広報第23号の発行
[2011年03月28日(Mon)]
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広報第22号の発行
玉滝地域の人口(平成22年9月30日現在)
木津慶次郎の胸像写真発見
玉瀧地域の歴史
玉滝地域は、古い歴史があり、古文書にもその名が出てきます。
そのいくつかを紹介します。 なお、これらは、玉滝地域まちづくり協議会(教育・文化部会)が平成22年11月13日に、地元の阪本正彦氏(上野高等学校教諭)を講師に「玉滝地域の歴史を知ろう〜玉滝荘から模範村まで〜」と題して開催した歴史勉強会のときの資料をもとにしたものです。 【奈良時代】 天平17年(745年)4月 伊賀国真木山で火災起る。<続日本紀> ※ 真木山は現在の伊賀市槙山周辺と推定されますが、3、4日燃え、延焼数百余町と記されています。 天平宝字2年(758年)11月 造東大寺司、伊賀山へ銭百文送る。<東大寺写経所間銭下帳> ※ 造東大寺司は、東大寺を建てる役所のことです。 天平宝字2年(758年)11月 造東大寺司、伊賀山へ舎人の食料を支給する。<後金剛般若経料雑物収納帳> 天平宝字6年(762年)2月 造石山寺所、伊賀山から杉樽二百五本購入する。<造石山寺所雑材幷檜皮和炭等納帳> 【平安時代】 天徳3年(959年)12月 太政官、橘元実が前年に施入した玉瀧杣を東大寺領と認める。<橘元実玉瀧杣施入状案> ※ 玉滝荘は、橘元実(たちばなもとざね)が以前から玉滝内にあった先祖の墓地の山を東大寺に寄進したことから始まり、初めは「玉滝杣」と呼ばれていました。 翌年、東大寺は、寺の修理などに必要な材木の伐採のための東大寺固有の土地として、他の者の立入り禁止を中央朝廷に働きかけ、認めさせています。 この後、寺の勢力を背景に玉滝周辺の内保・湯船・鞆田・真木山(槙山)までも取り組み、広大な地域を獲得していきます。 治承5年(1181年)6月 東大寺三綱、伊賀国内における東大寺御封米の配分について注進する。<伊賀国東大寺封米支配状案> ※ 玉瀧村七十三石、玉瀧寺七石三斗、内保村十五石と記されています。 【鎌倉時代】 建暦3年(1213年)8月 玉瀧荘百姓ら、鷹の巣をめぐって近江国信楽荘々民と争う。<伊賀国北杣百姓等解写> ※ この百姓とは、単に農民のことではなく、住民のことです。 建治3年(1277年)2月 藤井貞行、内保の西音寺に伝わる木造薬師如来坐像の修造を開始する。<西音寺木造薬師如来坐像墨書銘> 【室町時代】 文明5年(1473年)5月 一条兼良、近江国を経て京都へ向かう際に伊賀国を通過する。<ふち河の記> ※ 水口から伊賀の服部に向かう途中、玉瀧寺という律院に泊まり、翌日河合へ向かったと記されています。 永禄12年(1569年)11月 伊賀惣国一揆掟書が作成される。<惣国一揆掟書> ※ 他国から当国へ攻め入られたときは、鐘を鳴らして知らせ、一同まとまり、上は50歳、下は17歳の者は戦うことなど記されています。 【安土桃山時代】 天正9年(1581年)9月 織田信長、伊賀攻めを開始し、同月二十日頃制圧する。<多聞院日記> ※ 伊賀の四方[甲賀口(滋賀県方面)、勢州口(旧関町方面)、南伊賀(奈良県宇陀郡方面)、西(奈良県山辺郡方面)]から攻め入ったと記されています。
郷土の先覚者“木津慶次郎”
玉滝小学校に木津慶次郎の碑が建っています。
下の台には「木津慶次郎君之像」と書かれています。そして、その上に何故か「木津慶次郎翁顕彰碑」と書かれた碑が乗っています。 そして、その横に、次のように紹介されています。 郷土の先覚者 木津慶次郎さん 木津慶次郎さんは、明治2年(1869年)1月7日、阿山町大字玉瀧鈴鹿で生まれられました。小さい頃から心のやさしい、まじめな人がらで勉強の好きな人でした。明治21年玉滝村役場に入り、いろいろとむつかしい仕事をこなしていかれました。 当時は、町村制度ができて間もない頃であり、景気が悪く、よくない人も出て、人心が乱れがちでした。慶次郎さんは、年少の身であったが、村の発展と人々の幸せを願い、村民を励まし、ため池を作り、耕地整理(こうちせいり)などして村が豊かになるよう努力されました。 明治37年村民の衆望(しゅうぼう)をになって36才で村長になり、家の事も顧(かえ)り見ず村のためにつくされました、事業の計画など念入りに考え、一旦決まったことは、どんな困難があってもそれをはねのけてやりとげられたのでした。 村の政治のことでも、いつも先人や村民の意見を大切にし、自慢(じまん)をするようなことは全くなく、職員に感謝と激励の言葉を惜しまれませんでした。 明治39年には、県知事より表彰されました。また明治40年には、文部大臣より表彰されたのですが、表彰金を生徒奨学基金(しょうがくききん)にあてるなど、青少年の育成にも大変な力をそそがれました。明治41年には、今の農協のようなものを作り、産業をさかんにするとともに、青年の勉強する補修学校を作ったり、かずかずの業績(ぎょうせき)を残されました。 明治42年には、玉滝村が全国でも数少ない模範村(もはんそん)として国から表彰を受けました。また明治43年には、慶次郎さんが藍綬褒章(らんじゅほうしょう)という立派な表彰を受けられました。 