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幸せマネージメント 太田空真(生活デザイン研究所)

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沖縄漂流パート3ー3 [2007年09月29日(土)]
それは神様が決めることだから

 沖縄本島南部の南城市知念の約5Km沖に久高島がある。久高島は、沖縄民族の祖といわれるアマミキヨが降臨した地である。


海抜16mの平らな島が久高島

 この地については、前記したのでそちらを読んでもらいたいが、そこに暮らす人たちと会話をすると独自の精神文化があることが理解できる。

 その精神には、その地に根付いている神様がいる。確かに、この島の人たちと話すと、「それは、神様が決めることだから」という答えをもらうことが多い。

 例えば、久高島の最高の聖地である「クボーウタキ」は男子禁制の地だが、「ここに男が入ったらどうしますか」と島の人に質問をすると、「それは神様が決めることだから」と答える。

 実際「クボーウタキ」は、男子禁制だけでなく、この島に暮らす祝女以外が入ることを禁止しているが、本土から来る自己の都合だけで行動するエセ・スピルチュアル主義者は、このウタキにどんどんと入っていく。


クボーウタキ

 私と同行したある女性も、「この中に入っていいですか」と私に聞いたが、そのとき「入りたければ入ったら」と答えた。もし、彼女がいうように真の霊気が理解できるなら、そこに入ることはとてもできない聖地である。しかし、その地にズカズカと入って行き、「ただ広場があっただけ」といって、何もなかった顔をしている。

 この行動を本土の感覚で話すとこうなる。ウタキの中に入っていくことは、神様のいる本殿の中枢に入いりこむことを意味している。もし、本土の神社でそんな行動をとったら、皆に非難されるだけでなく、自分自身も恥ずべき行為をしたと思うはずである。

 先日も久高島の区長である西銘さんとニシキ浜を訪ねたとき、その浜にコンクリートで作られた台座に標識のように作られたものを見つけた。

 そこで西銘さんに「あれは何ですか」と聞くと、「いつの間にか作られたもので、よく分からない」という。つまり、他人の土地に誰かが勝手に設置していったものである。

 それなら撤去しようと思うのが本土の人間なのだが、島の人は「でも、心も問題だから」で済ませてしまうのである。

 何がおきても、「それは、神様が決めることだから、心の問題だから」と久高島の人はいうが、その言葉は、人の心を解剖してしまう大きな力を持っている。

 「神様が決めることだから」の言葉の裏には、「あなたの行動は、あなたの心がそのまま現れている」という重い意味があるからだ。

久高島の聖地は、本土の寺社仏閣と全く異なる。原始宗教ともいえるこの聖地には、荘厳な社などひとつもない。森の中に苔むした石があったり、小さな広場があるだけの何もない空間である。

 神様を拝む場所には香炉があるだけ。この香炉にしても、仏教の影響で近年置かれるようになったという。香炉が置かれる前は、四角に切られた石が置かれていただけだったらしい。

 対して、本土にある寺社仏閣は、大きな社を構え荘厳さを保つことで、多くの人の心を安泰にさせる。大きな社は、参拝する人たちにその神様や仏様の威厳を示すが、それは宗教が偉大になるにつれて大きな社に変貌していった過去を見ることでもある。

 高野山は弘法大師が開祖した寺町だが、そこには威厳ある寺院が多くある。しかし、弘法大師がこの地を聖地と決めたとき、大師ひとりの雨露を防ぐ粗末な建物を建てただけに違いない。やがて多くの人が訪ねるようになり、徐々に建物が大きくなり、多くの信徒を迎えるいまの町並が形成されてきたのだろう。

 大きな寺院の前で人は頭を下げ敬虔な気持ちになる。そこに、大規模な寺社建築の威厳が介添えしている。

 対して、久高島では、大寺院の尊厳を持つ社などはひとつもない。何の装飾もない、聖地と呼ばれる空間だけである。本土の寺社建築を見なれている人間としていわせてもらえば、何の威厳もない空間である。

 この空間には、目で認識できる威厳あるものはひとつもない。つまり、心で感じる世界である。

 この聖地は、何もないプレーンな世界と自分をリンクする場所である。だから、人の心が瞬時に判断されてしまう空間といえるのである。

 久高島の人たちがいう「神様が決めることだから」の言葉には、「あなたの心が、あなたの態度に現れる」という、人の善悪を判断する重要な意味があるように思う。

 そこに人が忘れ始めている、シンプルに善悪を判断する上質な精神があると思う。(空)


Posted by くう at 04:00 | 沖縄漂流 | この記事のURL