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多くの定年退職者を対象とした調査データが発表されている。しかし、定年退職後の夫のプランは、妻の協力が無ければ、達成できないという現実がそこにある。

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沖縄漂流パート3ー4 [2007年10月03日(水)]
沖縄の集団自決と三権分立

 高校歴史教科書検定で、沖縄戦における「集団自決」の日本軍強制の記述が削除・修正された。

 軍部強制による集団自殺はなかったという新しい教科書の記述に対し、沖縄の人たちは抗議集会を開いた。その数11〜12万人という。沖縄の人口137万人の1割弱の人々がその集会に集ったのである。

 それを見た政府は、集団自決の記述に対し適切な対応を図るとの答弁書の作成を決定した。12万人の沖縄の人が、この問題に立ち上がったことで、政府がこの措置をとったのは事実である。

 しかし、沖縄からの抗議により政府がその記述を変えるという事実が、私には恐ろしいものに見えてくる。沖縄の集団自決の真実が政治的バランス感覚で処理される現実は、逆の見方をすれば、いつでも元に戻すことができるという意味を持つ。

 これが、最新の沖縄のニュースである。沖縄は政治に翻弄される歴史をいまも背負っている。そのほとんどの要因は、「政治バランス」である。

 このニュースを聴くことで、もうひとつの政府筋のニュースが私に見えてきた。

 鳩山邦夫法相は25日の閣議後の会見で、死刑執行に関し「法務大臣が絡まなくても自動的に執行が進むような方法を考えたらどうかと思うことがある」と述べ、死刑執行に必要な法相の署名がなくても自動的に執行が行われるようなシステムをつくるべきとする考えを明らかにした。

 日本国憲法には、三権分立が明記されている。この三権分立こそが、民主主義の基本となるものであることは世界の常識である。

 ここで、死刑の是非を論じるつもりはないが、死刑囚だけでなく全ての被告は、他の権力から介入されない独立した司法制度の下で判決が出される。だから、行政機関の政府も、立法機関の国会も、裁判に関与することはできない。これが三権分立である。

 しかし、司法の裁判で判決を出された死刑囚にだけ、行政の法務大臣が死刑執行命令書に署名をすることでその刑が執行される。ここに、憲法で明記している三権分立の精神があるのかという疑問が私にある。

 なぜ、死刑囚だけに行政府が介入するのか。この法律ができたころは、戦前の思想犯を取り締まった歴史を繰り返さないという意識がありこの制度にしたのかもしれないが、死刑の執行が法務大臣の意識ひとつで左右されるという事実は、三権分立の精神を根本から崩す制度ではないかと私は思う。

 この死刑執行制度と沖縄の集団自殺の問いかけが、ダブって見える意味は他にもある。

 現在、大阪地裁で「大江岩波沖縄裁判」が行われている。太平洋戦争の沖縄戦で、渡嘉敷島では村長の発声で「天皇陛下万歳」が三唱され、手榴弾による「集団自決」がなされた。その歴史的事実を争う裁判が「大江岩波沖縄裁判」である。

 慶良間諸島で住民の「集団自決(強制集団死)」がおこった。この集団自決は、旧日本軍の戦隊長が住民に命令を出したことによるという記述が、大江健三郎氏の著書に書かれている。

 この記述により名誉を傷つけられたとして、旧日本軍の戦隊長とその遺族が、作家の大江健三郎氏と岩波書店に、出版の差し止めや慰謝料などを求め、大阪地裁で争っているのである。

 渡嘉敷島で「集団自決」を経験した78歳の金城重明氏は、兵器軍曹から住民に手榴弾が配られ、「一個は敵に投げ、もう一個で死になさい」と訓示があったと、後になって当時の兵事主任から直接聞いたと証言した。自身の経験とも併せ、戦隊長指揮下の軍命令なしに「集団自決」は起こり得なかったと証言した。

 しかし、戦隊長側は、金城氏自身は手榴弾が配られた現場に呼ばれていないとして、兵事主任の話の信用性に疑問を提起し、何を軍命ととらえ、具体的にどう伝えられたか証言するよう求めた。

 座間味島の戦隊長だった梅澤裕氏は、自決命令は出してないと証言している。

 この訴訟は、今年の11月9日に原告と被告の本人尋問が行なわれる。座間味島の戦隊長だった梅澤裕氏や大江健三郎氏らが証言した後、12月21日最終弁論で結審し、来年3月までに判決が出る見通しだ。

 裁判で沖縄の歴史の真実が争われている。三権分立の独立した司法機関でその結論が出されるのだが、この裁判は最高裁まで行くだろうから、まだまだ時間がかかるだろう。しかし、この裁判が結審となったとき、政府は司法の独立性をどのように考え、それをどのように教科書に記載していくかが注目できる。

