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いっぽ いっぽ

日々の生活や出会いのなかで感じたことや考えたことを書いていきたいと思っています。
今日よりも明日向って、一歩一歩ステップアップしていきたい!


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Moises Edwards
あかし女性物語 その1-2 (12/17)
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明石城 (11/11)
ブログ、引っ越ししました [2008年09月21日(Sun)]

団体ブログとして、とまとPRESSの発行物を発信していくことになりました。
http://blog.canpan.info/tomatopress96/

随時、書き込みをしていきますので団体ブログ、個人ブログともに遊びに来てください。

そこで
個人ブログは、「いっぽ いっぽ」と改名しました。
いつも「一歩前へ」突き進んでいきたいと思っています。
あかし女性物語 その3 [2008年09月20日(Sat)]
あかしちぢみのお菊
〜ちぢみ織りの発案者

明石ちぢみとは、縦に生糸、横に強い練糸を使って縮ませた高級な薄織物で、夏の婦人和服地などに用いられました。
明石藩主が小笠原忠真だったころ、茶園場に織物工場がありました。
そこで働いていたのがお菊です。

カンナくずから明石ちぢみ

お菊の父親は船大工で、いつも作業場でカンナくずをまき散らしていました。
その薄くちぢれた木くずを見たお菊は「こんな織物ができないものか」と思いました。
試行錯誤の末、とうとう絹糸を縦糸に、強く練った木綿糸を横糸にして練り上げた布ができました。
それはまるで薄く削ったカンナくずのように美しくちぢれていました。

「明石ちぢみ」と名付けられたお菊の織物は大評判になりました。
寛永9年(1632年)に小笠原忠真が国替えとなって九州小倉へ移るとき、お菊も九州に渡ったため、ちぢり織りの技術は小倉で受け継がれたということです。

もうひとつの明石ちぢみ

17世紀ごろ明石城主・松平信之の家来、堀将俊(明石次郎)が、雪の中に糸を埋めてから織り上げるちぢみ織りを完成させました。
明石ではあまり雪が降らないので、次郎は家族とともに新潟の小千谷へ移り住み、ちぢみ織りを伝えていきました。
小千谷では、次郎は『明石様』と呼ばれ。ちぢみ織りとともに神社に祭られているそうです。

残念ながら、現在、明石では明石ちぢみは生産されていませんが、お菊が始めた明石ちぢみは、遠くの地で、今も受け継がれています。
あかし女性物語その2 [2008年09月19日(Fri)]
<特大>小式部内侍
〜プレイガールは母ゆずり〜


情熱の女性歌人としてその名も高い和泉式部。
彼女の最初の夫は、和泉守道貞という県知事クラスのオジサマでした。
二人の結婚生活は和泉式部の相次ぐ恋愛沙汰によって破たんをきたしましたが、この二人の間に生まれた娘が小式部内侍です。

佳人薄命のひと

 大江山いくのの道の遠ければ
 まだふみもみず天の橋立


という歌が百人一首に残っていますが、このとき、小式部は若干12〜13歳。
即興で詠んだにもかかわらず、見事な出来で周囲の大人たちを驚かせました。

また、恋愛遍歴のほうも母に劣らず華やかなものでした。
藤原道長の息子たちとも浮き名を流しました。
その一人、藤原教通との間には静円という子どもを産んでいます。
また、万寿2年(1025年)には、藤原公成の子どもを出産しましたが、それが原因で20代の若さでこの世を去りました。

小式部祈りの松
魚住町に小式部ゆかりの史跡が残っています。
その史跡にまつわるお話です。

小式部の歌の才能を見込んだ天皇は、御所にある枯れそうな松を歌で蘇らせて欲しいと命じました。
小式部が祝い歌を詠むと、不思議なことに松は元気を取り戻し、緑の色濃い松に蘇ったそうです。

小式部に先立たれた母の和泉式部は、せめて菩提を弔おうと姫路の書写山を訪ねました。
その帰り道、魚住の長坂寺を訪れた和泉式部は同寺の寂心上人から法華経を詠むことを勧められました。
一心に法華経を詠んでいると、立ちのぼる香煙の中から小式部の姿が現れました。

和泉式部は、京に帰ってこのことを天皇に申し上げ、小式部の歌で蘇った御所の松を魚住の長坂寺山に移し植えました。
村人たちは「小式部祈りの松」と呼んで大切にした、ということです。

※魚住町錦が丘には、寂心上人が小式部の供養のために建てた五輪石塔があります。
あかし女性物語 その1-2 [2006年11月10日(Fri)]
前回から随分と間が空いてしまいましたが、再開します。

