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2019年02月16日

堺屋太一さんを悼む作家三田誠広追悼文に接して 団塊世代の仲間たちの豊かな青春、惨めな老後

三田誠広氏は1948年生まれ、私たちと同じ団塊世代です。
芥川賞受賞作『僕って何』以来、「団塊世代の旗手」と称されることも多く、それに呼応するように「ニューファミリー世代」「団塊世代」としての家族のあり方をテーマに随筆・小説を多く手がけている。
しかし、同世代の作家ながら『僕の赤ちゃんたち』『トマトケチャップの青春』『パパは塾長さん』『息子の教育』『父親学入門』『ぼくのリビングルーム』など、家族の関わりの中でも子育て・教育に関する著作が多いのですが、子供のいない私は一度もよんだことはありません。

dan01.jpg同じ時代を過ごしてきた作家としては、ひと世代違うが「五木寛之」氏のほうが圧倒的に身近に感じていました。
そして五木寛之氏につながる、同じ団塊世代の作家沢木耕太郎(1947年11月)は私と同学年です。
彼が世に出るきっかけとなつた「深夜特急」(1985出版)の本の中では具体的には触れられていないが、1970年代前半の旅のようです。

この頃、同じ団塊世代の一握りの若者は、五木さんたちがシベリア鉄道で西に向かったのに対して、何とか私たちにも手が届くようになってきた、団体旅行用航空券のばら売りでアジアを目指すようになっていました。
このなかに、HIS創業者の澤田秀雄氏もいました。
1951年生まれですから広い意味では団塊世代に近いのです。
彼は帰国後、この時の旅の経験から、当時胡散臭い、違法ギリギリと云われていた航空券を格安航空券として、世にだした最大の功労者です。

dan02.jpg沢木耕太郎氏や、澤田秀雄氏らが、シルクロードから中東を旅していた頃、私は南米にいました。
当時、アメリカに観光ビザで入り、ギリギリまで大都市でアルバイトをして滞在し、貯めたドルを片手に、南米を旅する若者が多く、南米一の欧米的文化生活が出来る大都会ブエノスアイレスに集まっていました。

その若者と交流しながらの会話は「何時日本に戻るか」でした。
70年代半ばの日本は、高度成長安定期に入りつつあり、団塊世代の私たちも20代半ばに差しかかろうとしていました。

そろそろ青春謳歌の放浪から、真っ当な社会人として生きていかねばならないと思い始めていた頃です。
この70年代半ばの時代は、今の日本と違ってまだ、一度ドロップアウトした若者でも再び社会の本流が受け入れてくれた時代だったのです。

dan03.jpgこの後のもっと自由に若者が海外、特にアジアに出かけるようになってくる時代、日本の経済、社会の年金制度が確立されてくると、アジアで奔放に自由を謳歌していた、バックパッカーにも不安がよぎるようになりました。
有名な落書きが書かれた時代です。
バックパッカーが集まるバンコクカオサンの安ホテルの書かれた落書き「豊かな青春、惨めな老後」この頃から、一度社会経済の本流から外れると、なかなか戻ることが難しい日本になっていったのです。
とどめが、小泉政権時の労働者派遣法改正です。
若者の海外離れが進んでいる理由は、団塊世代おじさんには良く解ります。

三田誠広氏の堺屋太一さんへの追悼文を読んでいて、話はかなり脇道にそれました。
このなかで、一番目を引いたのが、次の文章です。

「団塊の世代」と名付けた堺屋氏は、執筆当時資源関係の部署だった為、例えば海底資源の「マンガン団塊」等と云う言葉と親しんでおられた。人間の塊も同じように表現されたと伺って、確かに団塊の世代が働き盛りだった頃は、巨大な労働資源であり、リタイヤすると巨大な廃棄物となってしまうのだと、妙に納得した覚えがある。


堺屋太一さんは、やはり貴方は官界出身者なんですね。
団塊世代は国の資源であった、そしてこれからは巨大な産業廃棄物、お荷物になるのでしょうか。?

posted by 西沢 at 08:30| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ
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