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2019年02月22日

都市伝説 禿げ頭の共通項は成人式に出席していない 本当か?

今週のバラエティ番組をみていたら、禿げ頭の芸人「小峠」と日テレのディレクター「コマツバラ」の二人が朝まで梯子酒とうたった町で飲み明かす番組をやっていました。
この二人は、年の割に頭は禿げていると云うよりも、スキンヘッド、剃り上げてピカピカに光っています。
mg51.jpgある飲み屋の席で、同じく若禿げの呑兵衛がいて、彼も禿げていました。
ちょうどその日は、成人式の日で、呑兵衛は「俺は成人式にでていない」と云うと、「小峠」も「コマツバラ」も、俺もでていないと云います。

三人の共通項は、成人式に出ていない+禿げ頭。
これは、神様さまだか、仏様だかが、成人式に出席しなかった若者への罰として、禿げ頭にしたのではないか説が酒の肴として盛り上がり、「小峠」は芸人の後輩の「安田大サーカス」の芸人「クロチャン」に電話します。
「クロチャンも成人式にでていなかったら、四人100%の確率で都市伝説となる」
果たして、クロチャンから返事は・・・彼も成人式に出ていなかった。

ここで我が家のカミサンは、私に振ってきました。
「○○○くん(古稀を迎えた私は未だ、こう呼ばれているのです)も成人式に出ていないでしょう」
なんてタイミングこんな質問をするのか?
全くデリカシーの欠片もない、女だ!

mg52.jpg確かに、私は成人式に出ていません
だって20才の時に故郷はおろか、日本にもいなかったのですから。
そう、私の家系は父方も母方もかなりの高い確率で、髪の毛が薄いか、禿げています。
父親はそうでもなかったのですが、双子の兄の一人と、私は30代後半あたりから、将来の姿が想像できる状態でした。
双子の兄のもう一人は、父親似でしたらそうでもないのですが、兄の子供の甥っ子二人は、私や亡くなったもう一人の双子の兄とそっくりです。否や、それ以上の若禿げと云うより・・・もうすぐ40才なのに、TV番組で禿げをいじる、バーコード頭そのものなのです。


我が家の洗面所には、団塊世代の皆様には懐かしいものが2つあります。
整髪料「バイタリス」
ヘアートニック「Mg5」
です。
バイタリスは1962年(昭和37年)発売です。
団塊世代は中学生から高校進学する時期真っただ中の青春、文字通り青い春の時代です。
Mg5はその翌年、1963年(昭和38年)発売です。
世の中アイビー全盛期、ケネディ大統領の髪型のように七三に分け、毎日鏡に向かってヘヤードライーを使いのが朝の日課でした。
いまだに、私はこの2つを使っています。

しかし、昔のよmg5.jpgうにへアートニックをビンから直接髪の毛に、地肌にふりかけられません。
刺激のあるへアートニックは、留まる毛が少なく、そのまま顔に流れ落ち、目に入ってしまうのです。バイタリスは手に取って、バーコード化した細い毛が風で逆立たないように、落ち着かせます。最後の仕上げは、もみあげの白髪スティック状のブラシで丁寧に黒く染める、これが朝の日課となっています。

20数年前、中曾根康弘首相のようにはなりたくない、ああまでバーコード状ならいっそうのこと、剃り上げればと思っていました。
今では、あの当時の中曽根さんよりも少なく、薄い状態です。


やはり小峠の云う都市伝説、成人式に出ていないからか?
本当の話、原因の一つは仕事柄25年、毎日ヘルメットをかぶっていたのが原因ではないか?
食事のせい、生活習慣のせい、ストレスのせい。
一番確実に云えるのは遺伝子、DNAなんでしょう。

となると、昨年ガン、ステージ4で72才で亡くなった、一番体形も頭の禿げ具合も似ている兄を思い浮かべています。来週は旅先で誕生日だ。
posted by 西沢 at 07:52| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年02月20日

古稀を過ぎ、あと何回、さくらを愛でることができるだろうか

sakura00.jpg今朝の新聞で伊豆河津桜が見ごろを迎えているようです。
2月半ばが過ぎ、春の足音が聞こえだすこの季節、新聞の折り込みに旅行会社からの広告に
さくらをテーマにした、バスツァーが目立つてきました。
65才、パスポートの更新時期に思い切って更新せずに、海外旅行卒業宣言をしてから、退職後の旅行は国内へとシフトしてきました。あれから年に10回、2泊3日、二人で10万円予算を基本とした旅のスタイルを6年間続けています。

私の旅の行先は美しい映像・ビデオとして残せる場所を最優先しています。
退職直後(55才の時)に先ず行ったのは津軽・弘前のさくら団体ツァーでした。
現役当時、都内のさくらは、通勤の車窓から眺めるもの、或いは現場周辺から歩いて行ける場所でした。
都内の人気の場所のほとんどは、現役時代の平日、或いは夜、現場の仲間と見ています。
千鳥ヶ淵、九段靖国神社、、六義園、目黒川、新宿御苑、ヒルズ桜坂、井の頭公園、浅草隅田公園、横浜大岡川などなど。
全て都内の現場事務所から地下鉄などで動ける範囲でした。
この頃、将来退職後、今のようにさくらを求めて旅するとは思ってもみませんでした。
さくらは毎年、身近で咲くものだったのです。

sakura01.jpg全国に桜の名所があると意識しだしたのは、55才で退職しようと考えだした頃です。
南北に長い日本列島、東京、関東のさくらは、その気になれば行けるのですが、地方となると、距離の問題よりもさくらの開花、満開時期は4月から5月にかけてです。
サラリーマン生活で一番休みが取れにくいのが4月であることは、勤め人なら誰も経験していることです。
新入社員が入り、新しい年度がスタートし、新規プロジェクトが始動する時期、デタラメ、身勝手、自己中心、出世は放棄していた私でも、この季節はなかなか休めませんでした。
ですから、退職直後の最初の旅は、東北のさくらツァーだったのです。

sakura02.jpgこの時は二泊三日「クラブツーリスモ」の団体パックでした。
海外は過去数度団体パックツァーに参加したことがありますが、国内旅行の団体パックはこの時が初めてでした。
私たち夫婦は50代前半、バス二台のツァー客は、その当時の私たちから見ると、六十代後半のお年寄りばかりでした。
東京からの青森さくら観光の拠点、八戸までの往復新幹線、後はひたすらバスで走るツァー、十和田湖・奥入瀬・乳頭温泉・黒石・弘前・角館と盛り沢山のツァーですが、角館も、十和田官庁街のさくらは散っており、弘前城が辛うじて八重さくらが咲き始めていた程度でした。
この時の毎日のバス移動で引き回され、疲れる団体行動の旅は、今後の退職後のリタイヤライフのなかでは絶対にしまい、すべて自分のペースで二人だけで動こうと決めました。

