CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る

2018年03月18日

「イチゴ白書をもう一度」青春時代の夢と老後の誤算

朝日新聞土曜版の特集連載、あの時代・あの名曲的なシニア層向けの特集記事を土曜日の朝、読んでいます。今週は1975年。私の青春時代の放浪の旅が終わり、日本に戻って来た年です。
そろそろ、後戻り出来ない、やり直しの効かないターニングポイントの年齢、26才になっていました。

6年半ぶりに日本に戻った私は、当初専門学校で学び、再び海外に戻る予定でした。
ベトナム戦争が終わったこの年、昭和50年、学生時代の友人は社会人として歩きだし、立派な大人として日本企業社会の一員として生きていました。
とりあえず、住む場所、アルバイト先を確保し、電子系の専門学校の夜間部で20代前半の若者に交じって7年ぶりに学生に戻り、机に向かう生活を始めました。

ichigo.jpg日本は経済高度成長期を突き進み、60年代後半の学生運動を経験してきている私には、何処か馴染めない気持ちがまだ存在し、何時も海外に戻る気持ちがありました。
そこで流れていた曲が「イチゴ白書をもう一度」でした。
そのなかの歌詞の一節「就職が決まって髪を切って来た時、もう若くないさと、君に言い訳したね」に心動かされました。

この年の暮れ、その後結婚することになる女性とある会合で知り合いました。
彼女も海外志向でした。
会う度に二人の夢を語り合いました。
日本の社会人の常識である、結婚して子供をもうけて、新築の家を買って、休日にドライブする、そんな生活よりも、先ずは二人で世界中のあらゆる場所を歩こう、今ならそれが出来る最後の年齢だ、老後のこととか、ローンとか、年金のことは、その旅が終わって帰って来てからでもまだ間に合う。
その為に、今資金を造ろう、と走り出した年が1975年でした。

結局、この二人の計画に十分な資金が出来たのは3年後の1978年でした。
私はもう、30才、カミサンは27才になってました。
日本に帰ってきて丸3年、専門学校を卒業し就職し結婚し、日本社会の一員となり社会的・経済的に安定してしまうと、二人の夢の実現は難しくなってしまいます。
私もカミサンも仕事面で期待され、それなりの地位・報酬が得られるようになると、同年代の社会人と同じように自分の居場所、帰る場所、住まいを買ってしまい、もう、青春はお終いです。

でも、何か違うと云う思いは二人の間いつも存在しました。
そして出した結論は、知り合った頃の夢を違う形で追いかけよう。
出来るだけ早く退職・リタイヤして、二人で地球上の好きな場所に、好きな時に、好きなだけ留まり、生活しようでした。
時代が味方してくれたのでしょう。
バブル前に家のローンは返済し、バブル絶頂期には建設業界に属しており高収入が続き、50代前半で目標とする金額に達して55才、52才で退職し一般的な日本人サラリーマンより10年早くリタイヤ生活に入りました。

あれから15年経過しました。
二人で世界中の世界遺産、秘境・絶景の地を個人自由旅行の形で旅してきました。
しかし、青春時代に考えもしなかった誤算がありました。
人間は年老いて行く・・・パッションも体力も意欲も。
日本では65才になると高齢者と呼ばれます。これは生物としての人類の宿命です。
あれほど、海外で異邦人として旅する心地よさがだんだんと薄れ、却って重荷、煩わしくなってくるのです。
いつの間にか、普通の高齢者・シニアのように、安全な、緊張を強いられることのない国内の温泉や季節の花咲く地が居心地よくなってくるのです。
67才で10年のパスポートが失効し更新せず、海外は卒業しました。

今、日本のサラリーマンの退職後の年数はどんどんと短くなっています。
退職後の第二の人生、第二の青春と呼ばれていますが、自分の退職後を思い返すと、日本人の健康年齢と呼ばれる70才までです。その後は異論、反論は多々あるでしょうが、私は、残された人生と考えています。
今、「イチゴ白書をもう一度」をユーチューブで聞いています。
青春時代の歌を聞いて懐かしがる・・・齢とった証拠であることを自覚しながら。
「神田川」・・・まるで二人の青春時代そのものでした。
posted by 西沢 at 08:06| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2018年03月17日

生前整理以前に、老前整理を 大量のアルバム写真の整理

生前整理以前に老前整理が必要であるとの認識で、少しづつ 旅のアルバムの整理を始めたのは、
古稀を意識しだしたちょうど昨年の今頃でした。

alb1.jpg昔は、海外へ出かける度に、一冊のアルバムを造っていました。
旅先の写真と共に、地図や入場券等の 思い出も一緒に。 このアルバムの完成で一つの旅行の完結と考え、将来自分が歳を取って 海外へ出掛けられなくなった時、陽だまりのベランダで(縁側が理想なのですが)このアルバムを 見る自分を想像していました。

昨年、老前整理を思い立ってこのアルバムの数を数えた所、結婚前の二人のアルバムも含めると、100冊を超えていました。結婚後二人一緒の海外旅行だけでも80冊以上ありました。

このアルバムをどう処理し、保存するか?
ともかく、プリントされた写真をアルバムから剥がし、スキャナーに取り込んで、デジタル化するしかありません。 スキャンが終了した写真は少しもったいない・名残惜しいのですが、思い切ってシュレッダーで裁断しました。
(この目的の為だけに 電動シュレッダーを買いました)。
バラしたアルバムの残骸と細かく切り刻まれた写真は、燃やすゴミとして出しました。
(鎌倉ではアルバムは紙類ではなく、燃やすゴミに分類です。)

alb2.jpg後はパソコン内にアルバム名のフォルダーを造り、画像ファイル名は整理しやすく通し番号で簡単にして、フォルダーに 放り込みひと先ず完成、後はこのフォルダーを何処に永久保存するかです。 昔は、CDに書き込んでいたのですが、読み込めない・破損したCDが発生したため、は今回外付けHDDに保存しました。
ここまでは、昨年から1年かけて、少しづつ作業し、残されたアルバムは、後20冊程度でした。

作業を加速しなければ!
今年古稀を迎え、そして二つ上の兄の死で、21世紀と云えども、霊長類の 70歳は決して若くなく、いつ自分の番になっても不思議ではない、と悟るようになりました。
ともかく、カミサンの負担を軽くせねば、先日亡くなった「流通ジャーナリスト」のように、出来る事は 出来るだけ準備しておこう。

