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2019年10月30日

「市民活動センター」の新しいホームページが完成、更新しました。

私の所属しているNPO団体が市の指定管理者として運営しています「市民活動センター」のホームページを10数年ぶりにリニュウアル更新しました。



私たちのNPOは、市民活動団体、NPO団体の活動を支援、中間支援NPO団体です。
今では、日本の津々浦々の町にある「市民活動センター」は元々、K市が、日本で初めて、公民館や、学習センターではなく、市民の力で活動する団体の稼働拠点の場として、公設・民営の「市民活動センター」を造った時から始まります。
当時は、今のような指定管理制度ではなく、設立時に集まった市内の活動団体からなる「市民活動センター運営会議」の有償・無償のボラティアスタッフの手によって運営してきました。

時代の流れで公設・民営と云う名の、あやふやな・責任の所在不明確な・財政的な問題の解決の為に、流行りの「指定管理制度」が適用され、「市民活動センター運営会議」が受注してここ数年間運営しています。

私はwebエンジニアとして「市民活動センター運営会議」の広報部に所属しています。
当時、このNPOに属した時、「市民活動センター」と「市民活動センター運営会議」は一体で、外部からは何ら区別がつきませんでした。
ですから、広報部は行政の監理管轄組織の「市民活動センター」の広報紙、ホームページを担当していました。
しかし、指定管理となってからは、請け負っている市の「市民活動センター」と私たちの組織「市民活動センター運営会議」は財務上はっきりと分けなくてはいけません。
そこで、組織内を「指定管理事業部」と「自主事業部」に分けました。
指定管理の事業部は、市から委託された「市民活動センター」を運営するにあたって、今まで有償・無償のボランティアスタッフが受付業務や、その他のイベント業務にあたっていましたが、全て労働基準法に則った労働者として、県の最低賃金の厳守が義務付けられ、広報・研修・相談などの業務も、「市民活動センター運営会議」と別の組織としました。

私は広報の担当者として、新たに、「市民活動センター運営会議」内の広報業務を担当することになり、組織の広報紙、ホームページを新設しました。
しかし、指定管理の「市民活動センター」の広報紙、ホームページは、有償スタッフの手に委ねられ、「市民活動センター」のホームページは、10数年前の日本初の公設民営の初めての「市民活動センター」のまま、今日に至っていました。
市の担当者からは、古いホームページを最新の今様のビジュアルな、スマートフォンでも見れるページに改修するような要請がありましたが、3年以上、市の要請に答えられないまま経過していました。理由は、当組織の「指定管理事業部」内に、それにこたえることが出来る人材がいないことです。

指定管理を受けている組織の「市民活動センター運営会議」には、私を含め広報部には、それに対応できる人材が複数おります。
しかし、「指定管理事業部」で遣らなくてはならない仕事は、原則、有償専任スタッフの仕事です。新しい「指定管理事業部」の長は、しばらく思案し、外部業者への発注を考えていたのですが、センターのホームページは2つのセンターの会議室の予約や、イベントの発信など、毎日の更新が必要で、外部の安価なホームページでは成り立ちません。
そしてもそれらの更新・発信も素人同然のスタッフの手によって行わなくてはなりません。
安価な、ホームページ業者に依頼したとしても、日々の更新が出来ないと、維持管理だけで莫大な外部発注経費がかかります。
今風なビジュアルデザインで、スマホにも対応し、尚且つ内部スタッフの手で、日々更新出来るホームページを造るには、webプログラムに長けた、親組織「市民活動センター運営会議」内の広報の手を借りるしかないことを理解するまでに、3年かかつたのです。

指定管理の長から依頼されたのは今年の冬でした。
当初、制作にあたっては、広報部の人件費は、センター有償スタッフと同様の県の最低賃金を適用する。
内容のデータ、画像類は、全てセンター側で用意する。
その旨を伝えてスタートしましたが、スタートに当たって、全体デザイン・グラフック面は、外部の若手デザイナーをプロボノとして採用したいとの要望が寄せられました。
私はその提案に賛成しました。広報部の熟練したwebプログラマーは二人、一人は私、団塊世代の71才、もう一人は大手電機メーカーを退職したての65才です。どう考えてもこの二人が、大まかなデザイン構成を行うと、それなりの年輪がデザインに現れてしまいます。
ここは、若手のデザイナーを入れたほうが良いと、判断し今年3月にスタートしました。

