戦いのない革命 [2009年06月02日(火)]



 「まさか、まさか」のGM破産。リーマン・ショックで、世界に大恐慌金融危機をお越し、続いて「まさか」の落ちた偶像。
1908年から開始されたT型フォード製造において適時改良が加えられながら1914年にハイランドパーク工場内にベルトコンベアが導入され、この時点が、組み立てに関する大量生産方式の基本形完成の年だ。20世紀はじめには、蒸気自動車と電気自動車が、ガソリンエンジン車と覇権を争っていた。
トーマス・エジソンは電気自動車の改良と普及に努めていたが、広大な国土を持つアメリカでは航続距離の短さがネックとなり、内燃機関を研究していたヘンリー・フォードによる『T型フォード』が、自動車市場を完全に内燃機関自動車に支配されるようになった。
「揺り籠から墓場まで」アメリカ人にとって自動車は暮らしのなかで掻かせない。
アメリカ東部、ミシガン州デトロイト郊外にあるヘンリーフォードミュージアム、デアボーン自動車博物館を訪れたことがある。
アメリカ発で起きた金融危機と構造的な問題を抱えるアメリカの自動車産業がどうサバイバルするのか。金融危機が引き金となった自動車販売の不振は単に経済問題だけではなく、その背景には世界の政治状況も複雑に絡み合っている。この大きな問題を考えるには、アメリカ資本主義の崩壊。自動車危機は、20世紀の大量生産システムが終わりを告げようとしているのではと感じていました。
自動車を生んだ欧州、自動車を発展させたアメリカ。こうした自動車100年間の歴史がいま大きく変わろうとしているかもしれない。いや、変わらなければならないのかもね。
自動車をつくるのにいろいろな産業が必要です。1台の自動車を安く作るには、大量生産が不可欠でした。そしていろいろな部品が必要なのです。
 いままでアメリカで起きた金融危機と自動車危機について、アメリカの状況はとても深刻である。そして電気自動車やハイブリッドという新しい自動車を普及させることで、環境問題と経済問題を同時に解決させるという政策があることが理解できるのですが、円高とアメリカ失速のダブルパンチ、「戦いのない革命」とでもいうのか、果たして日本への影響は・・・?。




強制捜査 [2009年05月23日(土)]


 近所の世話役をしている人から電話があった。「十時十五分に強制捜査が始まる」と連絡があったが、なにのことやらさっぱり見当がつかない。日本一の繁華街新宿には世界から集まった若者が多く住んでいる。歌舞伎町の裏から中央線大久保駅、中野駅あたりまでは韓国人と中国人たちが多く住み、すれ違う人たちの会話には、あまり日本語が聞えない。消防自動車、救急車のサイレンは当たり前のようになって毎日のように聞えるが、麻薬かなにかしらい強制捜査は初めてだ。時間がくると、ワンルームマンションの管理人の車と引っ越し会社の車が、わが家の玄関前に横ずけされた。十二三人の捜査官が勢ぞろいしてワンルームマンションに入って行く。テレビニュース番組で見る強制捜査とまったく同じ場面だった。たった六畳一間なのに、どれほどの事件かと捜査員に「暴力団関係、それとも麻薬の捜査ですか」と尋ねる、「裁判所からの部屋の強制明け渡し命令ですよ、本人はまだ寝ているのですぐに済みますよ」。パソコン、テレビ、衣類などが三十個以上の段ボールに収められて次々にトラックに積み込まれる。「この荷物はどうするんですか」とまた聞いたら「裁判所て官報に告示してから競売されるんです家賃未納の一件で」。出てきた二十代後半の若者は、入り口の階段にボストンバックを肩に座り込んで空を見上げていた。これからどうするのだろう、今夜からニートになるのか、少し可愛いそうになった。
 新型インフレンザの感染者が東京に出た。裁判員制度が施行される日の出来事であった。