デジタル化した画像写真をどうやって見せるか!
写真好きで、パソコンが扱える人が思いつくアルバム整理は、プリント写真のデジタル化と保存までで、その後 の事を考えている人は少ないです。
残された奥さん・子供たちが、亡き夫・父親を偲んでその画像ファイルフォルダーを開けるチャンスは、精々 一回忌まででしょう。
ましてや、銀行のキャシュカードさえ使えない我が家のカミサンが、パソコンを立ち上げ、外付けHDDを繋げ写真フォルダーを開き、スライドショーとして見る可能性はほぼ0%です。
機械・パソコン音痴の 誰でもが手軽に、スイッチ一つで、夫の残した写真画像を見れる状況を造って残すのが、妻への愛情(夫の身勝手)と云うもの と、達した結論が、デジタルフォトフレームでした。

BGMは「良い日旅立ち」か「秋桜」alb3.jpg
二人の思い出の写真を映画フィルムのように時系列に並べて、お気に入りの音楽と共に見てもらいとの思い出に浸り涙の一つも・・・・ と云う魂胆です。
出会った頃は二人とも若く、本当に良く写真が残っています。
ここにはBGMとして「かぐや姫の神田川」に登場してもらいましょう。 昭和のあの頃、唄の世界と同じで、二人で東京の下町「根津」の銭湯へ通ったものでした。 二人+両親だけでやった慎ましやかな結婚式の写真のBGMは「良い日旅立ち」か「秋桜」です。

デジタルフォットフレームでしたら、テーマ・年代・旅先毎に保存したUSBメモリーを差し替え、後はリモコンを 押すだけで、残された静止画・動画映像メツセージをみる事が出来ます。
ここで、機械オンチのカミサンでも絶対見る為に少し、工夫しました。 彼女の結婚前の写真類も
全てデジタル化し、デジタルフォットフレームの内臓HDに保存しました。これなら見るだろう!!

田舎から上京し、東京で青年期を過ごし、結婚し、働き、郊外に住まいを移し、退職し、これから林住期を迎えようとしている団塊世代は、ほぼ似たり寄ったり の感傷に浸って、今を過ごしているでしょう。
posted by 西沢 at 08:19| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2018年03月16日

テレ東の「家、付いて行ってイイですか?」我が家の場合は

アメリカのTV番組プロデューサーが、テレビ東京の「ユーは何しに日本へ」と「家、付いて行ってイイですか」を見て何とクレージーな番組と云いました。かれらにとって「クレージー」とは最大の誉め言葉なんです。

tvto.jpgまさか、こんな番組が成立するとは誰も思ってもみなかったでしょう。
深夜の二時三時に、自宅に他人、それもテレビ局のカメラを持った人間が訪れるなんて。
企画の段階で、誰も深夜にカメラを自宅に受け入れる日本人なんかいないと云う意見が多数派であったことは想像されます。まさか、帰りのタクシー料金代わりに、家族が寝ている家に招き入れてくれる人がいるとは。

そして、驚かされるのは、その家の人が徐々に自分の人生、生活、生き様を語りだすことです。
これは、撮影クルー・スタッフの質問して引き出す、能力なのでしょうか。

毎週色々な住まい、アパート、人生模様が見え、水曜日の夜の講座を少し早めに切り上げて帰宅し、夫婦二人で見るのを楽しみにしています。そして、その都度、映し出される木造アパートを見て、昔の二人の住まいを懐かしがっています。

結婚する前、一緒に住み始めた42年前、昭和50年代はまだコーポとか呼ばれる、洋式のアパートは少なく、トイレは共同風呂は勿論ない木造アパートが若い20代が住む賃貸アパートの主流でした。上野の下町、池之端四畳半と三畳の二部屋に小さな台所の住まい、当時流行っていた「神田川」の世界そのもので、二人で近所の銭湯に行き、時間を決めて出てきました。帰りに近所の鯛焼きを買って食べながら帰るのが楽しみはまさに、神田川の世界、昭和の世界そのもの、楽しかった思い出ばかりです。

やがて、私が退職まで勤めた会社に就職し、正式に結婚して世田谷のコーポと呼ばれる新しいアパートに移り住みました。井の頭沿線、渋谷・新宿に近く、1DKのアのパートです。今風の風呂もシステムキッチンがあり、近所の木造アパートに住むカミサンの友人が時々我が家の風呂に入りに来て、何時かは私も結婚して、こんなアパートに住みたいと、話していたのを思い出します。彼女はその後大手ゼネコン社員と結婚し、多摩の高層マンションに住んでいます。
この世田谷のアパートには三年住みました。

四年目に横浜、横須賀線沿線の新駅駅前の大規模開発マンション群の第一期の高層マンションを買いました。当時、神奈川県で売られていたマンションの平均価格帯で一番高い物件でした。
当然ローンですが、頭金が多かったので35年ローンでボーナス払いなしの月々均等払い60,000円ほどでしたからアパート代と同額、当時の住宅金融公庫の利率は、今では信じられませんが年6%でしたが少しも苦労、不安なく購入しました。
購入した直後始まったのが、不動産バブルです。
勤めていた建設関連会社好景気の恩恵を受け、給与は年々上がり、ボーナス2回の他に、決算手当が2回、現場経費はふんだんに使える状況、残業が深夜になった時は、都内から自宅横浜へのタクシーが制限なく落とせる時代でした。
35年ローンは子供いない夫婦共働きですから5年で早期返済出来ました。

やがて、計画通り私55才、カミサン52才で退職し、横浜のマンションを売り、現在の終の棲家鎌倉に新しいマンションを購入し、現在に至っています。
70才、67才になった二人は、まるでモデルルームみたいと、友人から云われるほど、何も余分なものを置いてない広いリビングで、毎週このTV東京の「家、付いて行って良いですか?」を見ています。
私たちの場合、何の才能、才覚も、努力もなく、時代と共に過ごしてきました。
TVで映し出される住まいの住民のような劇的な出来事も、波乱もなく生きてきました。

もし、何処かの駅でTV東京のクルーにキャツチされ、タクシーで自宅まで送って来てもらって撮影・インタビューされても、私たちのような場合100%、放映はされないだろうね。と云うのが何時も見終わってからの二人の言葉です。
「他人の不幸は蜜の味」
「私たちの人生も大変だけど、この人よりはマシね」
と云うのが普通の人間なのだと、ある人が書いていました。
posted by 西沢 at 07:54| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2018年03月15日

シニアの語学学習が長続きしない理由は?本当に必要なの?

