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会津白虎隊「飯沼貞吉」 [2013年10月08日(Tue)]

 大河ドラマ「八重の桜」はご覧になられているでしょうか。
 長岡藩目線としても、前半〜戊辰戦争まで、会津の苦悩はとても他人事では観られない気持ちでした。

 さて、会津戦争のクライマックスとして決まって描かれる「白虎隊」。
 飯盛山での少年兵の自刃には、戦争の愚かしさを苦く突きつけられます。
 その白虎隊の中で、唯一生き残った「飯沼貞吉」という人物が居ます。
 彼を治療し、蘇生したのは長岡の軍医であるとご本人が語っていますが、その名前は残念ながら忘れてしまわれたそうです。
 
 河井継之助と共に八十里を越え会津に向かった長岡の軍医の記録には、阿部宗達(長谷川宗済の師)と吉見雲台の名が明確に挙っており、特に吉見雲台はオランダ人医師ポンペに習い外科を習得していたそうです。飯沼貞吉を治療した医師とは、この人が有力でしょうか。

 さて、ブログ管理人がこの話題に興味を持ったのは、「飯沼貞吉を助けたのは長谷川泰先生かもしれない」と会津の方から聴いたことからです。
 確かに、長谷川泰は当時国内一の外科技術を教えたとされる佐倉順天堂で、跡継ぎの候補にまで挙った人です。松本良順には軍陣医術(戦地での外科手術)を学んでもいます。
 しかし残念ながら、戊辰戦争中の長谷川泰(当事、泰一郎)の行動は、当ブログでも何度か記事にしたように、奇妙なほどに記録にありません。「長谷川泰ものがたり」では、親友外山脩造(寅太)と河井継之助を看取ったというように描かせていただきましたが、八十里を越えたかどうかすら、定かではないのです。

 〜これからも興味をもっておきたいと想います。
【掲載情報】記念講演の様子/長岡新聞 [2012年03月22日(Thu)]

 地元誌長岡新聞の3月17日の1面と、22日に、大ボリュームで掲載して頂きました!
 いつも積極的な取材をして頂きありがとうございます。

med01.jpg
鵬斎の書〜蒼龍館/青鬣館 [2011年11月19日(Sat)]

 越後に数々の書を残す亀田鵬斎は、江戸時代の書家、儒学者です。
 以下の写真はいずれも鵬斎のものですが、長谷川泰ゆかりの家に残されていました。



 「蒼龍館」(そうりゅうかん)
 新組地区四ツ屋町の清水家は、この地で長く私塾を営んでいました。
 残された古文書から長谷川泰(幼名多一)が門下生であったのかは今のところ不明ですが、生地の福井村からはほんの間近、何の関わりも無いとは思えません。
 以前に記事にした「宝珠育児園」と長谷川泰との関わりは、清水家の史料から見つけて頂いたものです。
 ※当ブログ関連記事「宝珠育児園」



 「青鬣館」(せいりょうかん)
 「長谷川泰ものがたり」にも登場させて頂いた、長谷川泰と外山脩造の二大偉人を育てた徂徠学者・井上五蔵に学んだ私塾です。現見附市の耳取村にありました。
 こちらはその井上家に残された書です。文化6年と元号が記されていますが、これは亀田鵬斎が越後を旅した時期と一致します。
 ※当ブログ関連記事「青鬣館に学ぶ」


 亀田鵬斎は、文化6年から日光〜信州〜越後〜佐渡と旅をしています。3年間の旅費の多くは越後商人のスポンサーによるそうです。
 上記2軒の私塾は八丁沖を挟んだ隣村にありましたから、互いに連絡し合って鵬斎を持てなしたのではないでしょうか。
 (塾名の響きがちょっと似ていますね。どんな由来があるか調べてみたいところです、中国の故事や漢詩からの引用でしょうか?)