それが、ようやく完成したのが、10月の末、7か月もかかりました。
当初、私が見積もった予算では長くても、30日から40日で仕上げるつもりだったものが。
一つの要因は、参加したプロのデザイナーは、印刷物のデザイナーで、印刷物と、モニター上の表現、精度の違いが考慮しなかったことです。私たちwebに慣れたプログラマーでは、許容範囲の1ピクセルの文字間・行間や、色の違い、ページ毎の色彩の統一性を
重視し、その指摘の実現に、大きな時間がとられました。
この若手デザイナーの云っていることは間違っていません。確かにそのほうが彼のイメージしている所に合うのですから。
今回は、どんなに時間がかかり、予定していた予算の数倍の時間がかかろうが、やり遂げようと思いました。
予算は厳守します。と云う事は、7か月の二人の費やした時間の時給は、ほぼ100円にも満たないのは承知で。

ようやく更新・UPにこぎつけて、出来上がったものを改めて見て
若手のプロボノデザイナーを登用して良かったと思います。
とても、団塊世代と退職直後の65才のおじさん二人では、このようなシンプルで、機能的なホームページは出来なかったでしょう。
ありきたりの、何処にでもあるような、画像だけがきらびやかな、ページとなっていたでしよう。この若手、プロボノデザイナーにしても、7か月も、市民活動団体に関わるとは考えていなかったのに、お支払いする報酬は、実務を担当した私たち二人の合計金額程度しか払えませんでした。
posted by 西沢 at 08:43| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年10月26日

有楽町スバル座の閉館のニュース 我が青春の思い出の地

天声人語で有楽町スバル座の閉館で知りました。
有楽町スバル座は、カミサンと初デートの地です。1976年、28才の時です。
有楽町は、田舎の生まれ、育ちの若者にとって、東京・都会そのものの場所でした。
今でも思い出すのは、小学生の時、その当時流行っていたフランク永井の「有楽町で逢いましょう」を教室で唄ったと、クラスメートが担任に告げ口にして、たいそう怒られたことです。
当時子供ながら、「何でこんなことで、怒られるのか」と思いました。

青春時代を南米過ごして、帰国後に住んだのは、築地でした。
築地は有楽町から真っ直ぐ、銀座4丁目交差点、三原橋、歌伎座を抜けた先にあります。
最寄のJR駅が有楽町だったのです。
ブエノスアイレスから帰国し、電子専門学校の夜間部に通うのに、築地市場の職場は、朝が早いものの午後2時には仕事が終わり、朝昼兼用の食事と寝る場所と風呂が無料で提供された上、帰国後の仮のバイトとしてはかなりの高給でした。
そして、今、自分は東京都心、子供の頃の憧れの象徴であった、銀座・有楽町が目の前と云う満足感に浸っていました。

専門学校で新しく電子を学んでいる頃、JAICAの南米の日系人社会の現地事情の説明会の場で、カミサンと出会いました。当時カミサンは海外医療ボランティアに興味があったようです。
初めてのデートが有楽町スバル座でした。
カミサンから東宝系の無料招待券を持っているから、と云うお誘いが初デートでした。
70年代の知合って間もない若い男女の初デートと云えば、映画を見て、お食事が定番でした。
映画の内容は、ほとんど記憶にない、ハリウッドのコメディーでした。
食事は、銀座スエヒロでステーキ。今思い返すと、二人とも若かった。

就職し、結婚し、横浜の新駅駅前開発のマンションに住まうようになってから、有楽町・銀座周辺には縁がなくなりました。
再び、毎日のように有楽町・日比谷周辺に関係を持つようになったのは、退職前の5年間です。
建設業界もバブル景気が弾けて、下降線をたどり始めた頃、私は新築部門から日比谷・内幸町・虎ノ門周辺の大型ビルのリニュウアル部門に移動しました。
この頃から、50代半ばの早期退職計画の最終段階に入っており、自己体力・健康改造プランの実行を始めました。
きっかけは、社内の定期健康検査でした。
ドクターとの面談で、早期退職、海外移住の話をした時に、
「このまま健康状態で退職し、ブラブラ遊んで暮らしていくと数年で病院通いの生活になる」
「血圧を下げ、血液検査の数値を正常値に戻すには、減量が必要」
「体重を落とし、筋力、持久力をつけるには、歩くのが一番」
「朝の通勤、一駅前か先で下車して、最低20分歩きなさい」

この忠告に従うことにしました。
良く聞く話、定年後数年で病院通いの退職生活は真っ平御免ですから。
当時担当していた、大型ビルリニュウアル工事現場の最寄り駅は、JRは新橋駅、地下鉄は三田線内幸町です。地下鉄だと、雨に濡れない距離です。
20分歩くには・・・、有楽町ではまだ近すぎるし、通勤の横須賀線は停まらない。そこで東京駅まで行って下車し、丸の内・有楽町・日比谷・帝国ホテル前から、日比谷公園を横切り、担当するビルまで、ジャスト20分歩くことにしました。
現場の朝礼は8:00ですから、自宅を6時半にでて、当然ながら座れないまま横須賀線にのり、東京駅で降り、まだ人影もまばら有楽町・日比谷界隈を毎日、退職する日まで5年間歩きました。
おかげで、ドクターの云うとおり、メタボな体重は落ち、血液検査の数値もほぼ全て、正常値になり、晴れて退職しました。