六十代半ばに、胆石発作を起こし、続けて鼠径ヘルニア手術を受けてから、生き方について再び考えるようになりました。
三十代後半に設計した退職後資金&ライフプランでは、その年としの日本人男性の平均寿命を自分の死亡年齢に置き換えていましたが、古稀を迎えると、来年はないかも知れないと、実感で悟るようになりました。
今年の桜は来年は見れないかもしれない、行ける時に行っておこう。
昨年は、実家の兄の運転する車で、昔の「クラブツーリスモ」の団体パックのリベンジを晴らした上、鶴の舞橋や岩木山山麓の新しい桜もじっくりと自分たちのペースで廻り、望んでいたような映像も撮れました。

sakura03.jpg今年の春の桜の目標は
1,幸手権現堂桜堤と菜の花(県営権現堂公園)/埼玉県
2,忍野八海 富士山と桜の風景/山梨県
3,高遠城址/長野県
関東の最低この三ヶ所をクリアしてから桜の咲き具合を見て、喜多方と函館五稜郭のさくらに行けたら、今年のさくらは見納めとなるでしょう。

来月、三月第二週目で、旅の足かせとなっているNPOセンターの担当講座が終わります。
以後五月までは、生活のベースはさくらツァーを最優先とする予定です。
と、思っていましたら今年は改元に絡んで、10連休があるようです。
この時期は何としても避けなくては。

来年は?
元気で、気力・体力・好奇心があったら「儲けもの」。
先ずは東京オリンピックをTV観戦なのかな。

タグ: さくら 古稀
posted by 西沢 at 08:34| Comment(1) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年02月18日

月に一度、横浜の日の出町、黄金町、福富町界隈に行く理由

首都圏、横浜地区にお住まいの男性の方はこの住所の意味することはご存知だと思います。
そして、定年退職した団塊世代のおっさん、まだそんなに元気なの?思うかもしれません。
この「日の出町、黄金町、福富町界隈」とは、都内ですと、新宿歌舞伎町や台東区、浅草裏手の千束が相当する、地域です。
退職して15年になりますが、月に一度出かけています。
理由は・・・後から書きますが。

fuku.jpg現役当時、仕事は建設業、それも大型現場の監督ですから仕事柄、職人さんの会社との付き合いが毎週のようにあります。
懇親会やら技術講習会やら安全講習やら何かと理由をつけて、一つのプロジェクトを最後までみんなで力を併せて竣工のまで事故なくやりましょう。的ないわゆる親睦・飲み会・憂さ晴らし会で、二次会から先、若い、元気な有志に誘われて、嫌々ながら?一緒に行き、汗を流し、タクシークーポン券で帰るような、特殊な風俗指定地域です。

地域にも格がありまして、関内から近い伊勢佐木町から遠くなるほど格がさがり、黄金町は、黒澤映画「天国と地獄」で場末のモデルとなった場所、10年前はかなり、外国人で荒れていた場所でした。

私が月に一度行く場所は中間の日の出町です。
誤解を招かないように書きますが、半分仕事の為です。
ご存知かと思いますが、風俗業界が一番ネット化、web化、スマホ化をいち早く取り入れた業界なのです。気軽に、家庭、事務所の電話では話しづらい内容を、携帯、パソコン、スマホで出来るようにしたのが、この業界です。

退職直後、専門学校に入り直して、web言語、プログラムを学びました。
専門学校で一緒に机を並べていたのは、超若い世代ばかり、そのなかで30代後半の若者が一番年が近く、何かと出来ない50代のおっさんの面倒を見てくれました。
彼は、元のweb会社を退職し、失業手当を早くもらうために受講しているだけで、講座の内容は全く必要なかったのです。
卒業と同時に新しいweb会社に勤めました。
その会社の主な客先が、横浜の風俗業界だったのです。

kogane.jpg卒業して1年後、彼が勤めていた会社から独立した時に、会う機会がありました。
仕事の内容を聞いて見ると、横浜の風俗店を専門にやっているようで、その中に、昔よく行ったお店がありました。
そんな、話をしてから数か月後、そのお店のページを手伝ってもらいたいと云う連絡がありました。彼が仕事でそのお店で雑談のなかで、私が現役時代よく接待で使ったと云う話をすると、店長が覚えていたそうで懐かしいので一度一緒にきてくれと・・・という話になり、その後忙しい友人からその店のメンテ、書換を月に一度頼まれるようになりました。
通常、ホームページの書き換え、メンテはオンラインで済ませるのですが、このお店の店長とは、昔ながら戦友的な意味合いもあり、月に一度、お掃除のおばさんたちと交じって、午前中の数時間お店の事務所でやっています。

風俗業界の平日午前、昼はシニア男性でもっている
ああいったお店には、待合室や入口にカメラがあります。
仕事をしながら見ていると、もう平日の午前中はお客さんは、圧倒的にシニア男性ばかりです。
どうみても私よりも年上のおじいさん、店長に聞くともう20年近く通っているとでか、脳梗塞の後遺症で歩きづらい男性もいますし、車椅子の若者、介護施設の送迎車でくる身障者の姿見ています。ここの女性たちは、天使の如く、優しく接してくれているのを私は良く知っています。

もうしばらく、少なくともあと数年は、このお店の裏から、シニア男性を眺め続けましょう。
posted by 西沢 at 08:11| Comment(1) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年02月16日