 戦後に本土に生まれた私は、沖縄のこの現実を思いやることはできても、その歴史の真理を問うための基礎知識をまったく持っていないといっても過言ではない。

 しかし、沖縄の人たちのいまの生活の中に、戦争の真実の重さが問われているという事実を忘れたくない。裁判だけでなく、多くの視点からの歴史検証も必要である。

 同時に、真の三権分立の独立性が保たれる民主主義国の日本が、正しい歴史教育をする国家であって欲しいと願っている。


*この記述に当たって、沖縄タイムス、沖縄新報の記事を参考にしました。


沖縄漂流パート3ー3 [2007年09月29日(土)]
それは神様が決めることだから

 沖縄本島南部の南城市知念の約5Km沖に久高島がある。久高島は、沖縄民族の祖といわれるアマミキヨが降臨した地である。


海抜16mの平らな島が久高島

 この地については、前記したのでそちらを読んでもらいたいが、そこに暮らす人たちと会話をすると独自の精神文化があることが理解できる。

 その精神には、その地に根付いている神様がいる。確かに、この島の人たちと話すと、「それは、神様が決めることだから」という答えをもらうことが多い。

 例えば、久高島の最高の聖地である「クボーウタキ」は男子禁制の地だが、「ここに男が入ったらどうしますか」と島の人に質問をすると、「それは神様が決めることだから」と答える。

 実際「クボーウタキ」は、男子禁制だけでなく、この島に暮らす祝女以外が入ることを禁止しているが、本土から来る自己の都合だけで行動するエセ・スピルチュアル主義者は、このウタキにどんどんと入っていく。


クボーウタキ

 私と同行したある女性も、「この中に入っていいですか」と私に聞いたが、そのとき「入りたければ入ったら」と答えた。もし、彼女がいうように真の霊気が理解できるなら、そこに入ることはとてもできない聖地である。しかし、その地にズカズカと入って行き、「ただ広場があっただけ」といって、何もなかった顔をしている。

 この行動を本土の感覚で話すとこうなる。ウタキの中に入っていくことは、神様のいる本殿の中枢に入いりこむことを意味している。もし、本土の神社でそんな行動をとったら、皆に非難されるだけでなく、自分自身も恥ずべき行為をしたと思うはずである。

 先日も久高島の区長である西銘さんとニシキ浜を訪ねたとき、その浜にコンクリートで作られた台座に標識のように作られたものを見つけた。

 そこで西銘さんに「あれは何ですか」と聞くと、「いつの間にか作られたもので、よく分からない」という。つまり、他人の土地に誰かが勝手に設置していったものである。

 それなら撤去しようと思うのが本土の人間なのだが、島の人は「でも、心も問題だから」で済ませてしまうのである。

 何がおきても、「それは、神様が決めることだから、心の問題だから」と久高島の人はいうが、その言葉は、人の心を解剖してしまう大きな力を持っている。

 「神様が決めることだから」の言葉の裏には、「あなたの行動は、あなたの心がそのまま現れている」という重い意味があるからだ。

久高島の聖地は、本土の寺社仏閣と全く異なる。原始宗教ともいえるこの聖地には、荘厳な社などひとつもない。森の中に苔むした石があったり、小さな広場があるだけの何もない空間である。

 神様を拝む場所には香炉があるだけ。この香炉にしても、仏教の影響で近年置かれるようになったという。香炉が置かれる前は、四角に切られた石が置かれていただけだったらしい。

 対して、本土にある寺社仏閣は、大きな社を構え荘厳さを保つことで、多くの人の心を安泰にさせる。大きな社は、参拝する人たちにその神様や仏様の威厳を示すが、それは宗教が偉大になるにつれて大きな社に変貌していった過去を見ることでもある。

 高野山は弘法大師が開祖した寺町だが、そこには威厳ある寺院が多くある。しかし、弘法大師がこの地を聖地と決めたとき、大師ひとりの雨露を防ぐ粗末な建物を建てただけに違いない。やがて多くの人が訪ねるようになり、徐々に建物が大きくなり、多くの信徒を迎えるいまの町並が形成されてきたのだろう。

 大きな寺院の前で人は頭を下げ敬虔な気持ちになる。そこに、大規模な寺社建築の威厳が介添えしている。

 対して、久高島では、大寺院の尊厳を持つ社などはひとつもない。何の装飾もない、聖地と呼ばれる空間だけである。本土の寺社建築を見なれている人間としていわせてもらえば、何の威厳もない空間である。