あれから、16年。
毎日通っていた東京都心にでることは、滅多にありません。
有楽町・日比谷周辺はかなり変わっているのでしょう。
新聞記事では、多くの商業ビル、オフイスビルがどんどん建設されていきます。
きっと昔の会社の同僚・部下だった仲間がトップにたって活躍しているのてしょう。
今週末、早起きして、あの朝、健康・減量の為のルートを歩いてみようかな。
そして、思い出の有楽町スバル座の前で写真を撮ろうか。
posted by 西沢 at 08:08| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年10月24日

水没マンション 台風・津波による機械室、電気室水没を考える

teiden0.jpg15号台風、19号台風による水害により現代インフラは自然の力、脅威を改めて知ることになりました。今回の19号では、私の住まい(共同住宅※マンションと呼ぶには恥ずかしい、5階建て50戸のちいさな建物)は被害は有りませんでしたが、15号の時は、半日停電しました。
共同住宅の場合、電気が止まっても水道が一定時間送水出来るケースはあります。

屋上に高架水槽を置くタイプの給水システムの場合、各戸には高さ分の水圧がありますので、タンクが空になるまで、各戸の蛇口に水はでます。
私の住む小規模な5階建ての場合、屋上に高架水槽は置かず、加圧給水方式となります。
受水槽から一旦、加圧タンクに水を貯め、このタンクと各戸の蛇口間の圧力を検知して、加圧給水ポンプを運転して、各戸に送る方式です。ですから、停電すると同時に水もストップします。

teiden1.jpg19号の被害から1週間経つのに、多摩川沿いのタワマンでは、停電が続いていると報じてます。
私は、現役時代横須賀線を使って通勤していました。
武蔵小杉新駅の建設当時から毎朝、同じ建設業界に属する人間ですから、あれよ、あれよ、と云う間にニョキニョキと建っていく、タワーマンションを車窓からながめていました。
このタワマンの売り出し価格を聞いて、こんな殺風景な場所の、こんな高い価格の物件を買う人、買える人がいるのか?と不思議な思いをしていました。
そして、このような高層マンション・・・停電した時、どんな対処をするのだろうか?と業界人として考えていました。

少なくとも、数時間は保つ自家発は備えているはず・・・復旧まで持つ容量の自家発は、全て共用部用、各住戸は、東電の復旧を待つしかない。

しかし、2011、東電原発事故で考え方は根本から変わったハズではないのか?
自家発が水没して使えない・・・と考えることはなかったのか?

teiden3.jpg私の苦い経験
私はビル建設業界のなかで、ビル全体の設備(電気・ガス・水・空調・セキュリティ等)の自動制御、監視を行う、中央監視コンピューター及び、端末センサーのシステムを構築、施工する業界の現場担当を20年以上やってきていました。
20数年の工事経験で、竣工間際に台風よる水没被害を被ったことがあります。
東京都内に建てる、オフィスビルは、立地・交通の良い場所(イコール地価の高い場所)に、如何に広い賃貸、貸出スペースを造るかです。
一階はオフィスビルの顔ですから、抜きぬけがあったり、見栄えの良さそうなエントランスホールになります。
三階からは、貸し出し用の基準フロアーで、退職直前の頃は、天井も床も間仕切りもない、スケルトンが増えていました。

で、これらの高層ビルのインフラを支える、電気・水・空調・防災などの設備機器の場所は、賃貸、貸出、収益になりにくい地下階となります。最近のビルは地下1,2階まで、ショッピング、商用エリアと活用することが多くなり、インフラをささえる部署は益々、地下階奥深く潜っていきます。私が担当し水害・沈没したビルは、12階建ての小さなビルでした。
それでも、インフラを支える受電電気室・空調機械室・衛生ポンプ機械室は地下二階でした。その当時、これらのビルインフラ機械室に、水の侵入にたいしての防御は簡易防水ドア程度でした。
この時の水没は竣工前でまだ、防水ドアや止水シャッターも完成していない時でした。
私の担当していた、メインコンソール廻りの機器は机の上で水没は免れましたが、制御盤の下1/3は水に浸かり、端末からの配管のなかは水浸しとなりました。
大型台風が来ることは解っていたのですが、ゼネコンはじめ、設計事務所から、このような水害を全く予想していなかったのです。それも、完成前の段階での災害を。