堺屋太一さんを悼む作家三田誠広追悼文に接して 団塊世代の仲間たちの豊かな青春、惨めな老後

三田誠広氏は1948年生まれ、私たちと同じ団塊世代です。
芥川賞受賞作『僕って何』以来、「団塊世代の旗手」と称されることも多く、それに呼応するように「ニューファミリー世代」「団塊世代」としての家族のあり方をテーマに随筆・小説を多く手がけている。
しかし、同世代の作家ながら『僕の赤ちゃんたち』『トマトケチャップの青春』『パパは塾長さん』『息子の教育』『父親学入門』『ぼくのリビングルーム』など、家族の関わりの中でも子育て・教育に関する著作が多いのですが、子供のいない私は一度もよんだことはありません。

dan01.jpg同じ時代を過ごしてきた作家としては、ひと世代違うが「五木寛之」氏のほうが圧倒的に身近に感じていました。
そして五木寛之氏につながる、同じ団塊世代の作家沢木耕太郎(1947年11月)は私と同学年です。
彼が世に出るきっかけとなつた「深夜特急」(1985出版)の本の中では具体的には触れられていないが、1970年代前半の旅のようです。

この頃、同じ団塊世代の一握りの若者は、五木さんたちがシベリア鉄道で西に向かったのに対して、何とか私たちにも手が届くようになってきた、団体旅行用航空券のばら売りでアジアを目指すようになっていました。
このなかに、HIS創業者の澤田秀雄氏もいました。
1951年生まれですから広い意味では団塊世代に近いのです。
彼は帰国後、この時の旅の経験から、当時胡散臭い、違法ギリギリと云われていた航空券を格安航空券として、世にだした最大の功労者です。

dan02.jpg沢木耕太郎氏や、澤田秀雄氏らが、シルクロードから中東を旅していた頃、私は南米にいました。
当時、アメリカに観光ビザで入り、ギリギリまで大都市でアルバイトをして滞在し、貯めたドルを片手に、南米を旅する若者が多く、南米一の欧米的文化生活が出来る大都会ブエノスアイレスに集まっていました。

その若者と交流しながらの会話は「何時日本に戻るか」でした。
70年代半ばの日本は、高度成長安定期に入りつつあり、団塊世代の私たちも20代半ばに差しかかろうとしていました。

そろそろ青春謳歌の放浪から、真っ当な社会人として生きていかねばならないと思い始めていた頃です。
この70年代半ばの時代は、今の日本と違ってまだ、一度ドロップアウトした若者でも再び社会の本流が受け入れてくれた時代だったのです。

dan03.jpgこの後のもっと自由に若者が海外、特にアジアに出かけるようになってくる時代、日本の経済、社会の年金制度が確立されてくると、アジアで奔放に自由を謳歌していた、バックパッカーにも不安がよぎるようになりました。
有名な落書きが書かれた時代です。
バックパッカーが集まるバンコクカオサンの安ホテルの書かれた落書き「豊かな青春、惨めな老後」この頃から、一度社会経済の本流から外れると、なかなか戻ることが難しい日本になっていったのです。
とどめが、小泉政権時の労働者派遣法改正です。
若者の海外離れが進んでいる理由は、団塊世代おじさんには良く解ります。

三田誠広氏の堺屋太一さんへの追悼文を読んでいて、話はかなり脇道にそれました。
このなかで、一番目を引いたのが、次の文章です。

「団塊の世代」と名付けた堺屋氏は、執筆当時資源関係の部署だった為、例えば海底資源の「マンガン団塊」等と云う言葉と親しんでおられた。人間の塊も同じように表現されたと伺って、確かに団塊の世代が働き盛りだった頃は、巨大な労働資源であり、リタイヤすると巨大な廃棄物となってしまうのだと、妙に納得した覚えがある。


堺屋太一さんは、やはり貴方は官界出身者なんですね。
団塊世代は国の資源であった、そしてこれからは巨大な産業廃棄物、お荷物になるのでしょうか。?

posted by 西沢 at 08:30| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年02月14日

リタイヤ年金シニアの沖縄の旅 その4 沖縄南部 戦跡と最大の聖地巡り

1月、沖縄の観光地に行くと、訪れている観光客の90%は外国人、特にアジアから観光客かと思うほど多い、とくに冬はの季節は、韓国、中国からの暖かさと青い海を求めて、初めての日本なのだが、東京・京都ではなく沖縄にくる若い世代が増えていると話でした。
確かに、那覇市内は勿論のこと、那覇からかなり遠い東側の本部半島の今帰仁城址にも、海外からの観光客の姿が目立つていました。

nanbo00.jpgしかし、ここ、糸満を中心とした南部では、全くアジア人観光客はゼロでした。
外国人が全くゼロではなく、欧米系の白人が一人が私たちと同じ路線バスに乗っており、降りる時も一緒だったので聞いて見ました。
「なんで、ここに来たの?、観光地でもないところに」と。
彼はアメリカ人で親戚に日系三世がいて、太平洋戦争の沖縄戦について聞かされていて、花をささげに来たと話していました。

レンターカーなしの沖縄南部への旅は苦労します。
今、沖縄の個人ツァーを検索すると、必ずレンタカーが込みの値段が書かれています。
確かに鉄道のない沖縄を旅するには、車のほうが便利ですが、何度もブログで書いていますように、私たち二人は
60才、57才で運転免許証の更新をしませんでした。
※蛇足、65才で海外旅行を卒業し、パスポートも更新しなかった為、写真付きの身分証明証は当初こまりましたが、今は、マイナンバーカードで代用しています。
鉄道がない分、沖縄はバス便が発達しています。
しかし、沖縄南部の戦跡やパワースポットへのバス便は非常に少なく、辛うじて繋がっている程度です。昔と違って、現代はどんな小さなバス会社の小さなバス停でもネット上に時刻表があるので助かります。

今回の旅では、南部の戦跡と、沖縄最大の聖地、聖場御嶽を一緒に1日で廻る予定でした。
しかし、平和祈念公園から聖場御嶽へは、バスは繋がっておらず、2日に分けていくことになりました。

