事務局長の大野浩です。少し遅くなりましたが新年あけましておめでとうございます。旧年中は垂水区社会福祉協議会の事業にご支援・ご協力いただきありがとうございました。
酉年ということで、職員一同「鳥の目」を持って社会を俯瞰し、時代を先ドリするような提案をしていきたいと思っています。
さて、早いもので阪神・淡路大震災から22年が経過しました。1月16日の神戸新聞朝刊1面には『震災後の入庁者過半数に』との見出しが掲載され、神戸市役所はその割合が『2016年度に51.9%となった』とのことです。東日本大震災の傷跡がオリンピック報道に(意図的に?)かき消されつつある今、神戸の1・17を語り継ぐ意義を再認識しています。ちょうど1年前のブログで津山市斎場に出向いたことがあると書きました。過去に研修等で語った内容と重複しますが、今回はそのときを中心に震災を振り返ることにします。
あの日、須磨福祉事務所に勤務していた私は遺体安置業務に従事しました。救急車や病院の車で運ばれてくるご遺体を担架に乗せて職員5〜6名で担ぎ、安置所に指定した須磨体育館の競技場に運び上げるのです。初めての業務なので要領を得ず、間隔をあけて安置したため、17:00までに広い体育館が70体で一杯になってしまった。すぐに隣の須磨区民センターを追加指定したものの、1階と2階は市民が避難しており、地下1階と3階は机椅子が倒れてすぐに使えない。階段を使って4階ホールに上げることとし、他の階は片付いた部屋から順番に使うことにしました。
午後の時点で出勤できた職員は39名中14名、女性は事務所内で避難者や問い合わせの応対、男性はひたすら遺体を担ぐ。夕方になるとさすがに疲労困憊し、8人がかりで持ち上げる。ご遺体は次第に担架ではなく、倒壊した家屋の扉や雨戸に乗せられ市民の車で直接搬入されるようになりました。当初は生きておられるのではと思うようなご遺体もありましたが、時間とともに損傷が激しくなり、2日目からは焼骨や骨粉が見られ、火災による被害の大きさを実感しました。ご遺体は初日160体、2日目127体、3日目22体搬入、区民センターもほぼ一杯に。
災害で亡くなった方は検視を受け、市民課で埋火葬許可証を発行されて初めて荼毘に付すことができます。検視が終わるとご遺体の火葬が次の大きな課題となりました。阪神・淡路大震災ではおよそ6,400名(神戸市約4,500名)もの尊い命が奪われましたが、市内の斎場で1日に火葬できるのは150体が限度です。そこで保健福祉局斎園課(=当時)から周辺自治体に斎場(炉)の提供を依頼。東は京都市・西は倉敷市まで十数箇所の市町から賛同を得られ、1月20日以降各市町の斎場(炉)を毎日・一定数お借りできるようになりました。深夜に斎園課から各区の割当数がファクス送信されます。それを私たち福祉事務所職員が受け取り、夜明けとともにご遺族に連絡を取り希望を募る。希望があった場合は二日後の早朝に集合し、職員1名同伴で協力自治体までご遺体とご遺族を搬送します。
私も1月23日の引率責任者としてご遺体(5人)とそのご遺族とともに岡山県津山市へ出向きました。朝8:00、パトカーを先導に、ご遺体は外郭団体のワゴン車、ご遺族と私はトラック3台(建設会社のボランティア組織「土木協力会」から派遣)に分乗し須磨区民センター前を出発。市内はどこも激しい渋滞で中国道に乗るまでに3時間を要し、合計6時間かけて午後2時過ぎようやく津山市斎場に到着。すると、現地では予定された火葬を後回しにし、炉を空けて待っておられました。さらに全員の骨上げが終わろうとする時刻に津山市長が弔問に訪れ、一人ひとりご遺族の手を握って
『津山市民は皆さんを心配しています。困ったことがあれば何でもおっしゃってください』
と激励。極めつけは神戸からやって来る一行のために昼食の弁当まで調達されていたのです。但し、ちょうどご遺族とボランティアの人数分だったため、私はそれを配布すると食事の間は待合室の外に立っていました。
ふと振り返ると、隣の棟の事務室から斎場長が手招きしている。中に入ると応接セットに二段の重箱が置かれ、中におにぎりが入っています。ご遺族の親戚筋に当たる方が同じ趣旨で用意されたが、弁当を購入したので余ったらしい。
場長『地元の方のご厚意です。よかったら召し上がってください』
震災後、何日もまともに食事をしていないことを思い出しました。
大野『本当にいいんですか』
場長『ええ。いくらでもどうぞ』
おにぎりは30個ありましたが、私は夢中で全部食べてしまいました。真っ白なご飯と塩味、シンプルだけど、心と身体に染み渡る味。人生で一番嬉しかったことはと聞かれたら、迷わず『おにぎり30個です』と答えます。
帰りのトラック。お腹が一杯になり、助手席でうとうとしていたら、運転手(愛知県・矢作建設工業)の方がそっと声をかけられました。
『神戸に帰ったら寝られないでしょう。遠慮せず今のうちに休んでください』
私は溢れる涙をこらえることができませんでした。須磨区に帰ってくると日付が変わろうとしていました。
阪神・淡路大震災の関連業務、特に直後の遺体安置と斎場斡旋はおびただしい犠牲者と向き合い、人間の生と死に対する姿勢が絶えず問われる過酷な仕事でした。精神的・肉体的にも極限に迫る試練を乗り越えられたのは、職場の仲間の超人的努力とチームワーク、そして何より全国から神戸市に寄せられた物心両面にわたる温かいご支援のお蔭です。その象徴ともいえるおにぎり30個によって、私は今も走り続けることができる。それらの記憶を最大限の感謝を込めて後世に伝え、新たな被災地(者)に対する協力を惜しまないことが、生かされた者の使命であると思っています。
2011年11月21日神戸マラソンで取材された記事です
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