。解放経済が始まったばかりなので、外貨を稼ぐのに一番手っとり早い観光資源を最大限に利用している。観光客が落としていく金が欲しいのだ。国内の主な都市はもちろんのこと、奇岩が林立する風光明媚な桂林だけでも十一のホテルが新設されるという。ホテル建設ラッシュだ。上海国際旅行社のガイドも、市内のホテルに向かうトヨタ「スーパーサルーン」の窓外を指さしながら、これは空港ホテル、そこは税関ビル、こっちはショッピングセンターと忙しい。だが、車は一向に進まない。道路工事のために渋滞しているのだ。ご当人もホテルに就職が決まっているらしく、上海駅前に計画中のホテル建設の青写真を、達者な日本語で説明してくける。
 世界一人口が多い1.200万都市、上海。初めて中国を訪ねる人にとっては、人間と自転車の洪水や、煩わしいほどに鳴らすクラックションの騒音にびっくりするが、数年前に経験した中国製の車「上海」にくらぶれば、日本製の高級車の音は静かなものだ。横断する人も、通勤帰りの人たちも、毎日の生活の一部として慣れているのか、自分の安全を確かめるために振り返る人がほとんどいない。美しい並木道を抜けて静安地区の新しい高級ホテルに着いた。観光客を乗せた幾台もの日本製大型バスが入り口を塞いでいる。そのためになかなか玄関までたどりつくことができない。とにかく日本製の車ばかりなので中国に着いた実感が湧いてこない。
 とてつもなく広い大地は、亜熱帯、湿地帯、乾燥地帯そして砂漠。中国の風土と自然にはさまざまな顔がある。94%の漢民族を中心に少数民族が55種を超える多民族国家だ。料理も言葉も気候も、北と南ではまったく違う。
 揚子江、いわゆる長江は中国最大の河。青海省のタングラ山系に源を発して、その流れ5,800キロメートル、その終着地が国際都市上海だ。途中、八つの省と一自治区を横切り、ヨーロッパの広さと同じぐらいの流域面積をもっている。長江、三角州と呼ばれるデルタ地帯を中心にして、流域には全中国の40%の人たちが住んでいる。漢の衰亡とともに長江流域は、「三国志」の数々の劇的な物語にもなった。
 古来、文人墨客、政治家、商人たちは馬上の客となり船上の友人となって長江、黄河、そして南北を結ぶ大運河の旅をした。彼らは風光明媚な国の栄枯盛衰。酒を酌み交わしす友情や心象風景を詞や絵画に残した。とくに偉大なる唐の詩人たちの作品は、日常生活の出会いと別れのロマンを限りなく連想させてくれるのだ。 
 中国ってどんな国ですか、最近はずいぶん変わったでしょうと、中国旅行から帰るとよく聞かれる。こんな広大な国を一口で説明することなんかとてもできる相談ではない。なにしろ地球を一回り半する距離を鉄道が、昼夜、駆け回っている国だ。
 
日本と中国を望遠レンズで焦点を合わせると、よく似ているようだが、ワイドレンズで焦点距離を合わせると、中国は地域ごとに異なった色合いを持っているのが解る。東北地区は真っ赤な夕日。西域は春になると日本にやってくる黄塵。華北華中は抜けるような青空。江南といえば緑の雨と旨い食べ物だ。
 今年の春節を祝うために、來日中の中国撮影家協会の李長鎖が、わが家で北京仕込みのギョウザを作ってくれた。若いカメラマンの奥さん連中と一緒に台所に入ってにぎやかな料理教室が始まった。さすがに本場の味は格別に旨い。旧正月の春節を祝う中国北部では、どこの家でもたくさんのゆでギョウザを作る。「大年初一」といって、春節の一日が無事に過ごせれば、家内安全、商売繁盛。唐代の古銭「天宝」の形をしたギョウザを沢山食べて旅に出れば、黄金色の金がしっぱい儲かる。家長逗留もらいたいお客さんには、ウドンをご馳走していつまでも友として大歓迎する。日本式の焼きギョウザは主人が食べ残したのを使用人が翌朝になって、捨てるのは惜しいので焼いて食べたのが始まりらしい。