 新シリーズ「富山治夫・世界の旅」。ポッドキャスティングが始まります。第一回目は世界遺産に登録されているアルジェリヤの「カスバ」。世界中から犯罪者が逃げ込む魔窟カスバは、地中海に面したアルジェ市の小高い丘に、石づくりの小さな家がひしめきめいている。細い階段だらけの通路を警察に追われるジャン・キヤバンが演じる「望郷・ぺぺ・ル・モコ」。フランス映画代表作としても有名な舞台だ。ご期待ください。

新シリーズ「富山治夫・世界の旅
http://www.hilife.or.jp/viaggio/2009/05/1969.html#more
Posted by 富山治夫 at 03:55 | 日本 | この記事のURL
万里長城 [2009年04月27日(月)]



 目まぐるしく伝えてくるニュースに、どのように壁を作るかがキーワードになりそうだ。水際対策の無いままマスクを壁にメキシコのコルドバ保健相は25日、同国で発生している豚インフルエンザの状況について発表、同日までの感染者数は1324人で、死者数は81人に達したと明らかにした。死亡者のうち死因が豚インフルエンザと確定した人数は20人で前日と変わらない。
 単純にいって民族の分水嶺である。騎馬民族の侵入を防ぐために、農耕民族が長城を築いた。フランスと中国学者の調査共著「THE GREAT WALL」に書いてあった。
 その万里長城の実際は8851キロ。中国の調査で判明した。これまでは全長6300キロ以上といわれてきた。長城は東端の遼寧省虎山から西端の甘粛省嘉峪関青海省まで10の省、自治区、直轄市にまたがっており、のろし台も5723カ所あったという。レンガなどできた人工の壁があるのは全体の約70%に当たる6259.6キロ。残りは塹壕(ざんごう)やがけなどの険しい地形を利用していた。
 万里の長城は古代から各地で築かれてきたが、調査対象となったのは明代(1368−1644年に築かれた長城。北京市郊外にあり観光名所となっている現在の長城も明代の遺構とされる。
 壁といえば、ベルリンの壁崩壊は、1989年11月9日に突如として東ドイツ政府が、東ドイツ市民に対して旅行の自由化を発表した事による。実質的には意味を持たなくなったからだ。
 イスラエル、ガザ地区の壁。それは1996年にはほぼ完成された。パレスチナ人の、目的のセキュリティとテロ対策です。2000年12月と2001年6月の間には、ガザ地区からのイスラエルの分離壁の一部を再建された。ガザ地区包囲は、壁に隣接地にイスラエルのセンサ、高技術観測とフェンシングのワイヤを作られる 、コンクリートと鋼製の壁に隣接地に8メートルの高電子センサーや地下のコンクリートの壁にトンネルを防ぐために装備以上のコンクリート壁。 2005年には、すでに既存のスチール製の壁、エジプトとの国境の長さを実行中に追加建設された。  
 イスラエルのガザ地区の壁を分離壁を最初にイスラエルのラビン首相のリーダーシップの下で 構成されています 。
 これを書き始めているうち、世界的な広がりを見せ始めた豚インフルの死者が81人に増加した。インターネットが世界の壁を乗り越え、携帯電話の普及で情報交換がたやすくなった。が、最初の患者は、南部オアハカ州の女性。症状は重篤で死亡したため、本格的な調査を開始。女性と接触した人は多く、45人の感染が判明した。しかし、この女性が今回の流行の最初のケースかどうかは不明という。

Posted by 富山治夫 at 11:35 | 中国 | この記事のURL
簡略文字とフリー百科事典 [2009年04月13日(月)]



