ロシアとの時差(モスクワ時間)は6時間 試合開始が夕方17:00の時日本は23時です。
今回の3試合の場合
第一戦6月19日コロンビアは現地時間、昼の15時、日本時間21時
第二戦6月24日セネガルは現地時間、夕方の18時、日本時間24時
第三戦6月28日ポーランドは現地時間、夕方の17時、日本時間23時
毎日が日曜日の身分ですので、仕事のことを気にせずに全て観戦できるのですが、今回の場合、辛うじて起きていられる時間帯なのが、ラッキーです。
これが深夜の2時3時だと目覚ましをかけて一旦寝てなくてはならず、翌日は中途半端な時間になってしまいますし、明け方4時5時の試合中継よりは、だいぶ体は楽なので楽しみにしています。
何時からサッカーワールドカップを見るようになったのか
思い起こすと、自分の人生とワールドカップはシンクロしており、振り返るとあの時は、どこの開催国だったのかと常に一緒にシンクロして思い出しています。
以下がサッカーワールドカップ これまでの歴史と開催国・優勝チーム・出場国数と日本です。
開催国 出場国 優勝
1930 ウルグアイ 13ケ国 ウルグアイ時
1934 イタリア 16ケ国 イタリア
1938 フランス 15ケ国 イタリア2
世界大戦で二大会中止
1950 ブラジル 12ケ国 ウルグアイ2
1954 スイス 16ケ国 西ドイツ
1958 スェーデン 16ケ国 ブラジル
1962 チリ 16ケ国 ブラジル2
1966 イングランド 16ケ国 イングランド
1970 メキシコ 16ケ国 ブラジル3
1974 西ドイツ 16ケ国 西ドイツ2
1978 アルゼンチン 16ケ国 アルゼンチン
1982 スペイン 24ケ国 イタリア3
1986 メキシコ 24ケ国 アルゼンチン2
1990 イタリア 24ケ国 西ドイツ3
1994 アメリカ 24ケ国 ブラジル4
1998 フランス 32ケ国 フランス 日本初参加
2002 日・韓 32ケ国 ブラジル5
2006 ドイツ 32ケ国 イタリア4
2010 南アフリカ 32ケ国 スペイン
2014 ブラジル 32ケ国 ドイツ4
2018 ロシア 32ケ国 ?
2022 カタール 32ケ国 ?
2026 北米三国共催 48ケ国 ?
私の人生に大きな影響を与え、人生のターニングポイントとなったのは、1974 西ドイツ大会でした。
当時の日本ではサッカーワールドカップはほんの一部マニアだけが盛り上がっていたのですが、当時住んでいたのはサッカーが国技の南米、その中でも強豪のアルゼンチンでした。
ブエノスアイレスで働いていた当時、フットボールにはさほど興味はありませんでしたが、仕事が終わった後や土日にスポーツを楽しむ為に、市内各地区にあるスポーツクラブに行くようになりました。
日本のように、スポーツが学校や企業が主体となるのではなく、南米・西欧では地元、地域がクラブ形式で行っています。フットボールはそのクラブのスポーツの一部でプロ化し、クラブ全体の経営を支えているのです。
現在のサッカーJリーグが目標としている組織形態です。
1974年当時私が、週末通っていたプールを所有するクラブのフットボールは、全国制覇をし、西ドイツワールドカップのアルゼンチン代表メンバーのほとんどと、代表監督は、私のクラブチームメンバーでした。
本大会が行われるミュンヘンにみんなで応援に行こう、クラブ会員特別割引、と云う格安ツァーが組まれることになり誘われました。
その時、既に次回1978年ワールドカップはアルゼンチン開催と決まっていました。
私はブエノスアイレスに暮らすようになって6年目です。
そろそろ、この先の生き方、仕事の方向を模索している時期、あるニュースが飛び込んできました。4年後の1978年ワールドカップを機に、テレビのカラー放送を開始する、というのです。
当時、アルゼンチンはまだ白黒でした。
1964年の東京オリンピックを機に、日本がカラー化したのに遅れること14年。
このニュースを聞いて、日本が白黒からカラー化した時、まだ高校生だった私のしらない所でどんなビジネスチャンスがあったのだろうか?、今後アルゼンチンではどんな技術が求められるだろうか?そろそろ一度日本に帰っても良いのでは、と考え始めていました。
結局、仲間とドイツに行き、オランダのクライフ率いるトータルフットボールの前に惨敗し、私はそのままアルゼンチンには戻らず、ユーラシア大陸を東に向かって帰国したのです。
次の1978年のアルゼンチンに私はブエノスアイレスにいるはずでした。
実際には、アルゼンチンの初戦は、軽井沢で行われた結婚式の当日の夜、カミサンをほっておいて、ホテルのテレビをみていました。
次の思い出人生のターニングポイントとワールドカップはづっと後の1998年フランス大会です。
日本が初めての出場をかけて戦った、ジョホールバルのイラン戦は、3か月長期入院中、病院のホールで見ていました。
1997年、ウズベキスタンの旅行から帰ってきて数週間後、黄疸症状が発生し緊急入院し検査したところ、A型肝炎と判明し3週間のベット安静、その後の検査でC型肝炎も発覚し、どうせ3週間休むも、3か月休むもリスクは同じと判断し、徹底的にC型ウィルス除去・撲滅に取りくんでいる最中でした。
現在ではC型肝炎治療は投薬でも可能になっていますが当時は「毒を持って毒を制す」と云うインターフェロン療法、抗がん剤のような副作用が2ケ月以上続く、キツイものでした。
しかし、それでもウズベキスタンの市場でのA型肝炎がなかったら、定年後までC型肝炎を知らずにきて、今頃、肝臓がん、肝硬変になっていた可能性は大でしょう。
次の思い出・人生のターニングポイントとサッカーワールドカップは2002年、日韓大会です。
2002年日本と韓国でワールドカップが開催されていた頃、北朝鮮では対抗して、ピョンヤンでは、大マスゲーム「アリラン祭」を開催していました。
旅行会社の友人と二人で、サッカーよりも北朝鮮、行ける時に行かないと何時鎖国状態になるやもしれないと3泊4日で28万円と高額なのを承知でいきました。
帰国したのは、日韓大会の決勝戦が行われる日でした。
空港から新潟駅へ向かうタクシーのなかで、朝鮮半島黄海で南北朝の舟艇の間で銃撃戦と云うニュースが流れていました。振り返るとちょうど私たちが板門店にいた時間帯でした。
自分の人生の出来事と、世界的なスポーツの祭典を結び付けて思い出すと云う手法は良くある手です。今回のロシア大会、後から振り返って何を思い出すのでしょう。
一つ、確実なのは、今回の予選突破がかかった第三戦ポーランド戦は自宅のTVではなく、稚内のホテルで見ることになることです。
計算外でした。
NHKの地上波だったら確実に見えるのでしょうが、BSだと稚内のホテル映らないなんて事は無いことを祈ってます。
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