明石の上 光源氏が愛した女 その2
〜源氏ゆかりの史跡〜

 作者、紫式部は、明石の地を訪れずに「明石の巻」を書き上げたと言われています。伝聞などをもとに、明石のゆびほかなる地というイメージを作り上げていったのでしょうか。平安人にとって明石は、畿内のはて、はるか遠くの憧れの地だったようです。
 江戸時代の風流人であり、名君でもあった明石のお殿様・松平忠国公は、源氏ゆかりの史跡を各地に残しました。今風に言えば”観光によるまちおこし”といったところでしょうか。現在市内には浜の松、源氏屋敷、月見の池、蔦の細道などの『源氏物語』ゆかりの史跡が点在しています。

※ゆびほかなる・・・ゆったりした様子・広々とした様子

あかし女性物語 その1 [2006年10月29日(Sun)]
さてさて 今日からあかし女性物語を紹介していきましょう。
今日は、第1回目。源氏物語に出てくる明石の上です。

明石の上 光源氏が愛した女
都から須磨に流されてきた光源氏は、明石入道のすすめで明石に移り住みます。そこで、入道の娘”明石の上”と出会いました。

源氏物語のヒロイン
明石の上は上品で聡明な女性でした。二人は愛し合うようになり、幸せな日々を過ごしていました。その一方で、明石の上は自分の身分が低いことや、光源氏には都に紫の上という愛する人がいるということで、いつかは別れがくるのではないかと思い悩んでいました。
光源氏が明石に来て、3年後のある日、都からの知らせで京に帰ってしまいました。翌年3月、明石の上は姫君を出産しました。そして、都に帰った光源氏から京に来るようにと勧められます。最初は躊躇していた明石の上も姫君のために京へ行くことを決心しました。
京の嵯峨で、平穏で幸せな日々がしばらく続きましたが、姫君の将来を考えて涙ながらに紫の上に姫君を託します。
そして、その後、紫の上のとりはからいにより、明石の上は姫君おつきの女房となり、幸せな日々を過ごしました。

明日は、源氏ゆかりの史跡の紹介をします。
郷土玩具 明石手まり [2006年10月25日(Wed)]
 明石の郷土玩具のひとつに「明石てまり」があります。江戸時代、お城勤めの御殿女中が手遊びに美しい色糸をかがって、作ったのが始まりとされています。
 色は、赤系統を主調にしているのが特徴です。その他に明石では、直径1〜2p程の小さなまりを雛祭りに飾っていました。
 現在、明石てまりは、日本玩具博物館に展示されています。
明石城 その2 [2006年10月25日(Wed)]
昨日にひきつづき「明石城」です。今日、初めてブログ訪問してくれた人は、昨日の文も是非読んでください。

 さて、坤櫓の三層の部分に注目してください。
 <木連格子>が目にとまりましたか? 真っ白な壁に真っ赤な格子―赤と白のみごとなコントラスト―これが別名「鶴の城」といわれるゆえんです。
 また、明石城は石垣の角の直線が美しいことでも有名です。
 <算木積み>と呼ばれ、石垣のカーブ線が上にいくほどきつくなっています。
 わずか8ヶ月で完成させたことには驚くばかりです。
 この石垣には、さまざまな形の刻印があり、種類は86種、総数は1445個です。城郭を散策しながら刻印を見つけるのも楽しいですよ。
 今も残る天守台の石垣は、立派なものです。明石城は、泰平な世の中になったため天守閣を建てる必要がなくなったのですが、幻の明石城を想像するならば、みごとな五層の姿が思い浮かびます。
明石城 [2006年10月23日(Mon)]
明石の地域情報発信第1号です。

明石城は、今から387年前の元和5年(1619年)一国一城令により築城されました。
 JR明石駅から美しい姿の明石城が見えます。
 ほとんどの人が坤穭と巽櫓をみて「小さいなぁ。あれでも城かいな」というのを耳にします。しかし、この二つの櫓は現存する本物の三層の櫓であり、国の重要文化財に指定されています。明石城は立派な城なのです。その特色をいくつかあげてみましょう。
(1)小粒だが、城の形と白壁が美しい
(2)日本で数少ない本物の城である
(3)初代明石城主小笠原忠真は、長野県の松本城(国宝)から栄転してきた
(4)築城時の総監督が姫路城(国宝)城主本多忠政であり、小笠原忠真の娘婿である
(5)坤櫓は豊臣秀吉の建てた自慢の伏見城(京都)を移築したもので、秀吉の家紋である五三桐が鬼瓦に多く見られる。

次回につづく
発信します [2006年10月21日(Sat)]
ホームページを作りなさいよと言われ一歩踏み出せないでいましたが、いろいろ考えなくて良いCANPANプログからはじめようと思います。
情報発信をしていきますのでよろしく!