 唐詩の本を詠んでいると、いうよりは旧漢字のデザインを眺めているだけなのだが、味のある字画で文字の意味合いが伝わってくる。中国や韓国を旅行しても街に重みのある漢字が消えている。だから地図を片手に散歩することが出来ない。旧漢字が読めるのは、台湾人と香港人と日本人になってしまった。道路表記が明快の欧米では、地図を便りに何処へでも一人で行かれる。
 旧漢字の繁体字と簡略字の簡体字を考えるという対談がBS中国ニュースで流れていた。旧漢字は中国文化を伝承する意味で重要な文字だから教育方針を代えるべきだという学者と、中国でも英語教育が行なわれるように成ってきてから、簡体字は今のパソコン時世に有っているという学者が議論していた。簡体字は味わいがないというが、思考とコミニュケーションが採りやすいと75%が賛成。反対は24%に過ぎなかった。宋・元の時代から簡体字は導入され、秦の始皇帝が繁体字の統一した歴史がある。だが、二千以上の簡体字を結合して。2000年10月、中国国家文字法律が施行された。文字統一が長い時代続けば経済も豊かになると、中国の学者が語っていた。

 「ひらがな」を、ちなみにグーグルで検索してみると、西暦900年頃の平安時代に、それまでの画数の多い 「万葉がな」に代わるものとして考案された カタカナは、西暦800年頃に ひらがな同様、文字を簡略表示させる目的で 考案された 平仮名は日本語の表記に用いられる音節文字である。仮名の一種で、万葉仮名を起源として成立した。楷書ないし行書で表現される万葉仮名を、極度に草体化して作られている。貴族社会では女性或は私的な場で用いるものとされ、女流文学が平仮名で書かれた以外にも、和歌、消息などには性別を問わず平仮名を用いていた。そのため女手とも呼ばれた。平仮名による最初期の文学作品である紀貫之の作品『土佐日記』も作者が女性であるという前提に立って書かれている。とあった。「五十音」の名は、江戸時代からのものであり、古くは「五音(ごいん)」とか「五音図」「五音五位之次第」などと呼ばれていた。
また、これの手習いを目的として1923年に北原白秋の手によって成立された同題の歌詞および楽曲が存在している。
 現在、ネット時代にグーグルの検索マシンを必要不可欠となって利用している。そのグーグルが南ニューヨーク地区連邦裁判所から米作家集団訴訟で4500万ドルの和解協定を結んだ。集団訴訟なので世界中の作家に影響を与えるという。フリー百科事典『ウィキペディア」は、図書館、大学、一般著者から無断でスキャンした検索マシンである。どれほどの愛用者がいるのか計り知れない。念のため、www.googlebooksettlement.comというサイトを開いてみたら・・・。賛否期限は5月5日まで。そのうちに映像アーカイブにも影響を及ぼすことになるだろう。
Posted by 富山治夫 at 03:04 | 日本 | この記事のURL
学童疎開 [2009年04月01日(水)]