ここで思い起こすのは、2011東日本大震災、福島第一原発の商用電源消失事故です。
私が経験した、小さなオフイスビルの機械室水没事故はまだ昭和の年号の時代です。
都内のオフィスビルを企画する大手不動産や設計事務所、ゼネコンの間でも、このような事が起こりうると認識がし始めていました。こんな、民間の私たちでさえ、解っていたのを、日本の秀才の集まる東電原子力部門が怠っていたとは。

teiden2.jpg再び、タワマンの停電の話
台風19号から1週間経っても、40数階だてのマンションのエレベーターは、動かず。
各住戸は水も電気もない生活のようです。
このようなタワマンは、都内の一等地オフィスと同じです。
売れないもの、金にならないものは、目に触れない場所に置く。
地下深い所に電気室、設備機械室があるのでしょう。
水没した機械類は自然乾燥が一番と云うのが私たちの時代のでした。
乾燥させてから、一つづつ分解し、電気回路はテスターで、通電・漏電・接地を確認して・・・・
しかし、今の機器類は、電子機器・ICが多く使われているので、乾かしても無理でしょう。

一生の一度の高い買い物である持ち家を買うには・・・
今回の台風の災害は、私たちの子、孫世代に色々な教訓を教えてくれたと思います。
posted by 西沢 at 08:26| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年10月22日

北海道旅行 第三部 支笏湖・洞爺湖多言語定期観光バスの旅

北海道の旅二日目、
運転免許を60才を機に更新しませんでした私たちは、時々後悔するのは、旅先でレンターカーを
借りれない時です。
特に、北海道のように広いが、公共交通機関、特にJRの便が少ない観光地をめぐる、個人旅行者にレンタカーは定番なのですが、使えません。
札幌から支笏湖・洞爺湖を路線バスで一日で廻ることは可能ですが、結構タイトな時間割となのますので、今回は、定期観光バスにのることにしました。
ネットで探すと、「多言語ツァー」と云う外国人観光客を意識したツァーがあり、面白そう、楽しそうなので、これに参加した記録ビデオです。




posted by 西沢 at 07:52| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年10月20日

新年号で更に顕著化する、物忘れ、認知症への恐怖

定年退職し、65才から70才を過ぎる頃になると、自分の生きて来た足跡を残す、忘備録・メモ程度を造る方は多いです。
その理由のひとつが、だんだんと物忘れが進むからです。
特に、自分の生きて来た時代、出来事を思い出すのに、西暦・和暦が混在し、おまけに新しい年号「令和」が加わったことでますます混乱しています。自分の年齢はもちろん忘れはしませんが、人の年齢を聞いて、昭和・西暦に換算するのに時間がかかつてきています。
あの時出来ごと、あの年の旅行先は、西暦何年だったけ、すると自分は何歳だったのだろう。
もう、この時点で和暦は思い出せません。

計算力も最近、極端に落ちてきています
boke.jpg商家に育った私は、子供の頃からソロバン塾に通っていましたので暗算は得意でした。
60代前半までは、3ケタの足し算、引き算、2ケタの掛け算は難なくこなしていたのに、最近、簡単2ケタの引き算が怪しくなっています。
物忘れとは云いませんが、名前・固有名詞・表現する言葉・形容詞が出て参りません。

そんな時、かなり焦ります。
常に頭をよぎるのは「ボケ」・「痴呆症」。そして恐怖感
なんでこんな簡単な言葉・単語・形容詞が出ててこないのだろう。
パソコンに向かっていますので、そんな不安はキーボードを叩けば解消されるのは分かっています。でもしません、その言葉・単語・名前が出て来るまで、ひたすら絞り出す努力が必要・・・と信じています。

boke2.jpg私たち夫婦二人の両親4人は既に亡くなっています。
4人とも、同じ世代の方々が経験する、親の介護は経験していません。
私の父は、71才動脈瘤破裂で一晩でなくなりました。
亡くなってから実家で同居していた兄から、時々、認知症を疑うような言動があったと聞きました。母は、85才、冬の実家のトイレで倒れ、1週間後に亡くなりました。
母は明らかな認知症の症状がありました。
同居していない私たちが行っても、普通に会話が出来ていましたから、さほどのことではないと、考えていたのですが一度だけ、私たち夫婦が実家に行った時、母は、私のカミサンを認識出来ず、挨拶をしていました。
それ時、私は母に「僕が解る」と聞くと、「自分が産んで育てた子供を忘れるわけがない」とはっきり言ってました。
一昨年、72才で亡くなった兄はステージ4のガンを患い、積極な治療はせず、緩和ケアで最後を迎えました。
亡くなる3か月前、兄弟4人で温泉にいき、お風呂に入っていた時、兄は私に向かって、「どちらから来ましたか?」と聞くのです。「私は神奈川の鎌倉から」と答えると「私の弟が鎌倉に住んでいます」と云うのです。
お風呂の湯気と、暑い温度のせいかと思いましたが、普段から兄の面倒をみている、姉は「そうなのよ、時々こうなるの」と云ってました。
私の血統は、高血圧家系・・・きっと私にも認知症のDNAは含まれているのでしょう。