 鵬斎は越後の旅の中で出雲崎にて良寛と出会いましたが、大いに影響を受けて江戸に戻ると、その書が大人気を博し人々は競って揮毫を求めたと言われます。
 「鵬斎は越後がえりで字がくねり」と、良寛の大らかな筆致の影響を川柳に歌われてもいます。
【講演】北越戊辰戦争と八十里越 [2011年11月06日(Sun)]

 10月30日、三条市の諸橋轍次記念館で開催された、長岡河井継之助記念館館長・稲川明雄さんの講演「北越戊辰戦争と八十里越」に参加しました。八十里越の入口にほど近い下田という事もあり、今回のテーマに関心の深い方も多かったことと思われました、来場なんと100人の大盛況です。



 稲川明雄さんは、ご自身の足で2度八十里越の難路を歩かれ、詳しい取材を行なわれています。講演では、北越戦争終結後(長岡城落城後)の同盟軍と長岡藩軍の、八十里越での動向が解説されました。
 戦禍に巻かれて我が子を殺める母、略奪行為を恥じ自害する武士・・・当地の記録に残る戦争の悲劇は、普段の長岡郷土史の中ではなかなか触れられるものではありません。明治維新とは必ずしも正義の改革と言えたのか?その悲劇は、歴史を見直す糧とすべきと稲川さんは語られました。
 また、八十里越に比べればマシと、三島億二郎ら長岡藩士は復興までの苦難に耐える事ができたとも考えられています。

 長岡出身の人類学者・小金井良精の妻である小金井喜美子(森鴎外の妹)の書いた「戊辰戦争むかしがたり」によれば、9歳の良精も八十里を越えているそうです。(稲川さんの説によれば、軍医長谷川泰は八十里に同行してはいません。)

 長岡軍軍事総督であった河井継之助は、致命の重症を負いながら八十里(実際は八里ほどだがあまりに険しいため十倍に表現された)の峠を越えました。その道中で死を覚悟した継之助は、有名な「八十里 腰抜け武士の 越す峠」の自嘲の句を詠みました。
 それに対して稲川さんは、只見に抜ける道中の継之助は再び生きる気を起こしたのだと想像されました。担架に横になりながら見上げた空を自由に流れる雲が、継之助を生きる気にさせたと表現されています。
 しかし間もなく只見の地で継之助は力尽きますが、「商人になれ」と外山脩造の未来を示した最後の薫陶などは、前向きな精神あってこそのものだと確かに思えます。

 講演後の質疑応答では、来場者の質問に答えた稲川明雄さんが河井継之助を「現実的、真面目、優しい人」などなどと褒めちぎる場面がありました。同時に、山田方谷に民衆主義を学びながら民を守るために戦争回避に踏み切る事のなかった事を、今も継之助に問い続けているのだとも話されてもいます。その様子を傍聴しながら、これは本物の愛情だと感動いたしました。

 越後郷土史における戊辰戦争の検証は、その後の政治などマクロに捉えるばかりでなく、地域ごとにミクロに深く探っていくべきだと締められました。その一つ一つの集合が歴史の本当の姿を形作るのでしょう。
 稲川明雄さんの講演は、その時々のテーマに限らず常に「越後人気質」「長岡藩風」探るものであり、郷土史の基本を押さえるのに最適なお話だと思っています。この度も、大変に勉強になる講演でした。



 幼い日に西遊記などの中国の物語に出会ったことが切っ掛けとなり、生涯を通じて漢学と儒学の研究に情熱を傾けた諸橋轍次は、下田村の生まれです。「大漢和辞典」の編纂は歴史的な偉業となりました。
 諸橋轍次は少年時代の長谷川泰も学んだ漢学塾・長善館を「越北の鴻都」と呼び讃えています。(中国が漢の時代、優秀な人材を集めた鴻都門という学問の一派がありました。)

 諸橋轍次記念館(三条市公式サイト)
【銅像建立】日本医科大学へ取材 [2011年10月29日(Sat)]

 長谷川泰翁銅像建立を目指し、東京は日本医科大学へ取材に訪れました。
 読者の皆様には既に言わずと知れた、長谷川泰の「済生学舎」を起源とする私立医科大学の名門です。
 医学部のエントランスには、今年春に寄贈された長谷川泰先生と、OBを代表する野口英世博士の胸像が並んでお出迎えです。何度見ても胸躍るツーショットなのです。

 ※当ブログ関連記事
 「日本医科大学に長谷川泰像」



 長岡在住彫刻家の峰村哲也さんに御一緒させて頂き、ブログ管理人は4度目の日医です。この度も、医史学教育研究会の唐沢先生、志村先生、殿崎先生に御案内頂きました。お会いする度に目からウロコなのですが、この日は彫刻家・峰村さんの目線から新たな長谷川泰像を引き出して頂けたと思います。