元英語クラスの友人女性から、お誘いメールが入りました。
リタイヤ後通い始めた横浜公的施設内の英語クラスが、管理指定業者入札に敗れ、他の業者に代わったのを機会に、中止になりかけ、自主運営と云う形(自分たちで会場の予約をし、講師の外国人教師に直接謝金を払う)で 継続していたのですが、同じクラスの主婦オバサンの英語レベルと、会話内容の貧弱さに嫌気がして、もう五年も英会話から遠のいているのですが、四月からのクラス成立に必要な人数に達しないので戻ってこれないかと云って来ています。

前のクラスは中級でしたが、ちっとも上手くなりませんでした。
外国人ネイティブの教師についての英会話は、現役時代から通算するともう10年以上になるのですが・・・何にもしない時に比べると若干、単語の数と表現のバラエティが増えた程度です。

朝日新聞に、「シニアの為の長続きする英語勉強法」と云う記事がありました。
要約すると
  ・間違いを恐れない、私たちは外国人であるのだから話せないのは当たり前
  ・完璧を目指さない、英語は試験科目ではなく、情報伝達の手段である
  ・質問をすることから学習する、質問に答えてくれば自信になる。
  ・人と比べない、比べるのは習い始めた時の自分と比べる。
  ・記憶力の衰えは、反復練習で補う、60才なら60回繰り返す
  ・教室で過ごす1時間より、行く前の1週間の毎日の15分の学習が大切

確かにその通りで、云われなくても、解っています。
しかし、シニアの英会話学習が長続きしないのには、他の理由があるのではないでしょうか?
そもそも、定年退職したシニアが英語を学ぶ理由・目的・きっかけは、何んなんでしょう。
圧倒的に多いのが最初の二つです。
  ・海外旅行先で現地の人とコミュニケーションをとり、お友達になりたい
  ・暇つぶし、ボケ防止、他に趣味がない
  ・学生時代英語が出来なかったから、再度挑戦

eigo.jpg海外旅行の旅先で英語が必要か?
結論として、現在の日本人の海外旅行の主流となっている格安団体パック旅行では、英語・現地語に至るまで 言葉を喋る必要も、機会もはありません。
バスの中、土産物屋、定食レストラン、ホテルだけの世界ですから、現地の人と知り合い、喋り、お友達になるなんて事は、万が一にもありません。
忙しいツァーの合間を縫って町に出かけて行っても、話しかけてくるのは、泥棒・詐欺・物売りの類で99%日本人の懐を狙っている人種 です。
大きな観光地の場合、例え相手が親切そうな初老の夫婦であっても、向こうから話しかけてきた場合の危険度は90%以上です。
これが 日本人が全く来ないような辺境の観光地なら、危険度はさがるでしょうが。

では、個人・自由旅行では必要ではないのか?
ロングステイ、滞在型の旅行では、英語力は必須であると、私のサイトでは度々書いています
しかし、実際には旅や滞在が順調に進んでいる時は、滅多に必要ではありません。
英語を喋るのは買い物・レストラン・ホテル・旅行代理店の窓口・観光地インフォメーション 程度で、いわゆる基礎・中学生程度の旅行英会話で十分です。

実際に英語力が必要になるのは、トラブル時だけです。
 ・予約がされていなかった 
 ・法外な値段を請求された  
 ・交通機関がキャンセルになった等のトラブル時に、自分の英語力を総動員し、 必死に
  解決する為に、喋らざるを得ないのです。

結論 必要とされていないものが長続きする道理がない
「日本人は英語が苦手」外国人があんなに上手に話すのに、日本人はどうして?
日本の英語教育が間違っている? 
いいえ、日本は平和な国で英語を喋る環境・必要がないのです。
ヨーロッパの国のように国境が接していたり、 アジア・アフリカの国のように、外国語が話せないと良い仕事に就けなかったりすることがないのです。

海外旅行の旅先で現地発の多国籍ツァーに参加する機会がかなりありました。
色々な国の人が参加していて、食事時1時間以上一緒に喋らなくてはなりませんが、概ね参加者は2か国語以上喋れます。 
一番喋らないのが私たち 日本人、次にダメなのがアメリカ人です。アメリカ人は英語以外は喋れないので、大きな輪の会話に入っていけないのです。
つまり、アメリカ人は、外国語を学ぶ必要性がないのです。
※私の場合、英語よりスペイン語のほうが断然ストレスなく、楽です。英語が上達しない理由はここにあり、 本当に困った時には「Anyone speak Spanish?」と叫べば解決するからです。

シニアに限らず、絶対的に必要のないものを、趣味や暇つぶしとして習う英会話が長続きしないのは、当たり前
posted by 西沢 at 08:14| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2018年03月14日

高齢者だってセックス 『言えない』性の悩み

昨年放送の【クローズアップ現代+】のNHKらしからぬタイトルです。

『日本老年医学会が「高齢者」の定義を「65歳以上」から「75歳以上」にしようと提言するなど、最近、お年寄りが元気だ。ところが、性欲はあるのに、「年甲斐もなく」と言われることを恐れ、周囲に相談できない高齢男性が増えている。
妻との関係をどう築けばよいのか、子どもや孫は「枯れないお爺さん」にどう向き合えばよいのか。NHKらしからぬ大胆な角度からタブーに迫った。』と云う内容です。

私は、地元NPOでパソコンを通じた社会貢献活動をしています。
初級レベルの授業や、ワード、エクセル、お絵かき程度は、熟練した女性スタッフが教えたり、対応しており、私はもっと専門的な、Web言語、プログラミング、グラフィク系の高度な加工などをサポートしています。
ここ数年多いのは、緊急サポート応援です。
初級クラスのシニア男性から電話が掛かってきて、「パソコン画面に突然文字が出てきて、女性のうめき声がし、この画面を消すには、この電話番号に電話して、指示通りにしなさい的警告文がでてパソコンを消そうとしても消えない」どうすれば良いのか?と云うのです。
この方は初級クラスの生徒さんですから、女性スタッフへ連絡しますと云うと、それは困ると云うのです。
ここまで来ると、置かれている状況が想像が出来ます。
「アダルト動画サイトかなんかを見て、何かクリックしましたか?」
「そうです。お願いですから、先生、至急助けて下さい。」