 1945年、日本が敗戦の年に、小学校四年生だった。群馬県・伊香保温泉「千明仁泉亭」に学童疎開で行った。皇室ご用達として伊香保きっての老舗温泉旅館だ。昭和天皇、明仁天皇、秩父宮、秋篠宮と皇室にご縁が深く、創業五百年の伝統の宿は、大正時代に建てられた木造三階建てだ。
 往時のままの千明仁泉亭へ、妻、娘、孫と兄嫁、五人の家族旅行は、懐かしい思い出を再訪する旅になった。渋川駅から砂利道を昼前から歩いて辿り着いたのは日暮れになった。本館は昔のままで、木目細な造られた日本間に案内してくれる仲居さんが笑顔で「伊香保温泉の20%の源泉を確保しているので湯量が多く暖まりますよ」。一段下に在った円形大浴場は、露天風呂と風呂付き部屋の「鶴の居」高級四部屋に改造されていた。終戦近くには食べる物がなにも無く、皆んな栄養失調でガリガリに痩せていた。大豆に雑穀がからまったご飯も一日一食。配られる粉歯磨き粉を温泉で丸めて空き腹の足しにした。燃料用松根掘りに毎日ように山に入る。山つつじが咲いていると、いっせいに食べてしまう、食べられる物はどん欲に探し回った。国民服の縫いしろにベッタリとシラミ、頭はノミだらけ。それなのに病気になる児童はいなかった。千明は二・三ケ月の滞在後、
「偲びがたきを忍び、耐え難きを堪え」昭和天皇の終戦勅語のラジオ放送は、数軒上にある福一旅館で聞いた。すぐ下の十一屋酒店との路地に並べられた大きな空き味噌樽、組木の間に取残した味噌が残っている。それをすくって腹の足しにした。育ちざかりなのに、楽しかった記憶は何も残っていない学童疎開だった。一昨年、兄が逝った時、弔辞をのべてくれた深井さんが、航空隊同期生の飛行靴を履いた人が石段を登って行く、その顔を見ると兄だった。千明旅館に弟の手伝いに来た兄と偶然の再会であったという。十一屋酒店の下で射的屋の店を経営していたのだ。伊香保町役場に勤め、伊香保町長を三期十二年を勤めるかたわら、ちりぢりになった航空隊同期生の名簿作りに奔走した。部屋に訪ねてくれて、退職後は特攻隊員の名簿を作成するために走り回っているいう。
 桜が咲くというのに、朝雪が降っていた。茶褐色の仁乃湯は湯量の豊富な露天風呂につかる。赤城山を見ながら、北朝鮮の人工衛星発射「テポドン2号」のニュースを思い浮かべていた。イラク戦争、アフガン増派兵、チベット問題など地球上どこかで戦いが起こっている。子供たちは、きっと学童疎開の時代と同じ思いをしていることだろう。「食い物の恨みは恐ろしい」と。疎開以前の思いでは多少有るものの、人間の記憶なんて、勝手なものだ。残念だったのは、終戦後、帰れない児童は二十人ほど、赤城山麓の寺院の名前がどうしても思い出せない。六年生まで居たのに・・・。雪景色の榛名富士に観光客は少なかった。
Posted by 富山治夫 at 13:18 | 日本 | この記事のURL
好評に終わった唐詩展 [2009年03月11日(水)]


  天末懷李白・・・・・杜甫
涼風起天末  涼しい風が天末より起る
君子意如何  君子の意は如何に
鴻雁幾時到  鴻雁は幾時か到る
江湖秋水多  江湖の秋は水多し
文章檜命達  文章は命の達するを檜み
魑魅喜人過  魑魅は人が過るを喜び
應共冤魂語  應に冤魂を共と語らん
投詩贈泊羅  詩を投じ泊羅を贈るべし

          はるか遠い地に涼しい風が吹き   
          始めてきた。貴君はいかがお過 
          ごしですか、鴻雁はいつになっ
          たら便りを運んでくることや
          ら、捕らわれた李白の身を按じ  


 沙邱城下寄・・・・・李白

我来竟何事  我来る何事ぞ
高臥沙邱城  高臥する沙邱城
城邊有古樹  城邊に古樹が有り
日夕連秋聲  日夕の秋聲に連る
魯酒不可酔  魯酒に酔うべからず
斉歌空復情  斉歌は空しく復情あり
思君若汝水  君を思うて汝水のごとく
浩蕩寄南征  浩蕩として南征を寄す