一方、カミサンのほうは、父親は72才、食道がんでなくなりました。
二三度入退院を繰り返しましたが、自宅での壮絶な介護も、認知症もなく亡くなりました。
母親は昨年、93才で亡くなりました。少しボケ気味と云った程度、下の世話もなく穏やかな逝き方でした。
私たち夫婦二人の血筋を考えるとかなり高い確率で、私は認知症を患い、70代半ばから80前で亡くなると確信しています。
カミサンと口喧嘩になると私は「呆けてやる」と云うと
相手は「さっさと介護施設に入れてやる」と云うのが日常になっています。

posted by 西沢 at 08:46| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年10月18日

国民健康保険高額医療費の支給申請書類が届いた

table00.jpg先月のある日の朝、新聞を取りに階下のメールBOXに、市からの封書が届いていました。
又、何かの請求書かと思って開封すると、高額医療費支給申請書です。
高額医療費請求の解説では、図のように、自分から書類を整えて請求するようにかかれていますが、そんなことはなく、行政のほうで自動的に、請求して下さい、と云う書類が郵送されてきます。
でも、そんなに入院も大病もしてないし、大金を払った記憶はないのですが、何でと内容を見てみると、6月分、支給金額258円とあります。
私は、高齢者であり低所得者二類の認定なので、1か月に実際支払った金額が8,000円をオーバーした分、市から自動的に、高額医療申請請求書が送られてくる仕組みです。
71才ですから、医療機関の負担は2割です。

申請書に6月に受けた医療機関と実際に払った金額の詳細が明記されています。
table01.jpg実支払い 8,258円 -高額医療限度額 還付金 258円
この月は、顔面帯状疱疹だった月で、眼科・皮膚科に二回行っていました。
それで、還付金が258円。
もうどうでも良い金額なので、放っておこうと思いました。

昨日、再び高額医療の請求申請書が届きました。7月の分です。
table02.jpg実支払い 11,928円 -高額医療限度額 還付金 3,928円
この月は、確かに胃の調子が悪く、胃カメラをやったのを覚えています。
6月、7月合計の還付金の合計は4,186円
これはちゃんと貰わなければと、2ケ月分、申請書を書いて請求しました。


改めて、日本健康保険制度について考えさせられました。
71才の高齢者に属する私の健康に関する費用、医療機関に払った金額は2ケ月で約10万円です。
そのうち、私の負担は高額医療費還付込みで、16,000円、つまり国民健康保険から84,000円支払われているのです。
でも、それが健康保険制度、月々それ相応の保険代を払ってはいるのですが、高齢の低所得者ですから夫婦二人の年間国民健康保険料は、5万にも満たない金額なのです。

高齢の、少ない年金だけが収入の低所得者ですが、正直、申し訳ないと思っています。
日本の社会保険制度、国民皆保険制度の恩恵に預かっている身ながら、世界でも稀な、前例のない、「低成長、少子化、高齢化社会」に突入した日本と、それを支えなくてはいけない、子供たちの未来にたいして、今何が出来るか。なるべく、医療費を抑え、健康でいる・・・なんて個人の力だけでは、問題は解決しないでしょう。
高度経済成長時期に構築した、社会保険制度が、未来永劫続くと過信し、そのまま、何もせずに現在に至った、私たち日本国民全員のせいなのか?

私が20才で海外に出た理由は。
小学校入学から中学・高校・大学受験を通じて、考えたことは、私たちベビーブーマー世代の大きな塊は、づっと競争の時代が続くのだろうと、考えました。
就職・結婚・持ち家、そして老後の病院・墓場まで、日本ではベビーブーマー世代の競争、生き残りが続く。それを避けるために、私は海外に逃避したのです。
しかし、私は戻ってきてしまいました。
日本の高度経済成長の波に乗り遅れまいと。
もう、この現実から逃げることは出来ません。
71才、あと7〜8年、現実の日本の「低成長、少子化、高齢化社会」と向き合っていかねばならないのです。
タグ:高額医療費
posted by 西沢 at 07:12| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年10月16日

