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2018年03月13日

財務官僚の自死 死ぬな、逃げろ、恥かも知れないが役に立つ

新聞紙面には森本問題でやはりと云うか、案の定、政治の圧力・忖度をしめす公式文書の存在が明らかになってきています。きっかけは、公表されていませんが・・・、推測ですが・・・、この森本文書に関係していたある財務省理財局事務官であろうと云われています。

何で死ぬのよ、辞めればいいじゃないか、逃げればいいじゃないか、ちゃぶ台をひっくり返してやればいいじゃないか、逃げるは恥ではないんだよ。生き延びるんだよ。

最近、過労による自死がマスコミで報じられています。電通をはじめとする大手企業の名があがっています。
実は、企業内の自死、自殺は私の現役時代には身近にもっとあったと思います。
今のように、マスメディアが報じないだけで、私の居た建設関連企業には沢山ありました。
私も、追い詰められた時期がありました。私の場合、逃げました。

ビル建設も、システム開発もそうですが、大きくなればなるほど、仕事の分野は細分化され、
高度な知識、経験が必要された個人に集約されていきます。
そして、その小さなパーツ、部門の瑕疵、遅れが全体に及ぼす影響は多大になります。
私は、バブル時代に巨大ビル建設に関わってきました、その間何人もの自死、ノイローゼ、出社拒否などを見て来ており、なんでそこまで追い込まれるのか理解できませんでした。
逃げればいいじゃないか?、辞めればいいじゃないか?放り投げればいいじゃないか?と

私にもその時がやってきました。
1995年、バブルは弾け、日本経済は下降線をたどり始めた頃、建設業界への影響はまだ及んでいませんでした。
バブル時代に受注した残工事物件が数年先まで手付かずに残っていました。
横浜では93年ピークのみなとみらい地区のビル群に携わっていた頃、近隣の新築の大手本社ビルと大型ホテルの工事担当者を決める会議で、忙しすぎて何処からも担当者を決めることが出来ず、とりあえず出席した課長・部長クラスが着工までのつなぎ役とし、その後正式担当者に引き継ぐと云う、良くあるケースの一時しのぎになりました。

私たちが建設工事で担当する部署は、そのビル全体を監視・制御するシステムとハード造り工事ですから、客先はゼネコン、設計事務所、サブコン、メカコン、発注先と多岐に渡ります。
この現場の最初にキックオフミーティングで嫌な感じしました。
ゼネコンの最高責任者が挨拶で、
「西日本から工事単価の崩壊が始まっている」
「見積もりをし直す」
「現場は戦場だ」
「この現場から打ち合わせ書類は全て電子化する」
その後、Y社(当社です)の担当者と打ち合わせしたいと云いました。
その後、現場書類のデーター渡しにあたって、パソコンを20台現場に持ってこい、と云われました。早速、営業から見積もりをださせます、と答えると「そんなもの現場経費で落とせ、天下のY社が云う事か」と云うのです。
営業に伝えると、「仕方ないかな、相手がゼネコンO社で喧嘩出来ないし、工事に引き継いだんだら、そっちで何とかしてよ」です。まあこの程度は何とかなるので納品したのですが、このゼネコン所長には不信感をいだきました。

工事は始まって数か月、再びこの所長に呼び出されました。
ビル全体のシステムを統括するメインを私のY社から、N社に変更する、現在O社はN社の工場建設をしているので、バーターとなった、これは本社決定である、しかし、N社は工事が出来ないので、端末工事はこのまま、Y社、お前の所でやれ」と云うのです。
これには頭にきました。美味しいところだけ持って行かれいると、この時点で数億の赤字になります。それを云うと「追加工事や、乙工事で何とかなるだろう」と云うのです。
本社に戻って、「この現場は降りましょう、とてもあのO社の仕事は出来ません」と云うと、「天下のゼネコン相手に途中で降りることは出来ない、これまでそんな事をしたことはない、現場で何とかしろ」です。
「会社が降りれないのなら、私が降ります、辞めます」と宣言しました。
とても、この先2年間この所長の下でこの現場をまとめる自信がありませんでした。

私はその時48才、自宅に戻りカミサンに
「会社を辞める、このままでは自滅しそうだから」と云うと。
「ではどうするの?」とカミサン「
「早めに退職して、念願だった世界一周の旅に出る」
「取り合えず、コスタリカあたりでゲストハウスの需要や価格を調べに行く」
「そう、良いじゃない、私も辞めて一緒に行くは」となりました。

社内は大騒動で、あらゆる部署から説得の手が伸びてきました。
しかし、その都度、コスタリカ行きのチケットを見せて本気であることを伝えました。
まだ、団塊世代は働き盛りの48才、老後の生活とか、退職後の海外ロングステイなぞ、巷では話題になっていなかった頃です。
「お前は逃げるのか」
「敵前逃亡だ」
「この先、何かあったら逃げる人生になる」
「残された同僚、会社の事を考えてみろ」等々

その後のお話
3ヵ月後、コスタリカから戻り、元会社に退職手続きにいくと
「N君、君は辞めたことになっていない、いなかった3ヵ月の給与は振り込んである」
「しかし、このままの地位と部署でいると社内的に不味いので、ゼネコンS社に出向してくれ」
話を聞くと、私がO社と大喧嘩した話は業界に広まり、前々から知り合いだったゼネコンS社の耳に入り、Nを辞めさすな、うちによこせと拾ってくれたようです。
当時はまだ必要とされていたようで、時代がこのようなわがままを救ってくれたようです。
結局、退職予定資金が貯まる55才、2003年までS社のお世話になり、円満退職に至りました。
この時、誰も引き留めませんでしたし、退職の送別会は現場のみでした。

時代が良かったのかも知れませんが、生きていれば何とかなります。
絶望的な状況であっても、死んでは行けません。逃げて下さい。
posted by 西沢 at 09:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会
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