日本のメディアは連日、日産のカルロスゴーン氏の報道に溢れているなか、私は「ティファナ」に注視している。
昔、70年代前半、カリフォルニアのサンディエゴの友人を訪ねた時、メキシコ国境のティフナに一緒に行こうと誘ったが彼は、一緒に行けないと云った。
理由は、その時の彼の滞在ビザは、留学生ビザが切れる直前で、働いている会社に労働ビザの申請をしている最中であった余計なリスクを負いたくない、と云うのだ。
私は、その時は90日の観光ビザだったのだが、「無理をするな」と云われました。
70年代前半と云えば、アメリカはベトナム戦争がまだ終わってない時代です。
1964年に公民権法が施行されたとは云え、1968年にキング牧師が暗殺され、日本人はまだアメリカでは、黄色人種、アジア人と見なされていた時代でした。
当時、アメリカに正式ビザで滞在していた日本人でも、いつ何時滞在証明が出来るように、パスポートを携行して時代なのです。ですから、敢えて面倒を起こしそうな国境の町には近づかないのです。
時代は90年代に入り、経済大国となった日本国民は「赤いパスポート」で、ほとんどの国をノービザで旅行出来るようになった時代、私たち夫婦は、世界中を旅するようになりました。
アジア人のなかの特権「赤いパスポート」は何処でも通用すると思っていました。
ある時、中米旅行の帰り、ロサンゼルスの入管でストップされました。
英語よりも、スペイン語の達者の私は、入国管理官の質問に流暢なスペイン語で答えたのが原因のようです。
すると、入国管理官は私のパスポートの履歴を調べだしました。
乗って来た飛行機は、エルサルバドル発グァテマラ経由ロサンゼルス行だったのです。
確かに、この便には一般観光客風よりも、一般中南米ラテンの乗客が多く、移民便とも呼ばれているようです。
「アメリカの入国目的は?」
「日本に帰る乗り継ぎのため」
「今晩のホテルは」
「空港ターミナルのシヒルトンェラトン」
「日本への帰りのチケットは?」
「あれ、カミサンが持っているはず」
その時、カミサンは私より先に入管を通過していたのです。
慌てて、カミサンを探しましたが、ゲートを通過してその先まで行っていて、見当たらないのです。私は、そのまま別室に連れていかれました。
パスポートの入国スタンプにはここ数年行った国が沢山押されています。
キューバ・ベネズェラ・ボリビア・ホンジュラス・ニカラグアそしてイラン、パキスタン、旧ソ連等々。いちいち、何をしに行った、その旅行代金はどこから工面した、日本での職業は?と聞かれるのです。
私は、先ずうちのカミサンを探して連れて来てくれ、と頼むのですが・・・?
帰りのチケットだけでは信用しないと云うのです。
理由を聞くと、最近アメリカ国内に不法滞在するアジア人が急増している。
極東からアメリカ経由中米行の通過チケットで入国して、そのまま不法滞在いる手口が横行している、と云うのです。
私は、今夜のヒルトンのリザベーションコピーがあることを、係官に伝え、電話で確認してくれ、と伝えました。
係官は、笑って「通過偽装でヒルトンに泊まる人間はまずいない、念のために確認してみる」と確認して、ようやく解放されました。ここまで1時間。カミサンはゲート先で半べそかいて待っていました。これいらい、私たちは南米へ行くには絶対にアメリカ経由便を使っていません。
カナダ便或いは、ヨーロッパ廻りにしています。
日本人はアメリカにビザなしで90日滞在出来ます。
よく、TVの旅行番組でハワイに住んでいます。ニューヨークに住んでいますと云う方がいますが、何時も不思議に思うのはこの方たちはどんなビザを持っているのでしょう?
ノービザは一回の滞在で90日です。それでは一度メキシコ国境のティフナに出て、再入国を繰り返せば、ずっとアメリカで暮らせるか?と思う方がいると思いますが、ノービザでの再入国はあいだ90日が必要になります。
退職シニアの間で、年に数か月のハワイ・ホノルル滞在を夢見ている方が沢山いらつしゃいます。ノービザでは3か月過ごしたら一度帰国し、3ヵ月後、再度3ヵ月が原則となるのです。
かように、資金的・時間的に余裕のある日本人でさえも、アメリカに正規に住まうことは難しいのですから、経済的な理由が濃い、今回の難民キャラバンの行く末は難しいものになるでしょう。