 上の写真は、日医同窓会の橘桜会館に展示させる長谷川泰晩年の漢詩の偶成です。読書に没頭して過ごす晩年の淋しい心情が表れており、峰村さんも大変に感じ入られている様子でした。
 長谷川泰の孤立は、医学史の中では癇癪を起こして投げ出したとされてきた済生学舎の「廃校」に起因するでしょう。しかし、その廃校がいかにして仕組まれたものであったか、校長長谷川泰の学校存続への努力はいかほどであったのか、日本医科大学医史学教育研究会の努力によりその事実は明らかになっています。

 橘桜会館には、開学の祖長谷川泰とその故郷越後との関わりが展示されていますが、同校出身の偉人が野口英世はもちろん多数顕彰されています。


小此木信六郎理事長


 日本医科大学の開学の精神は「克己殉公」。これは当時の理事長小此木信六郎がフーフェランドの「医戒」から引用されたものです。つまりこれは長谷川泰が佐藤尚中から受け継いだ「済生救民」と原典を同じくするものですが、小此木信六郎の当時済生学舎と日医との関係は明らかにされていません。〜二つの精神が偶然の一致により結びついていたこと、記録が失われても精神が受け継がれていた事実に強く感動します。
 現在では、「克己殉公」と「済生救民」は共に日本医科大学の開学の精神として並び顕されることになりました。


肥沼信次の展示


 ドイツのウリーツェンの伝染病医療センター初代所長、近代日医の偉大なOB肥沼信次の展示です。
 チフス・コレラなどの疾病対策に尽力する中で自身もチフスに罹い、1946年3月8日37歳で死去。死の直前に看護師に「桜が見たい」と言い残し、後にウリーツェンに日本から桜の木が贈られました。
 誰かに似ていませんか?・・・そう、野口英世です!肥沼信次の時代にも野口がOBとの意識はまだ無かったはずですが、精神とはこの様に受け継がれるものなのですね。

 肥沼信次の伝記絵本
amazon「ドイツ人に敬愛された医師・肥沼信次」

 なんと、肥沼信次を題材にしたコミックもあるんですね!
amazon「リーツェンの桜/舘澤 貢次 (著),かどた ひろし (イラスト) 」



 そして、上の写真は殿崎先生の最新の野口研究から。
 野口の論文が世界でいかに多数の引用を受けているかを示すデータなのですが、この数字を超える者はなんとアインシュタイン博士しか居ないそうです!
 私たちの知らない専門分野での野口の注目度には驚かされます。日本はまだまだ胸を張って野口英世博士を顕彰すべきですね。


 唐沢先生は言われます。
 「開学の祖は学校の目標となる人物、長谷川泰を校史に置いて先生が変わり生徒が変わった。学校に勢いが生まれた。郷土史の中の長谷川泰も同じ役割を果たすのではないか。」と。
 大学を後にすると、峰村さんとブログ管理人は谷中霊園にある長谷川家の墓に御挨拶をいたしました。素晴らしい銅像が造り出されると思っています。
 日本医科大学の皆様、取材にお付き合い頂きまして有り難うございました。


【長谷川泰翁像建立計画のお報せ】

 星野伊佐夫新潟県議会議員を発起人代表とし、生地への銅像建立が進められています。
 ※関連記事「長谷川泰翁像の建立が発起」
 長谷川泰を語る会としても、地元新組地区の住人、長岡市民を始め、長谷川泰先生を慕う多くの皆さんから、建立資金の寄付のご協力をお願いしています。
 口数や額は定めておりません。どんなにささやかなものであっても、その温かいお気持ちをできるだけたくさん集めたいと願っています。

<主管>郷土の偉人長谷川泰を語る会
      新潟県長岡市新組町5331-1 電話0258-24-3123(愛輪商事内/事務局)

 【寄付金の振込口座】
 ゆうちょ銀行 00510-9-84951
 加入者名 長谷川泰を語る会
高橋竹之介展示館 [2011年08月20日(Sat)]