ひめゆりの塔
nanbu03.jpg那覇バスターミナルは過去に三度何度きています。
昔ながらバスターミナルで、沖縄らしい雰囲気を残していたのが今回訪れた時、東京のバスタ新宿のような近代的のバスターミナルに生まれ変わっていました。
那覇からひめゆりの塔への直通バスはなく、一度糸満バスターミナルでの乗換が必要でした。
その便もバス会社が違い、ひめゆりの塔へ行くバス、琉球バス82番 玉泉洞駐車場行きは一時間に一本だけでした。
ここは、修学旅行では絶対必須の場所ですが、私たちが行った1月下旬は、修学旅行の生徒はおらず、レンタカーと那覇発沖縄南部一日観光ツァーのお客さんだけでした。
あの、現在の天皇陛下が皇太子時代に訪れて、火炎瓶が投げられた因縁の地ですが、今は静かに、日本の若者が入口で花束を買い、静かに同い年の女学生に想いをよせる場所となっていました。

平和祈念公園
nanbu01.jpgここも、修学旅行生必見の場所です。
団塊世代の私たちは、勿論生まれてはいませんが、内地、戦後生まれの日本人として、そして現代の沖縄が抱える米軍基地問題、辺野古キャンプ問題の原点となっている場所です。
どんなに短期間の沖縄の旅でも、ここへは一度は行かなくてはいけない場所です。
ここも、政治色はむかしよりも薄れ、綺麗な沖縄最南部の海が見渡せる公園となっていました。
帰りの糸満へ戻るバスは、やはり一時間に一本です。
ひめゆりの塔から来て、平和祈念公園で下りたのは、前述のアメリカ人青年と私たち二人だけでした。

nanbu02.jpg降りたバス停の先の木陰で、小柄な沖縄の「おばー」二人が座って話していました。
平和祈念公園からバス停に戻ってくると、この二人はまだ座って話していました。
私たち二人を見て、「おばー」が話しかけてきました。「今日は暑いね、どこから来たの?」的、他愛もない話です。TVなどの旅番組では、よくある地元の人たちとの会話・交流です。
団体ツアーやレンタカーでは絶対にない、個人自由旅行バス旅ならでは一瞬で、この沖縄の旅の中で一番心地よい時間でした。

聖場御嶽へ
聖場御嶽と云う名前は、35年前初めて沖縄に来た時に耳にしました。sefa01.jpg
耳にしたのは、この聖地の先にある、神の島「久高島」へ行った時です。
那覇の首里と聖場御嶽と久高島はほぼ一直線に繋がっている琉球王国最大の聖地、祈りの場なのです。久高島は35年前、仕事上のお付き合いの会社の社員旅行で来ました。
その時同室だった同年代の社員の方が鹿児島出身、薩摩の歴史に詳しく、フリー観光の日一般観光よりも是非、久高島に行きたいと一緒することにしました。
その当時の那覇バスターミナルは、本当に戦後まもない、沖縄の雰囲気が残っていました。
今でも、久高島に行く内地の観光客はほとんどいないのですが、35年前は全くの無名の存在でした。久高島へは今ではフェリーがありますが、当時は、1日2便の漁船兼物資運搬船だけでした。

sefa02.jpg久高島では、物を売るお店も、食堂も全くありませんでした。
内地からの二人の若者は「何をしに来たの」と云う顔で見られ、初めてここで聖場御嶽と云う名前を知りました。
ここで生まれた女性だけが神の言葉を受け継ぎ、祈りをささげられるということを知りました。
あれから35年、今回初めて、ようやくこの聖地にくることが出来ました。

ここは、近年、パワースポットとして知られるようになり、観光客用の施設も整備され、ひめゆりの塔や平和祈念堂で全く見かけなかったアジア系観光客の姿を多く見かけました。
祈りの場である三庫理(サングーイ)の巨大な岩の重なりの三角形が神秘的でねインスタ映えするのでしよう。しかし、その先の拝所のさきに見える、久高島の本来の意味も役割も、日本人も知らないことでしょう。

今回の沖縄四日間で、今まで行けなかった、今帰仁城址と聖場御嶽へ行くことが出来ました。
これまで、沖縄本島は5回、久米島、宮古島、へ行き、石垣を含む八重山諸島を訪れてきました。
後何回、行くことになるでしょう。
出来れば、民間人が自由に行ける最南端の波照間島、最西端の与那国島へは、マイレージが残っている間に行きたいと考えています。






posted by 西沢 at 08:08| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年02月12日

団塊の世代・平成時代の終焉、堺屋太一の死去

私たち昭和22年から23年(1947年〜49年)生まれの戦後ベビーブーマー世代の大きなひと塊の名付け親である作家「堺屋太一」が亡くなった83才。
善きにつけ悪しきにつけ、戦後の高度成長期から学園闘争、バブル時代の常に社会の鏡となる世代「団塊世代」の終わりを感じずにいられないニュースでした。

sakaiya.jpg堺屋太一さんが大阪万博を企画・牽引してきたことは、今回の逝去記事で知りました。
団塊世代にとって、日本経済のテイクオフを実感する大イベントであったのでしょうが、私は既に海外におり、その時代を知りません。その後のオイルショックも知りません。
「団塊の世代」と云う言葉を知ったのは、帰国した翌年の1976年の堺屋氏の小説以後でした。

団塊世代と敢えて名付けられなくても、私たちの世代は、小学校入学時から一クラス60名と云う大所帯で、他の学年とは違っていることは意識付けられていました。
中学校はマンモス校で、私たちの学年は16クラスもあったのです。
この頃から、担任の先生に、「君たちは戦後の大きな塊であることから、この先の高校受験、大学受験から社会に出ても、結婚、住宅、墓場まで競争社会を生き抜いていくことになる。」と云われたことを覚えています。

私は、この言葉を人一倍受け止めていました。
そんな、廻りの同じ世代と一生競争したくない、競争しなくても生きていける世界を子供ながら夢見ていました。
大学紛争のポッカっと空いたエポックの時、私は海外に逃げたのです。
競争しなくても生きていける場所を求めて、海外の会社に就職する道を。

dankai.jpg私が海外、南米で戦後ベビーブーマーとは無縁の南米で、競争社会に背を向けて青春を謳歌していた時、日本は大阪万博での盛り上がり、田中内閣の列島改造論、三島由紀夫の市谷割腹事件などを海外から眺めていました。
やがて、住んでいたアルゼンチン・ブエノスアイレスは、政治的混乱から経済の立ち遅れが目立ち始めて、一旦の帰国を決意して、戻って来たのは1975年の時でした。

