無二的人間 [2008年10月23日(Thu)]
![]() 知念から、神の島、久高島を見る 沖縄本島の南に南城市知念がある。というよりも、旧知念村という方が私にはぴったりくる。この地は、沖縄を創造した神々が降臨した場所である。 知念村の小さな半島、知念岬を越え、県営住宅に向かい入ったところに、「安らぎと和みの庭 しゃんぐりら」がある。「しゃんぐりら」とは、「理想郷」の意味だが、私がここに書きたいことは、この庭の主=庭主(ていしゅ)安和朝忠(あわ ちょうちゅう)さんのことである。 朝忠さんは、沖縄県庁に永年勤めたのちに、定年後にこの地で暮らし始めた。そして、この大地を、ひとりで開拓し、「しゃんぐりら」を造った。 朝起きると、朝忠さんは庭に出る。その庭をひとりで手入れをしていくのが日課だという。 といっても、庭は3000坪もあるのだから、植木職人を使わずに、ゆきとどいた庭にするのは、生半可な作業ではない。 朝忠さんと話していると、夜になるのがもったいないという。 「夕暮れになり闇が近づいてくる時間になると、家にはいるのがもったいないんです」という。 朝忠さんは庭と共に生きている。庭は体の一部であり、心そのものである。 朝忠さんが、ひとりで、いや奥様と共に、なぜこの庭を造り上げてきたのか、その背景を考えていくと、そこに無二的人間でなければ成し遂げない真理が見えてくる。 無二的とは、相手を活かすことで自分を活かす生き方である。己の相手とは、多くの人にとって商売相手や友人である。だが、定年を迎えた朝忠さんにとって、庭そのものが無二的人間形成の対象となっている。 琉球石灰岩と自然林、樹木や大地と呼吸をしながら、己を磨いていくことはたやすいことではない。短期間それをすることは誰にもできるが、長い年月をかけてそれを成し遂げるには、そこに哲学がなければ達成できない。 朝忠さんの哲学を、私が短絡的に語ることは失礼にあたることは承知の上で、あえてここに書くなら、朝忠さんは「路傍の石」になろうとしているのではないか、と思う。そこに朝忠さんの無二的人間形成の哲学がある、と感じる。 「しゃんぐりら」にある石は、そこに偶然あったものだが、朝忠さんと無二的呼吸をすることで、石が輝きを増していく。石には意志はない。だが、朝忠さんが語りかていくことで、石がその存在を示すようになる。 琉球石灰岩と自然林の抜け道には、そんな「ものがたり」が多くある。 「ものがたり」の「もの」とは、ガジュマロの木であり、そこに転がっている「路傍の石」である。その「ものたち」が語りかける「ものがたり」が「しゃんぐりら」から聞こえてくる。 「ものたち」との無二的語らいを、この庭を訪れた人たちは聞くことができる。そこに、無二的人間の生き方を視覚的に見せる哲学と構造がある。 朝忠さんのホームページに、こんなことが書いてある。 「ノーベル文学賞作家ヘルマン・ヘッセは、毎日数時間、手入れのため庭で過ごした。 ヘッセ文学のその創造の源泉は庭だという。 モネも絵を描くために庭を作り名画「睡蓮」などモチーフを庭の景観から求めた。 フランシス・ベーコンは、庭は楽園であり年中花が咲く場所であるべきと主張している。 これらの先人たちは、庭をこよなく愛し、庭に人生の指針を見出したのだと思う。」 ヘッセやモネは、庭を通して文学や絵画を残したが、朝忠さんは、この庭に哲学を残した。 ![]() 何度もいうが、この庭にある「路傍の石」は、そこに居たくて居たのではない。意識もなく、意味もなく、ただ偶然にそこに居たのにすぎない。 しかし、無二的人間形成を目指す朝忠さんと出会ったことで、石は息吹を楽しみ始めた。そんな哲学を、朝忠さんと奥様は悠々とした時間の中で今日も楽しみ活きている。 仏教の言葉に、「花鳥風月宿(かちょうふうげつやどる)」という言葉がある。そこに、無二的人間にしか達成できない真理がある。その真理を「しゃんぐりら」で堪能することができる。 ![]() 中央が安和朝忠さん、右が奥様の恵子さん 安らぎ和みの庭 しゃんぐりら http://www.awa-tei.com |







