改正介護保険は、「租庸調」 [2017年02月02日(Thu)]
改正介護保険は市民のボランティア参加を必須とする。これをとらえて「徴兵制」だと指摘する人もいる。
もう1つ似ているのは古代の税制「租庸調」だ。これは、生産したコメ、機織りものを「背負って(そもそも荷車はなかったし、あったとしても道路は草むらだから動かなかっただろう)。都へ届けさせた。長い旅で餓死したものも出たという。ウィキペディアの解説を下記に紹介する。 つまり、今回の介護保険改正は金(保険料、税金、利用料)を出せ、そして、ボランティアをして汗も出せ、ということだ。自分の税金(コメ、反物)を自分で運んで来い、という古代の税制と同じだ。 これを我々は引き受けなければならない。これは世の中をみんなで支えようという考えからであり、コミュニティを地域社会を自分たちで作っていこうということだ。 この取り組みは政治哲学でいう「公共善」なのだが、うまく動かすためには自治体職員が辞を低くし、市民と対等の「協働」の精神で臨まなくてはならない。そうしないとうまくいかない。 日本の租庸調 大化の改新(645年)において、新たな施政方針を示した改新の詔のひとつに「罷旧賦役而行田之調」とあり、これが租税の改定を示す条文である。ここに示された田之調は田地面積に応じて賦課される租税であり、後の田租の前身に当たるものと見られている。日本の租庸調制は、中国の制度を元としているが、日本の国情を考え合わせ、日本風に改定して導入したものである。 租は国衙の正倉に蓄えられ地方の財源にあてられ、庸調は都に運ばれ中央政府の財源となった。庸と調を都に運ぶのは生産した農民自身で、運脚夫といい、国司に引率されて運んだ。 現物を納める税は、8月から徴収作業を始め、郡家さらに国庁の倉庫に集められ、木簡が付けられ、11月末までに都の大蔵省に納められた。奈良時代は原則として車船の輸送が認められなかったので、民衆の中から運脚が指名され、都まで担いでいった。往復の運搬のたびの食料は自弁であったために餓死する者も出た。運脚たちが歩いた道は国府と都を直線で結ぶ官道(駅路)七道であった。 地震や土砂災害などの天変地異が発生した場合には、地域的に免除されることがあった。実際に宝亀3年(772年)に豊後国で発生した山崩れ(現在でいう天然ダムの決壊に相当)が発生した際(続日本紀巻32)や天長7年(830年)の出羽国の地震(日本逸史巻38)、承和8年(841年)の伊豆国の地震(続日本後紀巻10)では、災害の記述とともに租庸調の一部が免除されている記録がある |
Posted by
田中尚輝
at 11:52