さらに、明治45年には、三重県議会議員に当選、その後十数年県議会議員として県行政の推進に努力され、大正8・9年には、県議会副議長も勤(つと)められました。 昭和2年6月慶次郎さんは、年令59才で村人に惜しまれ死亡されました。 昭和6年11月には、衆議院議員川崎克氏を中心とする顕彰会(けんしょうかい)の人々が、木津慶次郎さんの功績をたたえるため、当時の役場に銅製の胸像(きょぞう)を建てられたのですが、胸像は、第二次世界大戦の時拠出(きゅしゅつ)、その後、顕彰碑(けんしょうひ)に代え、これから育っていく青少年の模範となるよう小学校に場所を移転して現在に至っているのであります。 私達も、郷土の先覚者木津慶次郎さんの偉業(いぎょう)をたたえるとともに、慶次郎さんのような立派な人間になるよう努力しようではありませんか。 昭和62年3月 新校舎竣工の日 阿山町立玉滝小学校 ![]() ![]()
玉滝地域の人口構成(平成22年3月31日現在)
広報第20号及び広報第21号の発行
玉滝地域まちづくり協議会は、広報第20号及び広報第21号を発行しました。
広報第20号は、平成22年4月から6月までの内容で、新会長の挨拶と新役員等、平成22年度の事業計画、福祉部会が実施した「日帰り温泉ツアー」、そして伊賀市が進めている自治組織の窓口一本化について掲載しています。 広報第21号は、平成22年7月から9月までの内容で、生活・環境部会が実施した公共用地や過去に玉滝地域まちづくり協議会が設置した不法投棄防止看板の周辺の草刈り、産業振興部会が地域適応作物として取り組んでいる「エゴマ」、福祉部会が実施した「ええあんばい〜昔なつかしいおやつづくり〜」、そして10月24日に実施した「第4回五本松ふれあいまつり」の案内を掲載しています。 ちなみに、「ええあんばい」とは、当地域でよく使われる言葉で、「ええ」は「良い」、「あんばい」は「塩梅」のことで、物事の具合、調子、加減が良いということです。 ☆画面をクリックすると、拡大したPDFが表示されます。 ![]()
玉滝音頭
玉滝地域には、この地域独自の音頭「玉滝音頭」があります。
この曲は、今から半世紀以上も前の昭和27年頃に作られたものですが、この歌詞に現在の玉滝地域まちづくり協議会がめざす原点がみえます。 玉滝音頭(作詞:北川眞次 作曲・振付:川合一徳) 一 ハアー 私の村で見せたいものは ひとつ心に その名も高い むかしゃ日本の模範村 サテ さあさ 模範の歴史ある そやそや そやして そうやして 二 ハアー 私の村で見せたいものは 春の田んぼに あかねのたすき なごむえくぼに笠ゆれる サテ さあさ えくぼに風そよぐ そやそや そやして そうやして 三 ハアー 私の村で見せたいものは 神代ながらの 藁屋の家に おこる日本の根がふとる サテ さあさ 日本の根がふとる そやそや そやして そうやして 四 ハアー 私の村で見せたいものは 村をうずめる こがねの波の みのるほにほの米どころ サテ さあさ こがねの波をうつ そやそや そやして そうやして 五 ハアー 私の村で見せたいものは みんな輪になる 玉滝音頭 おどる手足に村おこる サテ さあさ 手足に村繁盛 そやそや そやして そうやして
玉滝地域の民話(その5)
第4話 岩尾山(いわおさん)のお話
むかし、あるお坊さんが、京の都に出てくるように帝(みかど)から言われました。 そのお坊さんが、伊勢の国から京の都に向かう途中、真山(しんざん)を歩いているとき、大きなカミナリがゴロゴロと鳴ってきました。お坊さんはビックリして、これは大変と、雨やどりをするところをさがしていました。『早くさがさないと濡れてしまう。』すると、一軒の家に明かりがともっているのが見えてきました。 お坊さんは、ホッツとしてその家の方へと急ぎ、『少しの間、雨やどりをさせてください。』と言いました。その家の人は、『どうぞ。どうぞ。何もないけれど、ゆっくりしていってください。』と言って、雨やどりだけではなく、御馳走までしてくれました。けれども雨がなかなか止まないので、泊まらせてもらうことになりました。 あくる日、雨も止んで、旅立つことになり、家の人がお弁当を作って持たせてくれました。 お坊さんは、『ありがとうございます。泊まらせていただいたうえに、お弁当まで作っていただきまして。』とお礼を言って、京の都へ向けて出発しました。 途中、お昼になったので、池のほとりの切株に座ってお弁当を食べました。 食べ終わって、お箸を地面に何気なく突き刺すと、そのお箸が見る見る大きくなって、二本の杉の大木になりました。 お坊さんは、ビックリして、その木を眺めていたところ、向こうの山に五色の雲がかかりました。お坊さんは、『これは不思議。』と、また驚きました。 そこで、お坊さんは、この五色の雲がかかった山に登ることにしました。 途中に大きな岩があり、その陰に仏さんが横たわっていました。『もったいないことだ。ここにお不動さんをおまつりする建物を建てたら、お不動さんや村の人も喜ぶだろう。』とお坊さんは思いました。 そして、そのお坊さんが後に建てたのが、現在の岩尾山だということです。 ☆岩尾山:三重県(槙山)と滋賀県の境にあるお寺です。
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