高校・大学の同期生たちは、学園闘争を経て社会人として活躍していました。
日本に戻り、子供の頃怯えていた、日本の競争社会に入らざるを得ませんが、決意したのは、今更日本の経済社会の主流にはいるのではなく、サブでも良いから何か、特別な技能が生かせる業種で生きていこうと、考えました。
入ったのは電子専門学校です。まだ当時ソフトウェア・ハードウエア―の言葉の違いも解りませんでしたが、これからは電気でなく、電子の世界であること、これから先、ハードよりもソフトであることは、朧気ながら見えていました。

入ったのは、自動制御機器・システムで日本一の日米合弁会社の関連子会社の工事部門でした。
時代は、不動産バブルへと向かう前夜です。
学歴・学閥は関係なく、仕事は幾らでもあり、面白かったです。
給与はあれよあれよと云う間に、同じ年代を遥かに超えてきました。
子供の頃に怯えていた、同じ世代との競争は意識しませんでした。
自分は、今、日本経済のトップを走っている、給与も、生活環境も申し分のない生活を送っている。そう思っていました。

sakiya02.jpgそして、バブル崩壊
しかし、不動産バブルが崩壊しても、建設業界はバブル時契約した受注残が残っていました。
まだまだ、年に数度、夫婦で行ってみたい世界の秘境に行けるだけの余裕はありました。
その時に知り合った、アメリカに在住している日本人夫婦と知り合い、「日本の賃金体系は異常である」と告げられました。
こんな賃金体系が続くわけがない、と云われた時、崩壊直後のソビエトを旅して、目にしたのが、市場で靴下をぶら下げて売る大勢の年金生活者の姿でした。
そして、思い出したのが、ブエノスアイレス時代の年金支給日に銀行に並ぶ長蛇の老人たちの姿でした。
何時かは、日本もそんな時代が来る、団塊世代が一斉退職して、年金生活になる時代が来る、老人になっても、社会のひと塊の世代がお荷物になる時代が来る・・・そう思うようになりました。

自立しなくては
1996年、48才の時、これから先についてカミサンと話し合いました。
子供のいない夫婦、これから先の人生、生き方、老後について話し合いました。
子供の頃に考えた、団塊の世代と云うひとくくりから離れて、自分たちの生活をしよう。
退職目標を55才と決めて7年後に向けて再スタートを切りました。


2003年、夫婦ともに退職し、あれから16年経ちます。
当時、退職後再び専門学校に入り直し、習得したweb言語・技術でホームページを立ち上げてした時のメインテーマが、団塊世代の過ごし方と海外ロングステイです。
まだ、団塊世代の定年まで5年あり、団塊世代が将来の定年後の生活を模索し始めていた頃で、このサイトは多くの団塊世代からのアクセスがあり、大きく成長しました。

しかし、団塊世代・海外ロングステイの検索ワードは、死に語になりつつあります。
奇しくも、平成の世が終わり、団塊世代の名づけ親「堺屋太一」死がこの世を去った今、団塊世代は今、如何に綺麗に、家族に迷惑をかけずに、社会から消えていくことを考えているのです。
堺屋太一の死去、ある一つの時代のターニングポイントになるでしょう。
2019年2月10日を覚えておこう、関東に雪が降った寒い日だったと。




posted by 西沢 at 08:24| Comment(1) | TrackBack(0) | (カテゴリーなし)

2019年02月10日

今月、父が亡くなった年齢になる、そして来年は兄が亡くなった年齢になる

二月は如月です。
先日TVで如月の語源についてやっていました。

如月は、寒さで着物を更に重ねて着ることから、着更着(キサラギ)とする説が有力その他、気候が陽気になる季節で「気更来」、「息更行」とする説
草木が生え始める月で「生更木」とする説草木の芽が張り出す月で「草木張り月」が転じたとする説があるそうです。


二月は生命について、考えたり、何かを感じたりする月のようです。
私の父は、動脈瘤破裂で33年前、71才で亡くなりました。
私は、今月その父が亡くなった年になります。
父が亡くなる数年前、カミサンの実家の両親二人と、私の両親二人計4人を友人の会社のハワイ社員旅行枠にいれて、招待しました。
両親は初めての海外旅行と喜んで、お揃いのシャツを買って楽しみにしていたそうです。
しかし、出発する一週間前に、バイクで転倒し結局初めての父と母の海外旅行はキャンセルとなりました。
この時の父は65才、母60才でした。今の私たちよりもはるかに若かったのか!
そして、数年後相撲が好きだった父親を招待し、私たちの小さなアパートに泊まっていきました。母に、横浜崎陽軒のしゅうまいと、上野御徒町の昇龍の餃子を買っていくのが楽しみと云っていました。あの時の父親は逆算すると、67才です。

男は、常に父親が亡くなった年齢を意識するものです。
カミサンは、大正生まれの戦前・戦後の食糧難の時代を過ごして来た人と、今は違うのだから比べるのはおかしい。
と云いますが、人類の寿命がそう簡単に、100年ほどで飛躍的に伸びる訳がないと私は信じています。今年71才、来年2020は2度目のオリンピック、72才になる年が一つの節目であることは間違いありません。

kyatatu.jpg気力・体力・好奇心と云います
確実に体力が落ちてきています。
今週、築16年目を迎える我が集合住宅のキッチンの天井埋め込み蛍光灯がきれました。
もう、新築の鎌倉のマンションにきて16年になるのです。
16年も蛍光灯が保ったのが不思議なくらいです。
埋め込み式の電気器具を開けて、型番を調べて買いに行かなくてはなりません。
自分の部屋から、撮影用に使う高さ60センチの脚立をだしてきて、この器具を開けようとしました。しかし、数年前の大晦日の掃除で台所のレンジフード清掃をやった際に、頸椎を痛めてから、見上げたままの作業が辛い、出来ません。
また、たった60センチの脚立の上ですが立つと少し、身体が揺れたような、不安定な感じます。
見上げたままの姿勢は辛く、カミサンに代わってもらい、この器具の開け方を口で伝えるのですが、カミサンは上手く取り外しができないようで、私はイライラが増します。
やっと、外した蛍光管の型番の文字がこれまた、薄く、小さく読めません。
虫眼鏡と懐中電灯を探しに、押し入れにはいり、道具箱から探すのですが、鼠径ヘルニアの手術をしてから、屈むと云う姿勢、動作が極端に鈍くなってきています。
前まで、お年寄りが町の便利屋さんにお金を払って、蛍光灯の交換や、庭の雑草取りをお願いしているのを見て、その程度のことを何でひと様に頼むの?と思っていましたが、少しづづ解るようになってきています。