          魯酒では酔えないと、兄として親交の 深  
          かった杜甫が李白を詠んだ詩は多い。
                               
                              曲阜・山東省




 映像イメージ化を試みた「唐詩百景」が好評のうちに一ヶ月の展示を終わりました。共同通信社から全国の地方紙に配信されました。佐賀新聞は、逢入京使・・・岑参と、客中行・・・李白の同時掲載。新潟日報は、春望・・・杜甫、上三峡・・・李白、毎週月曜日に連載が始まりました。大きな紙面の扱いに驚いております。中国国際放送局 東京支局の傅 穎さんのインタビュー記事が中国全土に配信されるそうです。
 展示中に大学関係者、唐詩研究家、学生、唐詩に興味ある人から沢山の電話やメールを戴きました。ありがとうございます。
唐詩は、文学遺産として中国が京劇とともに誇っています。中国は文化革命以後、簡略漢字の教育が行われて、若い学生たちは古い漢字の唐詩が読めなくなったといわれています。北京オリンピック開会式で、大スクリーンに
「飛流直下三千尺、疑是銀河落九天・・・李白、(飛流直下すること三千尺、疑うらくは銀河が九天に落つるかと)」が映されたのが印象的な場面であった。歌舞伎が京劇から、遣唐使が伝えた唐詩は、日本史上、文化文明に限りなく大きな影響をあたえた、「源氏物語」や古文書などにも・・・。
中国全人代会議が金融危機の暴風が吹き荒れる中、社会不安に直結する雇用問題への危機感にかかわらず経済成長率「GDP8%成長死守」へ市場経済原理よりも社会治安維持を優先させる数字といえるかも知れない。
 出会いと友情の絆、李白を兄として親交の深かった杜甫と、遥か遠い地の杜甫に、李白の詩を。
Posted by 富山治夫 at 13:48 | 中国 | この記事のURL
上は金 [2009年03月02日(月)]




 新橋駅前共同通信社・メディアタワー3Fで展示している「唐詩百景」は、3月8日まで、あと一週間になりました。地方紙の掲載が始まりました。


 蜀相・・・杜甫

丞相祠堂何処尋 丞相の祠堂何処にか尋ねん
錦宮城外柏森森 錦宮城外 柏森森たり
映階碧草自春色 階に映る碧草 自から春色 
隔葉黄鸛空好音 葉を隔つる黄鸛空しく好音
三顧頻煩天下計 三顧頻煩なり天下の計
兩朝開済老臣心 兩朝開き済む老臣の心
出師未捷身先死 出師未だ捷たざるに身先づ死す
長使英雄涙満襟 長に英雄にして涙襟を満す

 
 「上は金 下は杭なし吾妻橋」の一句で、都々一坊扇歌は、1852年、江戸を追放された。都々一坊は、幼少のときに病による失明同様であったが、寄席芸人を目指し、当時の政治や経済を、高座から聴衆に向かって語りかけるナゾかけを即座に解いてしまう。頭の回転の早さが江戸庶民に評判だった。と。
義父の法事で石岡市の国分寺にいったら、都々一坊扇歌堂が保存されていた。

 
第92代内閣総理大臣に就任「太郎ちゃんねる」のネット配信を見ると、何もメッセージが伝わってこない。漢字の読めない秋葉原マンガオタク「太郎ちゃん」に、小泉元総理は、「笑っちゃうぐらいあきれた」と痛烈に批判した。
 1969年(昭和44年)1月18日、19日に、全学共闘会議が占拠していた東京大学本郷キャンパスを警視庁が封鎖解除を行った事件である。この事件以後、沈静化した学生たちは政治に対する反対デモは行なわれていない。今日では無差別にナイフで刺す事件が続発し、流行しているかのように多くなった世相になった。
 世界金融危機、派遣社員の雇用不安と社会保険対策が一行に進まない社会不安ばかりの日本国は、政治は数、数は金。
「上はオタク 下は杭なし永田町」と都々一坊・・・は、笑っちゃうぐらいだ。と、高座で、ドドイツを謡っているかも・・・。

最新ニュースで、世界のネット社会で脅威のボットウイルスという感染率が高く、知らない間に自分のパソコンが発信源になってしまうウイルスが恐れられていると伝えていた。「沈没」は、かんべんしてください。
Posted by 富山治夫 at 06:38 | 日本 | この記事のURL
ふりむけば中国「唐 詩」 [2009年02月05日(木)]


 長安の都が賊軍の手に堕ちて、国は破壊されたが、山河は昔のままである。町並みにも春がきて、花が咲き草木も昔のままに変わっていない。
 安禄山の乱に遭い、長安で幽閉された時に詠んだ杜甫の代表作。国と我が身を憂う詩を多く残し、五十九年の生涯を終えた。交河故城 甘粛省