 この空間には、目で認識できる威厳あるものはひとつもない。つまり、心で感じる世界である。

 この聖地は、何もないプレーンな世界と自分をリンクする場所である。だから、人の心が瞬時に判断されてしまう空間といえるのである。

 久高島の人たちがいう「神様が決めることだから」の言葉には、「あなたの心が、あなたの態度に現れる」という、人の善悪を判断する重要な意味があるように思う。

 そこに人が忘れ始めている、シンプルに善悪を判断する上質な精神があると思う。(空)


沖縄漂流パート3−2 [2007年09月27日(木)]
沖縄の美しい景色は、人間が創造したものではない



 沖縄の人たちに会うと、「沖縄の景色は素晴らしいでしょう」とよくいわれる。

 たしかに、沖縄の澄んだ海、そして、蒼く透き通ったあの空の色は素晴らしい。しかし、「この自然の景色やその色は、あなた方が創り上げたものではないでしょう」という思いを私は持ってしまう。

 私は人間が好きだ。だから、人が生きてきた歴史を垣間見ることで、自分自身が体験できなかった世界に憧れを持ち、その方たちの体験を自分の心に叩きつけたいと思う。私は、人が創り上げてきた歴史に尊敬の念を持つが、自然が創り上げてきたものを自分が創ったように話す人に違和感を強く感じる。

 その気色は、沖縄だけでなく奈良にも見られる。奈良の町は活気がない。東大寺の大仏様、新薬師寺、春日神社。その歴史ある建造物は素晴らしものだが、それを尊ぶだけで、それに満足するだけで、それを礎に成長していこうとする心を奈良の街から感じることができない。だから、奈良の人は、「大仏様の足跡を歩いているだけ」という印象を旅人の私は感じてしまう。

 歴史を歩くということは、その歴史を礎として心に蓄え、その歴史から学び、いまの自分たちの世界を築いていくことなのだと思う。だから、自然が創り上げてきたものを自分たちが創り上げたような会話をする人たちを私は信用しない。

 沖縄の自然の美しさ、特に、慶良間諸島のあの海の清らかさに私は参ってしまうが、そのとき、これを創り上げてきた自然に感謝すると同時に、この自然を守り続けてきた沖縄の人たちへの感謝の気持ちを強く持つ。

 美しい沖縄の海には、多くの珊瑚礁がある。そこに暮らす海人は、自然の節理を守り、自然の恵みに感謝しながら、日々を生きてきた。そこに、自然と共生しながら生きてきた沖縄民族の知恵と誇りがある。

 自然と同化しながら幸せに生きる知恵を、沖縄の人から学ぶことがたしかに多い。それが、美しい自然に守られ、自然に感謝しながら暮らしてきた、沖縄の人たちの心であり宝だと私は思っている。(空)
沖縄漂流パート3 [2007年09月26日(水)]
沖縄漂流パート3

はじめに

 沖縄漂流のパート1と2は、沖縄の案内的なものであったが、パート3では、本土に暮らす私の思いと沖縄に暮らす人との対話で、いまの日本が忘れてしまったことや、忘れ始めていると私が感じている日本の事柄を、沖縄を媒体とした視線で書いていきたいと思っている。だから、この章では沖縄や本土に暮らす方々が気分を害することもズケズケと書いていきたいと思う。

 この章を進める上で、権聖美(ごん・きよみ)さん(以下、敬称略)にパートナーとなってもらった。

 権は、在日3世である。大阪にある韓国民族系の高校を出た後に京都の大学に入り、卒業後カメラマンを目指し世界を放浪した。そして、ニューヨークに1年間滞在した後日本に帰り編集者となり、「沖縄スタイル」という雑誌の編集長となった。勤務地は沖縄の那覇だったが、その守備範囲は沖縄の離島にまで及んだ。そしていま、那覇をベースに地域の広報や企画を生業とする企業を起こし、日々の糧を得ている。

 権と一緒にこの章を進める意味は、在日韓国人として民族教育を受けた日本育ちの目線と多くの国々を見てきた彼女の思いが、沖縄を語るときに重要なファクターとなると思ったからだ。

 朝鮮民族は、倭寇の時代から戦後の独立まで日本から多くの侵害を受けた。琉球王朝も、江戸時代に薩摩藩の支配を受け、明治時代になると廃藩置県により王朝の歴史は閉じられた。そして、太平洋戦争の沖縄地上戦での悲惨な歴史を背負っている。

東アジアの国々では、いまも反日教育が行われている。その反日教育により、日本に対して厳しい目を持つアジアの人たちも多い。しかし、日本に来るとそのイメージがガラガラと崩れ親日家になる人も多いという。

  日本を旅する東アジアの人たちが増えている時代、真実に包まれた歴史教育と政府の意図によりつくられた反日教育を受けた東アジアの人たちは、自分自身の目と心で日本を知ることで、個々の日本観をもち帰国していく。それが国際化時代のメリットとデメリットである。

権とこの章を進める中で、権との衝突がいくつもあると思う。でも、それが私たちなりの真実を見つけるきっかけになると私は信じている。

NYC滞在中の多国籍のゴン。
NYで、TEBAYAを経営している大親友のポニーちゃんと
ちなみに右がゴンです。念のため!!