これは典型的なランサムウェアと呼ばれているマルウェアです。
Wikipedia
ランサムウェア(英語: Ransomware)とは、マルウェアの一種である。これに感染したコンピュータは、利用者のシステムへのアクセスを制限する。この制限を解除するため、被害者がマルウェアの作者に身代金(ransom、ランサム)を支払うよう要求する。
数種類のランサムウェアは、システムのハードディスクドライブを暗号化し(暗号化ウイルス恐喝)、他の幾種類かは単純にシステムを使用不能にして、利用者が身代金を支払うように促すメッセージを表示する(スケアウェア)

ご本人は、家族にばれる前に何とかして欲しくて、安全な印象がある公的NPOの私たちに連絡してくるのです。何処かに、年甲斐もなく、と思われるのが嫌なのです。

一般的に男性社会では、高齢者或いは学歴が高い方ほど下半身に関する話はお互いにしません。
見て見ぬフリをしているし、本当の事を云うと、社会・世間から叩かれ、不潔扱いされます。
私のサイトの掲示板http://wwweb.sakura.ne.jp/bbs/yybbs.cgi で数年前に定年退職男性が赤裸々に性に関する投稿があった時、大炎上しました。火付け役の女性はハンドルネームを使い分けて、次々に批判の投稿をしてパンク状態になりました。
それほど、シニア女性にとって、六十代以上の男性がまだ性欲旺盛なのが許せないようです。

私はNPOのパソコン・IT関連のサポートの傍ら、民間のwebサイトのサポートもしています。
その一つに、ソープランドのサイトもあります。
ここの経営者とは、三十代現役時代からの知りあいで、退職後に彼が経営する三つのお店のホームページのメンテナンスをしており、お店の事務所にも度々訪れています。
サポートメンテは必ず、朝一番に行くようにしています。
夜ですと、廻りから無用な疑いの目で見られるのを嫌ってですが・・此処にも、私にも日本人シニア共通の思いがあるのは、自覚しています。良いじゃないか、六十代でも七十代でも性欲はあるし、家庭や社会に迷惑をかけている訳でもないし・・・と思うのですが。

このお店の奥の作業する事務所のマジックミラーでから解るのは。
・午前から昼過ぎに来るお客さんの大半が明らかに六十代以上のシニア男性です。
・足元がおぼつかない、介護人女性に支えられて来た老人もいました。

お店の女性とも同業者的立場で良く話をします。彼女たちの話では、昔のような性欲を持て余し、解放に来るような若い青年は少なく、大半は中高年の男性、特に定年後シニアの男性が多いと云います。
この年代層は、彼女らにとって大お得意様だそうです。
ある程度、お金の余裕があり、定期的に必ず来てくれる、家庭も地位もあるのでトラブルにはならない。
何よりも、午前の暇な時間に来てくれる。なかには高齢で話だけして帰るシニア老人もいる。
この安全・健全な風俗にくるシニア達も妻・家族・子供たちに知られたくないハズです。

この番組のツィートのなかで一つ気になったのは
「シニア女性には性欲はないのかな」でした。
うちのカミサンは絶対にないと思いますがね、元々超淡泊でしたから。

posted by 西沢 at 08:33| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2018年03月13日

財務官僚の自死 死ぬな、逃げろ、恥かも知れないが役に立つ

新聞紙面には森本問題でやはりと云うか、案の定、政治の圧力・忖度をしめす公式文書の存在が明らかになってきています。きっかけは、公表されていませんが・・・、推測ですが・・・、この森本文書に関係していたある財務省理財局事務官であろうと云われています。

何で死ぬのよ、辞めればいいじゃないか、逃げればいいじゃないか、ちゃぶ台をひっくり返してやればいいじゃないか、逃げるは恥ではないんだよ。生き延びるんだよ。

最近、過労による自死がマスコミで報じられています。電通をはじめとする大手企業の名があがっています。
実は、企業内の自死、自殺は私の現役時代には身近にもっとあったと思います。
今のように、マスメディアが報じないだけで、私の居た建設関連企業には沢山ありました。
私も、追い詰められた時期がありました。私の場合、逃げました。

ビル建設も、システム開発もそうですが、大きくなればなるほど、仕事の分野は細分化され、
高度な知識、経験が必要された個人に集約されていきます。
そして、その小さなパーツ、部門の瑕疵、遅れが全体に及ぼす影響は多大になります。
私は、バブル時代に巨大ビル建設に関わってきました、その間何人もの自死、ノイローゼ、出社拒否などを見て来ており、なんでそこまで追い込まれるのか理解できませんでした。
逃げればいいじゃないか?、辞めればいいじゃないか?放り投げればいいじゃないか?と

私にもその時がやってきました。
1995年、バブルは弾け、日本経済は下降線をたどり始めた頃、建設業界への影響はまだ及んでいませんでした。
バブル時代に受注した残工事物件が数年先まで手付かずに残っていました。
横浜では93年ピークのみなとみらい地区のビル群に携わっていた頃、近隣の新築の大手本社ビルと大型ホテルの工事担当者を決める会議で、忙しすぎて何処からも担当者を決めることが出来ず、とりあえず出席した課長・部長クラスが着工までのつなぎ役とし、その後正式担当者に引き継ぐと云う、良くあるケースの一時しのぎになりました。

私たちが建設工事で担当する部署は、そのビル全体を監視・制御するシステムとハード造り工事ですから、客先はゼネコン、設計事務所、サブコン、メカコン、発注先と多岐に渡ります。
この現場の最初にキックオフミーティングで嫌な感じしました。
ゼネコンの最高責任者が挨拶で、
「西日本から工事単価の崩壊が始まっている」
「見積もりをし直す」
「現場は戦場だ」
「この現場から打ち合わせ書類は全て電子化する」
その後、Y社(当社です)の担当者と打ち合わせしたいと云いました。
その後、現場書類のデーター渡しにあたって、パソコンを20台現場に持ってこい、と云われました。早速、営業から見積もりをださせます、と答えると「そんなもの現場経費で落とせ、天下のY社が云う事か」と云うのです。
営業に伝えると、「仕方ないかな、相手がゼネコンO社で喧嘩出来ないし、工事に引き継いだんだら、そっちで何とかしてよ」です。まあこの程度は何とかなるので納品したのですが、このゼネコン所長には不信感をいだきました。