現役時代、大型建設プロジェクトの現場監督をしていました。
その頃、60才以上の職人さんに、現場での脚立作業を禁止の通達、高所作業車免許の取得命令をだしたことがあります。
「監督さん、60才で脚立作業禁止はひどいよ」と云われました。
「60才と云っても、サラリーマンと違って毎日身体をはって働いてきているのだから、一緒にしないでよ」とも。
私も全く同感で、同じ年齢でも個人差、それまでの鍛錬や過ごし方によつて違うと思っていました。しかし、老化は確実に平等にやってきます。
古稀、70才を境に体力は急激に落ちてきています。

いつも思い出すのは、
小津安二郎映画「東京物語」をリメイクした山田洋二監督「東京家族」で田舎で退職して、東京の息子の家に来た父親を演じていた「橋爪功」の年寄りの演技です。
役の想定年齢60代後半の役を演じているのですが、腰を屈めるのも、坂道を上がるのにも過剰な演技と思ってみていました。

しかし、今、古稀を過ぎ、自分の父親が亡くなった年齢に近づくと、あの映画の中の演技は、あれで良かったのだと思うようになって
います。年老いて、知ることは沢山あるのです。

posted by 西沢 at 09:03| Comment(1) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年02月08日

年金シニアの沖縄旅行その3 日本一早い桜まつり 今帰仁城址の桜まつり NHKの傍若無人な撮影態度は昔と変わらず 

oki-map.jpg沖縄のグスクとよばれるお城は、石垣の曲線が美しいのが特徴です。
身近なところでは、那覇の首里城でその美しい曲線美が見れます。
その石垣の曲線美と美しい沖縄の海を一緒に楽しめるのが、那覇市から比較的近い、(バスターミナルから90分)「うるま市」の勝連城址です。

そして、今回の今帰仁城址は、沖縄の最大の山城として有名なのと、日本一早い桜の地として有名です。
場所は、海洋博記念公園のある本部半島の先です。
美ら海水族館へ行く観光客は多いのですが、ここまで足を延ばすひとが少ない理由がレンタカー以外の足の便が悪いからです。
一時間に一本のバス停で下車して、30分ばかりの登りがあります。

naki01.jpgこの桜まつり期間限定で、最寄バス停と城址の間で無料シャトルバスが運航していました。
私たちは、60才を機会に運転免許を更新しなかったので、沖縄観光に必須のレンタカーは利用できず、ひたすら、路線バスです。
那覇から海洋博記念公園までは、那覇BT(バスターミナル、昨年12月大改修され綺麗になっています)或いは空港から高速バスがありますが、その先は路線バスしかないのです。
今回私たちは、那覇BTから今帰仁まで直通の「やんばる急行バス」で向かいました。
高速SAでの休憩を含めて2時間、1980円と結構遠いです。
※沖縄バス 定期観光Bコース 美ら海水族館と今帰仁城跡 
http://okinawabus.com/wp/bt/bt_regulartourism_b/
を利用すれば、簡単に行けます。但し、美ら海水族館入場料別で、5,500円です。


naki03.jpg日本一早い桜まつり
沖縄の桜は有名なソメイヨシノとは違い「カンヒザクラ(寒緋桜)」という品種です。
関東で一番早い桜祭りと云われている熱海の桜と同じです。
誰もがイメージするような淡い白色でわーっと花が咲くのではなく、濃いピンクのつり鐘状の花がかわいらしく咲きます。
「下向きに花を咲かせるので、のぞき込むように見上げると、写真もきれいに撮れますよ」と係の人の話でした。
私たちが行ったのは、桜まつりが始まった1月26日の4日後1月29日で、どちらかと云う3分咲きでしたが、なかにこのように大輪の花を咲かせている木もありました。
今帰仁城址の桜の見所は、ピンクの桜とエメラルドグリーンの海と、グスクの石垣が同時に見渡せる、お城の上の展望台でしょう

ちょうどこの日、展望台ではNHKの昼の番組の生中継が行われていました。
naki-suika2.jpg今帰仁は、このグスクと日本一早い桜とともに、日本一早いスイカの産地として有名なようで、産地の農協の方々や、遺跡案内ボランティアの人達が沢山早くから準備をしていました。
TV、特に昼間のNHKは見たこともないので、ここに登場するアナウンサー、リポーターがどの程度有名な方か知りません。そして遺跡を歩く、若い沖縄出身のリポーターが登場するのですが、私たち観光客はまるで邪魔者のように扱われます。
まるで映ってはいけないものと思っているようです。
何の挨拶も、説明もなく、どけどけ邪魔邪魔と云う態度は昔から変わりません。
1990年代初頭、日本の自衛隊が戦後初めてPKOとして派遣されたカンボジアのアンコールワットに行った時でした。
今のように、アンコールワットは一般的に、簡単に観光客が来る時代ではありませんでした。

私たちがアンコールワットに入ったお正月の朝、NHKはここから日本に向けて生中継をしました。
担当、責任者らしき人物が私たち夫婦を見つけて、びっくりしているのです。
何で一般日本人がこんな所にいるのだ、とも云う顔をしています、何の挨拶も説明もなく「そしてそこに立たないで下さい、日本への映像に写り込んでしまいます。」
と云います。こっちだって大枚叩いて、仕事を休んで、アンコールワットに一番乗りしてきているのだ、あんたらの都合で移動できない、と云ったものの、仕方なく生中継の時だけは移動するが、ビデオ撮影の時は協力しないと宣言しました。