台風19号、生まれ育った故郷の街、長野市の大水害

日本列島は災害列島と云う、いつも何処かで、台風や地震の災害が発生している。
しかし、首都圏の温暖な街に住んでいると、それは何処か知らない土地、縁のない場所であり、
大変だろうな、とは思うが、それは全く見知らぬ他人の上に起きた災害と捉えているのも事実である。

しかし、今回の台風19号の災害は、私の生まれ育った場所で起きた。
私は、長野県長野市、善光寺の境内を遊び場として育った。
生まれ育った家は、長野市の大繁華街、盛り場のど真ん中でした。
県一番のアーケード街があり、小学校の頃から、すでにスーパーマーケットで日常的に買い物する環境、小学校への通学路は、赤い灯青い灯の歓楽街の裏小路でした。
ここで18才まで育ち、上京し、若くして海外にで、帰国した時には、商売をしていた両親は、市内西側の新興住宅地に家を建て、引っ越していました。

そこは、母の実家近く、近くには犀川と千曲川が合流する箇所から1.5Kほどの、当時は長野市の規模からする郊外の田舎でした。

台風19号の長野市水害のニュースを聞いて、両親亡き後実家を継いでいる兄に電話して状況を聞きました。
テレビで報じている浸水場所の地名は、18才まで暮らした私には全く知らない地名でした。
千曲川堤防決壊現場から5km離れた場所でも、床上浸水と聞いていました。
確か、兄の住む、今では唯一帰る故郷の家は、たしか千曲川に近い、と云う事は知っていたからです。電話先の兄に聞くと、実家は周辺、全く問題ない、決壊したのは、昔、自転車で遊びに行っていた、村山鉄橋の先、「穂保」と云う名の地区だと云います。



長野市は市町村合併を繰り返し、巨大化しているので、その名前を聞いても全く解りません。
兄は「アップルライン」の周辺と云うのを聞いて、凡その場所の見当がつきました。
JR信越線に沿って、新潟方面に行く国道のバイパスとして、千曲川に沿って出来た、私の遠い記憶の中ではスーパー国道です。しかし、今は高速道路が出来て、この周辺リンゴ園はどんどんと宅地化されているようです。

TV画面の被災者のインタビューを聞いていても、この土地を買い、家を建てた時に、千曲川による災害と云う事は全く考えもしなかった、と答えています。
確かに、長野市で生まれ育った私にとって、台風とは、遠い西日本や海に近い首都圏の話、どんなに大型の台風が日本列島を横断・縦断しても、四方を高い山々で囲まれた長野の盆地にやってくる台風は、勢力を極端におとしたものとしか考えきれないからです。

しかし、浸水災害の後のニュースで知ったことですが・・・
市発行のハザードマップではこの地域は、100年に一度の豪雨があった仮定した場合、千曲川から5KM範囲は最大4mの浸水があると記されているとのことです。
そして、また或る識者によると、自分の住む地域の地図に書かれて地名に注意すべきと云います、今回浸水した地域から「赤沼」「長沼」と云う地名が読み取れるのです。
明らかに、大河に沿った湿地帯、水に縁のある場所なのです。
と、云っても後の祭りですが。
実際、家を建てる時、そこまで考えないでしょう。

nagano19-1.jpg実兄に、「今の家を建てる時、千曲川からの距離や水害について、何か考えた?」と聞いて見ました。
「全く、露とも思わなかった」だれもそんなことを考える長野県人はいない。
「あの堤防が決壊するなんて」
「土地の値段と、会社までの車の通勤経路しか考えなかった」
私は「これからどうするの?」
「どうするって、来年後期高齢者になると云うのに、今更、この故郷を離れるなんて出来ない」
「この災害を機会に、国も県も対策を考えるだろうから、それに期待するしかない」

NHKのニュースを見ていて、ちょっと耳にしたことがある地名がありました。
何処で聞いたっけ、記憶を辿ると中学校の同級生の女性の家がある場所です。
彼女、生涯独身で定年退職してから、あの地名の場所に新築の家を建てたのを、新居の案内ハガキで知りました。
彼女の家、どうなっているのだろう。
しかし、今は連絡を取るのはよそう。
もし、重大な損傷があったら、かける言葉も、手助けも出来ないのだから。
posted by 西沢 at 08:21| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年10月14日

リタイヤ・定年後の趣味の王道、写真クラブのモデルケース「鎌倉フォトクラブ・ベアーズ」活動20年 元気の源

台風あけの14日、ようやく鎌倉・大船の街も通常どおり、賑わい、人出を取り戻してまいりました。前々から、ご案内のハガキをいただいていました、鎌倉の写真撮影活動、講座を通して、定年後、リタイヤ後のシニアライフをサポートするNPOセンター登録団体「鎌倉フォトクラブ・ベアーズ」の第20回写真展を覗いてみました。
会場は大船駅から徒歩10分の鎌倉芸術館(旧松竹撮影所跡)です。

