命を旅する1
[2007年01月03日(水)]
命を旅する1

中学での出会い、そして再会
寺内昇・郁子夫婦は、中学2年生のときの同級生だ。
昇は郁子に一目惚れをしたが、郁子は昇に感心を持っていなかった。
昇には中学時代からの親友がいた。郁子にも同じ中学の親友がいた。このふたりが交際をしていた関係で、昇と郁子は大学時代に再会した。昇は、東京商船大学の学生だった。郁子は女子大学に進学していた。
郁子は、大学1年のとき体育の授業で、開脚前転をして股関節を痛めた。その後、長い距離を歩けない体になっていた。そのふたりが初めてデートをしたのは、大学4年のときだった。
郁子とのデートは、いつも駅から歩いて5分以内にある喫茶店だった。それは、郁子の脚が歩くことを許してくれる距離だった。
当時、商船大学を卒業するには、4年半の修学期間が必要だった。4年間の授業が終わると、帆船での遠洋航海に出るからだ。昇は、日本が誇る帆船・日本丸でハワイへの遠洋航海に出た。
この航海土産に、昇はコナ・コーヒーを買ってきた。そのコーヒーが、郁子の好物だったからだ。
ハワイの航海から帰国した昇は、郁子に宣言する。
「これからしばらく会うことはできない」
航海士の資格を取るために、昇は家に閉じこもり国家試験に向けて勉強づけの生活をする予定だった。商船大学を卒業しても、航海士の国家資格を持っていなければ、船に乗っても操船ができない。そのためには、まず筆記試験に合格する必要があった。
それから1ヶ月後、甲種一等航海士と甲種船長の筆記試験に合格した昇は、三光汽船に勤めることになった。
結婚
三光汽船に入社した昇は、タンカーマン研修を受けた後、30万トンの栄光丸に乗務するため、交代要員とともにフランスのルアーブルに旅立った。
昇にとって、それは飛行機を使った初めての海外旅行だった。しかし、成田空港から旅立った昇は、すぐに日本に帰国する。
パリの空港で入国審査を受けた後、昇は手荷物を盗まれた。荷物には船員手帳が入っていた。船員手帳がないと、船に乗ることはできない。
その船には、新婚の三等航海士が乗っていた。昇と入れ替わり愛妻が待つ日本に帰国する予定だった。しかし、交代要員がいなくなったのだから、そのスケジュールはキャンセルされた。
三等航海士の馬鹿野郎の言葉を心に聞きながら、成田出発から1週間後に昇は日本の土を踏んでいた。
東京の会社に出社すると、上司から「お前は会社の金100万円を使ってパリ旅行した馬鹿ものだ」といわれた。
それから1カ月後、カナダの石油基地ハリファックスに向けて、昇は旅立った。こんどの船は、メジャー石油会社に傭船され、ベネズエラやサウジアラビアなどの原油を、世界15か国に運ぶ8万トンのタンカーだった。
この船で昇は、過酷な勤務を経験する。1年2カ月の乗務期間に、休暇は2日しか取れなかったからだ。
そんな過酷な勤務をする昇にも、楽しみがあった。石油基地にタンカーが着くと、現地の代理店が日本からの手紙を届けてくれる。その中に、郁子からの手紙が常にあった。郁子は、航海に出ている昇に、毎日のように手紙を書いた。それが、昇の楽しみになっていた。
倒産、ウツ
それから2年後、26歳になった昇は郁子と結婚をした。
結婚を決意する昇には、杖を使い歩く郁子のハンディは気にならなかった。それ以上に、中学時代から大好きだった郁子と家庭を持てる喜びが大きかった。好きの気持ちがすべてを超越していたし、郁子との家庭生活に妙な自信を持っていたと昇は振り返りながら話した。
郁子は、そのときの気持ちをこう話した。
「プロポーズされたとき、これまでの私の思いを昇さんが受け止めてくれたことに心から喜びました。脚の悪い私をずっと見守り続けてくれようとする、昇さんの深い思いやりにいまも感謝をしています」
ふたりの結婚式は、1982年10月2日に行われた。
新婚生活は、千葉県の松戸市内にある社宅で始まった、しかし、その3年後、その土地を離れなければならない事態が突然おきる。
昇の勤務先である三光汽船が倒産したのである。その日、自宅にいた昇は、いつものように朝刊に目を通していた。三光汽船は、株の仕手戦で社会をにぎわせていたが、その紙面には、昇の会社の倒産記事が掲載されていた。
そのとき夫婦には、5か月になる長男がいた。
昇は、東京郊外の三鷹の借家に移り住むことにした。次の就職先は、外資系商社だった。営業職として入社をしたが、営業の世界は昇の天職ではなかった。そこを辞め失業の身になった昇は、これからの生活をどのようにしてよいのか分からなかった。わずかな貯えを崩しながら、次の職を探す生活がしばらく続いた。
そのとき、郁子がひとこといった。
「あなたなら、大丈夫よ」
その言葉に、昇は郁子と結婚してよかったと思った。そして、妻子のために頑張ろうと思った。
昇は、営業の世界での失敗から、これからは公益の仕事をしていきたいと思っていた。そこで、自動車技術の学術団体に転職をした。その後、公益法人である日本財団に入ることになった。
日本財団では、社会福祉や広報などを担当したが、40歳のときコンピュータ・システム開発の責任者になった。昇は、システム開発の業務がまったく分からなかった。しかし、それから10年の月日をかけて、会計システム、助成金業務支援システムなどのシステム構築と、公益コミュニティ・サイト・CANPAN(カンパン)を開設する仕事を成功させた。
そのシステムが稼働するまで、昇はがむしゃらに働いた。しかし、2000年、組織システムが稼働するころ、燃え尽き症候群になり軽いうつ病になっていた。