沖縄漂流パート2ー1 [2007年09月23日(日)]
沖縄漂流 目次

1 赤嶺正一の芸能40周年舞台とアガリウマーイ
2 琉球王朝と東御廻り(アガリウマーイ) 
3 14力所の聖地巡地 第1番から5番
4 14カ所の巡礼地 第6番から10番
5 14カ所の巡礼地 第11番から14番
6 久高島の巡礼地 カベール岬から大里家まで
7 久高島の巡礼地 外間殿からイザイホー

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1 国指定重要無形文化財保持者 赤嶺正一の芸能40周年舞台とアガリウマーイ
2 11月に始まる旅のスケジュール
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1 国指定重要無形文化財保持者 赤嶺正一の芸能40周年舞台とアガリウマーイ



国指定重要無形文化財(組舞)保持者の赤嶺正一が芸能生活40周年を迎えます。

本年11月11日に、「赤嶺正一芸歴四〇周年記念公演(世栄津梁之邦)」が、浦添
市にある「国立劇場おきなわ」で行われます。

この公演には、沖縄の地揺(唄、三線、笛、箏、胡弓、太鼓)方、野村流古典音
楽保存会、琉球箏曲保存会、安富祖流絃声会、光史流太鼓保存会が参加します。

琉舞においても、赤嶺正一の宮城流薫風の会だけでなく、真境名由康組舞会会長の
瀬底正憲、玉城流扇寿会家元の谷田寿子、島袋本流紫の会宗家の島袋光晴など各氏
が、国立劇場で赤嶺と琉舞を舞います。このような流派を超えて一つの舞台で共演
することは、琉球舞踊史でも画期的なことといえます。

赤嶺の琉舞は、「陰と陽」の世界を表現するといわれています。この公演で、赤嶺
正一の「神踊り」が見られますが、それに併せて、沖縄の神々を巡拝する「アガリ
ウマーイ」を行いたいと考えています。

「アガリウマーイ」は、歴代の琉球王がこの地を創造した神様の聖地を巡礼したこ
とから始まりましたが、琉球の人々が、この「アガリウマーイ」をすることが近年
まで普通に行われていました。

今回の企画に参加している仲村須栄子さんは、子供のころ数日をかけて家族でアガ
リウマーイ全行程を歩いており、その記憶をたどりながら、アガリウマーイ弁当を
再現し皆さんにご提供します。(アガリウマーイ弁当の解説が付きます)

また、今回のアガリウマーイは時間的に全行程を辿れませんが、アガリウマーイ全
体が把握できるように、その構成を現・久高島区長の西銘政英さんにお願いいたし
ました。12日の久高島から佐敷ウタキ、斎場御獄まで、その総てに西銘さんが同行
し直接、歴史的文化的に解説していただきます。

11日の赤嶺正一公演の前に、首里城の守礼門に集合の意味は、この門の近くにアガ
リウマーイ第一番目の拝所「園比屋武御獄(スヌヒャンウタキ)」があり、歴代王
と同様に「道中の安全をここで祈念して出発する」というものです。

今回のアガリウマーイには、西銘さんの解説を聞いてそのルーツを再確認したいと、
地元の南城市からも多くの方々が参加されます。よって、地元の方々とともにこの
アガリウマーイを行うことになりますのでご了承願います。

また、アガリウマーイの解説書を皆様に配布しますが、このテキストは、雑誌『沖
縄スタイル』初代編集長の権聖美さんが担当しています。

赤嶺正一(あかみね まさいち)
国指定・重要無形文化財(組踊)保持者 宮城流薫風の会主宰
1949年沖縄生まれ。1966年宮城美能留氏に師事。76年古典芸能コンクール最高賞受賞。
79年宮城美能留氏より師範免状を受ける。87年国指定重要無形文化財「組踊」伝承者
に認定される。97年47歳で国指定重要無形文化財「組踊」保持者に認定される。
海外公演は百数十回に及び、中南米、アメリカ、カナダ、中国、ヨーロッパ、ロシア、
イギリスなどで伝統芸能を通した“心”の交流を図っている。また、スティーブン・
セガールなどとの共演を通し世界平和を伝える伝道者でもある。

西銘政英(にしめ まさひで) 久高島区長 
昭和21年南城市(旧知念村・久高島)で生まれる。高校卒業後那覇に出るが、2000年
故郷の久高島に戻り、過疎化が進む久高島の振興に立ち上がる。
01年久高島振興会副会長、久高島宿泊交流館館長として、久高島の歴史・文化の研究・
普及を始める。06年から、久高島区長、南城市体験滞在型交流検討会委員。