工事は始まって数か月、再びこの所長に呼び出されました。
ビル全体のシステムを統括するメインを私のY社から、N社に変更する、現在O社はN社の工場建設をしているので、バーターとなった、これは本社決定である、しかし、N社は工事が出来ないので、端末工事はこのまま、Y社、お前の所でやれ」と云うのです。
これには頭にきました。美味しいところだけ持って行かれいると、この時点で数億の赤字になります。それを云うと「追加工事や、乙工事で何とかなるだろう」と云うのです。
本社に戻って、「この現場は降りましょう、とてもあのO社の仕事は出来ません」と云うと、「天下のゼネコン相手に途中で降りることは出来ない、これまでそんな事をしたことはない、現場で何とかしろ」です。
「会社が降りれないのなら、私が降ります、辞めます」と宣言しました。
とても、この先2年間この所長の下でこの現場をまとめる自信がありませんでした。

私はその時48才、自宅に戻りカミサンに
「会社を辞める、このままでは自滅しそうだから」と云うと。
「ではどうするの?」とカミサン「
「早めに退職して、念願だった世界一周の旅に出る」
「取り合えず、コスタリカあたりでゲストハウスの需要や価格を調べに行く」
「そう、良いじゃない、私も辞めて一緒に行くは」となりました。

社内は大騒動で、あらゆる部署から説得の手が伸びてきました。
しかし、その都度、コスタリカ行きのチケットを見せて本気であることを伝えました。
まだ、団塊世代は働き盛りの48才、老後の生活とか、退職後の海外ロングステイなぞ、巷では話題になっていなかった頃です。
「お前は逃げるのか」
「敵前逃亡だ」
「この先、何かあったら逃げる人生になる」
「残された同僚、会社の事を考えてみろ」等々

その後のお話
3ヵ月後、コスタリカから戻り、元会社に退職手続きにいくと
「N君、君は辞めたことになっていない、いなかった3ヵ月の給与は振り込んである」
「しかし、このままの地位と部署でいると社内的に不味いので、ゼネコンS社に出向してくれ」
話を聞くと、私がO社と大喧嘩した話は業界に広まり、前々から知り合いだったゼネコンS社の耳に入り、Nを辞めさすな、うちによこせと拾ってくれたようです。
当時はまだ必要とされていたようで、時代がこのようなわがままを救ってくれたようです。
結局、退職予定資金が貯まる55才、2003年までS社のお世話になり、円満退職に至りました。
この時、誰も引き留めませんでしたし、退職の送別会は現場のみでした。

時代が良かったのかも知れませんが、生きていれば何とかなります。
絶望的な状況であっても、死んでは行けません。逃げて下さい。
posted by 西沢 at 09:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会

2018年03月12日

日本人が知らない、気づかない、海外での人種差別

六十代半ばの定年シニア男性の二十日間に渡る南米旅行記のなかで最後に「これって人種差別なのかな」と云う項目があり、以下のにように記述していました。
1. メキシコシティの空港で両替しようと思って適当に入ったら、途中でお金返されて、あっち行けって。言葉通じないからダメと思われたのだと思うが。

2.マーブルカテドラルのツアーの帰り、ガイドのアンドレアさんが、皆に夕食場所の希望を聞いて、ほとんどの人が、あるレストランに行く事で話がまとまったのだが、私に、「君はファーストフードが良いか」と聞く。「イヤー、レストランの方が良い」と言ったのだが、いよいよ町に近くなった段階で、また「君はレストランに行くの」と聞く。
なんか、仲間外れにされているような気がして、こちらも言葉の通じない人達とこれ以上一緒にいるのも嫌になってきたので、「ホテルに帰って、聞く」と言ったところ、「ああ、君はホテルに帰りたいのね」とホットしたような様子だった。
服装がみすぼらしかったのかもしれないが、でも他の連中とて、おしゃれしているわけでもなし、腑に落ちない。これ以降、ちょっとした事が、全て差別のように思えてきた。

3.ブエノスアイレス空港のお店で、随分無視された。

一般的に日本人は人種差別的な経験をしたことがないでしょうし、先進経済大国、真面目、勤勉な日本人が、他の人種、白人から差別的な扱いを受ける、なんてことは想像したこともないでしょう。海外に出かけると云っても、それは団体PAC旅行の短期間の観光で、お客様ですから個人的にはそのような経験はごく稀なのは、解っています。
king.jpg人種差別と云っても昔のアメリカ南部や南アフリカのように制度化された人種差別ではなく、自分自身がちょつと、不愉快な、不当な、云われなき扱いを受ければそれは、人種差別のうちです。トランプアメリカ大統領のように、隣国メキシコ移民に対して、ドロボー、レイプ者と呼ぶのは、信じられないほどの人種差別発言です。アメリカで一番忌み嫌われるのは、レイシスト・人種差別者と云う言葉なのに。

私たちの世代は海外での人種差別を経験しています
まだ海外旅行や留学が一般的ではなかった70年代前半、私たち団塊世代、特に女性は多くの人種差別を経験しています。
高校の同級生で大学時代にアメリカに留学した女性は、バスに乗る時に当時まだあったホワイトとカラードの座席のどちらに座るか迷った時に、ホワイトに座ったとたんに、強い視線が彼女に集まり、居たたまれなくなり、次のバス停で降りた経験を話してくれました。
同じく、70年代半ばにスェーデンに留学した同級生は、買い物をするにも、町を歩くにも強い視線を感じ、スーパーのレジで相手にされず、後ろの客を優先されたそうです。
彼女はスェーデン国立大学医学部へのエリート留学生なのですが、理由が解らなく、それとなく教授に相談したところ理由が分かりました。
当時スェーデンは多くのベトナム難民を受け入れていたのですが、社会福祉が高く、それを高い税金で賄っている一般庶民からみると、働かず、ただ国の世話になっているアジア人とみているので、そのような扱いをしていたそうです。
同じ時代、ロンドンのヒースロー空港のイミグレで、アジア人女性の入国審査の厳しさが取りざたされていました。
日本人とて、彼らから見ればアジア人です。紳士の国イギリスと云っても一般労働者階級からみると、日本人女性は滞在ビザの為ならいつでも、誰とでも同棲すると思われていたのです。

