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21年度が終わりました [2010年03月31日(Wed)]
21年度が終わりました。

この1年は本当に色んなことがありました。
4月の東播磨生活創造センター「かこむ」の指定管理スタートから始まり、5月から生きがいしごとサポートセンターのオープン、ふるさとコミュニティ・ビジネス創出支援事業(淡路島のコミュニティ・ビジネス支援)、10月からは職業紹介事業の開始、それに伴って、若者しごと倶楽部のサポート内容の見直し などなど、事業だけでもたくさん新しいことがスタートしました。

そんな基盤を作ることに本当に力を入れてきた21年度。
シーズ加古川を支えて下さった会員の皆さま、ボランティアの皆さま、関係機関の皆さま、地域の皆さま、本当にありがとうございました。
「想い」を持った仲間に、この1年は本当に恵まれ、何とか体制は整ったのでは…と思ってます。

さぁ、22年度はそんな基盤のもとで、いよいよ本格的に中身を充実させいく1年です。
いよいよって感じです!
市民セクターの充実に向けて、さらに、がんばっていくぞ〜☆

シーズ加古川に関わって下さっている皆さま、22年度もどうぞよろしくお願いいたします。
第2回シーズ加古川塾 [2010年03月24日(Wed)]
今年1月から、理事&職員&会員の方々で、シーズ加古川がどう向かっていくべきなのか、何を果たしていくべきなのかについて、みんなで考えよう!ということで、勉強会を開催しています。

第1回目は1月25日に開催し、「国家・市場・市民社会」をテーマに、今田忠先生にきていただき、フィランソロピーの歴史についてご講義いただいたあと、みんなで議論しました。

今回はそんなシーズ加古川塾の第2回目です。
前回のフィランソロピーの歴史のあとに、コミュニティ財団の話等で盛り上がり、なぜか…忘れましたが、「市民社会」とは何か!?という議論になったので、ついつい私が「じゃあ、第2回目は「市民社会」をテーマに!」と発言したため、「市民社会」とは何か!?というテーマでの勉強会でした。

「市民社会」とは何かとは、今田先生自身も模索しておられるとのこと。
コミュニティとアソシエーションの違いや、CSO(Civil Society Organization)についてなど幅広く勉強することができました。
トップダウンではなく、ボトムアップで作り上げていく社会が市民社会ということは漠然と感じているものの、市民社会とは何かというテーマは非常に深く、難しい問題です。

もっともっと、市民社会とは何かについて勉強していきたいと思います。
とりあえず、今回はご報告まで。

社会起業家入門講座を終えて [2010年03月14日(Sun)]


先日、生きがいしごとサポートセンター事業の一環で、社会起業家入門講座を開催した。
今回スタッフが「広報キャラバン隊」と名付けた駅前でのチラシ配りの効果があり、、現在企業で勤めておられるサラリーマン等の参加者も多く、9月に同じ講座を実施したときとは違った参加者だった。
思っていた以上に、サラリーマンの方々が、社会貢献を仕事にして生きがいややりがいを感じた仕事をしたいと思われていることにとても驚いた。
参加者15人中全員がのちのち起業できればいいと考えているとのこと。
人に役立つ仕事がしたいと思い、立ち上げたいと思っていることにビックリした。
しかし、いくら社会貢献を仕事にしたいとは言え、実際に起業するということは簡単ではなく、準備も必要であるし、勇気も必要。
なので、何らかの人に役立つことをしたいと思いながら、サラリーマンをしている人々に、起業だけではなく何か違ったサポートや提案ができないものか・・・と改めて考させられた。
例えば、「企業内プチCSR活動のススメ」、「休日プチ起業体験」とか・・・。
少しずつ考えていこう。
またひとつ勉強した。
私の履歴書「柏木登起」後編 [2010年03月07日(Sun)]
さて、柏木登起の履歴書の後半です。
前編との間があいてしまってすみません・・・。

今ではよく色んな方をお話すると、NPOで活動をしたくてNPOの仕事を始めた人に見られることが多い私ですが、実は前編で書いたように、NPOとは何なのかも知らず、本当に事務だけの手伝いをするためと思い、活動に参加しました。
だから、NPOの仕事に関しては、イメージコンサルタントを実現するために、勉強を続けていく!と決意をしていたこともあり、最初は常に一線を置いていました。