今も昔も変わっていないようです。公共放送、国営放送と云う看板を背負ったNHKの態度は。
そして、タレントの取り巻きはもっと酷かったです。
事務所スタッフとマネージャらしき人物は、タレントの女の子が登場するすると、まわりの観光客に無言でカメラやスマホを構える観光客の前に立ちはだかり、無言で威圧的態度をとるのです。「申し訳ございませんが、写真はご遠慮願えませんか」と、何故言えないのか!
まるで「盗撮」しようとするのを阻止する態度なのです。

確かに、肖像権やら、ネット時代の拡散の問題があるでしようが、まだ駆け出しの名前も知らない、タレントなのに。廻りにいた観光客のオジサンが、聞こえないように云いました
「出川哲朗を見習え」と。
posted by 西沢 at 08:16| Comment(0) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年02月06日

朝日新聞「天声人語」の凄まじき伝播力 松田町のロウバイ祭りの集客力

2月4日(月曜日)の天声人語の記事の抜粋

丹沢の山々に抱かれた神奈川県松田町の寄(やどりぎ)地区では、いま、二万本ものロウ梅が咲き誇る。
13年前に、寄中学校の生徒が卒業記念に250株植えたのがはじまりだ。
「ろう梅は冬に咲く。他の花より断然早い。町おこしにならないか」と森林組合のメンバーが荒れ放題だった畑を再開墾し、毎年数百株づつ植えたして来た。
植林当日は卒業間際の小6や中3の生徒を招いた・・・
・・・・中略・・・・
訪れる人は増え丹沢の新しい観光地となった。
ロウバイ園誕生のきっかけとなった寄中学校は、今年度で閉鎖される。
「母校が消えるのはやはり寂しい、でも?梅の盛りには二万人が来てくれる、励みになります」と


matuda01.jpgこの季節、リタイヤシニアはあまりお金をかけずに、近場に日帰りで行こうと考えるのですが、寒いし、熱海や、曽我梅林はまだ早いし、河津桜ももう少し先、それに伊豆は遠い・・・と思っていた時に、天下の朝日新聞の天声人語の記事、それも子供たちが絡んだいわく付きの村おこしの話です。
これは行かなくては・・・と思ったのは勿論、私一人ではありません。
この月曜日は、南風が入り込み、関東平野部は軒並み、19℃、20℃ですから、電話かけて誘い合って火曜日に出かけたシニアグループはきっと沢山いたでしょう。

私も火曜日、前日からの天気予報と違って朝から曇天・寒空でしたが、毎週のバドミントンを休んで、ネットで行きかたを調べて自宅を出ました。
松田はJR御殿場線と、小田急小田原線・箱根線の新松田とあります。
私は、自宅最寄り駅か東海道、国府津で乗換、JR松田駅に10時半に降り立つました。
既に駅前は、富士急湘南バス「寄」行きをまつ人でいっぱいです。
ロウバイ祭り中はの土日は臨時バスを出すことは決まっていましたが、この火曜日の降って湧いたような観光客の多さにパス会社はびっくりしたようです。
待っている間に、バス会社の人に「昨日の朝日新聞天声人語を見ましたか?」と訊ねると、読んでいないようです。「NHKのローカルニュース」で紹介するとか、したとかは聞いていたのですが・・・急きょ、臨時バスの手配をはじめたのですが、この時点でバス4台から5台の乗客が並んでいたのです。

matuda02.jpg私はバスを2台待ってようやく乗れました。
山道を30分走って、寄(やどりぎ)地区の会場駐車場前に到着、ここから本会場までは普通、8人乗り小型マイクロバンで無料送迎している
のですが、この日に限りは、足の不自由の方、高齢者のみと係の方は叫んでいました。

かなりの急こう配の坂を10〜15分ほどで、天声人語で紹介されていた、二万本のろう梅園が現れます。緑の茶畑の先に、全山、黄色のろう梅で包まれて見えます。
お天気が良かったら、もっと良かったのですが。

matuda05.jpg圧倒的に3,4人の60代後半から70代半ばの女性グループが多く、ハイキング・軽い登山になれているのでしよう、各所に設けられた畑の中のお休みどころで三々五々、お弁当を広げています。
次に多いのが、カメラ片手の70代半ばの一人で来ているシニア男性。皆さん立派なカメラを持っています。
そして、70代に入ったばかりの我ら団塊世代と思われる、ご夫婦の姿。やっぱりと云うか、団塊・お友達夫婦・ニューファミリーと呼ばれた世代は、上の世代よりは夫婦仲が良いようてす。

matuda04.jpg園の入場料は300円。
新松田・「寄」間のバスは片道520園(往復割引940円)
東京都内、新宿・新松田間小田急 77分 780円
つまり、年金シニアは自宅からお弁当を持ってくれば一日2,800円で、楽しめるのです。
これが、平均的、元気な、多少ゆとりのある高齢者の過ごし方なんです。
posted by 西沢 at 08:26| Comment(1) | TrackBack(0) | シニアライフ

2019年02月04日

リタイヤ年金シニアの沖縄の旅 その2 慶良間諸島のホエールウォッチング

今回の沖縄旅行での楽しみにしていた一つが、冬の沖縄、慶良間諸島でのホエールウォッチングでした。 これまで、ホエールウォッチングはハワイ・オアフ島で二回、マウイ島で一回経験してきています。 最初のオアフの時は、オアフの西端のマカプー岬から、沖をゆくクジラを眺めるもので、勿論無料です。

makapuu.jpg岬の展望台からは、沖を泳ぐ沢山のクジラの潮吹きが手に取るように眺められ、初めてみるクジラの潮吹きに感激ました。 翌年、もっと近くでクジラを見たいと、ホノルルの港から出るホエールウォッチングツァーに参加しました。
しかし、遠く潮吹くクジラは見えるのですが、世界一環境問題に厳しいアメリカの法律では、ホエールウォッチングツァークルーズ船とクジラの 距離は規制されており、実際の目でみることは、出来ませんでした。
数年後、ハワイ諸島でクジラを見るのならマウイ島、と云う情報に接し、マウイに行きました。
マウイ島のホエールウオッチングツアーのクルーズ船は、ホノルルと違って小型の三十人乗り以下で、クジラとの距離 規制もホノルルの大型船よりも緩やかな上、エンジン音も小さいので、クジラにストレスがかからず、近くまで寄って くるのです。
クルーズ船とクジラの距離は規制されていますが、停止している船にクジラが寄って来た場合は、この規制外です