十数年前の日本と同じ状況です。
バブルの頃アジアから出稼ぎにやってくる、タイやフィリピン韓国・中国の女性をそんな眼差しでみていた日本人は多くいました。
そして、数年前までホテルロビーにたむろして、大声でしゃべる、バイキングでお皿に食べきれないほど持ってくる、お土産物屋で大量に買い物する、街中でタバコを吸い捨てる、ブランドショップに群がる、アジア系外国人観光団の人々。これらは、80年代に世界各国、ヨーロッパ、アメリカで見かけた日本人観光客と全く同じなのです。

南アメリカでのアジア人に対しての人種差別
南米と云っても国によって大きく違ってきます。
一番人種差別を感じない、少ないのはブラジル、パラグアイ、メキシコです。
一番多いのは、中米、そしてアルゼンチンです。
中米は歴史的背景と国民の成熟度・教育の低さに由来します。
中米を旅していると、子供たちは手で目を吊り上げ、頭をぺこぺこする格好に場面に良く遭遇します。そして、チーノと囃し立てます。かれらはアジア人を全てチーノ(中国人)と呼び、からかいます。そこで否、日本人だと云っても無駄です。アジア人の蔑称がチーノだからです。
何故か?
アメリカが南北戦争で黒人奴隷を解放した後、パナマ運河の労働力が不足して当時植民地化していた清国から大勢の中国人が半奴隷として、中米に流れ込んできた経過があり、その後居ついた中国人は持前の華僑魂で現地で商売をし、カトリックの国に中国式文化を持ち込み、同化してこなかった事が、今でも異文化の人種として、中米各国で差別されています。

アルゼンチンはどうして?
南米のなかでアルゼンチンは特殊な国です。
南米と云うと、アンデスの国々は多くのインカの末裔との混血が進んで国民の半数ちかくがメスティーソと呼ばれる人々です。
ブラジルやベネズェラにはインカ系の混血人種は少なく、アフリカ系の人種が多いです。
しかし、アルゼンチンとウルグアイだけは、99%白人による移民国家で、第一次世界大戦直後は世界の富裕国、経済先進国だったのです。ブエノスアイレスの地下鉄は東京の銀座線よりも古くからあるのです。
現在、経済的に落ち込んでいるアルゼンチンですが、国民の意識は十数年前の日本と同じで、近隣のパラグアイ・ボリビア・ペルーの国民は、ブエノスアイレス一般家庭の女中さん、低下層労働者の供給先と見なしています。そこにきて、中国人の流入です。

1970年代後半まで、アルゼンチンは南米白豪主義と云われ、白人以外の移民・移住は認めてきませでした。唯一例外が、日本人でした。明治の昔から日本とアルゼンチンの軍事的結びつきが強く、アジアにあってイギリスと同盟を結べる国として評価されていたからです。
国家経済が破たんし、中国の経済力が増し、やむなく日本以外のアジア人の移住制限を止めてから、一気にアジア人が増えてきました。

南米に駐在する日本企業社員の間では、アルゼンチンで駐在している仲間に対して同情する声は良く聞かれます。良くあんな不愉快な国で生活出来るな!それほどアルゼンチン、特にブエノスアイレスに住む、白人ホワイトカラー人種は、プライドが高く、教養のないもの、不潔な服装、英語・スペイン語喋れないもの、田舎者を莫迦にします。
どんな立派な紳士でも、小さなお店の金髪美女でも、つり銭をごまかします。タクシーは田舎者、スペイン語が喋れない外国人旅行者なら99.9%遠回りし、ごまかしをします。どんな一流レストランでも請求書をじっくりと読まないといけません。

どうすれば良いのか、一つは旅行者の税金と思ってあきらめるか、バスに乗るか(バスのなかでも誤魔化す運転手もいます)堂々とスペイン語でやり返すか。或いは流ちょうな英語をまくしたてるか(かれらには一種の英語コンプレックスがありますから)
これは彼らにとって田舎者をからかうゲームなのです。
特にアルゼンチンのリゾートに行くとその意識を強く感じます。
「ここはお前らの来るような所ではない」と。
南米旅行記を投稿していただいた筆者が、何か不愉快と感じたのはこれです。

めげてはいけません。
私の友人、ブエノスアイレスでクリーニング店をやっているセニョーラは、お客と喧嘩して「お前なんか日本に帰れ」と何度云われか、数知れずと話ていました。
私は、アルゼンチン人でも国内線アエロパルケ空港から市内向けのタクシーは要注意、外国人、田舎者はカモにされると云うタクシーに乗らざるを得ない時、タクシーの運転手にラジオをサッカー中継に切り替えさせます。そして、運転手さんに、どこのファンか聞きます。そしても目的地まで大まかなルートを指示します。これでOK、絶対に誤魔化されませんでした。
posted by 西沢 at 08:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行

2018年03月11日

7年前、3・11東日本大震災をブログから振り返る

今年もあの日がやってきました。
奇しくも、私の運営する「団塊世代の定年後の過ごし方」にブログ風コラムを開設した2011年3月1日から10日後のことです。毎年この日にあの時から数日の自分のブログを読み返しています。

3月12日のブログ 鎌倉で体験した大地震
地震発生当時、鎌倉NPOセンター内で、会議の最中でした。突然の停電の後、数秒してから建物がゆっくりと 揺れ始めました。
高校生の頃、新潟地震や、地元長野の松代群発地震を体験していますので、震度5の感覚は持っています。揺れはの 大きさは、4弱かなと感じたのですが、何時もの揺れと違って時間が長い、もしかするとすると考えました。
最初の地震が納まって、数分後に前と同じ程度の余震がきました。 これは何時もの地震と違う、と云うのは、肌で感じ表にでると、同じ敷地内の鎌倉市役所の駐車場には、全職員が 集まっています。
jisin.jpgほどなく、庁内の緊急放送で全職員、指示のあるまで役所内建物には入らないようにと云うアナウンスがありました。
普通ならすぐに復旧する電気がきませんし、交通信号も消え、JRも止っているようです、金曜日の夜に、大船センター でweb支援講座がある為に、5時までに大船センターに行かなくてはならないので、大船まで歩くことにしました。
大船までは、亀ヶ谷切り通しを抜けて、北鎌倉・小袋谷経由で1時間かりました。全てJR踏切がクローズしている為、道路は 車で溢れかえっていました。
当然ながら、夜の講座は中止、自宅に戻ると停電・断水状態、ガスは不思議にOKでした。自宅にいたカミサンは、最初の大きな 揺れの後、近所のコンビニで水と食糧を買ったそうです。しかし、その後予備の電池を買いに行くと、店内は満員で、お店は、閉める準備に 入っていたようです。停電は、夜の9時に復旧しましたが、今度はインターネットが通じません。結局インターネットが通じたのは、本日12日15時、まる24時間 我が家は、webの世界から切り離されていました。 まだまだ、TVでは災害の報道が続いています。
今回は、水・電気そして、通信のインフラの重要なことに今更ながら、認識した次第です。

