事務局長の大野浩です。平成28年度も残すところ2週間となりました。歳のせいか、月日の経つのがとても早く感じられますね。間もなく人事異動、また別れと出会いの季節がやってきます。ところで皆さんは「啐啄(そったく)」という言葉をご存知でしょうか。
「啐」とはヒナが卵の殻を破って出ようと鳴く声。「啄」とは母鳥が卵の殻をつつき割る音のこと。この二つがぴったり一致することでヒナは誕生できる。禅宗では悟りを開こうとしている修行僧(弟子)と師家(指導的立場の僧)との呼吸が合う絶妙のタイミングという意味で、「啐啄の機」「啐啄同時」などと表現されます。私の人生にとっても、まさに「啐啄の機」と呼ぶにふさわしい出会いがありました。
1988(昭和63)年4月。私が在籍していた本庁保護課にKさんというベテラン福祉職が転入します。東京都出身、昭和42年に神戸市福祉職に採用され、長田福祉事務所(現・長田区保護課)を皮切りに、現場で生活保護(ケースワーカー9年・専任面接6年)、高齢者福祉(4年)、医療ソーシャルワーカー(3年)に従事。本庁では局庶務課(2年)、保護課(13年)に勤務されました。
Kさんは管理職以上に法律・制度を熟知し、本庁保護課に二度配属されたように、その的確な判断力には定評がありました。優れた知見の源は並外れた読書量から。社会福祉・社会保障の新刊が出ると書店で手に取り、面白いと思えば購入してすぐに職場で回覧する。そのうちの何冊かは私の座右の書となっています。趣味の映画に関しても評論家顔負けの幅広い知識を持っていました。
本庁保護課の仕事、その要は今も昔も疑義照会。生活保護法の解釈や制度の具体的運用について、事例に即して疑問点が生じると、各区の査察指導員(保護担当係長)から質問の電話がかかってきます。当時はどこの区の電話であろうと、受けた担当者が責任を持って回答するのが決まりでした。
とは言えオール神戸市の見解となるため、これからの全市保護行政に波及する。相手方(被保護世帯)との関係によっては審査請求、さらに訴訟が提起される可能性もある。いい加減な答は返せない。そこで担当者は法律、実施要領(国の通知・通達類)、過去の回答、さらには参考文献−例えば厚生労働省が監修する「生活と福祉(昭和31年頃から現在まで)」、保護のバイブルと言われた「生活保護法の解釈と運用(昭和25年・小山進次郎著)」など−も紐解いて、慎重に回答案を作成します。そして通称「中ノ島(課の真ん中に座っていた4名の担当者)」で協議し合意に達したら最終回答を行う。
私も毎回、一生懸命に法的根拠等を調べ、考えに考え抜いて回答を作りました。ところが中ノ島で話し合うと、Kさんから必ずダメ出しを受けるのです。
『その考えは違う。保護法○○条はそう解釈するんじゃない』
『実施要領に「○○すること」と書いてある。これは命令と同じで例外は許されない』
『実施要領の「○○してさしつかえない」は例外を表すが、この事例は他の被保護世帯とのバランスから原則論で対応しなければ説明がつかないだろう』
自信を持って提案してもKさんに覆され、いつもKさんの説明に沿った修正を余儀なくされました。
何度ぶつかっても一撃で跳ね返される。その頃、相撲界は大横綱・千代の富士が53連勝するなど全盛期。ある番組で同じ部屋の北勝海(ほくとうみ)に稽古をつけている姿が紹介されました。北勝海も横綱で強い力士なのですが、千代の富士の胸に全力でぶつかっても歯が立たない。何度も投げ飛ばされ、土俵に叩きつけられ、砂まみれになった北勝海が土俵の横で『オエー』と嘔吐する、凄惨な光景。その吐いている姿がKさんに太刀打ちできない自分と重なって見えた。
経験・力量の差と言ってしまえばそれまでですが、2年・3年たって全く及ばないのは屈辱でした。しかし、Kさんを超えられなかった期間、私自身が精神的・技術的に一本立ちしていなかった。分厚い壁のような先輩に憎悪にも似た感情を抱きつつ、心の奥底では難しい質問はKさんが解決してくれるだろうと期待していました。日常業務においても自分の責任が問われるような場面では極力前に出ない。そんな中途半端な姿勢で受けた1回目の昇任選考(係長試験)は当然のことながら不合格。
平成3年6月。神戸市の生活保護に対する会計検査が実施され、国会報告2件、国庫補助金3,300万円返還という一大事に。検査の担当だった私は本庁5年目で初めて矢面に立ち、調査官とのやり取り、矢継ぎ早に要求される報告書など、無我夢中で対応するうちに自分の腹が据わってくるのを感じました。そして年明けの昇任選考は2回目で合格。
平成4年4月。妙法寺川公園の桜がピークを過ぎる頃、私は須磨福祉事務所(現・須磨区保護課)保護係長に着任します。ある日、担当者に生活保護法を説く自分の口調がKさんそっくりであることに気づきました。驚いたことに、何を聞かれても生活保護手帳(※)のどこに書いてあるかがだいたい分かる。心の中で砂にまみれ、吐きながら覚えたことが、血となり肉となっていたのです。自分の殻を破れない私をKさんが徹底的に鍛えてくださったお蔭だと感謝の気持ちで胸が一杯になりました。
Kさんは定年目前に健康を害され、残念ながら退職の翌年に帰らぬ人となりました。平成17年2月、本庁や現場でともに働いた教え子がささやかな送別会を開催。幹事に立候補したことは言うまでもありません。私が受け持った送別会のプログラム、万感の思いを込めて紹介した言葉が「啐啄の機」でした。
かけがえのない恩師と出会って30年。今ならがっぷり四つで議論する自信がありますが、それは叶わぬ夢となりました。代わりに、私が次の世代との「啐啄」を演出できる人間になること。相手の才能を見抜くため、人格や知識に磨きをかけることが、故・木村進さんに対するご恩返しだと思っています。
※生活保護手帳:国が編集する生活保護実務の必携。法律や実施要領を収録している。