この台風19号で、12日、13日、鎌倉市は全公共施設の閉鎖を決めていましたのでこの2日間誰もこなかつたのではないかと、お聞きしましたところ、何故か鎌倉芸術館はこの12日の台風の日も、定時まで開館していたとのことです。

この写真クラブは、16年前退職し、鎌倉に越して来た時に、最初に入った趣味のクラブです。
当時はまだ、カメラのデジタル化はされておらず、上級者の一部はリバーサル、ほとんどがネガフィルムの時代でした。
私はまだ50代の半ば、パソコン・ITに通じた若手として歓迎されました。
少しづつ、写真はデジタル化されると、写真クラブであるのだから、とホームページを造ることになり、専門知識を生かして、ホームページを立ち上げました。
鎌倉フォトクラブ・ベアーズホームページ

この頃から、「鎌倉フォトクラブ・ベアーズ」は、会員の写真の腕・レベルは鎌倉の写真クラブのなかでは中程度なのに、名前だけは全国区に、なり次々と新しい会員が増えていきました。
「鎌倉フォトクラブ・ベアーズ」は従来の、デジタルカメラの発達もあり、退職した男性のお金のかかる高度な趣味の世界から、女性も、学生も、誰でもが参加出来る写真クラブへと成長をとげてきました。
私とはと云えば、写真・静止画から動画・アニメーションの世界にスタンスを変えている時期で、10年前ほどに毎月一度の例会作品を提出するプレッシャーに耐え切れず、退会し、裏方のwebサポートに徹しています。

写真展には多くの昔のメンバーが集まっていましたが、半数以上は私の知らない会員です。
驚くことに、私が退会した当時よりも、皆さんの写真レベル・構図・色彩・光の表現が格段に上がっているのです。
明らかに、違う、私の得意にしていた、報道・記録・スナップ系とは違って、時間をかけて撮った「芸術作品」に仕上がっているのに、びっくりしました。

これらの鎌倉の元気な退職・シニアの「文化・市民活動」は、地元マスコミ、神奈川新聞、ケーブルテレビにも取り上げられ、皆さんの励みになっているようです。


神奈川新聞より

それにしても、昔のリバーサル・ポジ・ネガの時代と違って、写真レタッチソフト、デジタルカメラ、レンズ、プリンター・ITの進歩が、これだけ多くのシニア、女性の日々の生き甲斐、元気の源となっていることは、喜ばしいかぎりです。

posted by 西沢 at 14:02| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年10月13日

台風一過の青空、それでも爪痕がここ、かしこ

今回の台風は、雨台風のようでした。
予報どおり夜の9時頃、湘南の上を通過して行きました。
マンションと云えども、我が家のリビングは東南に面しており、凄まじい轟音とともに、ガラス窓が震えるほどでした。
しかし、朝になると前回の15号と違って、目の前の公園広場にも、道路にも吹き飛ばされた枝や、葉っぱは見受けられません。鎌倉の一部では倒木による停電があったようですが、我が家は停電も断水も有りませんでした。

taifu19-1.jpgどうやら今回の台風は雨台風で、関東西北部の山岳地帯にぶつかり大量の雨を降らせたようです。
首都圏平野部の河川に幾らか影響でているようですが、この時間帯ではまだ分かりません。
が、朝のTVニュースをみると実家の長野市は千曲川の氾濫で大変なことになっているようです。
18才まで過ごした、長野市は、廻りを山々に囲まれているので、どんなに大きな台風がきても、長野に達するに時にはもう、弱小化されている、との認識でした。

ましてや、あの大河、河川敷の広大な千曲川が氾濫するとは、誰も想像したことはないでしょう。NHKのTV画面をみながら、まずは大丈夫だろうと思いながら、実家の兄に電話すると、川からはだいぶ離れているので、全く問題なく、今浸水しているのは、千曲川(信濃川)沿いに走る東北新幹線沿線地域だと、話していました。
そう云われても、故郷を離れてから、50数年たっている今、その地名を云われても、解るのは林檎畑だけの思い出の地なのですが。

taifu19-2.jpg朝のTVニュースを見終わった後、カミサンから今日のお昼の買い出しに、駅前商店街の西友に行って、と、買い出しメモを渡されました。そのなかには、百均でベランダのガラスを拭くシートがありました。
昨夜の強烈な風で、ベランダ側のガラスは潮風で真っ白に汚れていました。
外に出ると、ご近所の戸建て隣組の知合いが数人集まっているので、何事かと聞くと、TVが映らないというのです。
原因は、ケーブルTVの断線のようです。TVがダメならネットっというと同じ契約をしているので、ネットもメールもダメ、と云う事て、最悪、スマホのデザリングを使ったら、と云うと、何それ、初めて聞いた言葉・・・そっかカンタンスマホシニアにはちょっと解らないかもしれないな。