3月14日のブログ 海外からの安否問い合せ
cara.gif昨日、今日と、海外の友達・知り合いから大地震の安否の電話や、メールが届きました。
日本人の方からは、震源地と離れた関東地方に住んでいる事は解っていても、海外で見るTVニュース では、ついつい心配になってしまう、仰ってましたし、バリ島の友人は「Fukusima」と 鎌倉の距離を心配して、メールをよこしてきました。
このブログをお気に入りに登録されて、時々見に来てくれている、西日本の皆様、私たちは大丈夫です、元気です。
しかし、昨晩から東電の無計画輪番停電に、振り回されて生活リズムは、メチャクチャです。
今日は朝からちゃんと電気が通じているのに、横須賀線・東海道線はストップ、 駅ビルのルミネは昨日より閉まったまま、スーパー西友は今日は、3時までの営業です。
今、15:00のTVニュースでは、東電の記者会見で・・・・第5グループの計画停電を17時から19時の間に実施する 可能性が高い・・・・
なんて云う歯切れの悪いことをいっています。
こんな状態なのですから、私達も停電には協力します、でも、ちゃんと計画を事前に、詳しく説明してよ!、
それと 私の住む鎌倉市は、第一グループ・第五グループに属しているけど、私の住む玉縄地区はいったい、どちらなの?
インターネットも、電話も通じないではないか!、鎌倉市webページは、今回は奇跡的に早く掲載していました。 玉縄は第五グループです。

3月15日のブログ 東電 無計画輪番停電
touden.gif我が家に、明日の米・パンがない
今日午後、新聞の予告通り第5グループの輪番停電がありました。午後12:20〜16:00まで停電しました。
最初から解っていれば対応もできます。震災に遭われた方々のことを思うと、のうのうと電化生活している 関東地方の私達で協力出来る事があれば、多少の不便さは感じても、協力は致します。 しかし、いきなりの通知、やるかやらないか煮え切らない回答、やると言ってやらない停電は困ります。
そのせいで、公共交通機関は乱れ、商店・スーパー・ショッピングセンターは、閉めなくも良いのに、 顧客を無視して閉店しています。
私の周りでは、ルミネも大船仲通り商店街も、ヤマカも閉店状態です。家庭の台所を預かる主婦は当然 のことながら備蓄をします。
マスコミは、流通はすぐに回復するのだから不要な買走りはするな、と云ってもこれは、生きるものの 、特に女性、母親の本能ですから、仕方ないことです。
中途半端な停電は、人心を不安にさせるだけです。3時間なんて半端なことをするから、交通機関も 流通も混乱するのです、地域を決めて24時間停電すれば、私達は、それなりの対応が出来るのです。
今日、停電が復旧してからスーパー・商店に明日の米・パンを探しに、4軒廻りましたがいっさい売っていません。
取り敢えずのカップラーメンやスナックはありますから、飢え死にはしませんが・・・・。
60代の夫婦の食べる米の量なんて多寡が知れていますが、これが食べ盛りの子供のいる家庭では深刻な問題 でしょう

3月23日のブログ  ろうそくと月明かりの生活
akari.jpg今夜の第5グループの停電は、予定は18:20から22:00まででした。
ろうそくの灯りで食事をするのも、何か惨めな思いもあるので、6時前に夕食を終えるようにしました。
実際に停電が開始されたのは18:50で、電気が戻ったのは20:30でした。この間の灯りはろうそく一本です。
この灯りを見つめながら私はカミサンに、ランプ生活と月明かりの話をしました。
青春時代の一時期を南米アルゼンチンで過ごした私は、わずかな間ですがランプの生活をした事があります。
1970年代 初頭、南米のパリとよばれる大都会ブエノスアイレスから30KM程度離れた場所でも、まだ電気が通じていない場所が 有ったのです。
そんな場所では、月の明るさはひとつの大きな光源になります。
満月の夜、歩くときにはまるで日中のような明るさを感じる時もありました。

明日から10日間ほどカンボジアに行きます。
1992年に訪れてからほぼ10年おきに行き、今回で3度目です。1992年の時はPKO部隊と一緒で、シェムリアップは真っ暗でした。 2003年の時は、復興が盛んになり、観光客も増えてきており、夜明けの月灯りと、バイクが連なり灯す光が印象的でした。
さて、2011年、シェムリアップの灯りはどんなでしょうか?
今、日本がこんな時に離れてカンボジアに行く・・・不謹慎?かな
posted by 西沢 at 08:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会

2018年03月10日

70才にして、最後の引っ越しをするの?終の棲家を模索する

高校まで信州で育ち、冬の曇天と雪の季節、テレビのニュースでは東京の晴天の空が映し出される度に、 信州の山の向こう、碓氷峠の先にある関東平野に憧れ続けていました。
結婚して二人で一緒に住んだのは、上野池之端と世田谷区、そして30代で買ったのは横浜の新駅駅前の 大規模開発マンションでした。
ここに退職までの20数年住み、退職後は海外に住む予定でした。
退職後、海外ロングステイと云う選択をしたものの、二十代前半を仕事で海外に住んだ経験から、老後、最終的には 日本が一番と、冬の気候が一番安定しており、地震以外の気候的災害が少ない神奈川・静岡周辺に終の棲家を 二人で一年間探しつづけて、落ち着いたのが、現在の住まい鎌倉です。
子供がいない夫婦の退職後の終の棲家探しの条件はと云うと
・JR駅から平坦な道で徒歩10分圏内
・庶民的な商店街や大型スーパーがあること
・徒歩圏内に地域基幹大型病院があること
・自宅周辺に大きな公園・自然林・緑地があること
・二車線以上の公道に面し、マンション隣接地に空き地がないこと