そんな意識で参加したNPOでの活動でしたが、私が最初にいたNPOは、本当に規模が小さく、事務局としては私を含めて3人で活動していたため、何でもしないといけませんでした。
セミナーをひとつ開くにしても、企画して、講師と段取りして、広報を作成して、募集して、資料を準備して、受付をして、司会をして・・・。
自分で受付しながら、自分で講師をしたこともあります。
色々な経験をしたため、いろんなスキルを身につけることができました。
それでも入って半年くらいは一線を置くスタンスは変わりませんでした。
NPOで活動しながら、イメージコンサルタントを夢見て、色彩検定の資格を取り、福祉住環境コーディネーターの資格を取り、インテリアコーディネーターの資格を目指していました。

でも、いつ頃からだろう・・・。
自分の人生全部をかけて、障害者のために就労支援をしている人、将来を担っていく子ども達のために、自分の時間すべてをかけて子ども達に学びを提供している人、いろんな活動をしている人に出会い、少しずつNPOに携わっている人がどんな想いを持って活動をしているのかを感じるようになりました。

また、自分の住んでいる自治会の活動、商店会の活動、全く関心を持っていなかったけれど、いろんな人が関わりあって、まちが作られていることが少しずつわかってきました。
そんな人々をつなげる役割、そんな活動が活発になるようにサポートする役割、そんなNPOや市民活動を支援する中間支援という役割が一体どういったものなのかが分ってきました。

小規模なNPOだったので、何でもしなければならなかったことがむしろ良かったのだと思います。いろんな活動をじかに感じることができたので、中間支援の活動としてはもっとこうしていくべきなのでは!?という想いや、組織としてはこんな体制にする方がよいのでは??という考えが少しずつ出てきました。
そんな時に今の法人の体制のことや、私の想いを色々と相談していたとあるNPOの友人に「もっと自分でやればいいやん」と言われ、私がこの業界で働くことになったのは、そんな縁なのかなぁ〜と考えるようになりました。
それが、NPOで活動をはじめて、1年弱経ったくらいのときです。ちょうど3年前。
もともと性格的に流れるままに任せようと思う方だった私は、この業界で本気でやろう!と腹をくくりました。

それまでは一線を置いていたため、あまり色んな活動に参加したりしなかったのですが、そこからはいろんな団体の活動に参加したり、いろんな人と出会う機会を持ったりしました。
そんな中で、今のシーズ加古川の理事長とも出会いました。
「まちづくり」において理事長が感じていること、私がNPOをサポートする中間支援として必要であると思うことなど色んな議論をしました。

その後、今の東播磨生活創造センター「かこむ」が建設されるという話が出てきました。
「かこむ」の運営をNPOに委託したいという話が出、明石で中間支援をしていた私が最初にいたNPOと、加古川で中間支援をしていたシーズ加古川が共同事業体として、「かこむ」の運営をしようという話になり、平成20年4月から、私は週2.5日は加古川で「かこむ」の運営をし、週2.5日は明石でNPOをサポートする業務を行うようになりました。

大きな変化が訪れたのは、「かこむ」の21年度からの運営について考えなければならなくなったときです。
20年度は「かこむ」の運営は、委託事業という形で、県と協働しながらだったのですが、21年度からは指定管理者制度を活用して運営が発注されることになったときのことです。
指定管理者制度は地方自治法が改正され、株式会社やNPO法人、財団法人等が公の施設の管理運営を行うことができるようになった制度で、委託事業という形よりも裁量権がある反面、責任も重たくなります。
なので、共同事業体という形になると、責任の分担や業務の役割分担等を明確にしなければなりません。
それを考えると、どちらかが音頭をとって協力団体という形を取った方がいいのでは?という話になりました。しかし、じゃあどちらが音頭取るの??と言うときに、話がうまくまとまりませんでした。
その結果、運営に関するコンペの段階で、私がいた明石のNPOとシーズ加古川が別々にコンペに出ることになりました。
つまり、20年度は共同事業体でいながら、21年度のコンペではお互いライバル関係で出ることになってしまったのです。

そうして、私は明石NPOセンターを辞め、シーズ加古川の職員として、「かこむ」の運営を行うことになりました。
シーズ加古川の職員になってからのことは、追々書いていきたいと思います。

