さて、柏木登起の履歴書の後半です。
前編との間があいてしまってすみません・・・。
今ではよく色んな方をお話すると、NPOで活動をしたくてNPOの仕事を始めた人に見られることが多い私ですが、実は前編で書いたように、NPOとは何なのかも知らず、本当に事務だけの手伝いをするためと思い、活動に参加しました。
だから、NPOの仕事に関しては、イメージコンサルタントを実現するために、勉強を続けていく!と決意をしていたこともあり、最初は常に一線を置いていました。
そんな意識で参加したNPOでの活動でしたが、私が最初にいたNPOは、本当に規模が小さく、事務局としては私を含めて3人で活動していたため、何でもしないといけませんでした。
セミナーをひとつ開くにしても、企画して、講師と段取りして、広報を作成して、募集して、資料を準備して、受付をして、司会をして・・・。
自分で受付しながら、自分で講師をしたこともあります。
色々な経験をしたため、いろんなスキルを身につけることができました。
それでも入って半年くらいは一線を置くスタンスは変わりませんでした。
NPOで活動しながら、イメージコンサルタントを夢見て、色彩検定の資格を取り、福祉住環境コーディネーターの資格を取り、インテリアコーディネーターの資格を目指していました。
でも、いつ頃からだろう・・・。
自分の人生全部をかけて、障害者のために就労支援をしている人、将来を担っていく子ども達のために、自分の時間すべてをかけて子ども達に学びを提供している人、いろんな活動をしている人に出会い、少しずつNPOに携わっている人がどんな想いを持って活動をしているのかを感じるようになりました。
また、自分の住んでいる自治会の活動、商店会の活動、全く関心を持っていなかったけれど、いろんな人が関わりあって、まちが作られていることが少しずつわかってきました。
そんな人々をつなげる役割、そんな活動が活発になるようにサポートする役割、そんなNPOや市民活動を支援する中間支援という役割が一体どういったものなのかが分ってきました。
小規模なNPOだったので、何でもしなければならなかったことがむしろ良かったのだと思います。いろんな活動をじかに感じることができたので、中間支援の活動としてはもっとこうしていくべきなのでは!?という想いや、組織としてはこんな体制にする方がよいのでは??という考えが少しずつ出てきました。
そんな時に今の法人の体制のことや、私の想いを色々と相談していたとあるNPOの友人に「もっと自分でやればいいやん」と言われ、私がこの業界で働くことになったのは、そんな縁なのかなぁ〜と考えるようになりました。
それが、NPOで活動をはじめて、1年弱経ったくらいのときです。ちょうど3年前。
もともと性格的に流れるままに任せようと思う方だった私は、この業界で本気でやろう!と腹をくくりました。
それまでは一線を置いていたため、あまり色んな活動に参加したりしなかったのですが、そこからはいろんな団体の活動に参加したり、いろんな人と出会う機会を持ったりしました。
そんな中で、今のシーズ加古川の理事長とも出会いました。
「まちづくり」において理事長が感じていること、私がNPOをサポートする中間支援として必要であると思うことなど色んな議論をしました。
その後、今の東播磨生活創造センター「かこむ」が建設されるという話が出てきました。
「かこむ」の運営をNPOに委託したいという話が出、明石で中間支援をしていた私が最初にいたNPOと、加古川で中間支援をしていたシーズ加古川が共同事業体として、「かこむ」の運営をしようという話になり、平成20年4月から、私は週2.5日は加古川で「かこむ」の運営をし、週2.5日は明石でNPOをサポートする業務を行うようになりました。
大きな変化が訪れたのは、「かこむ」の21年度からの運営について考えなければならなくなったときです。
20年度は「かこむ」の運営は、委託事業という形で、県と協働しながらだったのですが、21年度からは指定管理者制度を活用して運営が発注されることになったときのことです。
指定管理者制度は地方自治法が改正され、株式会社やNPO法人、財団法人等が公の施設の管理運営を行うことができるようになった制度で、委託事業という形よりも裁量権がある反面、責任も重たくなります。
なので、共同事業体という形になると、責任の分担や業務の役割分担等を明確にしなければなりません。
それを考えると、どちらかが音頭をとって協力団体という形を取った方がいいのでは?という話になりました。しかし、じゃあどちらが音頭取るの??と言うときに、話がうまくまとまりませんでした。
その結果、運営に関するコンペの段階で、私がいた明石のNPOとシーズ加古川が別々にコンペに出ることになりました。
つまり、20年度は共同事業体でいながら、21年度のコンペではお互いライバル関係で出ることになってしまったのです。
そうして、私は明石NPOセンターを辞め、シーズ加古川の職員として、「かこむ」の運営を行うことになりました。
シーズ加古川の職員になってからのことは、追々書いていきたいと思います。
長々と読んでいただいた方、ありがとうございます。
なぜ、私の履歴書を書こうと思ったのか・・・。
実は、先日、明石NPOセンターの理事長が亡くなりました。
今の私がNPOで活動するキッカケになったのも、大学院でNPOの勉強をするキッカケをくれたのも、すべて明石NPOセンターの理事長がちょっと半ば強引に!?(笑)誘ってくださったからです。
そうでなければ、絶対に今の私はいないし、私がこんなにも視野が広がり、人間的に成長!?できたことはなかったと思います。
今の私のことを振り返りたいと思い、履歴書を書きました。
でも、そんな理事長には何も恩返しできませんでした。
今からもっと頑張りますので、見守っていてくださったら嬉しいです・・・。
本当に本当に、ありがとうございました。