弥彦山を背景にした生家跡にある顕彰碑


 長岡市中之島町の杉之森公会堂2階には、幕末〜明治越後の要人「高橋竹之介」の史料が展示されています。高橋竹之介は外山脩造や長谷川泰と同じ天保13年(1842)生まれ、そして長善館では鈴木文臺の同門ということで、初めて見学に訪れました。
 展示室自体は平成22年10月開館ということでまだ新しく、長岡市コミュニティ事業助成では長谷川泰の顕彰事業と同期というご縁もあります。


PRパンフレット


 天保13年(1842)高橋竹之介は杉之森の庄屋の次男として生まれました。
 20歳の年に長善館に入門していますから、14〜16歳ころに在籍した長谷川泰とは時期がずれるようです。長善館には僅か1年程度の在籍で西国遊学に旅立ちますが、後に勤王の志士を輩出する2代目館長鈴木タ軒(てきけん)と交わり、既に世直しを志していたのかもしれません。
 そう、高橋竹之介は越後の勤王組織「方義隊(後の居之隊)」の創設メンバーなのです。長谷川泰は河井継之助の抜擢で長岡藩軍医になりましたが、幕末の越後の人々は立場を二つに対立していたのでした。
 北越戊辰戦争における高橋竹之介の戦功は目覚ましく、越後を自ら転戦し、地理に疎い西軍諸藩を先導しました。京都での会議では、大久保利通、大村益次郎らに北越での戦略を説くとそれが採用されています。その海路からの増援作戦が長岡城を陥落せしめたともいえるでしょう。


竹之介が戊辰戦争で携帯した越後の地図を拡大展示(写真奥)


 戦後、明治新政府の東京遷都に強硬に反対した高橋竹之介は、不遇にも収監されてしまいます。
 越後の勤王党は帝による治世の再現に向けて、真心をもって活動を行ないましたが、それは新政府の方針とは相容れぬものであったようです。

 出獄後に高橋竹之介が行なったことは教育でした。長岡に開いた「誠意塾」では大竹貫一(国会議員)、武石貞松(漢学者)、堀口九萬一(外交官)ら、600名を超える師弟を教育しました。
 戦争を経て焦土から復興した長岡で、竹之介が何を教育したのかには、大変に関心があるところです。

 明治29年(1896)「横田切れ」の大洪水で越後平野は大打撃を受けます。
 中世、大津波で大半が水没していた越後平野の歴史は治水の歴史でもありました。江戸時代末期に良寛が子を売る農民の苦しみを詠い、さらに時は流れ、明治の文明開化が叫ばれる世の中にあっても、依然として人々は水害に苦しんでいたのでした。
 その横田切れ翌年、高橋竹之介は立ち上がります。自ら考案した「北越治水策」を、時の権力者山縣有朋へ向かって建白したのです。帝国議会では教え子の大竹貫一が越後の治水を必死に説いていましたが、竹之介のこの尽力があってこそ、あの東洋に類を見なかった歴史的な大工事『大河津分水』の建設が成されたのでした。
 かつては北越戦争を先頭で指揮した山縣有朋です。そこで高橋竹之介の活躍を知り、大きく信頼を置いていたのでは無いでしょうか。


竹之介による大河津分水の構想図


 越後を二つに裂いた戊辰戦争を、現在の私たちが知ることは苦さを伴うものです。しかし、高橋竹之介のように新政府への人脈を持つ人物が、自ら教育した越後の後輩を活躍の場へ送る要となっていたことは忘れられません。
 同時に、敗者であった長谷川泰や外山脩造、梛野直らが(皆、天保13年生まれです)戦禍の中に立ち上がり新時代を創っていたことも知るべきなのです。
 幕末越後の先人たちは強い人々でした。

この度は高橋竹之介顕彰会代表の山本さんにご案内を頂きました。ありがとうございました!