 人は旅に暮らす。旧友の高田宏さんの新刊書「歩くたび風まかせ年任せ」に、こんな文章がある。「汽車に乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何かがうえられているが、育ちがよいかわるいか、村の人が大きいか小さいか、駅についたら人の乗り降りに注意せよ・・・あたらしくたずねていったところはかならず高いところに上がって見よ、目につくものをまず見、周囲の山々を見ておけ、そして山の上で目をひいたものがあったら、そこえかならずいって見ることだ。高いところでよく見ておいたら道にまようことはほとんどない」。民族学者の宮本常一先生が、父親から教えられた旅の心得として記されている。職業柄、この教えは写真を写すために実践せざるをえないが、山へ登るのことだけは・・・。

太陽 1986年八月号
Posted by 富山治夫 at 09:09 | 中国 | この記事のURL
2 ふりむけば中国 [2008年05月04日(日)]


 「南船北馬」長江の旅は成都から始まった。四川省の東部盆地はやたらに蒸し暑く、もう初夏である。盛唐の詩聖、杜甫が晩年、戦渦と飢えを逃れて過ごしたといわれる杜甫草堂は雨に濡れていた。入り口の前に流れる小川では釣り人がのんびりと竿をたれている。青々とした竹ばやしに紅がら色に塗られた壁が詩情を誘う。草堂の中心につくられた建物は杜甫の官職名工部祠。がらんとした堂の中央には明代に造られた像が厨子の中にみえる。杜甫は今に伝えられる1.400余篇の詩作のうちのおよそ240篇をーの詩をこの地で残した。洛陽で生まれて漂白の旅をし、ここでの晩年の四年間は幸せな時期だった。故郷の洛陽に帰ることを夢みつつ、杜甫は家族たちに看取られながら洞庭湖に向かう船の上で55才の生涯を閉じたという。
 成都は乱世に散った英雄豪傑たちの滅びの美学、「三国志」で知られる。運命に力の限り立ち向かった人々の悲しみや空しさ、喜びや美しさを感じさせて、現代の処世術にも通じる親しみがる。諸葛孔明が祀られた武候祠の広間の上に郭沫若の筆による「武候祠」の書がかけられていた。
 最近建築されたホテルは知らないが、以前からのホテルは中国全土、どこのホテルに泊まっても決まったように便所の具合が悪い。コックを捻って流そうとすると逆流してタイルに溢れたりする。成都の錦江賓館の水洗便所は、いつも水が流れっぱなしなので昼寝もできやしない。おまけに峨眉山に登るのか、チベットのラサに行くのか、チョモランマに登山に出かけるのか何だか知らないが、ホテルの中は登山姿の人たちでやたらに騒々しい。
 伝統的な民家の造りは京都のただすままいに似ている。四川料理にはかかせない唐辛子が窓の外にぶら下がっていた。本場の四川料理は何を食べても刺激性が強く、やたらに辛い。名物の麻婆豆腐にはこんな言い伝えがある。陳家の婆さんが嫁いびりをしていたという。ある日、突然の来客にご馳走をしようと思ったが、酒のつまみが何もない。真っ赤になって怒った婆さんは、あばた顔になった。それを見て嫁は隣の肉屋に逃げ込んだが、嫁も負けてはいない。思いっきり辛い料理を作って仕返してやろうと考え、くず肉をもらって家業の豆腐と一緒に、窓にぶら下がっている唐辛子で炒めて出した。それが大評判にになって商売繁盛、婆さんの顔にあばたが無くなったという。
 錦城といわれる成都は絹のふるさとでもある。動物外交にかかせないパンダのふるさとだ。パンダは西部奥地にしか住まない珍獣である。四川省は、心、食とともに日本人に馴染み深い土地柄だ。 「南船北馬」長江の旅は成都から始まった。四川省の東部盆地はやたらに蒸し暑く、もう初夏である。盛唐の詩聖、杜甫が晩年、戦渦と飢えを逃れて過ごしたといわれる杜甫草堂は雨に濡れていた。入り口の前に流れる小川では釣り人がのんびりと竿をたれている。青々とした竹ばやしに紅がら色に塗られた壁が詩情を誘う。草堂の中心につくられた建物は杜甫の官職名工部祠。がらんとした堂の中央には明代に造られた像が厨子の中にみえる。杜甫は今に伝えられる1.400余篇の詩作のうちのおよそ240篇をーの詩をこの地で残した。洛陽で生まれて漂白の旅をし、ここでの晩年の四年間は幸せな時期だった。故郷の洛陽に帰ることを夢みつつ、杜甫は家族たちに看取られながら洞庭湖に向かう船の上で55才の生涯を閉じたという。