長々と読んでいただいた方、ありがとうございます。
なぜ、私の履歴書を書こうと思ったのか・・・。
実は、先日、明石NPOセンターの理事長が亡くなりました。
今の私がNPOで活動するキッカケになったのも、大学院でNPOの勉強をするキッカケをくれたのも、すべて明石NPOセンターの理事長がちょっと半ば強引に!?(笑)誘ってくださったからです。
そうでなければ、絶対に今の私はいないし、私がこんなにも視野が広がり、人間的に成長!?できたことはなかったと思います。
今の私のことを振り返りたいと思い、履歴書を書きました。
でも、そんな理事長には何も恩返しできませんでした。
今からもっと頑張りますので、見守っていてくださったら嬉しいです・・・。
本当に本当に、ありがとうございました。
私の履歴書「柏木登起」前編 [2010年03月05日(Fri)]
随分長く更新できず、すみません・・・。反省です。
前回のブログで職員研修として「私の履歴書」ということをしたことを書きました。
「私の履歴書」って何?と思われる方は前回のブログを見てください。

そこで、今日は私柏木登起の履歴書のことを書こうと思います。
私の29年の人生の中で、特に転機になったと思うこと、今の私の人生で大きく関わっていることを書いていきます。

私は1980年12月17日、3人姉弟の長女として生まれました。
妹(シーズ加古川で一緒に仕事してます)と、弟がいます。
よく一般的な姉妹は、姉を見て育った妹は要領がいいことが多いと言われますが、うちの姉妹は全く逆。要領のいい私と真面目でコツコツ派の妹、のんびりマイペースな弟です(笑)

実家は飲食業をしています。
長女だったので、中学生くらいから店の手伝いを比較的よくしてました。
当時は、「何で私ばっかり手伝わなあかんの?妹も弟も何もせず!!」と思うことも多かったですが、手伝うことでお客様と話ができることも多く、その経験がとっても今に活きていると思います。
父と母に感謝です。

大学時代は、サークル活動や部活はせず、ほとんどアルバイトに時間を費やしました。
塾の講師、家庭教師、結婚式場が主でしたが、焼肉屋さん、レストラン等いろいろしました。
でも、何よりも身になったのは結婚式場でのアルバイト経験かな。
キャプテン(式場によっていろいろと呼び方があると思いますが、披露宴の時に新郎新婦さんを誘導したり、配膳のタイミング等を指示したりする仕事)を任せてもらい、ひとつの披露宴の責任をもってやらなければいけなかったことは貴重な経験だったと思います。

大学卒業後は、教育関係の企業で2年間働きました。
その時に出会った上司が素晴らしい方で、器が大きい人間ということを肌で感じました。
それ以来、私の座右の銘は「器は大きく、心は謙虚に」です☆
この2年間の間に一人暮らしをしました。
大阪の長居⇒新大阪⇒千葉県柏市⇒埼玉県大宮と転々として、仕事を辞めて関西に帰ってきました。
今の仕事をする上で、組織ということはどういうものなのかということはこの企業で働いたときの経験が何よりも活きていると思います。

企業での仕事を辞めて帰ってきた私はイメージコンサルタントになりたい!と思い、勉強をしました。
知り合いがイメージコンサルタントの仕事をしていたからです。
イメージコンサルタントとは、服装・身だしなみということをコンサルティングしている方が多いのですが、私の知り合いはカラーマーケティング等のコンサルティングをしています。
実家での店の経験からか、もてなしの心を感じるお店づくりをしたい!という想いがありました。
なので、イメージコンサルタントの勉強をして、もてなしの心を感じるお店をサポートしていきたい!と思い、そのためには資格も必要ということで、色彩検定1級を取り、住環境福祉コーディネーター2級の資格をとり、インテリアコーディネーターを取ろうと勉強していました。

そんな矢先です・・・。今の私にとって大きな転機になったのが・・・。
父の知り合いのNPO法人明石NPOセンターの理事長にNPOでの人手が足りないから、手伝ってほしいと言われました。
最初は当然お断りしました。だって、イメージコンサルタントになるぞ!と決めていたから。
父にもイメージコンサルタントになろうと思っていること分っているのに、「何でそんな全然違うこと誘ってくるんよ!」とケンカもしました。

でも、どうしても人が必要。次の人が入るまでの間、事務のお手伝いだけ・・・ということで、週3日のみお手伝いということで入ったのがキッカケでした。
この時から週2日はイメージコンサルタントの勉強と思って始めたモデルハウスでのアルバイト、週3日はNPOでの事務手伝いという生活が始まります。
けれど、NPOの仕事に関しては、常に私は事務の手伝いのみだから!私はやりたいイメージコンサルタントを実現するために、勉強を続けていく!と決意をしていたため、一線を置いていました。

なので、私は今でこそNPOで仕事をしていますが、最初のキッカケは本当は半分イヤイヤで、やりたいことがあったのに!と父ともケンカしながら、NPOで仕事を始めたのです。

続きは次回。