「唐 詩 百 景」 解説・訳 蔡 子民 写真 富山治夫
監修・共同通信社編集委員 牧野俊樹
新橋駅前・メディアタワー3F
2009年2月11日-3月8日 (年中無休)
 ふりむけば中国。文学世界遺産「唐詩」のイメージ映像化を試みました。

半年前になる北京オリンピックは「鳥の巣」で開会式が行なわれた。巻物があった床が開くと活版印刷の巨大活字群が登場した。活字一文字一文字の中に人が入って上下することで版面は海面のように波うち、その左右に金文、小篆、楷書で「和」の字が表示された。さらに活字群によって万里の長城が築かれると桃の花が開花し、オリンピック精神である「平和」をアピールした。そして最後に活字の上面に相当する部分が開き、活字群を動かしていた
人々が顔を出すことによって、機械等で活字群を動かしていたのではなくた。
李白の詩の一節「飛流直下三千尺、疑是銀河落九天(飛流直下すること三千尺、疑うらくは銀河が九天に落つるかと)」が競技場のスクリーンに映されたのが印象的な場面であった。
唐代は、西暦 618ー907年。初唐・中唐・盛唐・晩唐の四期に時代区分され、詩が多く詠まれた盛唐が最盛期であった。多くの詩人たちは戦乱を逃れて旅を続けた。詩人の数は2、900余人、詩の数は48,900余詩という。『三国志』の戦乱と激動の記録は、文人の詩想を大いに刺激した。「唐」とは、「ひろい」という字句。黄河・長江文明の悠久の歴史が中国人民の今が在る。文明文化と歴史、ふりむけば中国悠々。
1960年代後半から1970年代前半まで文化大革命が続いた中国は、観光客を受け入れていなかった。
1973年5月、日中文化交流写真家代表団10名の一員とて、木村伊兵衛先生と初めて訪中した。カメラを肩に何台をぶら下げた一行が珍らしいらしく、毛沢東語録を手にした群衆に取巻かれ人垣根でシャッターを切るよりも、見られに行ったような時代から35年間で百回を越える中国撮影旅行をした映像から19点を展示しました。

   

       
Posted by 富山治夫 at 13:20 | 中国 | この記事のURL
大連日本映画上映会 [2009年01月01日(木)]


1987年10月5日、大連日本映画上映会が高野悦子さんを代表に、山田洋次監督、三船敏郎氏、羽田澄子監督等は、皆さん大連で生まれ育った映画人と、ほかに三十数人の映画関係者が参加して催された。
「アカシヤの大連」と言われる大連市の町並みは、中山広場を中心にして放射線状に広がり、モダンな建物が並んでいる。パリをモデルにした都市づくりと港湾の整備が始まったのは、ロシアが、東清鉄道の終着駅を設け「ダーリニー」「遠い」と名づけたところに端をはっしている。1904年に勃発した日露戦争により、同年5月末には日本軍が無血入城を果たし、戦後の1905年ポーツマス条約により日本に租借権が譲渡された。「満州国」の大動脈、南満州鉄道初代総裁は後藤新平だ。
 大きな中山広場の一郭に大和ホテル。その反対側にある人民会堂で映画上映会が開かれた。洋次監督の「男はつらいよ・知床慕情」、羽田澄子監督の「AKIKO
ーあるダンサーの肖像」が上映され満員の観客から大拍手が起きた。驚いたことに、この建物の外壁は日本人墓地から持ってきた墓石を積み上げたものだという。それも墓標の文字が読めるのだ。なんということだ。戦争の悲劇がこんな形で残されているとは思わなかった。
 山田洋次監督が生まれた家を訪ねると、大きな家に数家族が住んでいて、見せてくれた。各部屋を懐かしそうに見て歩く監督は、窓の下に走っている光る線路をじっと眺めていた。
 満鉄の技師だった高野悦子さんの父上与作さんは、自分の足でハルピンまで大陸縦貫特別急行を走らせるため満鉄の技術の粋を集めて、その施設を完成させた。1934年11月1日、世界を驚嘆させる列車が運行を開始した。日満両国がその威信に賭け、世界に先駆けて完成実用化したその列車こそ、「あじあ号」だった。最高速度は130km/h、表定速度は82.5km/hで、流線型の外被をつけて空気抵抗を少なくした大出力蒸気機関車は、真っ赤な大きな動輪「パシナ型」が牽引した。1935年には運転区間はハルビンまで延長された。
東京の上野駅にそっくりな大連駅、駅前の路面電車までそっくりだ。終戦後、大勢の日本人引き揚げ者が「興安丸」に乗った大連第二埠頭は解体されてしまった。歴史の重みの中で開かれた日本映画祭は、日中文化交流の輪を大連生まれの映画人たちが大きく咲かせ、一頁に記録を残した。『アカシヤの大連』には、日本企業が多く進出している。