 成都は乱世に散った英雄豪傑たちの滅びの美学、「三国志」で知られる。運命に力の限り立ち向かった人々の悲しみや空しさ、喜びや美しさを感じさせて、現代の処世術にも通じる親しみがる。諸葛孔明が祀られた武候祠の広間の上に郭沫若の筆による「武候祠」の書がかけられていた。
 最近建築されたホテルは知らないが、以前からのホテルは中国全土、どこのホテルに泊まっても決まったように便所の具合が悪い。コックを捻って流そうとすると逆流してタイルに溢れたりする。成都の錦江賓館の水洗便所は、いつも水が流れっぱなしなので昼寝もできやしない。おまけに峨眉山に登るのか、チベットのラサに行くのか、チョモランマに登山に出かけるのか何だか知らないが、ホテルの中は登山姿の人たちでやたらに騒々しい。
 伝統的な民家の造りは京都のただすままいに似ている。四川料理にはかかせない唐辛子が窓の外にぶら下がっていた。本場の四川料理は何を食べても刺激性が強く、やたらに辛い。名物の麻婆豆腐にはこんな言い伝えがある。陳家の婆さんが嫁いびりをしていたという。ある日、突然の来客にご馳走をしようと思ったが、酒のつまみが何もない。真っ赤になって怒った婆さんは、あばた顔になった。それを見て嫁は隣の肉屋に逃げ込んだが、嫁も負けてはいない。思いっきり辛い料理を作って仕返してやろうと考え、くず肉をもらって家業の豆腐と一緒に、窓にぶら下がっている唐辛子で炒めて出した。それが大評判にになって商売繁盛、婆さんの顔にあばたが無くなったという。
 錦城といわれる成都は絹のふるさとでもある。動物外交にかかせないパンダのふるさとだ。パンダは西部奥地にしか住まない珍獣である。四川省は、心、食とともに日本人に馴染み深い土地柄だ。
 三峡下りは重慶から船に乗る。街は長江て嘉稜江との間の半島ような丘稜にへばりついている。家を出れば坂を登るといわれる山の都だ。複雑な傾斜にそった屋根こしに長江の流れが見え隠れする。三毛猫が雨上がりで黒光りしている隣の屋根瓦を飛び越えて、白い猫にラブコールを送っていた。アヘン戦争(1840)後。たえず列強たちから野望の標的になった重慶。中国共産党を代表して、毛沢東と周恩来が四十三日間にわたって国民党と真っ向から対決した紅岩村革命記念館。中国統一の直談判が重慶談判だ。中国の皇帝が天帝を祀って儀礼を行う北京の天壇と、革命の聖地、重慶人民大礼
 三峡下りは重慶から船に乗る。街は長江て嘉稜江との間の半島ような丘稜にへばりついている。家を出れば坂を登るといわれる山の都だ。複雑な傾斜にそった屋根こしに長江の流れが見え隠れする。三毛猫が雨上がりで黒光りしている隣の屋根瓦を飛び越えて、白い猫にラブコールを送っていた。アヘン戦争(1840)後。たえず列強たちから野望の標的になった重慶。中国共産党を代表して、毛沢東と周恩来が四十三日間にわたって国民党と真っ向から対決した紅岩村革命記念館。中国統一の直談判が重慶談判だ。中国の皇帝が天帝を祀って儀礼を行う北京の天壇と、革命の聖地、重慶人民大礼堂は同じかたちをしている。北温泉の背丈ほどある浴槽にとびこんで、歴史に思いをはせた。
Posted by 富山治夫 at 09:03 | 中国 | この記事のURL
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