taifu19-3.jpg駅前を流れる一級河川の水量はいつもとさほど変わっていませんでした。
雨台風は、関東平野部ではなく、北の山岳部に集中して降ったようです。
駅に着くと、構内アナウンスが流れています。
動いているのは、根岸線だけで東海道線、横須賀線の運転開始のメドは立っていないようです。
そして、改札口には手書きで、今日のワールドカップラクビー「日本・アイルランド」戦がある、新横浜への乗り換えルートが大書されていました。
駅ビルにある「ルミネ」は昨日12日は終日営業せず、台風一過の青空の日曜日は、午後12時から営業のようです。
カミサンから頼まれた買い物。と西友に行くと、ここも同じ、午後12時から営業のでした。

今日のお昼は、買い置きの「冷凍肉うどん」ですまそう。
タグ:台風19号
posted by 西沢 at 11:12| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年10月12日

団塊世代のノーベル賞受賞者吉野彰氏は同じ71才同学年

旭化成の元サラリーマンの吉野彰氏がノーベル化学賞を受賞した。
同じ団塊世代、1948年昭和23年生まれ、71才。
全く私と同じ同学年世代、それもお隣の藤沢市にお住まいとのこと。

このニュースで、島津製作所のサラリーマン技術者、田中耕一さんのことを思い出しました。
彼はのことで一番印象に残っているのは、「これで東京出張のさいに、のぞみに乗れるのが嬉しい」と、サラリーマンらしい言葉です。
私の現役時代所属していた業界と、島津製作所では一部競合する部分があって、出張のさいの「のぞみ」と「ひかり」使い分けの言葉に、とても親しみを受けました。
そして今回も旭化成のサラリーマン技術者、それも同じ同学年です。



同世代の吉野さんノーベル賞発表から一日経って、我が家でも、地元の団塊世代が多いスポーツクラブでも、そして、一部のマスコミでも話題になっているのは、71才にしては老けすぎていない?でした。
このような、栄誉ある受賞に、まるで女性の井戸端会議のような話をネット上で交わすのは、ご本人には大変失礼かもしれませんが、確かに、我が家のカミサンの最初の一言も、
「71才、貴方と同い年よ、ちょっと老けすぎていない、80台のご老人に見えるわ」でした。

私は今、所属しているボランティア団体で、70才定年について改革を進めています。
10年以上前に、60才団塊世代の一斉退職がありました。
その頃から、退職して地元に戻ってきた団塊世代の男性が、市内の市民活動団体に増えていき、
徐々にリーダー的役割を負ってきたのですが・・・

古稀、70才を過ぎても、自分は年寄りではなく、生涯現役であること主張し始めてきています。
入った当時に、先輩諸氏の「老害」を叫んでいた人々が、自分がその年齢になると、もう忘れてしまうのです。
経験・知識・人脈はありますが、如何せん、体力・気力が衰えてきます。
幾ら72才、まだまだ若いと思っても、商店街のウィンドーに写る、自分の姿をみて、愕然とするのを経験しているのです。
リタイヤシニアの付き合いは、仲間は全て同い年、或いは年上の先輩諸氏が多く、ご自身はまだまだ若手と思っている団塊世代、1948年昭和23年生まれ、71才。は多いのです。


月に一度は湘南のビックショッピングモールにあるシネコンに映画を見に行きます。
見る映画と云えば、同じ昭和世代が好む邦画の話題作が多いので、観客は圧倒的にシニア・女性です。映画の余韻に浸って、外に出ると、そこは巨大ショッピングモール、歩いているのは映画館の中や、自分が所属しているコミュニティとは全く違う、若い世代、子供たちの世界です。
こんな時、はっきりと、世代を感じ、自分が日本の高齢者社会の一員であることを自覚するのですが、内心は71才はまだまだ若いと思っているのです。

この話を同じコミュニテイに属する、81才の知り合いにすると、それは理解出来る。でも俺は若い、まだまだ家に閉じ籠るような年齢でもなく、クラブの代表、会長は俺でなくては出来ない、と云います。
それがシニアの思い違い、「老害」なんだと云っても聞き入れません。

でも、確かにカミサンや、一部のマスコミが云うように、TV画面からみる吉野彰さんは、同じ団塊世代、71の同学年から見受ける印象は80才オーバーと云っても不思議ではありません。

「俺って、外部からみればあんな風に年寄りに見られるのかな」
posted by 西沢 at 08:07| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