「贈与」と「ボランティア」の間 [2014年05月28日(Wed)]
『贈与』はどこまで真正の贈与であって、「交換」ではないのか、という哲学上の議論がある。贈与は一方的に与えるのであって、その反対給付を期待してはならない。だが、このような真正の贈与はあまりなく、多くは交換になっている。
さて、ボランティアは贈与か交換か、という議論がある。「有償ボランティア」のように反対給付が制度化されているものもあるが、金品的な反対給付がなくとも、ボランティアの側の精神的な満足感、自己実現への寄与は立派な「交換」ではないか、という立場が成り立つ。 もう一つ。政府が政府の責任を果たさずに市民に相互助けあい、ボランティアを強制、あるいは誘導するとすれば、そのボランティア活動は時の政府権力を擁護するものとになるのではないか、という論がある。 だが、私は人間には「贈与欲求」があると思う。家族を構成したり、社会生活をする中で「贈与欲求」が育まれる。交換とよばれる反対給付は、贈与をすることによって生ずる従的な関係性であって、反対給付があるとはいえ、贈与の価値がさがることはない、と私は主張したい。 また、ボランティア活動によって、時の誤った政府の社会保障政策が間違った方向に行く場合がある。だが、これも構わないのではないか。目の前の困った人を救うのに、すぐ手を出すのと制度改革から手を付けるべきだというのと、どちらが説得力を持つだろうか。制度改革からすすめると目の前の困った人は制度改革の暁には死んでいるかもしれない。それでよいのか? 私は、この場合二刀流で行かざるを得ないと思っている。目の前の困った人を支援しながら、社会を変えて行くのだ。介護保険制度の改正が予定されている中で、原理的な課題を深めていきたい。 私は、哲学者ではない。 |
Posted by
田中尚輝
at 09:45