jitaku.jpg予算的に少しオーバーしましたが、探し当てたのが現在の住まいです。
自宅裏の丘陵地は、神奈川県で有数の進学校やキリスト教系の女子高があります。
この坂道を10分、登っ行くと大きな戸建て、いわゆる○○台と呼ばれる大手デベローパーが開発分譲した住宅街があります。
この大規模戸建て地域の高台の公園から、冬の晴れた日には、綺麗な富士山が見えます。
越して来た頃、散歩でこの富士山を眺めた時は感激しました。
終の棲家の理想・・・と云うと自宅から海が眺められる、と云う条件もありますが、 実際にそのようなお宅にお住まいの 友人のお話では、
「そう思ってここに家を建てたけど、毎日坂道の上り下り、 海からの潮風で大変、朝起きた時にみる海は素敵だけど 、夜はただ真っ暗、花火が自宅の庭から見えるけど、それも一年に一度だけのことだし、 テレビのドリームハウスって若い時だけ。何よりも齢とってきたら日常生活の利便性、お買い物が大変、 海か富士山かの二者選択なら、富士山ね。」

と云っています。
でも、ここまではこの終の棲家で良いけれど・・・・
子供のいない夫婦に介護や医療が 必要になってきたら、再び終の棲家の条件が変わってくるのは、必須です。
特に、最近独身の兄の終末医療の問題が発生し、実際に病院への送り迎え、入院の保証人、介護保険の手続きなどでをしているのは、 市内に住む、姉と次兄です。
カミサンが心配するのは、では私たちが医療・介護が必要になった時はどうなるの?です。
頼りになる子供はいません。
私の兄弟は遠く離れた信州ですし、同じような世代、遠く離れた弟よりも自分の家族の医療・介護問題 を抱えているでしょう。
カミサンの実家は北関東で自宅から電車で二時間半、そこからまた車で30分です。
一番近いカミサンの長姉むは埼玉です。
長姉は夫をクモ膜下出血で40代で亡くし、二人の甥っ子を育ててきました。
現在、この独身の甥っ子と一緒に戸建てに住んでいます。
頼れるかどうか解りませんが、今の状態なら、私たち夫婦が動けなくなった時のヘルプを求められるのはこの埼玉の甥っ子二人 だけでしょう。
そこで私たち二人の間で、終の棲家探しの検討に入っています。
現在の鎌倉の自宅を売って、長姉の家の近くに現在のような80平米オーバーの広い間取りは必要なく、二人暮らしでちょうど良い 中古2LDKのマンションを買う。
現在のマンションの値段と中古の差額、引っ越し費用や売買手数料を引いても、差額は最低1,500万は残り、現在の老後資金にプラス されて、甥っ子二人のヘルプへの報酬になるのではないか?と胸算用をしていたのですが・・・

実際にネット上で調べてみると、そんなに甘い状況ではなさそうです。
カミサンは、埼玉は嫌だから東京にして、姉さんと実家に電車で一本で行ける都内、 そう赤羽あたりにして、と云うので調べると
・2LDKタイプの中古マンションは少なく、駅から遠い郊外形がほとんど
・30年以上経った中古マンションでも、3000万近くする。
・駅に近く、買い物が便利、病院にも近いマンションは1LDKと狭いマンションばかり

とても、売却益は1,000万でるか、でないか?の現況です。
どうやら、都内は東京オリンピックが終わるまで静観する必要がありそうです。
では、鎌倉のマンションを売って、そのまま現金で持ち、賃貸は?と考えてみました。
しかし、民間の場合、高齢者夫婦の賃貸条件は厳しく、二年毎の更新は大きなリスクです。
では、公団URの高齢者向け住宅はどうか・・・・
ネット上で調べた範囲では、URの空き室は意外に少なく、 それも駅からバスで20分と云う物件ばかりです。
頭の中だけで考えていた、私たちの老後の住まいの厳しい現実を知りました。

ではどうするか・・・
結論は日本人お得意の「問題の先送り」です。
私が72才を迎え年、東京オリンピックが終わった後、ゆっくりと行動を起こそう。
それまでは、ここ鎌倉で元気に過ごさなくては
posted by 西沢 at 08:39| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2018年03月09日

退職後の夢の実現、南米一人旅の投稿がありました。

私が15年前、55才で退職した時にこれからの自分の退職後の人生を記録しようと、ホームページ立ち上げました。
テーマは定年退職後の海外ロングステイと団塊世代のこれから定年後の過ごし方です。
http://www.tt.em-net.ne.jp/~soy7686/index.html

暫くは、退職直後の海外ロングステイのレポートや、退職後の生活について書いていましたが、やがて団塊世代の退職がマスメディアで取り上げられるようになると、年間100万以上のアクセスサイトになり、そのなかで多くのサイト訪問者から、同じ思い、経験を共有する掲示板の設置を要望され、「みんなの掲示板」http://wwweb.sakura.ne.jp/bbs/yybbs.cgi を造りました。
掲示板の書き込みは、日に5〜10人と少ないものの、実際にページを見ている方は、1500人ほどになっています。

一昨日、3月7日、この掲示板にハンドルネーム「Taibun」さんの投稿がありました。

久しぶりにお邪魔します。
手の洞窟が無性に見たくなり、2月1日から20日までイースター島、パタゴニア(マーブルカテドラル・手の洞窟)、
イグアスの滝を観光してきました。
私にとりましては、最初で最後の南米旅行、最長・最遠の旅行です。
長いですが、家マークをクリックして写真だけでも(特に余り知られていないパタゴニア)見てもらえると嬉しいです。



map2.jpgこの投稿のハウスマークがリンクになっており、「Taibun」さんの旅行記サイトに繋がります。
この長文の旅行記を読むと、退職後の夢をかなえようとする定年年金シニア男性の思い、努力、調査、挫けそうになる思い、現地でのアジア人に対する人種差別的なものなど、一般的なシニアの団体旅行、行ってきました的な旅行記と違うことが解ります。
写真・画像を中心としているので、読みやすいでしょう。
しかし、20日間の長旅ですからゆっくりと二三日かけて読んでください。
posted by 西沢 at 08:48| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