この時の動画映像はユーチューブにUPしています。2014・2 up  映像時間3分58秒
https://youtu.be/BDo8xnNtS3U

この時、初めてクジラの姿を目の前で見て感激したのを覚えています。
にしても、ホノルル発のこのツァーは、マウイ島観光が含まれていましたが、350ドルという 金額で結構高かったののです。
帰国後、朝日新聞紙上で、沖縄慶良間諸島でのホエールウォッチングで の素晴らしい画像を目にしました。ハワイまで出かけなくても、沖縄でクジラが見れるのだと知り、 何時か、冬の慶良間諸島に行くことを夢見ていました。

■ 冬場の沖縄は安いけどお天気が悪い
1月に行くと決めて、ネットで慶良間諸島でのホエールウォッチングの値段を調べてみると、 意外と安いのにびっくりしました。色々な会社がやっているようで、各社4,000円〜5,000円の間です。 料金の差は、船の大きさ、設備、送迎の有無、そして見れなかった時の全額返金の有無のようです。
ツァー会社の選択
最初、ネット検索の最上位に表示されている会社に問合せをしました。
予約方法、キャンセル方法、等を問合せしたのに、一向に返事が有りませんでした。
海外のツァーでよくあるケースで、メールのみの連絡で、ホームページには電話番号が記載されておらず、 会社の事務所の住所も書かれていません。このようなツァー会社は信用出来ません。
探し当てたのは、沖縄ガイドブックに大型広告を掲載していた、国際通りにリアルショップある、マリンスポーツ 会社でした。電話すると丁寧な応対で、料金は税込み3,980円、送迎込み、但し万が一クジラが見れなくとも 返金なしの条件でした。

携帯電話は必須の条件
送迎やお天気によるツァー催行の有無などの連絡で、携帯電話は必須です。
沖縄に行く前に、4日間の滞在なのでお天気によって参加、変更が可能か聞いた所、1日2便のツァーなので 半日前なら可能と云う返事をもらい、取り敢えず、沖縄到着の翌日に予約を入れ、毎日ネツトでお天気を みていましたが、杞憂に終わりました。 沖縄4日間、到着した日から、帰る日まで、ピーカンの青空、連日の20℃超えが続いたのです。

■ ツァー会社からの注意事項の連絡kujira03.jpg
1,参加する服装は、内地を出る時に来ていた防寒着を着てきて下さい。
2,揺れるので出航30分前、酔い止め薬を飲んできて下さい。
3,滑りにくい靴を履いてきて下さい。

私は、釣り船でも酔うタイプですし、二万トンクラスの船でも酔ったことがあるのですが、カミサンが 用意した「酔い止め薬」の注意書きを読むと、「前立腺に問題のある方は、排尿障害の副作用が報告されて いるので、主治医に相談しての服用をお勧めします。」と書かれています。ので辞めました。
海の上で、おしっこで苦しむのは真っ平ですから。
しかし、気温も波も船酔いも全て杞憂に終わりました。
この日洋上でも、気温は20℃、外にいる日焼けしそうな陽ざしです。波は全くなく静かでした。

■ エー慶良間諸島ってこんなに近いのkujira01.jpg
ホエールウォッチングツァー船の多くは、那覇漁港から8:30頃から出航していきます。
ツアー会社の事前説明では、クジラを探すまで1時間、船を走らせ、クジラ観察を2時間、そして寄港するまで 1時間、計4時間のツァーと聞いていました。
静かな港内の防波堤をでると、スビートを上げて西に進むのですが、港を出で20分もしないうちに停まりました。 振返るとその先は那覇空港から発着する飛行機で見えます。
エーエー慶良間諸島ってこんなに近いの?
漁港から出発した各社のツァー船のなかで、一番最後に出航した私たちの船が、クジラを発見して停まった のは、慶良間諸島まで本島から1/3の、空港沖合の海でした。

■ 船長の指さす方向に潮吹きが見えますkujira02.jpg
潮吹きは一瞬なので写真は撮れませんが、クジラが沈んでいった後に残る、ホエールリングは船上からはっきりと 確認出来ます。クジラは一度潜ると7分から15分ほどして、再び浮上してくるので、船はゆっくりと、クジラの 泳ぐ方向を予測して進みます。
私たちの船がクジラを発見した報が、各社の船に伝わり、一頭のクジラの行く手を遮らないように、左右、後に ついて行きます。この時数えると私たちの船を含め六隻の船が一頭のクジラに集まっていました。
私たちの船は11時前に、帆先を陸に向けて走り出しました。
船長さんの説明で、一頭のクジラに1時間以上まとわりついて、ストレスを与えてはいけない、と云う仲間同士 の決まりがあるので、このクジラを最初に発見した私たちの船が率先して離れるのだそうです。
そして、ツァーの4時間と云うのは、クジラが見つからない場合探しまくり、出航から寄港までの最大時間であり、今日 はお天気も良く、直ぐに見つけたので、皆さん十分に喜んでいただけたと思います。とのご挨拶にこの日の乗客16名は 誰も、文句は云いいませんでした。

■ クジラの撮影は素人は無理なんですkujira04.jpg
ツァーのお客さんは皆さん、カメラを構えて待ち構えるのですが、スマホでは到底無理、コンパクトデジカメでも 無理、かなり長いレンズの一眼レフで経験を積まないと、クジラが跳ねる写真は撮れません。
写真はツァー会社にお任せして、じっくりと自分の目に焼き付けたほうがどれだけ良いか。
マウイ島・オアフ島とホエールウォッチング行脚がありましたが、ここ慶良間で十分満足しました
posted by 西沢 at 08:09| Comment(1) | TrackBack(0) | シニアライフ