中学での出会い、そして再会
寺内昇・郁子夫婦は、中学2年生のときの同級生だ。
昇は郁子に一目惚れをしたが、郁子は昇に感心を持っていなかった。
昇には中学時代からの親友がいた。郁子にも同じ中学の親友がいた。このふたりが交際をしていた関係で、昇と郁子は大学時代に再会した。昇は、東京商船大学の学生だった。郁子は女子大学に進学していた。
郁子は、大学1年のとき体育の授業で、開脚前転をして股関節を痛めた。その後、長い距離を歩けない体になっていた。そのふたりが初めてデートをしたのは、大学4年のときだった。
郁子とのデートは、いつも駅から歩いて5分以内にある喫茶店だった。それは、郁子の脚が歩くことを許してくれる距離だった。
当時、商船大学を卒業するには、4年半の修学期間が必要だった。4年間の授業が終わると、帆船での遠洋航海に出るからだ。昇は、日本が誇る帆船・日本丸でハワイへの遠洋航海に出た。
この航海土産に、昇はコナ・コーヒーを買ってきた。そのコーヒーが、郁子の好物だったからだ。
ハワイの航海から帰国した昇は、郁子に宣言する。
「これからしばらく会うことはできない」
航海士の資格を取るために、昇は家に閉じこもり国家試験に向けて勉強づけの生活をする予定だった。商船大学を卒業しても、航海士の国家資格を持っていなければ、船に乗っても操船ができない。そのためには、まず筆記試験に合格する必要があった。
それから1ヶ月後、甲種一等航海士と甲種船長の筆記試験に合格した昇は、三光汽船に勤めることになった。
結婚
三光汽船に入社した昇は、タンカーマン研修を受けた後、30万トンの栄光丸に乗務するため、交代要員とともにフランスのルアーブルに旅立った。
昇にとって、それは飛行機を使った初めての海外旅行だった。しかし、成田空港から旅立った昇は、すぐに日本に帰国する。
パリの空港で入国審査を受けた後、昇は手荷物を盗まれた。荷物には船員手帳が入っていた。船員手帳がないと、船に乗ることはできない。
その船には、新婚の三等航海士が乗っていた。昇と入れ替わり愛妻が待つ日本に帰国する予定だった。しかし、交代要員がいなくなったのだから、そのスケジュールはキャンセルされた。
三等航海士の馬鹿野郎の言葉を心に聞きながら、成田出発から1週間後に昇は日本の土を踏んでいた。
東京の会社に出社すると、上司から「お前は会社の金100万円を使ってパリ旅行した馬鹿ものだ」といわれた。
それから1カ月後、カナダの石油基地ハリファックスに向けて、昇は旅立った。こんどの船は、メジャー石油会社に傭船され、ベネズエラやサウジアラビアなどの原油を、世界15か国に運ぶ8万トンのタンカーだった。
この船で昇は、過酷な勤務を経験する。1年2カ月の乗務期間に、休暇は2日しか取れなかったからだ。
そんな過酷な勤務をする昇にも、楽しみがあった。石油基地にタンカーが着くと、現地の代理店が日本からの手紙を届けてくれる。その中に、郁子からの手紙が常にあった。郁子は、航海に出ている昇に、毎日のように手紙を書いた。それが、昇の楽しみになっていた。
倒産、ウツ
それから2年後、26歳になった昇は郁子と結婚をした。
結婚を決意する昇には、杖を使い歩く郁子のハンディは気にならなかった。それ以上に、中学時代から大好きだった郁子と家庭を持てる喜びが大きかった。好きの気持ちがすべてを超越していたし、郁子との家庭生活に妙な自信を持っていたと昇は振り返りながら話した。
郁子は、そのときの気持ちをこう話した。
「プロポーズされたとき、これまでの私の思いを昇さんが受け止めてくれたことに心から喜びました。脚の悪い私をずっと見守り続けてくれようとする、昇さんの深い思いやりにいまも感謝をしています」
ふたりの結婚式は、1982年10月2日に行われた。
新婚生活は、千葉県の松戸市内にある社宅で始まった、しかし、その3年後、その土地を離れなければならない事態が突然おきる。
昇の勤務先である三光汽船が倒産したのである。その日、自宅にいた昇は、いつものように朝刊に目を通していた。三光汽船は、株の仕手戦で社会をにぎわせていたが、その紙面には、昇の会社の倒産記事が掲載されていた。
そのとき夫婦には、5か月になる長男がいた。
昇は、東京郊外の三鷹の借家に移り住むことにした。次の就職先は、外資系商社だった。営業職として入社をしたが、営業の世界は昇の天職ではなかった。そこを辞め失業の身になった昇は、これからの生活をどのようにしてよいのか分からなかった。わずかな貯えを崩しながら、次の職を探す生活がしばらく続いた。
そのとき、郁子がひとこといった。
「あなたなら、大丈夫よ」
その言葉に、昇は郁子と結婚してよかったと思った。そして、妻子のために頑張ろうと思った。
昇は、営業の世界での失敗から、これからは公益の仕事をしていきたいと思っていた。そこで、自動車技術の学術団体に転職をした。その後、公益法人である日本財団に入ることになった。
日本財団では、社会福祉や広報などを担当したが、40歳のときコンピュータ・システム開発の責任者になった。昇は、システム開発の業務がまったく分からなかった。しかし、それから10年の月日をかけて、会計システム、助成金業務支援システムなどのシステム構築と、公益コミュニティ・サイト・CANPAN(カンパン)を開設する仕事を成功させた。
そのシステムが稼働するまで、昇はがむしゃらに働いた。しかし、2000年、組織システムが稼働するころ、燃え尽き症候群になり軽いうつ病になっていた。