仲村須栄子(なかむら すえこ) 知念「・家(てんか)」間座安(マザァー)
1947年南城市(旧知念村)に生まれる。80年からビジネススクール秘書科の講師をつと
め、82年から沖縄アクターズスクール事務局長として、沖縄出身のアーティストを育てる。
04年から、故郷の知念にて「・家(てんか)」を経営。

権聖美(ごん きよみ)1970年大阪生まれ。龍谷大学経済学部卒。大学卒業後、カメラ
マンを目指しヨーロッパ、アメリカを中心に撮影を続ける。2006年1年間のニューヨーク
滞在を経て帰国後編集者となり、数々の雑誌に携わった後、雑誌『沖縄スタイル』初代
編集長に。沖縄生活3年半。現在、企画編集広告などを手がける「クリエイティブエンゾ」
代表。「琉球アイランドセラピー」の追求をライフワークとしている。

■スケジュール

11月11日 那覇・首里城 16時現地集合
昼   那覇フリータイム(沖縄北・南部半日観光などをご希望の方はご連絡ください)
実施人数3名以上=料金5250円。ガイドはアーストリップ・スタッフが行います。

16.00  首里城 守礼門集合 食事(各位自費になります)
17.20  タクシーで国立劇場おきなわに移動
18.30  赤嶺正一芸歴四〇周年記念公演(世栄津梁之邦)
20.40   国立劇場おきなわ出発 
  国立劇場から知念サンライズホテルに向かい、宿泊となります。

第一部   
伊野波節 (赤嶺正一)
組舞「大川敵討より」 (赤嶺正一、真境名由康組舞会会長の瀬底正憲ほか)
金細工 (赤嶺正一、神谷武史、玉城流扇寿会家元 谷田寿子)
加那ヨー天川 (赤嶺正一、奥間圭子)
京太郎 (沖縄県立芸術大学OBほか)
有銘之比屋道行口説(赤嶺正一、指導・島袋本流紫の会宗家の島袋光晴)
鳩間節 (赤嶺正一)

第二部  世栄津梁之邦 企画・構成・振付 赤嶺正一
世迎えゆんた「神踊り」 国頭サバクイ 首里城 黄金盃 世栄節  
白鳥節 一の帆 紫禁城 かりゆしの船

◆世栄津梁之邦=「世が栄える架け橋になる国」津梁とは、「橋」の意味。
◆「以舟楫 為万国之津梁」 舟楫(しゅうしゅう)をもって 万国の津梁(しんりょ
う)となし。船を万国との橋(津梁)の代わりにしたため、船楫「船とカイ」と書く。

11月12日 東御廻り(アガリウマーイ)

アガリウマーイとは、沖縄民族の祖先といわれるアマミキヨが渡来して住みついたと
伝えられる知念・玉城の聖地を順拝する神拝です。その道程を、沖縄伝承文化研究家
であり、神の島・久高島区長である西銘さんが直接案内解説をしてくださいます。

朝、ホテルの大浴場から、久高島に昇る太陽がご覧なれます。
08.30   ホテルで朝食後、知念・安座間港に。
09.00   安座間港からフェリーで久高島へ

神の島・久高島から、本島南部でのアガリウマーイをスタートします。
1 カベ-ル岬(人類の祖アマミキヨが上陸した地) 
2 クボーウタキ(沖縄の七獄の一つ。多くの祭事が行われる最高の霊地。男子禁制
である)  
3 伊敷浜(アマミキヨから、麦・栗などの七種の種子が入った黄金の壺が流れ着いた
聖地) 
4 久高殿(天神地祇を祭り、島の繁栄を祈る場所。久高祝女と久高根人が祭主となる
イザイホーの祭場) 
5 大里家(琉球王朝の尚徳王が来島されたとき、クニチャサ祝女に一目惚れして同棲
をした家。その間に首里城で革命が起こり、最後に尚徳王は海に身を投げた。戦前
まで、王の遺品の金の箸などが保存されていた)
6 外間殿{天頭神(天の神様の総師)、王礼乃神(太陽の神様)。松乃美神(月の神
様)、ニレー大主神(竜宮の神様)、アマミキヨ神(国造りの神様)、百畑地方照
乃神(植物の神様)、梁乃神(健康の神様)などの島の守護神を祭り、外間祝女と
外間根人が祭主となり、総ての祭事が行われる場所}