 御当地伝記マンガ「長谷川泰ものがたり」では、長善館のシーンで多一の喧嘩相手に「竹之助」という少年が登場します。ストーリー上で高橋竹之介その人を指すものでは無いのですが、門人リストから同い年の人物を探して似たような名前をお借りしたという経緯があります。
 実在の二人の関わりについては、今後の調査でまたご報告したいと思います。ブログ管理人は、必ず交わりがあったと考えております。
【講座】長谷川泰と外山脩造<2> [2011年07月13日(Wed)]

 栃尾在住の郷土史研究家・深滝純一さんによる郷土史講座「長谷川泰と外山脩造」の2回目、前回の事前学習を受けての現地学習に参加いたしました。(いきいき県民カレッジ登録講座)
 長谷川泰と外山脩造、そして少年時代の2人の師である井上五蔵にまつわる史跡を巡ります。
 むせるような真夏日でしたが、郷土史に関心のあるたくさんの方が集まりました。


 見附市の「ふぁみりあ」を出発して先ず向かったのは耳取町に残る井上五蔵顕彰碑。耳取村の庄屋・井上五蔵が自宅で開いた漢学の私塾、青鬣館(せいりょうかん)があった付近に建てられています。碑には建立の発起人である長谷川泰と外山脩造の名前が刻まれています。
 ここでは、みつけ伝承館学芸員の今井さんに井上五蔵の功績を教えて頂きました。若き日の五蔵は藩学校崇徳館で秋山景山に学び、当時長岡藩の一部で用いられた徂徠学を修めていました。
 長じて庄屋を継ぐと、そのかたわらで青鬣館を開学。越後の片隅の小さな私塾で、明治日本を代表する偉人を育てたことに五蔵の偉大さを感じます。
 長谷川泰と外山脩造は同い年であり、後には共に河井継之助を尊敬することになりますが、この耳取は因縁を感じる場所です。


 青鬣館を開く以前の五蔵の偉業に、耳取村の全戸移動があります。生活用水を求めて平地から山際へ住居を移し、空いた平地を農耕地に当てたのでした。
 写真左手前の浄水場辺りから右奥の林までの地域を現在の耳取町まで移動させましたが、この大区画整備は五蔵の政治力と統率力と財力があった成されたものだと今井さんが解説されました。
 (青鬣館があったと思われる写真の高台からは、かつての八丁沖越しに福井村が望めました。)


 八丁沖跡の田園を抜けて、次に訪れたのはお馴染みの長谷川泰生家跡です。教育委員会が設置した案内板を前に、深滝さんから長谷川泰の事績を聞きました。
 越後に生まれ育ち、北越戊辰戦争に参加、東京で済生学舎を開学し活躍するも、長岡を攻めたあの山縣有朋に再び行く手を阻まれる。
 郷土史ファンを暑くさせる戊辰の因縁の歴史です。炎天下のもと、深滝さんのお話しにもさらに熱が入りました。


 続いては、中之島から分水を越えて粟生津の長善館史料館へ。見附市〜長岡市〜燕市を股に掛けるツアーとなりました。
 長谷川泰が長善館で学んだ当時は粟生津も長岡藩に含まれており、長善館館長の鈴木文臺は、城下から遠方まで藩の教育を行き渡らせる任を果たしていたと言われます。
 全寮制の長善館では武士の子も農民の子も寝食を共にしました。そうして交わることで価値観を深めて行ったのではないでしょうか。
 こちらでは長善館史料館のガイドの方に案内して頂きました。現在燕市では長善館を教育のシンボルとして活用し、児童を招いての催しを多数企画しているそうです。
 ブログ管理人もお話しさせて頂きました。良寛の慈愛の教えと鈴木文臺の孝教が、後の長谷川泰に与えた影響を話したのですが、どうにも拙い喋りで、深滝さんを前に大変に恐縮でした・・・。


 長善館には長谷川泰先生のコーナーが作らせていました!今年の春に日本医科大学に寄贈された長谷川泰像と、新組地区で作った御当地伝記マンガ「長谷川泰ものがたり」も紹介されています。
 地域を越えた横の繋がりに感謝です!

 2回に渡る深滝純一さんの講座「長谷川泰と外山脩造」の参加報告でした。
 新しい知識を得られたのはもちろん、たくさんの郷土史好きの皆さんに出会えたことが喜びでした。まるで修学旅行のように皆さんとても楽しんでおられるのがとても印象的。私たちが生きる故郷を知ることは、そこで生きることをより楽しくしてくれます。

 ※深滝純一さんは現在、井上五蔵、外山脩造、長谷川泰をテーマにした本を執筆中です!
 