Posted by 富山治夫 at 15:57 | この記事のURL
漂えども沈まず [2008年12月01日(月)]
 自然には「ウソ」が無い。春が来ると花が時の過ぎたのを知らせてくれる。 来年は母の三十三回忌、たかが一生、自分の心に「ウソ」をつくな、楽しく前向きな人生を送れないから、と、いつまでも記憶の中で母と話している。最近のテレビ番組は見ようと思うような番組がなくなった。夜のゴールデンタイムにいたっては、女子小中学生のための番組に代わってしまいチャンネル争いがなくなった。綾小路きみまろの枕詞「人間の死亡率は100%」には笑はせる。失言が止まらない総理の発言で日本丸は迷走しているとき、国会解散を求める野党党首討論を期待してテレビを見た。控え目の一郎タヌキと一言多い太郎キツネの党首対談を聞いたが、マンガのヒーローは迫力があるが化かしあい合戦なので緊迫感がひとつも感じられない。選挙に落ちれば「唯の人」なのに、どこか頼りなならない。血筋なのだろうか。伯父の昭和名主相、吉田茂内閣は「バカヤロー!」と語尾が震えさせながら社会党の西村栄一をイッカッした。『バカヤロー解散』1952年8月28日のことで、嘘をつけずに失言をし続ける若者向け漫画愛好家である麻生太郎に、ただ言葉裏の話で詰め寄るのだが、民主党代表を辞めるといった後、三日後に民主党代表に帰りついた「ウソ」の経緯があるのだから追求も渝わいのは・・・。  中国には覇者が覇者を治めで代わる王道の歴史がある。唐代には北京も上海も無かった頃。日本の遣唐使勉学のためは寧波、あるいは朝鮮半島から山東省の泰山を目指した。唐詩の本'(平凡社・集英社版)を改めて開くと、杜甫、李白、白居易の稿には、詩人たちは酒をこよなく愛し、広大な中国大地を放浪旅の生涯で国を愛したことが伺える。そりに詩人たちは、現実社会に対する感性と感覚を失っていない。ある意味の情報公開が謡われているのだ。  中国政府の要人であった文学者の蔡子民先生に唐詩選から選ばれた詩とは別に、杜甫と李白の詩、それに白居易の詩を選んで映像イメージと重ね合わせた。あくまでもイメージ構成なので、詩聖たちが辺境の地を放浪したとは限らないことは言うまでもない。744年、李白(四十四歳)のとき洛陽で杜甫(三十三歳)と初めて出会う。安禄山の乱の時には、日本では奈良東大寺の建設が始まったばかりの時代だった。  「月刊現代」四十二年間発行しつづけた分厚い最終号が送られてきた。「現代語感」を長年連載させてもらったので残念だ。編集後記に、親しかった開高健が好んで書いた「漂えども沈まず」の言葉を思い出した。迷走「日本丸」は沈まない。
Posted by 富山治夫 at 07:33 | 日本 | この記事のURL
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