久高港に戻り、昼食。(久高島離島振興総合センター)
13.00  久高港出航 
13.20  安座間港着  バスで終日移動しながらアガリウマーイ

1  佐敷グスク(グスクとは「城」の意)鳥居をくぐると佐敷祝女殿内があり、遠く久高島
を拝むことができる 
2  玉城グスク{グスク(城)の入り口の門は、海土楽土、ニライカナイ(海のはるかな
遠方、太陽神の居所)に通じるとされている}  
3 ヤハラジカサ(アマミキヨが海の彼方から渡来し本島に降り立った地) 
4 浜川御獄(アマミキヨはここで疲れを癒し仮住まいをした) 
5 受水、走水(琉球の創生神アマミキヨによる琉球稲作発祥伝説の中心地) 
6 斎場御獄(琉球の創生神アマミキヨによる琉球開闢七御獄の一つで長らく男子禁制の地
であった)

17.00 知念サンライズホテルにて解散

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今日から、この沖縄の旅についての、テキストを社会時評とともに書いていこうと思う。

沖縄のテキストと社会時評の関係とは、沖縄から見た現代社会の見方、あり方の私感であるが、それは、沖縄漂流パート3で記していこうと考えている。

*この旅に興味がある方は、ohta@sdl.ne.jp までご連絡下さい。


沖縄漂流パート2ー2 [2007年09月23日(日)]
琉球王朝と東御廻り(アガリウマーイ)   テキスト・・権聖美



 琉球王朝は、第一尚氏の初代尚恵紹の1406年即位にはじまり、二代尚巴志による首里城遷都・1429年の三山統一をへて、第二尚氏最後の王尚奉まで470年余続いた。

 職制・位階制のもとに身分は冠や唇の色によって区別され、各地の按司を首里に集居させた。聞得大君(琉球王国時代最高位の神女)を頂点とした神女組織が確立され、地方のノロもその体制に組み込まれた。

 15世紀を中心とした大交易時代には、琉球王国は国際的な貿易中継拠点として、中国との進貢貿易や南蛮との貿易によって繁栄した。17〜18世紀にかけて首里王府は美術工芸や芸能の振興に力を注ぎ、琉球文化は黄金期を迎えた。

 1609年の薩摩進攻によって島津の支配下に置かれた。1866年の琉球処分によって琉球国王は藩王となり、1879年の廃藩置県によって沖縄県が設置され、琉球王朝は廃止された。
                             (参考・県立博物館「琉球王国」)

 琉球王朝の王様が、神が降臨した場所を巡拝するのが、アガリウマーイである。この巡拝は、王朝の行事として重要な意味を持ったが、それは、現代にも続く沖縄の神拝みの行事に続いている。

沖縄の神拝み 

 沖縄には神拝みと称して、門中(始祖を共通する父系の血縁集団)ごとに沖縄民族の祖先といわれるアマミキヨゆかりの地を巡拝する習慣がある。

 本来ならば、村落を基盤に機能をしていたが、都市化した現代では系譜的な家の本家、分家単位で執り行う場合が多い。

 神拝みは一般的に先祖の墓、生活した跡地、井戸、泉、御嶽、城跡をはじめ、先祖が拝んだ拝所を拝む。その際、聖なる泉の霊水を額につける「お水撫で」(ウビナディー)をしたり、その水を持ち帰って仏壇などにお供えしたりする。

 神拝みの対象となる聖地は地域や門中によっても異なるが、「東御廻い」と「今帰仁上り」(ナジンヌブイ)は、どこの門中も行うものだといわれている。

 首里にゆかりのある人達は首里12力所(5ヵ所の寺と12支の干支の神々を拝む)の拝所を廻る「首里巡り」を行うとされている。

 「東御廻い」は沖縄開聞の祖先といわれるアマミキヨが降臨して住み着いたと伝えられる知念村・玉城村に残る御嶽、城跡、墳墓、泉水、森などの聖地を巡り、五穀の神を祀り、祖先神を敬い感謝する儀礼のこと。

 「今帰仁上り」は、自分達の祖先の故地である城跡、墳墓、泉水、御嶽、森などを巡り祖先神を敬い感謝する儀礼のこと。門中によって巡拝のコースは違うが、世界遺産である今帰仁城跡内の拝所だけは共通している。

沖縄の創世神アマミキヨ

 「東御廻い」の巡礼コースは、琉球国王が聞得大君(琉球王国時代最高位の神女)を伴って行った2度の祭祀(2月の麦の初穂祭の時の麦発祥の地、久高島への行幸、4月の稲の初穂祭の時の稲の発祥の地、知念・玉城村への行幸)の時に巡拝した地を基本に設定されている。

 沖縄では首里を中心にそれよりも北部の、中頭、国頭地方を上方、島尻の西部を下方、あるいは下の七間切(具志頭・東風平・摩文仁・喜屋武・真壁・高嶺・豊見城)といい、島尻の東部を東方、あるいは東四間切(大里・佐敷・知念・玉城)といった。2度の行幸の聖地は東方に属していることから、聖地巡拝=東御廻いと称した。