慶應義塾と長谷川泰 [2011年06月23日(Thu)]

御当地伝記マンガ「長谷川泰ものがたり」の初版の、大きな修正箇所の報告です。

p111の資料編で、長谷川泰の学歴として慶應義塾(福沢諭吉)と記載されています。
その後、日本医科大学医史学教育研究会に調べて頂いたところ、泰は福沢諭吉から個人的に外国語を学び、後に共に北里柴三郎を助けているように大変に親しい仲だったようですが、学んだ年代が確かではなく慶應義塾を直接の学歴とするのは正確では無いので、第2版からは修正しています。
版を重ねるごとにブラッシュアップし行きましょう!

三田商学研究会編/明治42年(1909)発行の『慶應義塾出身名流列伝』の序盤に長谷川泰が紹介されています。これは特別待遇として出身者の中に名を連ねられたということだそうです。

「慶應義塾入社帳」の筆頭に記されている小林小太郎は、長谷川泰の妻・柳子の兄です。
伊予松山藩士の子で後に文部官僚となりましたが、政界の長谷川泰との関係も気になるところです。

※当ブログ関連記事
「慶應義塾出身名流列伝」
「愛媛偉人まんが伝」
山縣有朋 [2011年05月30日(Mon)]

山縣有朋を、帝国議会で「薩長閥の闇将軍!」と野次ったのは長谷川泰でした。

彼が奇兵隊の隊長・山縣狂介であり、長岡を攻めた北越戦争から続く因縁。
朝日山の戦闘において、立見鑑三郎率いる桑名の雷神隊の猛攻により、親友時山直八を失ったことは山縣の心を痛めて続けていたでしょうか。
それとも、戦端が開かれる前に、自らが慈眼寺で河井継之助と相対すべきであったと悔いていたでしょうか。


明治政府内で力を振るった薩長閥にとって、長谷川泰は難敵でした。
板垣退助の自由民権運動に賛同した長谷川泰は、自らが衆議院議員となると、官尊民卑の政府方針に異を唱え続けています。

そして反撃が起こります。明治23年(1890)医学誌上で森鴎外がその文才を駆使して行なった、辛辣な済生学舎批判。それに端を発して、長谷川泰は組織的な攻撃に晒され続けています。
中でも長谷川泰が心を痛めたのは、同郷の後輩たちとの対立であったでしょう。
泰の書生であった川上元治郎、泰に進路を頼った小金井良精。そして特に、済生学舎の講師であった入沢達吉からの批判は痛烈でした。
長谷川泰の伝記を追って行くと、親密であったはずの同郷の後輩たちとの対立には違和感を覚えずにはいられません。医事行政を巡り専門家同士互いに譲れない立場があったとしても、釈然としないものがありました。
(泰の死のわずか5日後の葬儀も終わらぬうちに、入沢達吉は「長谷川泰論」なる批判文を公表しましたが、賢人である入沢の行為であるとは信じられないようです。)

ここに山縣有朋の隠然たる影響力があったとするのは、それほど空想的でもないようです。
歴史に名を残す人物たちには、それぞれ強い信念と立場があり、どちらを一概に悪いとするものではありませんが、長谷川泰の今後の研究対象として大変に関心があるのが山縣有朋です。
同時に、泰の親友にして山縣の盟友であった「石黒忠悳」もキーパーソンだと思っています。
済生学舎卒業生のご子孫 [2011年04月29日(Fri)]

御当地伝記マンガ「長谷川泰ものがたり」の発行後、長谷川泰の周りの人物のご子孫からのご連絡や、新たな情報のご報告が相次いでいます。
この一点をもっても、漫画を創った甲斐がありました。
ご連絡を頂いた皆様の許可がでるようでしたら、また記事にしたいと思います。

この度、見附市からは、済生学舎で学び医術開業試験に合格し、新潟で開業された医師のご子孫とお会いすることが出来ました。
それはもう、長谷川泰ファンにとっては感動するほどの資料が遺されていました。

魚沼市の「目黒邸」(国重要文化財)・目黒邸資料館からは、目黒氏に宛てた長谷川泰からの書簡が寄せられました。
15代の目黒徳松は、帝国議会議員として長谷川泰と同時期に活躍しています。
長谷川泰の書簡の文字は難読ですが、なんとか解読してみたいものです。

「目黒邸」
http://www.city.uonuma.niigata.jp/megurotei/
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