 これらの聖地は琉球の聖地となり、首里王府にも重要視された。




沖縄漂流パート2−3 [2007年09月23日(日)]
1 園比屋武御獄(スヌヒャンウタキ)世界遺産



守礼門と首里城歓会門の中間にある。石門と周辺の森のことを総称して園比量武御嶽と呼ぶ。
1519年、尚真王(ショウシンオウ)の時代に造営され、神々の世界への遥拝所でもある。琉球王府の行事や祭祀と密着した御嶽で、国王が城外へ外出する際の道中の安全を祈願した。 2000年12月世界遺産に登録

2 御殿山(ウドンヤマ)



与那原町与那原にある。浜の御殿(ウドゥン)とも呼ばれ、琉球王国最高神女、聞得大君(キコエオオギミ)の即位式である「御新下り」(オアラオリ)の際には、この地に仮御殿が造営され儀式が行われた。琉球国王や聞得大君の久高島参詣の発着地でもあり、その析にも仮御殿が造営された。現在はグラウンドの奥に拝所がある

3 親川(エーガー)



与那原町与那原のほぼ中央にある泉。親(エー)には村の中心という意味もあり、まさに村の大切な泉(カー)である。浜の御殿に降り立った天女の子供の産湯に使ったともいわれている。
もともと与那原は上の毛の高台に村があり、この水を利用することで新島原の水田を開いて移住するようになった。与那原の大綱引きの綱はこの広場で作り上げる

4 場天御嶽(バテンウタキ)



琉球三山(北山、中山、南山)を統一した尚巴志(ショウハッシ)の祖父、佐銘川(サメガワ)大主が、伊是名島を逃れて移り住んだ所。もともとは佐敷町新里の馬天原の丘陵上にあったが、昭和34年の台風による地滑りで崩れ落ち、跡形もなくなった。馬天御嶽の跡地から谷一つ隔てた場所に佐銘川御殿があり、現在はその西側に移っている。

5 佐敷グスク



佐敷町佐敷の南側丘陵の斜面上にある。第一尚氏初代の按司(アジ=領主)であった尚思紹(ショウシショウ)・尚巴志親子が築いた。グスク土器、輸入陶磁器、金属製品(武具も含む)も数多く出土。建物跡も検出された。尚巴志には、農耕具に使う鉄を自分の刀と交換してまで分け与えたという伝説がある

沖縄漂流パート2−4 [2007年09月23日(日)]
14カ所の巡礼地 第5番から10番

6 テダ御川(ウッカー)



知念村の知名にある。知名の東側に突き出た知名崎の海岸にある泉。もともと太陽の神が降りた聖地とされ、テダは太陽を表す。国王や聞得大君が久高島を参拝する時にこの泉の前に舟を止め、飲料水を補給し航路安全を祈願したという。 1982年3月31日知念村指定史跡。

7 斎場御獄(セーファウタキ)



知念村久手堅(クデケン)にあり、琉球開闢(カイビャク)の神アマミキヨが降臨した地。沖縄最高の聖地ともいわれている。眼下東の方向には、神の島と呼ばれる久高島が見える。王朝時代は琉球の最高神職にあった聞得大君の即位儀礼が行われた。
1955年5月15日県指定名勝、1072年4月15日国指定史跡、2000年12月2日世界遺産登録

8 知念グスク



知念村知念の丘陵上にある。もともとはこの知念グスクを中心に村落が発達した。
野面積みの古城(クーグスク)とアーチ門を備えた切石積みの新城(ミーグスク)の二つの郭からなっている。
15世紀を中心に、輸入陶磁器やグスク土器、青銅製品、多数の獣魚骨・貝類が出土している。1962年6月7日 県指定建造物、1972年5月15日 国指定史跡

9 知念大川(チネンウッカー)



知念グスクの西側にある泉で、上方には水源地で稲作発祥の地といわれる「ウファカル」がある。知念城内に暮らしていた按司やその一族達も知念大川のわき水を飲料水として利用していたのだろう。知念グスクとともに、かつては国王や聞得大君の巡拝地でもあった。現在は「東御廻い」の名所として知られる

10 受水・走水(ウキンジュ・ハインジュ)



玉城村百名の浜川原にある。アマミキヨ渡来伝説の聖地「藪薩の浦原」内にあり、ヤハラヅカサ・浜川御嶽と並ぶ有名な拝所。稲作発祥伝説のある田の水口にある。崖下の海岸の農地はもと水田で、この泉で潅漑していた。泉の水は枯れないといわれ、事実、昭和38年の夏の大干ばつ時でも泉がわいていた。1974年4月10日 玉城村指定史跡
沖縄漂流パート2−5 [2007年09月23日(日)]
14カ所の聖地巡礼 11番から14番

11 ヤハラヅカサ



玉城村百名の海岸にある。ここは琉球開聞の神アマミキヨが、ニライカナイ(東方にあるという神々の住む世界)の大東の島(東方楽土)から渡ってきて初めて第一歩をしるした海岸と伝えられている。
いつごろからかサンゴ礁の岩石の上には、その地点を記した標注が立てられている。1995年2月23日 玉城村指定有形民俗文化財

12 浜川御嶽(ハマガーウタキ)



浜川御嶽はヤハラヅカサのすぐ近くの岩山にあり、琉球開闢の神アマミキヨが仮住まいをした地と伝えられている。御嶽の後ろからは、清水がわき出で、祠や香炉が設置されている。周辺の岩山は洞窟になっていて、人間が生活できるような場所であったという。 1972年5月15日 玉城村指定史跡

13 ミントングスク



玉城村仲村渠(ナカンダカリ)にある、アマミキヨ族の住居跡といわれる。伝承によると、沖縄人の祖神アマミキヨが東方楽土からヤハラヅカサに上陸、やがて丘陵上に進出して、最初に作った城であるという。
貝塚時代の遺跡でもあり、土器や石器が採集された。 1977年1月10日 県指定史跡文化財

14 玉城グスク



玉城村玉城の北方の丘陵にある。別名「アマチヂグスク」。久高島や本島中南部が見渡せる高台に立地。
城門は琉球石灰岩をくり抜いて、東向きに開けられており、そのままニライカナイに通じる形をとっている。琉球創世神アマミキヨが築いたとも、英祖王統第4代の玉城王の居城とも伝えられている。 1987年8月21日 国指定史跡
沖縄漂流パート2ー6 [2007年09月23日(日)]
久高島



久高島は、知念の港から、フェリーで20分でつく平らな島だ。ここに、琉球民族の祖のアマミキヨが降臨したといわれている。

 久高島は琉球の国造りにちなむ神話のほか神の島として知られ、王府時代には国王や聞得大君らの拝所となった。

12年に一度行われる「イザイホー」は、古代の祭祀形態をとどめ、女性だけの祭祀として知られている。

久高島の土地は字の共有財産で、島民は、個人所有の土地を持たず、島民は字から土地を借りて家を建て、畑を耕す(ノロなど特別な役職に対しては別に土地が与えられた)。

この土地制度は、原始共産制の名残ともいわれるが、土地総有制の根底にあるのは、天、地、海の自然と交流する島の精神であり、今後もこの制度を残せるように「久高島土地憲章」が制定されている。この制度があることで、久高島に外部資本が入らず、自然と神を守る風土がいまも生き続けることができている。

カベール岬



『琉球国由来記』(1713)によると、壬(みずのえ)の日にここから神様は馬に乗り島の廻りを巡視すると伝えられている。クバ(カベール)の林が岬までつながり、岬の小浜は、人類の祖アマミキヨが上陸した霊地と伝えられている。旧暦1月のピィーサチには岬で1年間の大漁祈願が行われる。

クボーウタキ



 沖縄の七獄の一つで最高の霊地である。ピィーサチ、八月祭り、フバヤクなどの祭事が行われる。男子禁制の地である。

イシキ浜



 黄金の壺が流れ着いた聖地。当時は、食物として海の貝と木の実しかなかったが、ある日、白樽夫婦が伊敷浜に参詣し、神様に食物の豊饒と子孫繁栄を祈ったところ、沖より黄金の壺が流れてきた。夫婦はその壺をとろうとしたが、壺は沖に流れていってしまった。しばらくすると壺がまた来たので取ろうとしたが、また流れ去ってしまった。

 夫婦は不思議に思い、ヤグル川の水で沐浴をして白衣に着替え浜で待っていると、壺は再び流れつき、今度はたやすく取ることができた。夫婦は喜んで家に持ち帰り中をあけると、麦、栗などの七種の種子が入っていたと伝えられている。(島の伝承では流れ着いたのは壷ではなく瓢箪ともいう)

大里家



 第一尚氏王統七代の尚徳王が鬼界島征伐後、凱旋報告のために来島されたとき、大里家の美人クニチャサ祝女に一目惚れし、長い間同棲した場所。王が首里城の政を忘れている間に、城で革命が起き急いで帰途についたが、内間高びしで魚釣りの漁師から王朝は転覆し尚円王(金丸)が王位についたと聞き、尚徳王は海に身を投げたと伝えられている。第二次大戦前まで、王の遺品である金の箸があったが、戦時中献金として政府に献上された。
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